サンタ靴。.... 佐久間學

(12/3/26-12/4/13)

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4月13日

VIVALDI
Le Quattro Stagioni, Concerti per Flauto
Andrea Griminelli(Fl)
I Solisti Filarmonici Italiani
DECCA/476 4670


ヴィヴァルディの「ヴァイオリン協奏曲『四季』」をフルートで吹こうなどという無謀なことを考えたのはジェームズ・ゴールウェイでした。しかし、彼が1976年に録音した「フルート協奏曲『四季』」は、それは見事な演奏だったので、世のフルーティストたちはこぞって同じように演奏することを試みました。
そのゴールウェイにも教えを請うたこともあるイタリアの名手グリミネッリもその一人、しかし、時代の波は「四季」の演奏様式にも押し寄せてきていて、この曲に対するアプローチは35年も前のものとは全く変わってしまっていますから、ゴールウェイとは又違った曲の姿が楽しめるかもしれませんね。なにしろ、このジャケットですよ。セミヌードでフルートを吹くなんて、とてもゴールウェイには出来ない芸当です。セレナーデぐらいなら吹けるでしょうがね。
ここでグリミネッリのパートナーを務めるのは「新イタリア合奏団」、こちらも、かつての「イ・ムジチ」のようなお行儀のよい演奏に終始するようなことはありません。なにしろ、低音にはチェンバロの他にテオルボまでが加わって、とても新鮮な即興演奏を繰り広げているのですからね。
「四季」の4曲は、お決まりのイタリア風協奏曲の形ですが、その両端の早い楽章では、グリミネッリの目の覚めるような技巧にまず酔っていただきましょう。なんせ、ヴァイオリンの音形をフルートで吹くのですから、その難しさは群を抜いています。詳しくは分からないのですが、一見難しそうなフレーズも、ヴァイオリンでたくさんの弦を使って演奏する分にはそれほど大変ではないような気がします。左手などはほんの少し動かすだけで済みそうですし。同じことをフルートでやろうとすると、9本の指(右手の親指は演奏には関与しません)をすべて動員しなければなりませんからね。そして、ヴァイオリンの右手に相当することは息を使って行います。その時に使うのが「ダブルタンギング」という必殺技なのですね。グリミネッリの場合、これがものすごいパワーで迫ってきます。まさに「息つく暇もない」名人芸で、華やかなヴィヴァルディの世界を存分に堪能できますよ。
それに対して、真ん中の楽章は技巧ではなくしっとりと歌い上げるような曲想です。ここでグリミネッリは、意表をついてなんとノン・ビブラートに近いいともあっさりとした表現を使っています。これは最近モダン・フルートでバロックを演奏するときの常套手段、なにか、当時の楽器を思わせるような情緒が漂います。もちろん、この楽章はその時代は即興的な演奏が許されていたという「故事」にならって、思いっきり大胆なパフォーマンスも披露されます。「秋」の第2楽章などは、チェンバロがまるでバッハを思わせるような格調高いレアリゼーションを聴かせてくれますよ。ただ、フルートが、意図したことなのかどうか、ピッチがかなり低く聴こえるのがとても気になります。
このアルバムでは「四季」の外にさらに4曲のタイトルが付いたフルート協奏曲が演奏されています。そのうちの3曲は作品10の中にある有名な「海の嵐」、「夜」、「ごしきひわ」です。これは元々フルートのために作られたものですから、一層伸びやかなフルートが楽しめます。「ごしきひわ」の第2楽章はパストラーレ風のメロディアスな曲ですが、そこにテオルボがまるで「PPM」みたいなフォークソング調のイントロを加えているのがなかなかです。
そして、もう1曲、「ムガール皇帝」というのは、ごく最近発見されて出版されたばかりのフルート協奏曲なのだそうです。短調でちょっとメランコリックなテイストを持っていますが、別にタイトルから想像されるようなインド趣味などはありません。
いや、もしかしたらジャケットの写真がその暑い国の「皇帝」なのでは。

CD Artwork © Universal Music Italia srl

4月11日

音楽力が高まる17の「なに?」
大嶋義美著
共同音楽出版社刊
ISBN978-4-7785-0317-8

オーケストラで用いられる楽器は数々ありますが、世界的なオーケストラともなると、使っている楽器も世界最高のものばかりです。そんな楽器のメーカーは、なんと言っても由緒正しい外国の会社と決まっています。木管楽器だったらオーボエはフランスのロレー、クラリネットはやはりフランスのビュッフェ・クランポンか、ドイツのオーケストラだったらエーラー管のヴルリッツァーあたりでしょうか。ファゴットもドイツのヘッケルでしょうね。モーツァルトの作品番号ではありませんよ(それは「ケッヘル」)。
ところが、フルートに限っては、日本のメーカーの製品が使われていることが結構あるのですよ。なんせ、「世界最高」のオーケストラであるウィーン・フィルでは、ヴォルフガング・シュルツが「ムラマツ」を使っていましたし、その後継者のワルター・アウアーも「サンキョウ」を愛用していますからね。もう一つの「世界最高」であるベルリン・フィルでも、アンドレアス・ブラウが「ムラマツ」ですし、何よりも在籍中はイギリスの楽器を使っていたジェームズ・ゴールウェイが、フリーになったらやはり「ムラマツ」を何本も購入しましたね。彼の現在の愛器「ナガハラ」だって、日本のメーカーで修行した人が作った工房ですしね。さらに、ロイヤル・コンセルトヘボウのエミリー・バイノンは「アルタス」と、まさに「石を投げれば日本製のフルートを使っている人にぶつかる」というのが、今の世界のフルート界なのですよ。
おそらく、そんな中で最大のシェアを誇る「ムラマツ」では、顧客を相手に「メンバーズ・クラブ」というのを作っていて、定期的に会報を発行するなど、さまざまなサービスを行っています。余談ですが、最初のうちは会報と一緒に珍しい楽譜のリプリントなどが送られてきたものですが、それは程なく毒にも薬にもならないようなオリジナルの編曲ものに変わっていきました。その程度のものでは到底会費には見合わないので、退会を考えている人は多いのではないでしょうか。
ただ、その会報では、時折ちょっとハッとさせられるような連載があったりします。確か、ムラマツが主催したプラハのオーケストラの首席奏者のオーディションで見事当選(いや、「合格」)したのが、キャリアのスタートとなったフルーティスト、大嶋義美さんがこのところ書いているエッセイも、そんな読み応えのあるものです。そんな、会員の目にしかとまらないようなメディアでだけの露出ではもったいないと、その中のいくつかを抜粋したものが、このたび刊行されました。タイトルだけを見ると、良くあるハウツーもののように感じられるかもしれませんが、これはそんな安っぽいものではなく、確かに一人の演奏家が音楽にかける情熱を見事に表現した、奥の深い読み物です。
まずは、「音楽」そのものについて、あまり人が知らないようなことをかなりマニアックに語る部分が、なかなかのものです。ただ、このあたりは、読み進んでいくとなんだかどこかで読んだことがあるような部分が頻繁に出てくるのが気になります。それは、確かに普通の「常識」とはちょっと異なる、「真実」を語る部分なのですが、その手法がかなり特徴的なだけに、それと同じものを読んだ記憶がかなり強く残っているものなのですね。その「デジャヴ感」の原因は、巻末の「参考図書」を見て判明しました。それらの大半は、読んだことがあるものだったのですよ。どうりで。
ですから、本当に読むべきは、その様な「借り物」ではなく、著者の体験がそのまま反映された「弟子」とか「留学」とか「練習」といった項目なのでしょう。もしかしたら「学習者」にしか通用しないような事柄を通じて、著者は見事に「音楽を愛すること」という、全ての音楽人に求められる資質を語りきっているのですから。

Book Artwork © Kyodo-Music

4月9日

BACH
Missa in h-moll
Drothee Mields, Hana Blaziková(Sop)
Damien Guillon(CT), Thomas Hobbs(Ten)
Peter Kooij(Bas)
Philippe Herreweghe/
Collegium Vocale Gent
PHI/LPH 004


フィリップ・ヘレヴェッヘと言えば、ながらくHARMONIA MUNDIのアーティストとしてお馴染みでした。なんでも、かれこれ30年来のおつきあいなのだそうです。ケンカばっかりしていたのでしょうね(それは「ド突き合い」)。まあ、それだけ長く務めればあとは独立して好きなようにしたいな、と思ったのかどうかは知りませんが、彼は2010年に自らのレーベル「PHI」を立ち上げます。ロゴマークで分かるように、ギリシャ文字の「ファイ」ですね。発音的にはフランス風に「フィ」というのだそうですが。「OUTHERE」という、「ZIG-ZAG」なども扱っているディストリビューターの下で、2010年3月に録音したマーラーの交響曲第4番を皮切りに、毎年4〜5枚のペースで新譜をリリースする予定なのだとか。その4枚目のアイテムとなったのが、今回の「ロ短調」です。
ヘレヴェッヘの「ロ短調」は、もちろんHARMONIA MUNDI時代にも1996年に録音されたものがありましたし、その前にも1988年にはVIRGINに録音していますから、これが3回目なのでしょう。
VIRGIN盤は聴いたことがありませんが、HMでの一連のものに比べると、まず録音がより厚みのあるものになっていることに気づきます。録音を担当したのは「TRITONUS」、しかも、録音会場が、昔カラヤンとベルリン・フィルが愛用していたベルリンのイエス・キリスト教会ですから、確かに骨太の音に仕上がっているのも納得です。澄みきった残響も、心地よく感じられます。
さらにうれしいことに、このCDには日本の代理店によって、ブックレットの全文が日本語に訳されたものが、「おまけ」でついています。そのメインのライナーノーツを執筆しているのが、まさに「ロ短調」の世界的な権威であるクリストフ・ヴォルフであるのもうれしいこと、これだけの「濃い」最新情報を日本語で読めるだけでも価値があります。
ところが、この日本語訳にはきちんと合唱とオーケストラのメンバーが載っているのに、その元になった本来のブックレット(英・仏・独・蘭)には、どこを探してもそれが見当たらないのはどうしてなのでしょう。というか、日本の代理店は、このメンバー表をいったいどこから持ってきたのでしょうか。いずれにしても、すっかり知らない人ばかりになってしまったメンバーの中に、オーボエのマルセル・ポンセールの名前を見つけたり出来るのは、ありがたいことです。
演奏に関しては、合唱もオーケストラも、ますます磨きがかかった響きを届けてくれるようになっているのではないでしょうか。もともとヘレヴェッヘの作りだすものは、他のピリオド系の演奏家のような見かけだけのサプライズはほとんど感じられないものでしたが、ここにきてさらにまろやかさが増してきたような印象があります。なによりも、ソリストたちもそれぞれのパートに参加している合唱のピュアなサウンドは、曲の始まりから、穏やかな安らぎを与えてくれます。ただ、それは響きの中に身をゆだねるといった、かなり感覚的な魅力が勝っていることは否定できません。例えばブリュッヘンなどが見せつけてくれたような、思わずひれ伏したくなるほどの精神的な包容力のようなものまでを、この演奏に求めるのはお門違いのような気がします。
ですから、「Credo」の中にあるいくつかの合唱のための曲のように、場合によってはかなり深刻な表現を求めたくなるような局面でも、あえて「ないものねだり」はせずに、その淡白さの中にこそ平穏な日常性を見出さなければいけないのかもしれません。そうすれば、いかに「Benedictus」のテンポが速すぎたとしても、トーマス・ホッブズが表現を求め過ぎるあまりにそのテンポに乗れなくなってしまうようなことはなくなるのです。
そんな「さらっと系」ロ短調、もし、さらにクリアなSACDだったりしたら、もはやバッハとしての刺激すらもなくなっていたことでしょう。

CD Artwork © Outhere

4月7日

BACH
Johannes-Passion
Gerlinde Sämann(Sop), Petra Noskaiová(Alt)
Christoph Genz(Ten), Jans Hamann(Bas)
Sigiswald Kuijken/
La Pettite Bande
CHALLENGE/CC72545(hybrid SACD)


クイケンがバッハの宗教曲を演奏したものは、かつてはDHMとかACCENTから断片的に出ていたような気がしていましたが、最近ではACCENTでは全集を目指してのカンタータ、CHALLENGEでは受難曲などの大作、みたいな感じで精力的にリリースが展開されているようです。いずれにしても、ジャケットはなかなか「アート」っぽいもので貫かれていたはずだったものが、この「ヨハネ」では「アート」からは対極にあるはずのクイケン自身の「アー写」とは。ま、デ・フリエントみたいに、これが最近のこのレーベルの「方針」なのかもしれませんが。
ジャケット同様、最近の一連のバッハとは違った面を見せているのが、合唱のサイズです。「クイケン=各パート一人ずつ(『OVPP』という略号は、『3・11』同様、馴染めません)」という、このところ彼が頑なにとっていたフォーメーションが見事に崩れて、ここでは4人のソリストが合唱パートも歌う以外に、4人のリピエーノが加わっているのです。聴いてみると、「各パート1人」と「各パート2人」を適宜使い分けて、演奏に幅を持たせているようですね。コラールなどは「2人」体制で臨んで、音色的に落ち着きのある感じを出していますし、ポリフォニックな群衆の合唱では「1人」で、パートの線をくっきり出す、といったメリハリの付け方なのでしょう。
実は、クイケンの指揮による「ヨハネ」には、1987年にDHMに行った録音がありました。これと比較してみたら、そんな「1人」が「2人」に変わった程度の違いでは済まされない、ものすごい落差があるのですから、ちょっと驚いてしまいました。そもそも「ラ・プティット・バンド」とか言ってますが、今回の2011年録音盤と同じメンバーは、ジギスヴァルト・クイケン一人だけなのですからね。そして、合唱はなんと総勢18人、各パート4人から5人という「大人数」です。さらに客観的な数字を挙げると、前回は12219秒だった演奏時間が、10514秒と、とても同じ指揮者とは思えないほどの速さになっています。ここまでテンポが違うと、もう「解釈」そのものが全く別物のように感じられてしまいます。前回は合唱の柔らかな音色もあって、全体に慈しみ深い情感があふれていましたが、今回はなんとも攻撃的な「攻め」の表現が強く感じられてしまいます。まあ、レシタティーヴォの合唱あたりでそういう強い音楽を聴かせるのは良いとしても、それがコラールにまで及んでしまうと、ちょっと息苦しくなってしまいます。正直、今回のコラールは「呼吸」が出来ないほどのなにか即物的な薄っぺらさが漂っているような気がしてしまいます。
今回のSACDがリリースされる時のインフォメーションには、「独自のバージョン」といった、興味をそそられる文言が踊っていました。ただ、そこで紹介されたクイケンのコメント(こちらの翻訳)では、実際にどんな稿の選択を行っていたのかまでは語られてはいませんでした。現物を手にしてブックレットを見ると、このコメントと同じものが、クイケンへのインタビューで「まず、どのバージョンで録音したのか、聞かせてください」という質問に対する答えとして掲載されていました。ただ、こちらには最後にインフォの原文にも翻訳にもなかった「とにかく、みんなが演奏している『第1稿』にしたよ」という発言があるのですね。これが、質問に対する本当の答えなのでしょう。これだけ見ると、クイケンは「第1稿」で演奏しているように思えますが、実際に音を聴いてみると、それは確かに「みんなが演奏している」ものと同じでした。しかし、それは決して「第1稿」ではなく、「新バッハ全集」なんですよね。
つまり、クイケンともあろう人が「第1稿=新バッハ全集」というデマを信じているのですよ。そういえば、DHM盤でも、「Vollständige Fassung(1724)」と、「Neue Ausgabe sämtlicher Werke」という全く別物のクレジットが併記されていましたね。

SACD Artwork © Challenge Records Int.

4月5日

BACH
Matthäus-Passion
Mark Padmore(Ev), Christian Gerhaher(Jes)
Camilla Tilling(Sop), Magdalena Kozená(Alt)
Topi Lehtipuu(Ten), Thomas Quasthoff(Bas)
Peter Sellars(Ritualisation)
Simon Rattle/
Rundfunkchor Berlin(by Simon Halsey)
Knaben des Staats-und Domchors Berlin(by Kai-Uwe Jirka)
Berliner Philharmoniker
BERLINER PHILHARMONIKER/BPH120012(BD)


ベルリン・フィルのネット配信サイト「デジタル・コンサートホール」から、「マタイ」がパッケージとしてリリースされました。
これはただのコンサートではなく、鬼才ピーター・セラーズの「演出」が加えられたもの、2010年3月に、まずザルツブルク・イースター音楽祭、さらに1ヶ月後にベルリンのフィルハーモニーで行われた最終日の模様が収録されています。
いや、確かにクレジットでは「演出」ではなく「Ritualisation 儀式化」とありますが、これはどう見てもちょっとクサめの「お芝居」、「儀式」と言われるほどの宗教性は、ここには存在してはいません。
ここでセラーズが行ったのは、「マタイ」に登場する福音書のテキストや、ピカンダーが書いたアリアの歌詞、さらにはコラールの歌詞までをも、誰にでも分かるように目に見えるものにすることでした。このBDには日本語の字幕も入っていますから、そのあたりはつぶさに分かります。第1部の終わりのレシタティーヴォで「弟子たちはみな逃げてしまった」と言えば、本当にステージから合唱団員がいなくなるのですからね。そして29番のコラールが、ホールの客席内に散らばった合唱によって歌われるのです。こういう、聴衆まで巻き込んだパフォーマンスのことは、普通は「シアターピース」と呼ぶのですが、セラーズにとってはこれが「儀式」だったのかもしれません。
ただ、登場人物の扱いでは、この作品を良く知っている人にとっては、最初は少し不可解な部分があるかもしれません。なんせ、エヴァンゲリストのパドモアが、やたらと演技のテンションが高いのですよね。実は、彼はただのナレーターではなく、「イエス」の役をも兼ねていたのです。本物のイエスであるゲルハーエルは、バルコニーから歌うだけという、ある種超越した人格、生身の演技は、パドモアが一身に引き受けているという構造だったのですね。ソリストのコジェナーに濃密にすり寄られたり、ユダ役の歌手と本当にキスをしたり(唇にですよ。舌も入れてました)、最後は実際に涙を流したりと、まさに迫真の演技です。同じように、やたら深刻ぶってアリアを歌っているコジェナーは、実は「マグダラのマリア」だったことが、しばらく見ていると分かります。いくら「マグダレーナ・コジェナー」だからって、これは出来過ぎですね。
さらに、楽器のオブリガートまでがその「お芝居」に参加します。なんと言ってもすごかったのが、クヴァストホフが歌った42番の「私にイエスを返してくれ!」というアリアでのソロ、樫本大進です。もちろん暗譜で、あの難しいパッセージを、クヴァストホフの目を睨みつけながら完璧に弾いていたのですからね。これは第2コーラスのアリアですが、第1コーラスでソロをしたスタブラヴァを差し置いて最初に名前がクレジットされているのも納得です。
とてもピリオド楽器とは思えないほどの強靭な音を聴かせてくれたヴィオラ・ダ・ガンバのヒレ・パールなどは、最後の合唱を楽器を演奏しながら一緒に歌っていましたね。
合唱も、もちろん全曲暗譜するだけではなく(後ろの方で楽譜を見てる人もいましたが、目をつぶりましょう)、全曲にわたってしっかり重要な「お芝居」を、誰一人として無駄な動きを見せないで真剣に演じているのですから、これは驚異的です。これだけのことを習得するには、いったいどのぐらいのリハーサルが必要だったのでしょうか。まさに「プロ」の仕事です。それだけのことをやりながら、本来の合唱がとても細やかな表情を見せた素晴らしいものだったのが、彼らの最大の功績だったのではないでしょうか。
いや、もしかしたら、これだけ音楽が雄弁に語っている時には、「芝居」がいかに邪魔なものになってしまうかを知らしめたことの方が、もっと大きな功績だったのかもしれません。

BD Artwork © Berlin Phil Media GmbH

4月3日

MERCURY LIVING PRESENCE
The Collector's Edition
Various Artists
MERCURY/478 3566(50CDs), 478 3824(6LPs)


もはやカタログしか残っていないユニバーサル傘下のレーベルMERCURY(マーキュリー)のCDLPのボックスが出ました。スーパーの野菜売り場で売ってます(「まあ、キューリ」)、なんてね。いや、これは数ヶ月前にご紹介したやはりユニバーサルのThe Decca Soundと全く同じコンセプトで、破格の値段で50枚のCDと6枚のLPを手に入れることが出来るという優れものです。特に、LPはこれだけの値段でこれだけ高品質のものが入手できるなんて、ほとんど奇跡です。
1945年に誕生したMERCURYというアメリカのポップスレーベルがクラシックに本腰を入れ始めたのは、それまでオーケストラの管理部門で働いていた若い女性、ウィルマ・コザートがプロデューサーとして入社してからでした。彼女はオーケストラとの人脈を生かして、1951年にラファエル・クーベリックの指揮によるシカゴ交響楽団を使って、ムソルグスキーの「展覧会の絵」を録音しました。その時に録音を担当したのが、1945年からこのレーベルに協力していたフリーランスのエンジニア、ロバート・ファインです。この、コザートとファインのチームが1960年代中頃までに作り続けた、まさに「いきいきとした臨場感」が味わえる素晴らしい録音のレコードの数々が、「Mercury Living Presence」と呼ばれるものです。
ちなみに、コザートは1956年には副社長となり、この二人は1957年に結婚します。その最初の録音が行われてから、昨年2011年で60年を迎えるということでリリースされたのが、このボックスです。これらのアイテムは、1990年代に集中的にCD化されていましたが、最近ではほとんど廃盤になっていますし、LPに至っては、オリジナルの、やはりこのチームの一員、ジョージ・ピロスがカッティングを行ったものなどはレアな中古市場でしか手に入りませんから、なんとも貴重なものです。CDボックスには、ボーナス・ディスクとして、そのCD化の頃に行われたウィルマ・コザート・ファインその人のインタビューまで入っていますしね。
常々、このレーベルの「音」については、様々なところで高い評価を聞いていたのですが、実際にはほとんど聴いたことがありませんでした。今回、その中で、世界で最初に実際の「大砲」の音を録音した「1812年」を聴いて、そのリアリティに驚いているところです。似たようなもので、デジタル録音の初期にTELARCが同じ曲にやはり本物の大砲の音をシンクロさせたものがありましたが、そのCDを聴いた時には、確かにズシンと響く超低音のすごさには感心したものの、なにか爆発の芯がとらえられていないような印象を受けたものでした。ものすごい音なんだけど、「大砲らしく」ないんですよね。ところが、このMERCURY盤では、まさに「本物の大砲」という感じが、体験できたのです。それは、CDでも充分味わえたものだったのですが、同じものをLPで聴いてみると、そのリアリティはさらにワンランク高まります。いや、そもそも冒頭の弦楽器のコラールから、全く別物です。LPの場合、オリジナルと同じカップリングで、A面はこの曲だけです。そして、B面の最初では、なんとその録音の模様をナレーション入りで語っているではありませんか。「大砲」や「カリヨン」のさまざまなテイクの素材まで聴かせてくれるのですから、すごいですね。
もう一つ、びっくりしたのはわざわざ、当時は「冷戦」中だった「ソ連」まで機材を積んだバスを運んで録音されたというバラライカ・バンドの録音です。演奏自体も、とびっきりの超絶技巧と緊密なアンサンブルを土台にした素晴らしいものですが、そのバラライカの音の生々しいことと言ったら。これも、LPになると、ソリストの音色の変化や、微妙なタッチの違いなどが、さらに手に取るように伝わってきます。
そんな「際物」ではない、たとえばシュタルケルが弾いたドヴォルジャークのチェロ協奏曲などは、弦楽器の滑らかさがCDLPではまるで別物です。CDボックスには同じジャケットでは入っていないシェリングのブラームスのヴァイオリン協奏曲とともに、また「宝物」が増えました。

CD & LP Artwork © Decca Music Group Limited

4月1日

Dedicated to Piccolo
Günter Voglmayr(Pic)
Stefan Mendl(Pf)
CAMERATA/CMCD-28248


毎年元日にウィーンから生中継されるウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートでは、誰が指揮をするのかという興味とともに、フルート・パートを誰が吹くのかも気になるところです。指揮者は前もって分かっていますが、木管楽器のメンバーが誰なのかなどということは、当日放送を見るまでは分からないのですからね。特にフルートはソロが沢山出てきますし、ウィンナ・ワルツではピッコロも大活躍しますから、4人から、時には6人ぐらいいる持ち味がそれぞれに異なるメンバーの中のだれがそのパートを担当するかによって、コンサート全体の雰囲気も変わってきますからね。
今年は、ワルター・アウアーとヴォルフガング・ブラインシュミットという、それぞれわりと最近正式の団員になったばかりの人たちがフルートとピッコロを吹いていました。顔の大きなブラインシュミットがちっこいピッコロを操っているのは、ちょっとユーモラスな図柄でしたね。ピッコロ・パートは、その他にギュンター・フェダセルと、ギュンター・フォーグルマイヤーが控えていて、オーバーアクションのフェダセル、知的なフォーグルマイヤーみたいなイメージで、それぞれの年に楽しませてくれていました。個人的には、カエルみたいな醜男のブラインシュミットよりは、イケメンのフォーグルマイヤーが見たかったな、と思いましたが。なんせ、お正月ですから。
ところが、それからちょっとしたら、ネットでそのフォーグルマイヤーの訃報が飛び込んできたではありませんか。一瞬信じられない思いでした。とてもそんな年齢ではなかったはずですから。実際は享年43歳、あまりにも早すぎる死でした。ウィーン・フィルのメンバーとしてだけではなく、ソロ・リサイタルのためにも何度も日本を訪れたことがあり、ファンも多かったはずです。
このCDは、2011年6月にソロで来日するタイミングに合わせてリリースするために、2010年の5月にウィーンで録音されたものです。しかし、その来日は病気のためキャンセルとなってしまいました。次の来日に備えて準備していたものが、はからずも追悼盤となってしまったのですね。同じレーベルには、フォーグルマイヤーの師であるヴォルフガング・シュルツとの多くの録音があったため、レパートリーが重ならないようにあえてピッコロだけのプログラムを用意したのだそうです。
しかし、その曲目は驚くべきものでした。ここでは、全ての曲が、元々フルートのために作られたものがピッコロで演奏されていたのです(厳密には1曲だけはピッコロのオリジナル)。例えば、「学習者」の定番、タファネルの「アンダンテ・パストラールとスケルツェッティーノ」などという、フルート以外の楽器で演奏することは考えられないようなものまで吹いてしまっているのですね。
しかし、実際に聴いてみると、そんな違和感はちっともありませんでした。ワン・ポイントのマイクを使って、かなり残響をたっぷり取り込んだ柔らかな響きの中から聴こえてきたピッコロは、フルートに負けないぐらいのたっぷりとした音色で存分に楽しめました。逆に、細かいパッセージの技巧的な部分などは、より華やかさが増して、その曲の別な魅力に触れることさえ出来てしまいます。ジョプリンのラグタイム、「オリジナル・ラグ」などは、元々ピアノの曲ですから、ピッコロではとことん陽気な音楽を楽しめますよ。
いや、そんな「派手」な面だけではなく、ピッコロでは難しいはずの「小さな音」を要求されるような場面でも、フォーグルマイヤーの技は冴えています。プロコフィエフの「束の間の幻影」などという、繊細極まりないピアニシモを要求される曲での確かなコントロールは絶品です。
この次はフルートでこんな繊細さを聴きたいと思っても、それはもはや叶わない願いになってしまいました。ご冥福をお祈りします。

CD Artwork © Camerata Tokyo Inc.

3月30日

ORFF
Carmina Burana
Sheila Armstrong(Sop), Gerald English(Ten)
Thomas Allen(Bar)
André Previn/
St. Clement Danes Grammar School Boys Choir
London Symphony Orchestra and Chorus
HI-Q/HIQLP008(LP)


Hi-Q」という、行列を作ってお米などをもらう制度(それは「配給」、いつの時代だ!)のようなレーベルが最近出来ました。これは、アナログ録音時代のEMIの音源を、最高のカッティング技術によってLPとして復刻するという、今の時代には逆行するようなことを本気で行っている、殊勝なレーベルです。いや、とかく最近はSACDDSD)やBlu-lay Audio24bit/192kHzLPCM)といったハイスペックのデジタル録音に目が行きがちですが、それほどまでに膨大なデータ量を必要とするメディアよりも、音声信号を直接ラッカー板に刻みつけるアナログ・ディスク(LP)の方がはるかにいい音を聴かせてくれる場合もあるのですから、あながち「逆行」などとは言えないのかも知れません。なにしろ、最近出されるLPときたら、最初から最高の音を目指して作られていますから、盤質はいいしマスタリング(カッティング)も素晴らしいものばかり、これを聴いてしまうととてもただのCDなどは聴く気がしなくなってしまうような代物が目白押しなのですからね。
このレーベルがEMIとどういう関係にあるのかは分かりませんが、ロンドンにあるEMIのスタジオ(いわゆる「アビーロード・スタジオ」)に保存してあるマスターテープを使って、同じスタジオでカッティングを行っているというのですから、カッティング・エンジニアもEMIの関係者なのでしょうね(クレジットはありません)。今までに20枚以上の「新譜」がリリースされているようで、今回の「カルミナ」は、2011年の3月にカッティングが行われたという最新盤です。
これは、プレヴィンがロンドン交響楽団に在任中、1974年に録音されたものです。エンジニアは、他にも素晴らしい録音を残しているクリストファー・パーカーです。同じ時期のロバート・グーチの録音より、こちらの方がよりナチュラルな音が聴けるはずです。CDの音と比較するために、1997年にアラン・ラムゼイによって作られたマスターによるものを用意してみました(6 31802 2)。

このリマスター盤は、かなり良質な音には仕上がっています。特に声楽の音像がくっきり浮き上がって聴こえてくるので、ちょっと見にはLPよりも優れているように思えてしまいますが、よくよく聴いてみると、その輪郭がかなりぼやけていて、ただふくらんでいるだけのことに気づきます。LPの音像はきっちりまとまっていて、それだけ密度が高いのですね。
この演奏の特徴は、合唱がとても性格的な歌い方をしていることではないでしょうか。プレヴィンはこのあと1993年にもDGにウィーン・フィルと録音していますが、その時の合唱団、アルノルト・シェーンベルク合唱団は、このロンドン交響楽団の合唱団とは対照的に、なんとも「すました」演奏に終始しているのは、プレヴィンの「円熟」のせいなのでしょうか。いずれにせよ、その合唱の、ちょっとハメを外した暴走ぶりが、LPではきっちり伝わってくるのに、CDでは全く別の合唱団みたいにおとなしくなって聴こえてくるのですから、いかにCDでは情報が欠落しているかが分かるのではないでしょうか。
ソリストの声も、全く違って聴こえます。録音当時は30代だったアレンの「若さ」は、LPでなければそれほど分かりませんし、アームストロングのクリアな声もCDではぼやけてしか聴こえません。
そんな細々した聴き方をしなくても、全体に漲る瑞々しさは、LPならではの魅力です。マスターテープ自体にかなりノイズが入っているのが分かるぐらい、サーフェス・ノイズも少なくなっているのは、最新のカッティングの賜物でしょう。スクラッチ・ノイズまでなくすことは出来なかったようですが、この程度であれば殆ど気になりません。もしかしたら、レコード業界は1980年頃に、進むべき道を間違えたのでは、と、真剣に悩んでしまうほどの、これは素晴らしいLPです。まさに期待通りでした。

LP Artwork © Resonance Recordings Limited

3月28日

BRAHMS
Symphonies
Andrew Manze
Helsingborg Sypphony Orchestra
CPO/777 720-2(hybrid SACD)


2006年にスウェーデンの小都市ヘルシングボルイのオーケストラの首席指揮者となるまでは、バロック・ヴァイオリンの名手としてピリオド楽器の世界で大活躍していたアンドルー・マンゼは、HARMONIA MUNDIベートーヴェンの「エロイカ」や、HYPERIONのステンハンマーなどのピアノ協奏曲など、多くのレーベルに、まんず精力的に「指揮者」として録音を行ってきました。今回は、初めてとなるCPOからブラームスの交響曲全集を、なんとSACDで出してくれました。
ただ、シングルレイヤーのSACDでしたら、交響曲全4曲は2枚に収まってしまいますが、あいにくハイブリッドだったため、3枚にならざるを得ませんでした。そうなると余白が多くなりすぎるので、「ハイドン・ヴァリエーション」、「悲劇的序曲」、「大学祝典序曲」もカップリングされています。
「エロイカ」の時には、なんとも中途半端なスタンスで演奏しているという感じがしていたので、正直がっかりしてしまいましたが、今回のブラームスはひと味違います。現在は61人しかメンバーがいないという少人数のオーケストラのフットワークの良さを生かして、なかなか「軽やか」なブラームスを聴かせてくれていました。
しかし、ブラームスの場合「軽い」というキャラクターはあまり歓迎されません。なんといっても、本当のブラームス・ファンは「重く」て「粘っこく」て「暗い」演奏が好きなのでしょうから、そんな人にとっては「軽い」ブラームスなど論外、そんなもの聴きたくもないと思うことでしょう。
とびきり「暗い」と相場が決まっている「交響曲第1番」が、まずそんな軽やかな足取りで始まったのですから、ちょっとびっくりです。冒頭のティンパニやコントラバスの刻みが、まるで「駆け足」のようなテンポなのですからね。しかし、常々重苦しいブラームスには食傷気味の人にとっては、逆にこれは親しみやすく感じられるのではないでしょうか。テンポが速いだけではなく、一つ一つのフレーズの扱いが、いともあっさりしているのですね。これこそが、マンゼがいままでのフィールドで培ってきた持ち味です。もしかしたら「邪道」と思われるかもしれなくても、おそらく彼は自分が一番気持ちよいと感じられる音楽を推し進めようとしているのではないでしょうか。
この曲の最後の楽章なども、もったいぶった素振りなどは一切ありません。ホルンとフルートが、本来ならば、まるで「雲間からさす一条の光のような神々しさ」みたいなものを表現しようとするのでしょうが、ここにはそもそも「雲間」すら存在していなかったのですから、そんな「くさい」演出は必要ありません。過度なドラマなど入り込む隙がないほどに、「あるがまま」の音楽が流れていきます。当然のことながら、大詰めで現れる金管のコラールも、そこで「伝統」にのっとって大見得を切るかのようにテンポを落とすことなどせず、いともサラッとイン・テンポで通り過ぎていきますよ。
「ハイドン・ヴァリエーション」は、変ロ長調のテーマに続いて、変奏が変ロ長調と変ロ短調の2種類の調で現れるという音楽ですが、そこでもマンゼは短調の部分をことさら額面通りの深刻なものとは扱ってはいません。変わるのは「色」だけです。
ですから、予想通り「大学祝典序曲」は、ハイテンションの仕上がりになっていますよ。ファゴットの「狐狩りの歌」のテーマなどはノリノリですし、そのあとの「裏打ち」のリズムなど、ほとんど「スカ」のノリのどんちゃん騒ぎですからね。
こんな明るいブラームスも、たまにはいいのではないでしょうか。ブラームスのことを、「好きな人に一生告白できなかったウジウジしたやつ」という自虐的なイメージで縛り付けるのも「クラシック」にとっては大切なことなのでしょうが、その作品は本人の知らないところで自由に生きているというのも、また「クラシック」の一つの姿なのですから。

SACD Artwork © cpo

3月26日

CHILCOTT
Requiem
Laurie Ashworth(Sop), Andrew Staples(Ten)
Johathan Vaughn(Org)
The Nash Ensemble
Matthew Owens/
Wells Cathedral Choir
HYPERION/CDA67650


いまや世界中で引っ張り凧の人気作曲家となったボブ・チルコットにとって、その将来を決めることになった幼い日の音楽体験は、いまでも大切な思い出となっていることでしょう。なかでも、1967年に、所属していたケンブリッジ・キングズカレッジ聖歌隊が、ウィルコックスという、ゴキブリみたいな名前(それは、「コックローチ」)の人の指揮でフォーレの「レクイエム」をEMIに録音した時のことは、一生忘れることは出来ないはずです。なにしろ、チルコット少年はそこで「Pie Jesu」のソロを歌ったのですからね。その5年前に同じEMIに録音され、名演と讃えられたクリュイタンス盤とは対照的なアプローチのこのレコードも、やはりもう一つの「名盤」として今に至るまで市場を賑わせています。
そんなフォーレの作品や、やはり同じ聖歌隊で歌ったデュリュフレの「レクイエム」は、しっかりチルコット少年にとっての「レクイエム」の理想像として、心の中に刻まれていたに違いありません。2010年に作られた彼の最初の「レクイエム」は、至る所にその2つの名曲の影が落ちていました。ただ、編成の中にオーケストラが入ることはありません。なんと言っても、アマチュアを含めて多くの団体に演奏してもらい、沢山の楽譜が売れて欲しいと願うのは、現代の作曲家にとっては当然の指向ですから、ここではオルガンをメインに、ティンパニと4つの管楽器(Fl, Ob, Cl, Hr)が加わるという手軽な編成となっています。しかし、チルコットの技を持ってすれば、こんなシンプルな編成からもとても色彩的な響きを導き出すことはわけもないことです。
曲の構成は、フォーレ、デュリュフレと同じように、ドラマティックな「Sequenz」の部分が省かれています。ただ、チルコットの場合は、そこに英語のテキストによる「Thou knowest, Lord」という曲が加わっています。これなどは、同世代のイギリスの作曲家、ジョン・ラッターなどと同じアイディアですね。いや、ラッターとはそれだけではなく、一度聴いただけで惹きつけられずにはいられないようなキャッチーな曲想なども共通したファクターとなっています。もっと言えば、やはり同世代の別のジャンルの作曲家、アンドリュー・ロイド=ウェッバーの「レクイエム」とも通じるものさえ、ここには確かに見ることができるのです。
そんな、「ラッター+ロイド=ウェッバー」のテイストが色濃く表れているのが、おそらくチルコットがもっとも力を入れたであろう「Pie Jesu」です。ここで、先ほどの木管楽器の加わったサウンドが非常に効果的に使われます。オルガンだけではなかなか表現できない「息づかい」の伴った柔らかなアンサンブルに乗って、ソプラノによって歌われるこの曲の、なんと美しいことでしょう。ここで歌っているアッシュワースという人は、他の部分ではかなりオペラティックな歌い方をしているのに、ここだけはしっかりビブラートを抑えてピュアな味わいを出しています。ソプラノよりは「ボーイソプラノ」のような響き、それは、もちろん作曲者自身がこの曲に求めたキャラクターに違いありません。
作品の冒頭を飾る「Introit & Kyrie」などは、「フォーレ+デュリュフレ」テイストのしっとりとした「短調」の音楽で始まります。そこには、確かな「悲しみ」が宿っているのを感じないわけにはいかないのは、この曲を作っている最中に、作曲者の姪御さんが23才の若さでこの世を去ったということと無関係ではないのでしょうね。
しかし、「Sanctus & Benedictus」あたりは、チルコットの得意技、シンコペーションと変拍子の嵐で、全く別の情感も沸き立たせてくれます。もう一人のソリストとして、バリトンではなくテノールが選ばれているのも、曲全体の爽やかさを演出しているようです。
合唱は、トレブルの少年少女合唱があくまで主役、成年男声はちょっと居心地が悪そうな感じです。正直、自分でこの曲を歌いたいとは思いません。

CD Artwork © Hyperion Records Ltd

おとといのおやぢに会える、か。


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