サージェント・ペッパー警部。.... 佐久間學

(12/12/31-13/1/18)

Blog Version


1月18日

Romantische Arien
Christian Gerhaher(Bar)
Daniel Harding/
Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
SONY/88725422952


なんと言っても今年はヴェルディとワーグナーが揃って200歳になるというのですから、盛り上がることでしょう。彼らが生まれる128年前には、バッハとヘンデルという2大巨匠がやはり同じ年に生まれるという奇跡があったばかり、歴史には時々こんなすごいことが起こります。それにしても、ともにイタリアとドイツのオペラ業界では最高位にランクされている作曲家同士が同じ年に生まれたというのですから、すごすぎます。
つまり、世の中には彼らを頂点とする「イタリアオペラ」と「ドイツオペラ」という2つのジャンルが存在することになります。ただ、さっきの、ドイツ人であるヘンデルが作ったのは「イタリアオペラ」、もちろん歌詞はイタリア語ですし、モーツァルトが作ったオペラの大多数は「イタリアオペラ」なのですよ。そもそも、その時代に「オペラ」と言えば、これは間違いなく「イタリアオペラ」のことを指し示していたのですからね。
例えば、モーツァルトには、「オペラ」以外にも、何曲かドイツ語で歌われた劇音楽があります。しかし、それらは「オペラ」と呼ばれることはなく、「ジンクシュピール(歌芝居)」という別の名前が与えられています。確かに、それはセリフと歌が交互に現れるという、「オペラ」とは似て非なるものでした。
ロマン派の時代になっても、そのジンクシュピールの様式にのっとったドイツ独自の「オペラもどき」は作られます。しかし、名実ともに「イタリアオペラ」と肩を並べることのできる「ドイツオペラ」が完成するには、ワーグナーの登場を待たなければなりませんでした。そして、彼は「オペラ」すらも超えるものを作り上げます。最初のうちこそしおらしく自作を「ロマンティック・オペラ」と呼んでいたものの、最終的には「舞台祝祭劇」、さらには「舞台神聖祝典劇」などというとんでもないタイトルをでっち上げるのですからね。
そんな、ロマン派のドイツオペラからのアリアを集めたのが、このアルバムです。しかし、曲目を見てみるとそのあまりの地味さにたじろがずにはいられません。一応ワーグナーからは、「オペラ」時代のアリアが2曲入ってはいますが、その他がシューベルトやシューマンですよ。いや、彼らは確かに「大作曲家」ではありますが、こと「オペラ」に関しては「そんなのあったの?」というのが大方の印象ではないでしょうか。シューベルトの「アルフォンソとエストレッラ」なんて、まるでコーヒー店みたいですね(それは「サイフォンとエスプレッソ」)。シューマンは、このアルバムの「ゲノフェーファ」1曲しか作っていませんが、これは序曲だけはたまに耳にすることがあるものの、オペラ本体としては完璧に人跡未踏の秘境です。
しかし、この「Ja, wart' du bis zum jüngsten Tag(まあ、最後の審判の日まで)」という、第3幕に歌われる「アリア」を聴いてみると、とてもユニークなものを感じないわけにはいきません。そもそもこれはイタリアオペラの「アリア」のような、いったん物語の進行を停止して心の丈を歌い上げるといったような非現実的なものではなく、ワーグナーにも通じるような一つの「ストーリー」としての音楽になっています。それも、最初は傷が癒えて故郷で待つ妻の元に帰れる喜びを歌っていたものが、そこにその妻の不義を知らせる偽の手紙を持った家臣が登場、それを見て家臣に妻を殺せと命じる、といったような複雑な情感をこの短い時間の間に表現しているのですからね。このオペラ、捨てたものではありません。ゲルハーエルも、まさに等身大のリアリティをもって、そのあたりをきっちりと表現しています。
このアルバム中唯一の有名曲、「タンホイザー」の「夕星の歌」も、リリカルの極みで心に染みます。ただ、なぜかこの曲だけ、オーケストラのテンションが低すぎ、木管はボロボロだし、チェロの後奏は悲惨です。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

1月16日

STRAVINSKY
The Firebird, The Rite of Spring
Tugan Sokhiev/
Orchestre National du Capitole de Toulouse
NAÏVE/V 5192(CD+DVD)


最近は、若い指揮者の台頭が著しく、新しい名前が市場にはどんどん登場しています。1977年にロシアに生まれ、キーロフ・オペラでゲルギエフの薫陶を受けたトゥガン・ソヒエフもそんな若手の代表格、このトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団とともに2009年に引き続き昨年末にも来日したばかりですから、一躍知名度もアップしたことでしょう。
トゥールーズ・キャピトルと言えば、1968年から2003年までという超長期にわたって音楽監督を務めていたミシェル・プラッソンのオーケストラというイメージはぬぐえません。プラッソンの退任後、2005年に首席客演指揮者としてこのオーケストラを任されたのが当時弱冠28歳のソヒエフでしたが、2008年からは音楽監督に昇格、プラッソン時代とは一味違う魅力を、このオーケストラから引き出しています。
今回、「火の鳥(1919年版)」と「春の祭典」がカップリングされたアルバムは、なんとも豪華な仕上がりになっています。まず、69ページにも及ぶブックレットには、それぞれのバレエのあらすじとともに、ジャケットにも使われているソフィー・ショーサードという人のイラストが掲載されて、まるで絵本のような体裁になっています。黒を基調とした2色刷りのこのイラストが、ちょっと不気味。さらに、ここにはCDだけではなく「春の祭典」だけですがライブ演奏を収録したDVDも同梱されているのですよ。ポップスの「初回限定」みたいですね。投票券とか。
まずCDを聴いてみます。いかにも「ロシア」というような大時代的な表現は見られず、かなり知的であっさりした演奏なのですが、ところどころでハッとさせられる表現に出くわすこともあります。例えば、「火の鳥」の「子守歌」の最後の部分、次の「終曲」のホルン・ソロを導き出す弦楽器の扱いに、とても新鮮なものを感じることが出来ました。
「春の祭典」は、やはり破綻のない演奏で、変に盛り上げるようなところがないのが好感が持てます。ただ、なにか平板な感じがして、特に第2部になると幾分退屈させられてしまいます。
ところが、同じ曲をDVDで見始めると、CDとは全然印象が変わってしまいます。映像のあるなしだけではなく、音声だけでもかなり違います。CDと同じテイクではないのかな、と思ってクレジットを見ると、DVDでは「2011年9月17日」と、しっかり収録の日にちまで明記されていますが、CDではただ「2011年9月」とだけしかありません。ということは、CDでは数回の演奏をおそらくお客さんが入っていないときのリハーサルも含めて、編集してあるのでしょう。実際に聴き比べてみると、DVDでは客席のノイズがかなり派手に聴こえてきますが、CDではそれがきれいに消えています。やはり、大半はライブではなくセッション録音のような気がします。もしかしたら、それが退屈に感じられた原因なのかもしれませんね。
そんなノイズの有無だけではなく、DVDでは音そのものがCDとはかなり違っています。最初はPCで再生、音声もいつも聴いているシステムに引っ張って聴いていたのですが、ちゃんとしたBDプレーヤーで再生してみたら、その音はもっとグレードが上がりました。弦楽器などはCDとは比べ物にならないほどのニュアンスのある音に変わりましたよ。高音の伸びも別物です。スペックの記載はありませんが、DVDではまず24bit/48kHz以上のPCM(圧縮はされているでしょうが)の音声が採用されているはずですから、これはある意味当然のことなのでしょう。
さらに、映像ならではの楽しさもありました。このオケが、しっかり「バソン」を使っているのも分かります。ちなみに「バソン」とは俳人ではなく(それは「ブソン」)、フランス式ファゴットのことです。

さらに、その並びのコントラファゴットが、ちょっと変わった楽器であることも分かります。

調べてみたら、これは「コントラフォルテ」という珍しい楽器でした。下の写真の左が普通のコントラファゴット、右がコントラフォルテです。こんな風に、演奏以外でもなにかと楽しめるアルバムでしたよ。


CD & DVD Artwork c NAÏVE

1月14日

Amazing Duo
Jörg Baumann(Vc)
Klaus Stoll(Cb)
CAMERATA/CMBDM-80001(BD)


現代のレコーディングの現場では、30年以上前にCD(コンパクト・ディスク)の規格として制定された16bit/44.1kHzという解像度のPCMなどはすでに使われることはなく、CDを制作する際にはまず高解像度のスペック(具体的には、24bit/48-192kHzの非圧縮PCMもしくは1bit/2.8-5.6MHzDSD)で録音したものを最終的にCDの規格まで「落とす」ということが行われています。もうお正月は終わりましたが(それは「おとそ」)。CDが誕生した頃にはその音質が絶賛されたものですが、今となってはかつてのアナログ録音には到底及ばない音であることは常識となっています。そこで、CDに代わる、耳の肥えたオーディオ・ファンにも満足のいくようなもっと良い音のメディアとして2000年ごろに登場したのが「DVDオーディオ」と「SACD」です。
実は、映像メディアの場合、その音声部分ではかなり早い時期から高解像度のスペックが採用されていました。ですから、DVDで音声だけをメインとして、CD以上の音質を追求することは、ごく自然の成り行きだったのでしょう。さらに、それとは全く別の発想で、PCMとは異なる理論によるデジタル録音の方式、DSDを採用したSACDも実用化されたのです。
その後の成り行きは、ご存じのとおりです。DVDオーディオにしてもSACDにしても、殆ど世の中に広がることはなく、この世から消え失せてしまいます。事実、現在ではDVDオーディオを再生できるプレーヤーはほとんどありません。しかし、一度見捨てられたかに見えたSACDはしぶとく生き残り、今まで主流だった、CDとの互換性もある「ハイブリッド」タイプではなく、あくまでSACDに特化してさらなる高音質を追求した「シングル・レイヤー」タイプが出現するに至って、オーディオ・ファンを中心に圧倒的な支持を受けるようになっています。
これで、「ポストCD」はSACDで決まりかと思われた頃、突然「BD(ブルーレイ・ディスク)オーディオ」なるものが登場しました。いや、日本国内で初めての商品が出たのは昨年の12月ですが、外国のメーカーの輸入盤ではそれ以前からこのメディアは流通していました。このページでも、今までに2LNAXOSSONO LUMINUS、さらに別格のDECCABDオーディオ(メーカーにより、名称は微妙に異なりますが、中身は同じもので)をご紹介してきています。
これらがアピールしているのは、SACDのように専用のプレーヤーがなくても、今ではかなり一般家庭に普及しているBD再生機器があれば、それをそのまま使えるという点です。なにはともあれ、「日本で最初」にリリースされた3つのアイテムの中から、オリジナルは1975年のアナログ録音だったこのタイトルを聴いてみましょうか。比較のために、同じもののCDも購入します。
このBDでは、すべての曲が24/96と、24/192の2種類の解像度で収録されていますから、同じPCMでもスペックの違いによる音の違いを聴き比べることが出来ます。確かに、その違いははっきり聴き分けることが出来ました。16/44.1CD)→24/9624/192となるに従って、そうですね、木像にたとえれば、大雑把な外観しか掘られていなかったものが、次第に顔の表情の細かいところまでくっきりと出来上がっていく、といったような感じでしょうか。ただ、192になってしまうと、あまりに細かいところにこだわってしまったために、全体像がちょっと歪んでしまったような印象も受けてしまいますね。この3つの中で、最も元のアナログ録音に近いのではないか、と感じられたのは、意外と24/96でしたし、杉本さんのマスタリングによるCDも、なかなか健闘していたように思えました。
操作性は、かなり問題があります。操作用のディスプレイが、演奏が始まると消えてしまうのですね。輸入盤ではそんなことはありません。
2通りの音源が入っていても、ディスクには4.4GB程度のデータしか入っていませんでした。これだったら、DVDでも楽々収録できます。このメディアが、完全にぽしゃってしまったDVDオーディオの二の舞にならなければいいのですが。

BD Artwork © Camerata Tokyo Inc.

1月12日

LIGETI
Atmosphères
V.A.
DG/479 0567


20世紀に初演された曲をDGDECCAの音源を使って作曲家ごとに集めたコンピレーション・シリーズ「20C」の最新リリース分の中に、リゲティがありました。タイトルは「アトモスフェール」、確かに、このレーベルにはだいぶ前にこの曲をアバドが録音していましたね。
このシリーズのジャケットには、それぞれその作曲家をイメージするようなものがデザインされていますが、リゲティの場合は「人工衛星」でした。クリーンなイメージでしょうか(それは「人工衛生」)。いや、もはや、この作曲家は、あの宇宙を舞台にした映画「2001:A Space Odyssey」抜きには語ることは出来なくなってしまっているのでしょうね。もちろん、このアルバムにも、そのサントラを飾った「アトモスフェール」と「ルクス・エテルナ」はしっかり収録されています。
サントラと言えば、この映画のサントラ盤に関しては、以前にこんなエッセイを作っていました。

最初に公式サントラとしてMGM(現在はUNIVERSAL)から出たアルバムには、権利の関係でしょうか、映画の中で使われたものとは別の演奏家のものが収録されていて、顰蹙を買ったものでした。その悪行の最たるものは、タイトルテーマの「ツァラツゥストラのファンファーレ」を、オリジナルのカラヤン盤(DECCA)を使うことが出来なかったために、ベーム盤(DG)に差し替えてしまったことでしょうか。そのために、現在でもなおあのファンファーレはベームとベルリン・フィルによって録音されたものだと公言している人はあとを絶ちません。さらに、このサントラ盤では、「ルクス・エテルナ」も、最初にLPでリリースされた時にはきちんとオリジナルのクリトゥス・ゴットヴァルトの演奏を使っていたのに、CD化の際に「CDに使用するには耐えられないほどの音のひずみがある」という理由で、ヘルムート・フランツ指揮の音源に差し替えられていました。
後に、現在ではSONYからリイシューになっているきちんとしたサントラ盤が登場します。

ここでは、もちろん「ツァラ」はカラヤンとウィーン・フィルのバージョン、「ルクス・エテルナ」もオリジナルのゴットヴァルト盤が、映画に用いられた部分と、最初のMGMLPに入っていた「フル・レングス」バージョンの2種類がしっかり収められています。ただ、これをそもそもの音源であるWERGO盤と比べてみると3分以上短くなっていましたね。実際には、この曲は全部で126小節あるうちの80小節目以降がバッサリとカットされています。79小節目は「モレンド」で一旦音がなくなりますから、それで終わったのだと勘違いしたのでしょう。「現代音楽」にはよくあることです。
今回のコンピに入っていたのは、このサントラCDの差し替え用に使われたフランツと北ドイツ放送合唱団の録音です。映画のイメージとは見事に合致していたゴットヴァルト盤とは全く異なるすっきりした演奏、おそらく、最初にサントラCDを聴いた人は、映画の中の曲とは別のものだと感じたのではないでしょうか。余談ですが、この曲は最初から最後までbpm=564/4拍子でテンポは変わりませんから、楽譜通りに演奏すると126小節ではちょうど9分かかることになります(ぴったり9分で終わらせるために、最後に「tacet」の7小節が付いています。ここでは、指揮者はちょうど30秒間何も音がないところで指揮を続けるのでしょう。究極の「エアコン」ですね)。

同じように、アバドとウィーン・フィルが1988年に録音した「アトモスフェール」も、エルネスト・ブール指揮の南西ドイツ放送響によるサントラとは全然異なる肌触りでした。何よりも、ウィーン・フィルの音が美しすぎます。どんな無茶なクラスターを弾かされても、彼らは決して自分たちの音楽を曲げることはしていないところにいたく感動してしまいました。
つまり、ここで聴けるリゲティは「2001」の中のリゲティとはまるで別物、だから、ジャケットに人工衛星を使ったりしてはいけないのですよ。

CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

1月10日

JACKSON
Requiem
Jeremy Backhouse/
Vasari Singers
NAXOS/8.573049


英領バミューダ生まれのイギリスの作曲家、ガブリエル・ジャクソンの作品を初めて聴いたのは2、3年前の事でした。そのHYPERIONのレイトン盤で知った彼の「古くて新しい」作風には、とても惹かれるものがあったという印象があります。そして、今回のNAXOS盤に収録されているのは、それ以後に作られたものを2001年に録音したもの、すべて世界初録音となっています。それらは、2008年に、ここで演奏しているヴァサリ・シンガーズの委嘱で作られた「レクイエム」と、やはり死者に向かい合った時に作られた2009年の「In All His Works」と、2010年の「I am the Voice of the Wind」です。さらに、指揮者のジェレミー・バックハウスのチョイスで、同じようなシチュエーションのための作品、ボブ・チルコットの「Rosa Mystica」、ジョン・タヴナーの「Songs for Athene」、フランシス・ポットの「When David Heard」の3曲がカップリングされています。
ジャクソンにとっては初めての挑戦となる「レクイエム」は、無伴奏の混声合唱だけで歌われます。やはり、彼の「中世への回帰」スタイルは健在です。何しろ、最初に出てくるのがプレイン・チャントの「Requiem aeternam」なのですからね。最も「基本」であるグレゴリアンから始まったこの曲ですが、テキストはもちろん現代の「レクイエム」には欠かせない「典礼文+アルファ」になっています。
その最初の「アルファ」、2曲目の「Epitaph」は、それまで聴こえていた清らかな流れを突然断ち切るようなほとんどフォークロアに近い粗野な音楽だったのには驚いてしまいました。3年経って、新たなジャクソンの一面が現れたのか、と思ってしまうほどの衝撃だったのですが、それはよくよく聴いてみるとノートルダム楽派あたりのオルガヌムっぽいテイストを持っています。別に気持ちよくなることはありませんが(それはオルガスム)。そう、ここでジャクソンは、彼の信条を変えることなく、新たな切り口で「中世」を見事に演出していたのですね。そのモノディは、やはり中世的な多声音楽に彩られます。しかし、それはなんと、つい最近の「現代音楽」に酷似していることでしょう。かつてのペンデレツキが得意にしていた一見無作為な音列のように聴こえるクラスターが、明らかにそこには出現していたのです。そのような、ある種効果音のような中から、ある時はとびきり美しいメロディが沸き立ってくれば、つい興奮させられてしまいます。
実は、これらの「アルファ」は、アボリジニーやネイティブ・アメリカン、そして日本(北条氏政!)などのポエムの英訳。しかし、敢えてそれぞれの民族の固有の音楽には似せないあたりが、彼のこだわりなのでしょう。
後半の「Sanctus」や「Lux aeterna」には、すでに「アルファ」が混入していました。そこにジャクソンは、それぞれのテキストに全く異なるかたちの音楽を割り振って、幾重にも積み上げられた壮大なポリフォニーを作り上げています。これはまさに「音の伽藍」ともいえる巨大な建造物、合唱だけでこれだけの世界を作り上げるなんて、ほとんど奇跡です。
そんな複雑な音楽を軽々と音にしているヴァサリ・シンガーズは、やはりすごい合唱団ですね。随所に出てくるソロもメンバーが歌っていますが、それぞれにしっかりとした存在感を出していますし。
これだけドラマティックな音楽を体験してしまうと、同梱のほかの作曲家の作品がなんだかずいぶんチープに思えてしまいます。チルコットの「Rosa Mystica」は、あのパッヘルベルの「カノン」に歌詞をつけただけのもの。聴いてて恥ずかしくなってしまうほどの駄作です。タヴナーはまさにヒーリングの王道ですが、そのあまりに楽天的な音楽は、もはや彼の役割は終わっていることを知らしめるものでしかありません。ポットの作品は、これが初録音、そもそもポット自身も初めて聴いたのですが、これはなかなか充実感がありましたね。ウィテカーの同じタイトルの曲と聴き比べてみるのもいいかもしれません。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

1月8日

MAHLER
Symphonie Nr.3
Marjorie Thomas(Alt)
Rafael Kubelik/
Tölzer Knabenchor(by Gerhard Scmidt-Gaden)
Chor und Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
DG/UCGG-9060(single layer SACD)


ものの本によると、1時間分の2チャンネルステレオの24bit/96kHzPCMデータ(非圧縮)は1.92GBなのだそうです。ということは、単純に計算すれば25GBの容量のBD1枚には781分収録できることになります。現行の規格では音声だけのBDは認められませんから、ガイド用の映像も入れなければいけないので、実際に音声だけに使えるのは500分以上ということになるのでしょうか。そうなると、ワーグナーの「リング」は15時間かかるとして900分ですから、とても1枚のBDには収まりません。ということは、DECCABDには、その半分のデータサイズの24bit/48kHzPCMが入っているのか、2層のBDを使っているかのどちらかなのでしょう。
SACDで使われている1bit/2.8MHzDSDのデータは、24/96PCMより少し大きくて、1時間当たり2.31GBなのだそうです。SACDの容量は4.7GBですから、これも単純に計算すると122分収録することが出来ることになります。ということは、ハイブリッドのSACDでは、あくまでCDとの互換性を持たせるために、CDの最大容量(80分ぐらい)を超えることはできませんが、シングルレイヤーのSACDではそんな制限はありませんから、計算上はまるまる2時間ほどの音声を収録できることになるのでしょう(実際は、2チャンネルステレオだけだと109分だそうです)。
前回ご紹介したEMIのシングルレイヤーSACDのシリーズは、そういう点で大きな疑問が残ります。なぜ、容量的には1枚のSACDに楽々入るはずの80分の「トゥーランガリラ」を2枚に分けるような要領の悪いことをやっているのでしょうか。単価を上げる以外に、その理由は思いつきません。
ユニバーサルの場合は、そんなことはありません。このマーラーの「3番」などはマーラーの交響曲の中では最長の演奏時間を誇っていますから、どんなに早いテンポで演奏しても90分を切ることはまずありません。ですから、CDでは例外なく2枚組になっていたものです。しかし、このクーべリックの場合、9340秒かかっている全曲が1枚に収まっているのですから、うれしくなります。いや、これが本来の姿、単にEMIがアコギな商売をしているだけのことなのですがね。
ただ、このSACDにもつまらない疵がありました。ここで歌っている児童合唱を指揮している人の名前が「ゲルハルト・シュミット」となっているのですね。普通は「ゲルハルト・シュミット=ガーデン」として広く知られているはずですが、この扱いは例えば「ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ」を「ディートリッヒ・フィッシャー」と呼ぶようなものですから、なんとも居心地の悪いものになってしまいます。
これが録音されたのは1967年。このあたりのものだと普通はかなり劣化が進んでいるものですが、どういうマスターを使ったのか、劣化の跡はほとんど感じられない素晴らしい音が聴こえてきます。冒頭のホルンのファンファーレなどは、まさにこの時代のこのオーケストラの音ともいえるゴツゴツとした感じがもろに伝わってきます。それは、今のような世界中のオーケストラがスマートになってしまう前の「野暮ったさ」が存分に感じられるものです。まだ50代だったエネルギーあふれるクーベリックに煽られて、どのパートも全力を出し切っているのがいいですね。
3楽章に入っているポストホルンのソロは、おそらくトランペットなどを使っているのでしょうか、「本物」のポストホルンのようなちょっと調子はずれの鄙びた感じが全然しませんが、これも録音当時の普通のやり方だったのでしょう。
第5楽章の合唱は、SACDのおかげでしょうか、もろに立体的に聴こえてきます。さっきのシュミット=ガーデンに率いられた児童合唱も力強い声ですし、バイエルン放送合唱団の女声も、若々しくて素敵です。
終楽章は、あまり歌わないで、すっきり仕上げているのが気持ちいいですね。フルート・ソロもとことん素朴。というか、このオケの音でベタベタやられたら、ちょっと気持ち悪いかも。

SACD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

1月6日

SIBELIUS
Symphony No.1
John Barbirolli/
The Hallé Orchestra
EMI/TOGE-15066(single layer SACD)


日本のEMIが本格的にSACDへの対応を始めたのは、2011年の1月新譜から、フルトヴェングラーのモノラル音源をまとめてハイブリッドSACD化したあたりからでしょうか。これは、あくまで「国内盤だけのため」にEMIのマスタリング・エンジニアにリマスタリングを依頼して、EMIが保存しているマスターテープから直接24bit/96kHzでトランスファーを行ったデジタル・マスターからDSDマスターが作られたものでした。
さらに同じ方式で、201112月から2012年3月までの間にステレオ時代に入ったころの「名盤」を100アイテム(!)もリリースします。もちろん、これらは国内盤しかありませんでしたから、一律3000円という、輸入盤よりはるかに高額な「定価」で購入しなければいけませんでしたが、その音は確実にCDとは比較にならないほど素晴らしいものでした。
ところが、2012年4月に、本家のEMIから、同じマスターを使った2枚組のハイブリッドSACDがリリースされます。たった10アイテムしか出ませんでしたが、国内盤の倍のコンテンツなのに、価格は値引きを受ければ1500円以下というリーズナブルなもの、もちろん、音は国内盤と全く変わりませんでした。
さらに、2012年の9月には、日本のEMIはなんと「シングルレイヤー」のSACDを出し始めました。これは現在もどんどん新譜が出ていますから、最終的にはやはり100アイテムぐらいにはなるのでしょう。
このシングルレイヤーのシリーズのコンセプトは「オリジナル尊重」なのでしょうか、例えば、プレヴィンの「トゥーランガリラ」は、2チャンネルステレオのSACDでは楽々1枚に収まってしまうものを、LPでは2枚組だったためにわざわざ2枚組にしていますし、マルティノンのサン・サーンス全集はCDでさえ2枚に収まっているのに、これもLPにならって意味もなく3枚組にしてあります。いや、しっかり意味はあります。枚数が増える分、価格も上げられるのですからね。このサン・サーンスなどは、CDでは1000円ほどで買えるものが6960円、ベラボーな価格設定ではありませんか。
ですから、いくら音が良くても、このシングルレイヤーSACDの国内盤は全く購入する気にはならなかったのですが、このバルビローリ指揮によるシベリウスの「交響曲第1番」だけは、参考音源としてぜひとも「いい音」で聴きたかったので買ってみました。実は、手元には1999年にポール・ベイリーによってリマスタリングが行われた「art」盤があったのですが、それがあまりにも人為的な音だったので、それがSACDではどのぐらい変わっているかを確かめたかったのですよ。
現物は今までユニバーサル・ミュージックや日本コロムビアから出ていたものと全く同じ外観で、一面緑色の盤面の周囲に小さな文字でタイトルなどが印刷されています。さらに「おまけ」として、オリジナルLPのライナーの写真のコピーが入っています。それはとても貴重なものなのでしょうが、「大人の事情」によって肝心のHMVのニッパーマークが消されている(赤線の中)ために、資料としての価値が全くなくなっています。

もちろん、ジャケットのEMIロゴも現行のものと差し替えられていて、「オリジナル」(下図)とは程遠いものになっています。

今回のリマスタリング・エンジニアはアンドルー・ワルター、音は期待通り素晴らしいものでした。「art」では、最初からヒスノイズが目立ちますが、それは全体に高域を強調したイコライジングが施されているためであることが分かります。CDの限界を補正しようとした結果、無残にも薄っぺらな音になってしまっていたのでした。そういう意味で、SACDというものは両刃(もろは)の剣だったのかもしれません。今回のSACDで「まともな」音を聴いてしまうと、こんないい加減なリマスタリングが日常的に行われていたようなEMICDなどは、もはや聴く気にはなれませんからね。3980円という大枚をはたいて知ったのがそんなことだったなんて、さびしすぎます。

SACD Artwork © EMI Music Japan Inc.

1月4日

新国立劇場
名作オペラ50鑑賞入門
公益財団法人新国立劇場運営財団監修
世界文化社刊
ISBN978-4-418-12001-7

新国立劇場が出来てから、15年経ったのだそうですね。日本にまともな「オペラハウス」が出来てから、まだたったの15年しか経っていないのはちょっとした驚きです。いや、確かにそれまでにもオペラを上演出来るホールはいくらでもありましたし、本来はオペラには向かないホールでも強引にオペラをやってしまうというケースだって、日常茶飯事でした。さらに、オペラを専門に上演するための団体、というのも実際にいくつか存在はしていました。しかし、外国の文化を取り入れることにかけては他に類を見ない日本人が、外国ではどんな小さな町にでも必ず1つや2つはあるという、定期的にオペラを上演するだけのために作られた施設が、ほんの15年前には全くなかったことは、かなり不思議だと言えないでしょうか。
それはともかく、そのまともなオペラハウスは、いつの間にかオペラの有名な演目をほとんど上演してしまうほどの実績を作り上げてしまっていました。そこで、こんな、自分の劇場で実際に上演したものだけを集めて、オペラを語る上では欠くべからざるレパートリーをすべて網羅した本まで作れるようになったのですから、すごいものです。そう、この本は、単なる「オペラ入門書」などではなく、「たった」15年の間にここまでのレパートリーを備えてしまった新国立劇場の「実績」を、日本のオペラ・ファンに知らしめるものだったのです。
本の体裁としては、いかにも「入門書」っぽいものには仕上がっています。それぞれのオペラに関する基礎的なデータとあらすじ、そして登場人物の「相姦図」、いや、「相関図」などと、どこにでもあるものの羅列のように見えます。いや、実際これらの部分は、多くが今までに出版されていたこの手のガイドブックの内容をそのまま引き写したものになっているようです。ちょっとした間違いなどもすぐに見つかりますが、おそらくそれらは元のものをきちんと精査せずにそのまま引用した結果なのでしょう。
しかし、その中に登場する写真が、すべてこの新国立劇場で上演されたものであることを知れば、やはりそこからは殆ど感動と言っても差し支えないほどのものがわき上がってくることでしょう。そして、そこに付けられた演出家や歌手に対するコメントこそが、まさに実際にそこで上演された証として強いインパクトをもって迫ってきます。それは、いつの間にか世界水準のオペラ公演が日常的に行われるようになっていたことを物語るものに他なりません。
とは言っても、その華やかな写真の中に、明らかに西洋文化の粋であるオペラという芸術にふさわしくない顔立ちのキャストを見つけたりすると、そんな感動も失望に変わります。これは、舞台芸術であるオペラの宿命、関係者は、西洋人が作りあげたステージに東洋人が立つことへの違和感は、厳然と存在している事実を直視するべきです(そういう意味で、昨夜放送された「ニューイヤーオペラコンサート」ほどおぞましいものもありません)。
それと、いくら入門書のコピペがあったとしても、実質的にこの劇場のPRのためのブックレットに過ぎないものを、税込4000円という高額で売りつける神経は、どこか狂っています。実は、「おまけ」のDVDはかなり興味深く見ることが出来たのですが、それも、ウェブサイトで誰でも見ることができる動画の抜粋でしかなかったことを知って、心底失望させられましたし。
例えば、本文に見られる断片的なデータだけではなく、この15年間に上演されたオペラの一覧表(もちろん、演出家や歌手の名前が網羅されたもの)などを加えただけで、この本はその価格に見合うだけの価値を持つはずだったのに、それを怠った編集者の勘違いが悔やまれます。

Book Artwork © Sekaibunka-sha

1月2日

BACH
Une Cantate Imaginaire
Nathalie Stutzmann(Alt)
Nathalie Stutzmann/
Mikaeli Kammerkör
Orfeo 55
DG/481 0062


フランス東部、ベルギー、ルクセンブルクそしてドイツとの国境に近い街メスには、1989年に新しく出来た素敵なコンサートホール「Arsenal(アルセナル)」があります。浮気の現場を見つかった人はアセルナリ。いや、文字通り、元は19世紀に作られた武器庫だった建物を改装して、ステージの前と後ろに階段状の客席を配置した小ぶりのホールですが、音響が素晴らしいので、コンサートだけではなくレコーディングにもよく使われている、お馴染みのところです。ブックレットには写真が載っていますが、その特徴あるステージの配置は一度見たら忘れることはありません。
そんな場所で録音されたのが、アルトのナタリー・シュトゥッツマンの「弾き語り」によるバッハのカンタータです。まず、「弾き語り」というのが気になりますが、実はシュトゥッツマンは以前から歌手としてだけではなく、指揮者としても活躍したいと考えていたそうなのです。そこで彼女は、二人の指揮者、フィンランドのヨルマ・パヌラと、日本の小澤征爾の許で指揮者としてのトレーニングを受け、ついに2009年に自分のオーケストラを設立します。それが、このCDでも演奏している「オルフェオ55」というアンサンブルです。彼女は、25年間このアンサンブルの客演指揮者としてのポストを約束されているのだそうですよ。この団体は基本的にピリオド楽器奏者の集まりで、バッハあたりが主要なレパートリーなのでしょうが、そのレパートリーはさらなる広がりを見せ、最近ではR.シュトラウスの「メタモルフォーゼン」などのような時代の作品や、さらにはシェーンベルクなどもすでに演奏しているのだそうです。
このCDでは、「穏当に」バッハの「カンタータ」が演奏されています。とは言っても、それは普通に何曲かのカンタータを演奏するというのではなく、彼の200曲を超えるカンタータからアルトのためのソロを集めて一つの長大な「カンタータ」をでっち上げた、というものです。名付けて「イマジナリー・カンタータ」、現実には存在していない、「想像上のカンタータ」ということですね。その間には、オーケストラだけによる「シンフォニア」も何曲か演奏されていて、そこではシュトゥッツマンはまさに「指揮者」としての顔を見せているわけですね。
その「シンフォニア」は、単に「序曲」という意味だけではなく、ボーカルだけのプログラムに変化を与えるためのインスト物としての役割も果たすかのように、あちらこちらに配置されています。中には、組曲第3番の中の「アリア」のような、表面的にはカンタータとは何の関係もないような曲まで含まれています。しかし、同じように、今度はブランデンブルク協奏曲の第3番の第1楽章が聴こえてきたので、何事かと思えば、それはカンタータ174番のシンフォニアでした。確かに、キーやサイズは同じですが、よく聴いてみるとアレンジが違っています。 そんな風に、ここでシュトゥッツマンはバッハの創作上の常套手段であった「パロディ」を分かりやすい形で提供しているように思えてしまいます。彼のカンタータには、すべての作品からのエッセンスが集約されていることを、こんな形で明らかにしようとしたのでしょう。
それは、この「イマジナリー・カンタータ」の中では唯一の合唱曲であるカンタータ191番が、「ロ短調ミサ」のパロディだというところにも表れています。ただ、この「ミカエリ室内合唱団」を聴くのはこれが2度目ですが、相変わらずのユルさには、ちょっとがっかりです。
もっとがっかりしたのは、シュトゥッツマンの指揮ぶりです。なんとも一貫性のないその場しのぎの表現があちこちで見られるのには、ほとほと閉口します。歌手としてこれだけの名声を得ているというのに、なぜこんな中途半端な仕上がりにしかならない指揮者の道へ進もうとしているのか、とても理解できません。

CD Artwork © Universal Music Classics & Jazz France

12月31日

Jurassic Awards 2012

今年も「おやぢの部屋2」をご覧いただき、ありがとうございました。おかげさまで、2日に1本というペースをきっちり守って書き続けた結果、本年中には全部で182本の「おやぢ」をアップすることが出来ました。これも、ひとえにご声援を賜りました皆様のおかげです。
そこで、今年からは、「ジュラシック・アウォード」というものを設立して、この1年間に見たり聴いたりしたアイテムを振り返ってみることにしてみました。某レコード芸術の「レコード・アカデミー賞」などには絶対に登場しないヘンなラインナップをお楽しみください。
カテゴリーは、ブログで便宜上付けているものに従って、7つの部門を用意しました。実はブログのカテゴリーはもっとあるのですが、作ってはみたけれど、実際に当てはまるものがあまりにも少なかったものは割愛させていただきます。「室内楽」とか。
カテゴリー・ナンバー1:合唱曲(エントリー数52
バッハの「マタイ受難曲」(4/5アップ/BD)はラトル指揮のベルリン・フィルのライブ映像です。ピーター・セラーズの演出で、フィルハーモニーの客席まで使ったシアター・ピースとしての「マタイ」を見せてくれました。なによりもすごいのは、オーケストラのメンバーまでがしっかり「演技」していたことでしょう。ソリストに寄り添うようにオブリガートを暗譜で演奏していたのは感動的でした。次点はトルミス(8/15アップ)と、久しぶりのデュリュフレ(12/15アップ)です。
カテゴリー・ナンバー2:オーケストラ(エントリー数50
アラン・ギルバート指揮のニューヨーク・フィルによるニールセンの交響曲第2、3番(12/5アップ)では、なによりも、しばらくCDのリリースから遠ざかっていたかに見えたアメリカのメジャー・オケの演奏が、SACDで聴けたことに感激。しかも、SACDのスペックを最大限に生かした素晴らしい録音にも感激です。当然のことながら、次点のティツィアーティの「幻想」(4/19アップ)とリットンの「火の鳥」(3/2アップ)も、SACDならではの音の良さでのランクインです。
カテゴリー・ナンバー3:フルート(エントリー数17)
本当の意味でインパクトのあるアルバムはありませんでしたが、寺本さん(12/23アップ)、デュフォー(2/18アップ)、故フォーグルマイヤー(9/4アップ)あたりが、素晴らしい出来を見せていました。
カテゴリー・ナンバー4:現代音楽(エントリー数14
ヴィット指揮のペンデレツキが3枚(11/48/95/3アップ)出ましたが、いずれもが選曲の妙でこの作曲家の問題点を暴いてくれていました。「ビサイズ・フェルドマン」(1/19アップ)とジャック四重奏団(8/27アップ)は、エンターテインメントとしての側面が光っていました。
カテゴリー・ナンバー5:オペラ(エントリー数13
ショルティの「リング」(12/26アップ)は、今年最大の収穫でした。本来は再々リマスタリングのCDのパッケージなどですが、「おまけ」について来たBD-Audioがとんでもないものでした。今までのCDや、そしてSACDは一体何だったんだろうという気にさせられるほどのものすごいリアリティあふれる音でした。「オペラ座の怪人」のロイヤル・アルバート・ホールでのライブ(1/29アップ)と「ドン・ジョヴァンニ」(9/22アップ)はそれぞれコンサートホールで演奏されたプロダクション。新しい可能性を示していました。
カテゴリー・ナンバー6:書籍(エントリー数13
ビートルズのエンジニアであったジェフ・エメリックの著書(1/15アップ)は、貴重な資料としての価値が満載、サンフランシスコ響のレポートをまとめた本(10/20アップ)では、最新のオーケストラ事情を知ることが出来ます。マーラーの交響曲第2番の新校訂スコア(8/5アップ)のようなものまで、簡単に入手できるようになった時代にも感謝。
カテゴリー・ナンバー7:ポップス(エントリー数11
LPでリリースされたビートルズの「サージェント・ペッパー」(11/17アップ)と「アビ―・ロード」(11/15アップ)を、昔のLPと何種類かのCDと聴き比べることによって見えてくるマスタリングやアナログ磁気テープの劣化の問題は深刻です。後世に残すには、CDというフォーマットはお粗末すぎます。山下達郎のベスト(9/26アップ)では、そんなCDでも最高のものを作ろうとする愛情がひしひしと感じられます。


おとといのおやぢに会える、か。


accesses to "oyaji" since 03/4/25
accesses to "jurassic page" since 98/7/17