徐々に、触る。.... 佐久間學

(13/3/4-13/3/22)

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3月22日

TSCHAIKOWSKY
Symphonie Nr.2, Rokoko-Variationen
Leonard Elschenbroich(Vc)
Dmitrij Kitajenko/
Gürzenich-Orchester Köln
OEHMS/OC 669(hybrid SACD)


「マンフレッド」を含めてのチャイコフスキーの交響曲ツィクルスが進行中のキタエンコとケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団によるSACD、第5弾は「2番(小ロシア)」です。今までの1、5、6、マンフレッドは聴いていませんが、なかなか評判が良いので、これを買って聴いてみることにしました。まず、SACDだという点が高ポイントになりますからね。
その音は、期待どおりでした。SACDならではの粒の立った楽器の音がそちこちから聴こえてきますし、何よりも弦楽器の瑞々しさは格別です。そして、スケールの大きな音場、例えば第4楽章の序奏の最後に現れるバスドラムの強打には、度肝を抜かれてしまうはずです。今まで数多くのSACDを聴いてきて、期待を裏切られたことの方が多かったような気がしますが、これは間違いなく「当たり」でした。
そして、キタエンコの指揮も、こちらは予想していたのとはちょっと異なって、とてもスマートな仕上がりにびっくりです。第1楽章は、スペクタクルな楽器群を縦横にさばいて、とてもカラフルな音響を引き出していますが、演奏自体はどっしりと腰の据わった堅牢なものです。それは、ロシアの指揮者だからといって何か土臭いものを感じさせるものでは全くなく、もっと音楽としての堅牢さを前面に出したもののように思われます。
第2楽章は、ゆっくり目のテンポで、とても慈しみ深い世界が広がります。弦楽器の音色がとても暖かいのが印象的で、このかわいらしいテーマのキャラクターがふんわりと伝わってきます。
第3楽章では、「スケルツォ」というイメージを覆すような、もっと重みのある大きな力に支配された音楽が聴かれます。フィナーレはまさに圧倒的、ちょっと「展覧会の絵」に似ているロシア民謡のテーマと、もう一つのとぼけた味のある民謡とが複雑に絡む様を見事にコントロールして、極上の高揚感を作り上げています。
録音はライブではなく、スタジオでのセッションでした。理想的なマイクのセッティングが可能な中、きっちりと作り上げられた音響が、非常に心地よいもの、考え抜かれた演奏と相まってとても完成度の高いアルバムであるという印象が伝わってきます。
ところが、カップリングの「ロココ・ヴァリエーション」になると、音がガラリと変わって、なんともあか抜けないものになっていました。ソリストのエルシェンブロイヒは、とても繊細な演奏を聴かせているのですが、その音がなんとも繊細さに乏しく輝きがないのですね。録音データを見ると交響曲と変奏曲とでは、会場は一緒ですがエンジニアと、そして日にちが違っています。ただ、エンジニはが誰がどの曲の担当かは分かるのですが、「2009年8月」と「2012年3月」という2種類の表記が、どの曲についてのものかは分からないのです。
そこで、どこか別のところで正確なデータが得られないかと、NMLを見てみたら、そこには確かに曲ごとのデータが書いてありました。しかし、これはこのアルバムのブックレットのデータとは全然違います。調べてみたら、これは、2010年にリリースされた「マンフレッド」のデータではありませんか。相変わらずいい加減なNAXOSなのでした。
そもそもNMLをあてにしたのが間違いだと気づき、別の方向からリサーチを試みます。すると、同じレーベルの同じ演奏家で、やはり音が全く違っていたものがあったことに気づきました。それは、シュテンツがやはりケルン・ギュルツェニヒを指揮している「復活」「千人」です。それぞれ2010年の10月と2011年9月に、同じ会場で同じエンジニアによって録音されていますが、その音は「雲泥の差」でした。この1年の間に、きっと何かがあったのでしょう。
ですから、今回のアルバムでは、絶対「小ロシア」が2012年、「ロココ」が2009年だと思うのですが、どうでしょうか?もし間違っていたら、もっと耳を鍛えんと

SACD Artwork c OehmsClassics Musikproduktion GmbH

3月20日

HOLTEN
Venus' Wheel
Bo Holten/
Flemish Radio Choir
DACAPO/8.226062


1948年生まれのデンマークの作曲家、指揮者のボー・ホルテンは、音楽大学では音楽学とファゴットを学んでいて、現在の仕事である作曲や指揮法は独学で勉強したのだそうです。そもそも音楽という「芸事」自体が、学校教育とは無縁なものなのですから、そういう道も大いにあり得ます。日本の作曲家の中では間違いなくトップクラスにランクされている武満徹だって、作曲に関してはアカデミズムとは全く無縁なのですからね。
ホルテンは、今までに合唱指揮者としては多くの合唱団と関わってきました。まず1979年には、このDACAPOレーベルでもおなじみの卓越した合唱団「アルス・ノヴァ・コペンハーゲン」を自ら創設して、その常任指揮者となります。そのポストを1996年まで務めた後、その年に今度は「ムジカ・フィクタ」という合唱団を創設します。
同時に、世界中の合唱団からの要請にこたえて、1990年から2005年まではイギリスのBBCシンガーズの首席客演指揮者、2008年から2011年まではこのCDで共演しているフランダース放送合唱団の首席指揮者を務めていました。
作曲家としては、古い音楽から新しい音楽まで吸収したうえで、独自の親しみやすいスタイルで曲を作り上げているのでしょう。日本の作曲家だと、信長貴富みたいな感じでしょうか。
このアルバムでは、ほとんどが世界初録音となるホルテンの合唱曲が自作自演で紹介されています。最初の、ゲーテのテキストによる「ローマ悲歌」も初録音、1曲目はチェロの低音に乗って緊張感あふれるハーモニーが古代ローマへの思いを語ります。2曲目はメンバーによるバリトン・ソロが、ローマで出会った女性の肉体をたたえる、ちょっとエロティックな歌を歌います。ちなみに、このタイトルはゲーテ自身のローマ旅行に関連した著作のものですが、代理店(NAXOS)の解説では「ロマンティックなエレジー」と、相変わらず間抜けな「邦題」が付けられています。
クリトゥス・ゴットヴァルトの編曲で、合唱界ではすっかり有名になっているマーラーの「リュッケルト歌曲集」からの「私はこの世に捨てられて」を、ホルテンが編曲したものも、ここで初めて聴くことが出来ます。ゴットヴァルト版よりもあっさりとしたハーモニーの処理で、かなりイメージが変わって聴こえます。さらに、ここではバリトン・ソロが入ります。このソロの比重がかなり高くなっているので、「合唱曲」としてはあまり面白くありません。というより、ここからはゴットヴァルト版が持っていた「深み」が見事になくなっています。
Handel with Care」という、やはり初録音の曲は、タイトルがなかなか笑えます。なんせ「取り扱い注意」という意味の「Handle with Care」のおやぢギャグなのですからね。ホルテンもなかなかのおやぢ、炭火には気を付けましょう(それは「ホルモン」)。なんでも、ヘンデルの没後250年にあたる2009年に委嘱されたそうですが、この年は同時に、チャールズ・ダーウィンの生誕200年と、彼の著作「種の起源」が出版されてから150年という「ダーウィン・イヤー」だったことから、ホルテンはヘンデルとダーウィンをマッシュ・アップすることを考えました。その結果、合唱によってハーモナイズされたダーウィンのテキストに乗って、ソプラノ・ソロがヘンデルの作品たとえば「私を泣かせてください」とか「水上の音楽」などを何の脈絡もなく歌うという、痛快な作品に仕上がりました。
最後の初録音曲は、アルバムタイトルにもなっている「ヴィーナスの車輪(Rota Veneris)」です。中世の作者不詳のモテットに新たなパーツを加え、別のテキストを付けるという手法で出来上がった作品、サンドストレムがパーセルの作品を使って同じようなことをやっていましたね。
演奏は、心なしか雑な感じがします。というより、録音で破綻をきたしているところも見受けられます。このレーベルだったらもっと良い音を、SACDで聴かせてほしいものです。

CD Artwork © Dacapo Records

3月18日

TELEMANN
Ouvertures pittoresques
Martin Gester/
Arte dei Suonatori
BIS/SACD-1979(hybrid SACD)


なんでもテレマンは、生涯に作曲したものが4000曲を超えるのだそうです。クラシックの作曲家でこれ以上たくさん作った人はいないのだとか。そんなテレマンの作品は、現在では声楽曲はヴェルナー・メンケによる「TVWV(Telemann-Vokalwerke-Verzeichnis)」、器楽曲はマルティン・ルーンケによる「TWV(Telemann-Werke-Verzeichnis)」という目録によって整理されています。それぞれカテゴリーごとに分類して番号を振るというやり方です。TVWVは「1」の「教会カンタータ」から始まって、「25」の「教育的作品」まで、TWVはそのあとの「30(鍵盤楽器のためのフーガ)」から「55(管弦楽組曲)」です。TWVの場合は、さらに調性によってひとまとめにされています。
声楽曲の場合は調性による分類はなく、単に番号だけが付けられています。そこで、TVWV 5の「受難オラトリオと受難曲」というカテゴリーを見てみると、1722年の「マタイ受難曲」(5:7)から、1767年の「マルコ受難曲」(5:52)まで46年間、つまり、ハンブルクに赴任してから亡くなるその年まで、毎年きちんと4つの福音書による受難曲を順番に作っていることが分かります。つまり「マタイ」、「マルコ」、「ルカ」、「ヨハネ」というツィクルスを11回半繰り返しているのですね。あいにく、半分以上は記録しか残っていなくて、楽譜そのものは紛失してしまっているそうですが、これだけでもバッハの10倍以上の仕事をしていることになりますね。
バッハが作った「管弦楽組曲」は4曲ぐらいですが、これもテレマンは100曲以上作っています。その中の3曲が、ここでは紹介されています。アルバムタイトルは「絵画的な組曲」、ここでは、その3曲が絵画的なキャラクターを持っている、ということなのでしょう。ジャケットに使われている絵画も、「ハーレクイン(道化)の画家」というタイトル、このモデルは、まさか自分がこんなみだらな姿に描かれているとは夢にも思っていないのでしょうね。ユーモア、と言うか、ブラックジョークにあふれた作品です。
テレマンも、こういうことが大好きだった作曲家です。1曲目、3本のオーボエと弦+通奏低音という編成の組曲(55:D5)には、もろ「Harlequinade」という曲が入っていますよ。これは、なんともユーモラスな曲調ですし、この曲全体も、3本のオーボエがいとものどかな雰囲気を醸し出してくれています。
次の「民族の組曲」というサブタイトルの組曲(55:B5)では、「トルコ」、「スイス」、「モスクワ」、「ポルトガル」など、もろ「民族」丸出しの音楽が、オプションの打楽器と共に異国情緒を味わわせてくれますよ。これはかなりポップ、というか「モスクワ」などはほとんど「パンク」っぽい危なさが漂っていますから、要注意。もっと危ないのが、最後の「びっこ」です。確かに、不規則なビートが、そんな不自由な人を的確に描写していますが・・・。
さらに、最後の組曲(55:D22)のテーマときたら「痛風」などの病気と、その「治療法」ですって。どんな病気も、トランペットとティンパニが入った華やかな音楽で追っ払おう、みたいなコンセプトなのでしょうか。サブタイトルは「トラジ・コミック」、「悲喜劇」ですね。時代劇のマンガではありません(それは「ワラジ・コミック」)。
そんな痛快な組曲と、あと2曲、「ポーランド風コンチェルト」というタイトルの、分類上はTWV 43の「3つの楽器と通奏低音のための室内楽」が演奏されています。「43:G7」などは、とても素朴なメロディを使ったかわいらしい曲です。
マルタン・ジュステルに率いられたポーランドのピリオド・バンド、「アルテ・デイ・スオナトーリ」は、目の覚めるような音色でそんなテレマンの世界を生き生きと聴かせてくれます。驚くべきことに、オリジナルの録音フォーマットは44.1kHz/24bit、そんな「CDよりほんの少しまし」程度のスペックでも、SACDレイヤーではCDでは絶対に味わえない伸びのある音が楽しめます。

SACD Artwork © BIS Records AB

3月16日

SIBELIUS
Symphonies 1, 4, 7
渡邉暁雄/
Helsinki Philharmonic Orchestra
TOKYO FM/TFMCSA-1007(single layer SACD)


以前、2003年にCDで出ていた、1982年のヘルシンキ・フィルによるシベリウス・ツィクルスの、シングル・レイヤーSACDでの再発です。5枚だったCDが、もっと長時間の収録が可能なSACDでは、3枚になってしまいました。こんな、CDではありえない時間表示です。

今でこそ、シベリウスのツィクルスなどアマチュアのオーケストラでも成し遂げていますから、別に珍しいことではありませんが(さらに、まさにこの3月から4月にかけて、インキネンと日本フィルが東京と横浜で全曲演奏を行っています)この録音は、ヘルシンキ・フィルによって日本で初めてシベリウスの交響曲が全曲まとめて演奏されたという画期的な3つのコンサートのライブ録音です。それを企画したのが、民間のFM局だったというのも、今考えるとすごいことですよね。スポンサーはTDK、当時のFM放送を「エアチェック」するには欠かせないアイテム、「カセットテープ」のトップメーカーでした。1月22日、東京の厚生年金会館での3番、6番を皮切りに、1月28日福岡サンパレスでの1番、4番、7番、2月4日大阪フェスティバルホールでの2番、5番がそれぞれ録音され、「TDKオリジナルコンサート」として放送されたのですね。今回のSACD化によって、それぞれのコンサートが丸々1枚に収まることになりました。その代わり、CDでは余白に入っていた渡邉暁雄のインタビューとリハーサル風景はカットされています。
そう、このツィクルスでは、ヘルシンキ・フィルに同行した首席指揮者、オッコ・カムだけではなく、日本からも渡邉暁雄が参加、福岡での3つの交響曲の指揮をしていたのですね。今回のSACDは、その渡邉の指揮によるコンサートを、アンコールの「悲しきワルツ」まで含めて収録したものです。
実は、母親がフィンランド人である渡邉は1961年に、常任指揮者を務めていた日本フィルハーモニー交響楽団とともにシベリウスのステレオによる交響曲全集の録音を世界で最初に行っているのです。日本コロムビアによって録音(エンジニアは若林駿介)された音源は、当時提携関係にあったアメリカ・コロムビアからEPICレーベルで全世界へ向けてリリースされました。さらにこのコンビは、1981年にも、やはり日本コロムビアのDENONレーベルから、これも世界初となるデジタル録音によるシベリウス全集を出しているのですね。そして、その翌年にこのようなエポック・メイキングなコンサートの一翼を担うことになるのです。
そんな「偉業」を成し遂げた渡邉ですが、音楽を作る現場では非常に紳士的で穏やかな方だったそうですね。実際に、日本フィルのヴァイオリン奏者だった知人から直接聞いた話では、リハーサルの時は決して声を荒げることはなく、気に入らないところがあっても、穏やかな声で「ここはこうしてください」と諭すのが、最大限の怒りの表現だったということです。
ここで聴くことのできる「1番」が、まさにそんな人柄がよく反映された演奏なのではないでしょうか。どちらかというとドラマティックに演奏されがちなこの曲ですが、そのような華やかさは敢えて表面には出さず、もっと節度のある、行ってみれば「素」のシベリウスとしてのテイストを重要視しているように聴こえます。
ライナーに、かつてはラハティ響、現在はミネソタ管の音楽監督であるオスモ・ヴァンスカが、このコンサートにはクラリネット奏者として参加しているという記述がありました。ヴァンスカのお弟子さんの新田ユリさんのお話では、ここでは2番奏者として演奏しているそうですね。確かに、インレイの写真にはそれらしい人が写っています。

なんでも、ヴァンスカは今でもクラリネット奏者としてアンサンブルなどを行っており、来日の際にも暇を見つけては楽器をさらっていた、というのも、新田さんからの情報です。夏休みにも、そうなのでしょう(それは「ヴァカンス」)。

SACD Artwork © Tokyo FM

3月14日

BACH
St John Passion
Ian Bostridge, Nicholas Mulroy(Ten)
Neal Davies, Roderick Williams(Bass)
Carolyn Sampson(Sop), Iestyn Davies(CT)
Stephen Layton/
Polyphony, Orchestra of the Age of Enlightenment
HYPERION/CDA 67901/2


レイトンとポリフォニーによるバッハのCDなんて、たぶん初めて聴くことになるはずです。ディスコグラフィー的には、新しい作曲家の作品をどんどん紹介する、というイメージが強いので、古典やバロックのレパートリーとは何か違和感がありました。でも、ヘンデルの「メサイア」などでは、まさにアッと驚くほどの快演を聴かせてくれましたから、もちろん期待はしていました。
しかしブックレットを見ると、なんとあのバッハの権威、クリストフ・ヴォルフがライナーノーツを執筆しているではありませんか。レイトンたちは、しっかりとバッハ研究の最前線とのコンタクトを取っていたのですね。さらに、彼らはこの「ヨハネ」を毎年ずっと演奏していたことも分かります。CDこそありませんでしたが、実は彼らとバッハとはかなり深い関係を持ち続けていたのですね。
ただ、ヴォルフがライナーの中で詳細に「ヨハネ」の改訂に関する史実を述べているのとは裏腹に、彼らはあくまで一つの「伝統」である、新バッハ全集による演奏というスタンスをとっているのだそうです。その上で、いくつかのコラールでは「部分的」にコラ・パルテのオーケストラをなくしてア・カペラで歌っています。それも、彼らの一つの表現のあり方なのでしょう。さらに、わざわざ普通にオーケストラが入った別テイクも、「付録」として最後に収録するというのも、彼らなりの「原典」に対する姿勢なのでしょうね。
余談ですが、「新バッハ全集」であるベーレンライター版そのものが、1974年の刊行ということもあって、そろそろ見直しが必要とされているのでしょうか、これまでに「ヨハネ」の1725年稿(第2稿)と1749年稿(第4稿)を出版してきたCarus Verlagが、ついにこの「伝統稿」を出版してくれました。今のところはヴォーカルスコアしか入手出来ませんが、これでベーレンライターの寡占状況は変わっていくのかもしれません。

レイトンたちの「ヨハネ」は、期待通りのすばらしさでした。オーケストラはピリオド楽器のエンライトゥンメント管ですが、レイトンはこれをきっちり掌握して、1曲目の導入から普段合唱で見せているあのハイテンションぶりを見事に聴かせてくれます。そして合唱がそのままのテンションで、メリスマのすべての音にしっかり意味を持たせて歌い出した時には、ほとんど信じられないものに出会ったような気分でしたよ。まるで楽器のような正確なピッチとアーティキュレーション、その上に言葉による感情が加わるのですから、もうそれだけで圧倒されてしまいます。
例のコラールの処理が最初に現れるのが11番の「Wer hat dich so geschlagen」です。1回目は楽譜通りに合唱とオーケストラが一緒に演奏しているものが、2回目に同じ音楽が全く異なる表情で現れたときには、一瞬、いったい何が起こったのかわからないほどでした。ア・カペラになっただけでこんなインパクトがあるなんて。歌詞を見てみると、なぜレイトンがこのような措置を取ったのかが分かります。1回目は「誰があなたをこんなに打ったのか」という問いかけ、2回目はそれに対する「私です」という答えになっているのですね。付録のオケ付きテイクと比べてみると、その的確さがよくわかります。声だけで歌われることによって、こんなにも感情がストレートに伝わってくるなんて。合唱に関してはこの「ヨハネ」は完璧、こんなのを聴いてしまうと、世の合唱団はやる気をなくしてしまうことでしょう(それは「弱音(よわね)」)。
バスのニール・デイヴィスが、とてもソフトな声で慈愛あふれるイエスを演じているなど、ソリストたちも、それぞれに魅力を放っていますが、曲によっては合唱ほどの緊張感が保てないところもあるのが少し残念、それと、やはりCDではこの合唱の本当のすごさは伝わってはこないような気がします。

CD Artwork © Hyperion Records Limited

3月12日

MOZART/Sinfonia Concertante
STRAUSS/Also spracha Zarathustra
Lother Koch(Ob), Karl Leister(Cl)
Gerd Seifert(Hr), Günter Piesk(Fg)
Herbert von Karajan/
Berliner Philharmoniker
TESTAMENT/SBT 1474


1970年8月12日に、ザルツブルクの祝祭大劇場で行われたカラヤンとベルリン・フィルとのコンサートの模様をすべて収録したCDです。いや、別にそんなヒストリカルなものには興味はないのですが、なんせGalway in Orchestraのアイテムなものですからね。あのリストによれば、今までは別のカップリングの海賊盤しかありませんでしたから、やっと本来のライブ録音の形での正規品が入手できたことになります。おそらく、TESTAMENTのことですから、音もかなり改善されていることでしょう。
この年のカラヤンは、5月にベルリン・フィルと来日して、大阪と東京で12回のコンサートを行っていましたね。そして、夏のザルツブルク音楽祭では、ウィーン・フィルとはオペラ、ベルリン・フィルとはコンサートという「両手に花」の大活躍ぶりです。今回CD化されたコンサートは、ここに入っているモーツァルトとシュトラウスの2曲だけという、1時間ちょっとで終わってしまうプログラムでした。その前の日には「ドン・ジョヴァンニ」、次の日には「オテロ」というスケジュールですから、息抜きみたいなものだったのでしょうか。
最初の曲は、モーツァルトの管楽器のための協奏交響曲です。もちろん、ロバート・レヴィンによってフルート・オーボエ・ホルン・ファゴットというソロ楽器群のための楽譜が「修復」されるのは1983年の事ですから、この曲ではゴールウェイの出番はありません。ここでは、当時知られていたこの曲の唯一の楽器編成のために、オーボエのコッホ、クラリネットのライスター、ホルンのザイフェルト、そしてファゴットのピースクという、当時のベルリン・フィルの花形奏者たちがソリストを務めています。
ここでは、カラヤンらしいたっぷりとした響きがあまり感じられないのは、オーケストラの弦楽器のメンバーが大幅に縮小されているのと、オーストリア放送による録音のせいなのでしょう。「これがベルリン・フィル?」と思えるような貧弱な音には、ちょっとがっかりさせられてしまいます。オーケストラの精度も、ちょっといい加減なのも気になります。第2楽章の頭のアインザッツがボロボロなのも、ライブ演奏ならではのご愛嬌でしょうか。その分、ソリストたちのアンサンブルはまさに隙のない完璧なものでした。こちらは、別な意味でのライブなければ出せないような自由な味が満載、時として、カラヤンがその流れを邪魔しているのでは、とさえ感じられるほどでした。
そして、お目当ての「ツァラトゥストラ」です。ただ、この曲の場合、フルートはそんなに目立つような働きはしていません。おいしいソロなどは何一つないという、はっきり言ってフルーティストには「報われない」曲なのでは、という気がしてなりません。ですから、別にゴールウェイが吹いているからと言っても、特に聴きどころはないのでは、と思っていました。ところが、有名なファンファーレが終わって「後の世の人々について(Von den Hinterweltlern)」の静かな部分に入ってすぐに、まぎれもないゴールウェイの音がくっきりと聴こえてきたではありませんか。それは、バス・クラリネットとユニゾンで演奏されている「ド−ド♯−レ」という音型なのですが、実際はほかの楽器の陰になってまず聴こえてこない低音です。というか、今まで何度となくこの曲を聴いてきましたが、フルートがそんな音を出しているなんて気づいたこともありませんでしたよ。念のため、同じカラヤンがウィーン・フィルを指揮している1959年のDECCA盤のSACDを聴きなおしてみましたが、そんな音は全く聴こえてきません。
聴きすすんでいくと、最後近くの「舞踏の歌(Das Tanzlied)」では、ほんの少しですがちゃんとしたゴールウェイのソロが聴けました。はっきり言って、こんな2か所だけの「出番」で、すっかり満足しているのが、ゴールウェイ・マニアなのですから、ほっといて下さい(ゴーイング・マイウェイ)。

CD Artwork © Testament

3月10日

A CAPELLA
Jacky Locks/
Novo Genere
K617/K617239


「アカペラ」と言えばキツツキの仲間ではなく(それは「アカゲラ」)、あのシンガーズ・アンリミテッド1971年に発表した、コーラスの歴史に残る名盤のタイトルではないですか。恐れを知らないというのは、きっとこのようなことを指すのでしょう。
そんな2006年にフランスで結成されたという新しいグループ「ノヴォ・ジェネレ」が歌うア・カペラのアルバム、サブタイトルは「時空を超えて(意訳)」というものでした。確かに、16世紀のマドリガルから現代のビートルズまでをカバーするラインナップからは、そのような幅広いレパートリーを持つこのグループのキャラクターも感じることは出来ます。そんな両極端だけではなく、間を埋めるレーガーやブラームスといったドイツ・ロマン派の流れもしっかり押さえられていますし。
メンバーは全部で16人、女声10人、男声6人というちょっと見には変なバランス、SopMSAltTenBarBasという6つのパートのメンバー表記になっていて、男声パートはそれぞれ2人だけ、そのテナー・パートの中に指揮者のロックスの名前もありますから、彼は指揮をしながら歌っているのでしょうか。それにしても、写真で見るとメンバーには恥かしげもなく太鼓腹を露出させている、はっきり言って「美しくない」外観の人がたくさんいるのにはちょっと興ざめです。
声の感じは、初期の「スウィングル・シンガーズ」、つまり、フランスで旗揚げされた当時のグループに似ているような気がします。あちらの女声はかなりハスキーでしたが、こちらも、人数の割には軽い感じです。男声もかなり個性的、というか、パートでまとまるというよりは個人のキャラを前面に出しているような歌い方です。音楽の作り方も、あまり掘り下げずにサッパリと歌う、というところでしょうか。
オープニングは、なんとゴスペル・ナンバーの「イライジャ・ロック」でした。フランスのグループがアルバムをゴスペルで始めるというのもやはり「恐れを知らぬ」行いです。案の定、シンコペーションのリズムがことごとく前のめりになってとても不安定、その辺の「ゴスペル・フェスティバル」でシロートが歌っているようなユルさで、とてもプロとは思えません。というか、こういうきっちりしたリズムをキープするのが、この国の人はそもそも苦手なのかも。
彼らは、なぜか、ゴスペルと似たような、二グロ(ピー!)・スピリチュアルズも、ここでは数多く取り上げています。これも、ソリストとコーラスのテンポ感が全く異なっているので落ち着いて聴こうという気にはなれません。女声パートの音色に深みがないのも、こういう曲にとっては致命的。
そして、ビートルズ・ナンバーも登場です。「Yesterday」は、ボブ・チルコットがキングズ・シンガーズ時代に編曲したものが使われていますが、その作家クレジットが「ポール・マッカートニー」となっているのが不思議です。同じように、「You've Got to Hide Your Love Away」では「ジョン・レノン作曲」となっているのも、あり得ない書き方。彼らのビートルズ時代の作品は、たとえどちらかが一人で作ったものでも、つねに「Back in the USSR」(これだって、ポールの作品)のように「レノン&マッカートニー」と表記されるはずですからね。いずれにしても、ロックには程遠いノリの悪さには、聴いている方が恥ずかしくなってしまいます。
お国もののパスローのシャンソン「Il est bel et bon」あたりになると、軽妙さがプラスに働いてやっと楽しく聴くことが出来るようになります。ただ、細かいところでのユルさには、目をつぶるしかありません。
残響の多い教会で録音されたため、そんなユルさはさらに強調されてしまいます。こういうグループの場合には、もっと人工的な処理で音を作った方が良い結果が出るのではないかと思うのですが。

CD Artwork © K617

3月8日

Vogt/Wagner
Klaus Florian Vogt(Ten)
Camilla Nylund(Sop)
Jonathan Nott/
Bamberger Symphoniker
SONY/88725471692


まるでカウフマンに対抗するかのように、フォークトがこんなアルバムをリリースしました。あちらはまさにワーグナー・テノールの「正統」というか「王道」を行くものだったのに対して、こちらは「異端」もしくは「邪道」、もっと言えば「勘違い」ですから、最初から勝負の結果は見えているのですが。
しかしまあ、これほどまでに似たようなアルバムをぶつけるというのは、どういう神経をしているのか、ちょっと恐ろしくなってしまいます。「ワルキューレ」では、やはりその前のアルバムとの重複を避けるために「剣のモノローグ」を持ってきていますし、なんとも珍しい「リエンツィ」からのアリアもしっかりかぶさっていますよ。
その、「リエンツィ」の最後近く、第5幕で歌われる「Allmächt'ger Vater, Blick Herab!」というアリアは、それ自体はまず聴く機会はなくても、そのテーマは、こちらは良く演奏されている序曲の中にしっかり登場していますから、初めて聴いてもすぐに入って行けるものです。これを、カウフマンが歌ったものと比べてみれば、その違いは明らかです。

これが、序曲と同じメロディの部分、赤丸の記号は「転回ターン」という装飾音符で、この場合だとここに三十二分音符で「ラシドシ」という音が入ります。ワーグナーの場合では初期の作品にしか顔を出さない、ちょっと「古い」表現なのですが、いかにも「ロマン派」という感じを醸し出してくれる装飾です。「全能の父よ」で始まるこのアリアは、この大詰めまでに友人や民衆に裏切られてしまったタイトル・ロールが、「あなたは私に力を与えてくれた。それを奪わないでください」と訴える悲痛な歌です。そこで、カウフマンは、この装飾を単なる飾りとは考えず、しっかり意味を持たせた歌い方をしています。ですから、こんな装飾音だけで、見事に訴えかける力が聴く者に伝わってくるのですね。ところが、フォークトの場合はこれが文字通り単なる「飾り」にしか聴こえてこないのです。そこからは、いかにもヒラヒラした軽やかさしか感じることはできません。
そんなことに気づいてしまうと、フォークトの歌がなぜつまらないのかがはっきりしてきます。彼は、何よりも甘く美しい声を出すことを最大の課題と考えているのでしょう。ドイツ語のゴツゴツした子音などは、その美しさを妨げるものでしかありませんから、いとも安直にその子音を目立たせないようにして、あくまでソフトな音を出すことのみに腐心しています。その結果、彼の歌からは子音によってもたらされるはずの「ことば」の力が完璧に消えてしまいました。オペラで感情を表現するために最も必要な「ことば」がないのですから、その歌は死んだも同然のただの音の羅列でしかなくなってしまいます。さらに彼の声は、どんな時にも同じようなビブラートに彩られている明るさだけが取り柄のものでしかありません。「ことば」を放棄した分、何らかの方法で感情を表現しようと思っても、そんなことはそもそも出来ないのです。実際、彼の歌を聴いて悲しみや苦しみを感じる人など、いないのではないでしょうか。
このアルバムでは、「トリスタン」と「ワルキューレ」で、ソプラノのカミラ・ニュルンドが共演しています。そんな木偶の坊が、このようなしっかり歌で感情表現が出来るまともな歌手と一緒に歌っていれば、おのずとその無能さが露呈されてしまいます。それよりも、ここでは「ワルキューレ」の第1幕のエンディングまでがたっぷり演奏されていますが、そんな毒気に当てられたジョナサン・ノットの指揮するオーケストラまでが、全くワーグナーらしくない覇気のない軟弱な演奏に終始していることの方が問題です。「悪貨は良貨を駆逐する」とは、まさにこのようなことを指すのでしょう。フォークトには、ワーグナーなどは歌わずに、おとなしく重い荷物でも運んでいて欲しいもの(それは「フォークリフト」)。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

3月6日

VERDI/BRICCIALDI
Operatic Fantasies
Raffaele Trevisani(Fl)
Paola Girardi(Pf)
DELOS/DE 3429


イタリアのフルーティスト、トレヴィザーニの最新アルバムです。偶然NML(Naxos Music Library)で見つけたので、ストリーミングで聴いてみたらなんともひどい音、こんな珍しい曲なのにこれではあんまりと、きちんとCDを買って聴こうと思いました。ところが、よくあることですがHMVのサイトでは取り扱っていません。仕方なくAMAZONから入手です。手元に届いてから再度HMVを見てみたら、発売日が3月末ですって。代理店を通すとこんなことが良く起きます。というか、このサイトの場合、最近は代理店経由のものでも新譜の紹介がはなはだしく遅くなっていますから、困ったものです。何しろ、このアルバムは今年中に売らなければ何の意味もなくなってしまうものなのですからね。
というのも、これは明らかに今年生誕200年を迎えるヴェルディがらみのアイテムだからです。ジューリオ・ブリッチャルディが作った、ヴェルディのオペラのテーマに基づくフルートとピアノによる幻想曲の数々、今まで何種類かの録音がないわけではありませんでしたが、これだけまとまっているアルバムなんて、こんな年でなければ誰も録音しようとは思わなかったでしょう。
しかし、このジャケット写真を見ると、トレヴィザーニは急に老けてしまったという印象を受けてしまいます。髪は真っ白、何より、目元が老人そのものではありませんか。今までのCDで見られたキアヌ・リーブス似の精悍さはどこへ行ってしまったのでしょう。しかし、そんな外観とは裏腹に、フルートの音色とテクニックには更なる磨きがかかっているようでした。あるいは、このような華やかな曲こそが、彼の最も得意とするものなのでしょうか、何よりも高音の輝きが、ほとんどあのゴールウェイと同じほどの魅力を持っているのがうれしいところです。その魅力の秘密は生き生きとしたビブラート、これさえあれば、ほかのフルーティストよりもワンランク上の愉悦感にひたることが出来ます。つまり、NMLでは、そのあたりが全く伝わってこない薄っぺらな音だったのですよ。このアルバムの最大の魅力がスッパリとなくなっているのですから、ひどいものです。
ブリッチャルディが生まれたのは1818年ですから、ヴェルディの5歳下、まさに同時代の作曲家としてリアルタイムに彼のオペラに接していたのでしょう。そんな「ヒット作」のおこぼれにあずかろうと、「カバー・バージョン」を作るのは、今の時代と変わることはありません。ブリッチャルディは、オペラが上演されるとほどなくして、その中のテーマを巧みに取り込んだフルート・ソロのための華麗な「幻想曲」を作り、出版します。例えば、1871年に初演された「アイーダ」などは、1875年にはもうリコルディから出版されていますから、ちょっと腕の立つアマチュアのフルーティストなどでも、こぞってサロンなどで演奏していたことでしょう。
ここでのトレヴィザーノが、まさにそのようなことを行っています。フルート1本で、ヴェルディのオペラの勘所を華麗に聴かせてくれるのですから、楽しくない訳がありません。ところが、トレヴィザーノの演奏は完璧なのに、なぜかそんなに楽しく感じられないのですね。それは、どうやらブリッチャルディが取り上げたテーマが、すべてがなじみ深いものではないことが原因なのではないか、という気がします。例えば「アイーダ」では、今では誰でも知っている凱旋行進曲の頭の部分を使わずに、後半だけしか現れませんし、「清きアイーダ」のようなキャッチーなアリアも聴かれません。そんな感じで、今の我々だったらそのオペラではぜひ聴きたいと思っているナンバーが、あんまり使われていないのですね。そもそも、今ではほとんど接することのない初期のオペラ「エルナーニ」による「幻想的小品」なんて言われても、聴いたことのないメロディが出てこないことには「それな〜に?」になってしまいませんか。

CD Artwork © Delos Productions Inc.

3月4日

BACH
Messe en si mineur
Céline Scheen, Yetzabel Arias Fernández(Sop)
Pascal Bertin(CT),
櫻田亮(Ten), Stephan MacLeod(Bas)
Jordi Savall/
La Capella Reial de Catalunya
Le Concert des Nations
ALIA VOX/AVDVD 9896(hybrid SACD, DVD/PAL)


この分厚いアルバムには、フランス南西部、スペインとの国境にも近い都市ナルボンヌの近郊にあるフォンフロワド修道院で、2011年7月19日に行われたバッハの「ロ短調」のコンサートがSACDでは2枚、DVDでは1枚にまるまる収録されています。もちろん内容は全く同じです。そのほかに、リハーサルの模様を収めたDVDがさらに1枚付いています。さらに、ブックレット本文は演奏家の写真がぜいたくに使われている90ページの超豪華版。
ただ、そのDVDが日本国内のプレーヤーでは再生できないはずの「PAL」というヨーロッパの規格なのが気になります。まあ、最初からSACDだけが欲しくて買った人ならいいのでしょうが、せっかくあるものが見られないというのは残念です。と思って一応PCに入れてみたら、難なく再生できましたよ。どうやらPCNTSCだけでなく、きちんとPALにも対応しているのですね。さらに、BDオーディオ再生用に買ったDENONのユニバーサル・プレーヤーもPAL対応であることが分かり、こちらで全曲を再生することにします。
生まれて初めてPALDVDを見ることが出来ましたが、画質がNTSCよりはるかに美しいのには驚きました。これだったらBDと比べても遜色がないほどです。BDが出来てから、DVDの画質があまりにも貧しいのに気づかされてほとんど手を出すことはなくなりましたが、PALだったらそんなことはなかったのですね。
音もSACD並みとはいきませんが、充分に満足のいくものでした。石造りの会場の豊かな残響が、けっしてモワモワせずに豊かな音色となって響き渡っていますし、バロック・ヴァイオリンの繊細な肌触りも、きっちりと感じることが出来ます。もちろん、ソリストも、そして合唱も、存分に存在感のある音となって伝わってきました。
ここでサヴァールは、会場のレイアウトを考慮してか、とても面白い配置で演奏しています。なんと、バロック・トランペットが3本、合唱の真後ろの一番高いところに陣取っているのですね。これは視覚的にもものすごくカッコいい絵になっています。さらにその隣には豊かなひげをたたえたティンパニ奏者が、まるでアレステッド・ディベロップメントのババ・オージェ(分かりますか?)のようなオーラを放っているのですからね。これだけ目立てば、「Gloria」などはいやが上にも盛り上がります。

合唱の配置もちょっと変わっていて、ソプラノIとソプラノIIがきっちり左右の端に分かれています。これで、5声部の時のポリフォニーの綾がよりはっきりしてきますし、「Hosanna」で二重合唱になっても、そのままの位置で効果を出せますからね。
合唱の人数は、それぞれのパートが5人ほど、ソリストたちも中に入って歌っています。特徴的なのは、合唱の一部で全員が歌うのではなく、1パート1人から2人の「ソリ」で歌われていることです。「Credo」の中で合唱が続くところなどは、それぞれに編成を変えて、曲のキャラクターを立体的に特徴づけています。具体的には、ベーレンライター新版の10曲目(サヴァールは旧版を使っていましたが)「Credo in unum Deum」はダブル・クィンテット、次の「Patrem omnipotentem」はトゥッティ、13曲目の「Et incarnatus est」はクィンテット、続く「Crucifixus」と「Et resurrexit」はトゥッティ、17aの「Confiteor」はクィンテット、17bの「Et expecto」はトゥッティといった感じです。
そういえば、7aの「Domine Deus」ではトラヴェルソは2本ユニゾンで使われていましたね(ブックレットではマルク・アンタイ1人の名前だけですが、DVDの演奏時間が「2時間35分」となっているのと同じで、これも間違い。ミスプリントに関しては丸く安泰とはいきません)。これは7bの「Qui tollis」で2本になることとの関連性を持たせたのでしょう。
そんな、数々の配慮と、もちろん演奏者全員の熱い思いによって、ここからはとてもドラマティックな「ロ短調」が姿を現しました。それは、真に心を揺さぶる音楽となって迫ってきます。

SACD/DVD Artwork © Alia Vox

おとといのおやぢに会える、か。


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