緑の風のアニーよ銃をとれ。.... 佐久間學

(12/12/11-/12/29)

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12月29日

BEETHOVEN
Symphonies 5 & 7
Jonh Eliot Gardiner/
Orchestre Révolutionnaire et Romantique
SDG/SDG 717


ガーディナーとORR1991年から1994年にかけて様々な場所でのライブ録音も含めてベートーヴェンの交響曲全集を録音していました。当時のレーベルは、もちろんDGのサブレーベル、ARCHIVでしたね。このレーベルは、本来はバロック以前の音楽を専門に扱っていたものでしたから、ぎりぎりモーツァルトぐらいはカタログにありましたが、ベートーヴェンまでも含めるようになったのは、レーベルの性格がそれまでの「研究」的なものから、もっと普遍的なものに変わらざるを得なかったからなのでしょう。ただ、あくまでピリオド・オーケストラの演奏に限っていたあたりが、レーベルの意地だったのでしょうか。
そのDGと袂を分かったガーディナーが、20年近く経って自分のレーベルSoli Deo Gloriaにベートーヴェンの交響曲を新たに録音しました。これは、201111月にニューヨークのカーネギーホールで行われたコンサートのライブ録音です。ただ、これも最近ここで取り上げることの多い、放送局が自分の番組のために制作したものをCDにしたというものです。実際にマイクを立てて生放送を行ったのは、「WQXR」という、ニューヨークの老舗クラシック専門FM局のスタッフで、このレーベルのいつものエンジニアは、その録音ソースの編集やマスタリングを担当しただけなのでしょう。楽章間のどよめきなどははっきり聴こえますが、最後の拍手は、きれいになくなっています(放送では、もちろんきちんと流したのでしょうね)。そんな、「たまたま」あった機会に乗ってリリースしたCDなのでしょうから、これがさらに2度目の全集に発展するかどうかは、分かりません。
彼らのARCHIV時代の全集の録音が終わった直後の1996年に、例の「ベーレンライター版」の刊行が敢行されたのは、偶然ではありません。この楽譜の校訂を行ったジョナサン・デル・マーは、単に古文書をひもとく様な学究的な作業だけではなく、その頃のピリオド・オーケストラの演奏家たちとも密接にコンタクトをとって、実践的な面からもアプローチを行っていましたが、ガーディナーたちもそんなスタッフの一員だったのですね。ですから、当時の全集に向けての演奏の中には、逆にデル・マーの研究成果も反映されていたはずです。ただ、「5番」に関してその頃問題になっていた「第3楽章のスケルツォでは、トリオが終わった後に頭までリピートするのかどうか」という点に関しては、ガーディナーは「リピートあり(S-T-S-T-S')」という方針をとっていたようです。しかし、1999年に出版されたデル・マー校訂の「5番」の楽譜では、その点については「証拠不十分」ということで従来通りの「リピートなし(S-T-S')」になっていましたね。
今回の録音には、明確に「Edition:Bärenreiter」というクレジットがありました。ですから、当然前の録音の後に出版された楽譜に従って「リピートなし」で演奏していると普通は思うものですが、そうではありませんでした。以前と同じ「リピートあり」だったのですね。だったら、そんなクレジットは載せなければいいものを、とは思いませんか?実際、ピリオド楽器で演奏された場合、トリオの最後に出てくるフルートの高音のソロはちょっと辛そうに聴こえるものですが、ここでのソリストはとびきり悲惨、それを2度聴かされるのはちょっとした苦痛です(ブライトコプフの新版には「アド・リブ」の注釈つきでリピートの指示があります)。
とは言っても、この演奏全体は、まさにライブ録音ならではの熱の入ったものでした。特にトランペットやホルンの生き生きとしたドライヴ感には圧倒されます。それに触発されたのでしょうか、「5番」のフィナーレでは、最後から2番目のアコードで、ピッコロが1オクターブ高い「C」をものの見事に決めています。もちろんこれは楽譜にはないスタンドプレーですが、それはさっきのリピートの問題とは全く次元の異なる話です。

CD Artwork © Monteverdi Productions Ltd

12月27日

Pater Noster:
A Choral Reflection on the Lord's Prayer
The King's Singers
NAXOS/8.572987


NAXOSというレーベルは全世界でCDを制作していますが、これはアメリカで制作されたもの。録音場所はナッシュビルの教会、アーティストはあのキングズ・シンガーズです。キングズ・シンガーズと言えば今まではEMIRCAなどのメジャーどころを遍歴、やっと最近イギリスのSIGNUMに落ち着いたという印象がありますが、まだこんなやくざなレーベルと浮名を流そうとしているのでしょうか。そういえば、彼らにはTELARCとたった一度だけの関係を持ったという「過去」がありましたね。
NAXOSとの関係が単なる火遊びなのかどうかは分かりませんが、彼ら自身が新たなパートナーと再出発したというのは本当のことです。このグループに19年間在籍していたバリトンのフィリップ・ローソン(禿げ頭の人ですね)に代わって、新たにグループ史上初となるイギリス人以外のメンバーが参加することになったのです。その人は、ニュージーランド出身のクリストファー・ブルーアートン。写真を見ると、赤ちゃんではなく(それは「乳児ランド」)いかにも爽やかな好青年、平均年齢もかなり下がったことでしょう。
彼が正式にシンガーズの一員としてデビューしたのは、2012年2月に行われたオーストラリアのアデレードでのアデレード交響楽団とのコンサートでした。しかし、彼はその前にも、SIGNUMから2012年にリリースされた「Royal Rymes & Rounds」というアルバムのための2011年7月のセッションにも参加して、メンバーに馴染むように努力していたようです。ただ、その時には、まだ前任者のローソンがいましたから、彼はアルバムの23曲中の2曲で実際に歌っているだけでした。ですから、このNAXOSのアルバムが、彼にとっての実質的なデビュー作となるのでしょう。
このアルバムのコンセプトは、タイトルの通り、新約聖書の「マタイによる福音書」の第6章にあるイエスの言葉、「Pater Noster」で始まるいわゆる「主の祈り」が、古今の合唱音楽に反映された諸相を眺めてみよう、というものなのでしょう(このテキストは「ルカによる福音書」の第11章にも登場しますが、このアルバムのブックレットにはそれが「第2章」となっています。どこまでもいい加減なNAXOSです)。
まず最初に、ユニゾンでプレーン・チャントの「Pater Noster」が歌われた後、古くはジョスカンから、まだ存命中のタヴナーまで、全部で20の作品が歌われます。このグループは、ライブなどではとてもサービス精神に富んだエンタテインメントを繰り広げてくれますが、やはり根っこはこのようなシリアスな曲なのだったのだなあ、と、つい感慨深げになってしまいます。しかし、そんなくそまじめな曲の中にも、彼らはとても豊かな表現力を駆使して、作曲家の「肉声」に迫ろうとしています。それは、もしかしたら「正当」からはちょっと離れたアプローチなのかもしれませんが、聴く者にとってはとても楽しめるものです。ほんと、最後に置かれたラッススの「Ad te levavi」でのドラマティックな表現には、思わず引きずり込まれてしまいます。
最近の作品では、そんな「肉声」がよりリアリティをもって迫ってきます。プーランクの「4つの小さな祈り」では、この編成ならではのかゆい所に手が届く様な心憎いまでの細やかな表現が光ります。さらに、ルネサンスのコンテクストの中で、この曲をまさにハーモニーを最大限に大切にして演奏していることも良く分かります。それがさらに昇華されたデュリュフレの「Notre Père」は絶品です。
最後にもう1度プレーン・チャントが演奏される時には、主音が最初の時より全音高くなっているだけではなく、なんとそれは輝かしいカウンター・テナーに彩られたオクターブ・ユニゾンに形を変えていました。アルバムを頭から続けて聴けば、それがどういう意味を持つのかはおのずと分かるはずです。アーメン。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

12月25日

SMETANA
The Barterd Bride
Dana Buresová(Marenka), Tomás Juhás(Jenik)
Josef Benci(Kecal), Ales Verácek(Vasek)
Jirí Belohlavek/
BBC Symphony Orchestra
HARMONIA MUNDI/HMC 902119.20


スメタナの「売られた花嫁」という、なんだか人身売買か美人局のような恐ろしいタイトルのオペラは、もちろんそんな変な「邦題」から連想されるような暗〜い内容ではなく、もっとあっけらかんとした言わばドタバタ・コメディ、最後には愛し合うものがめでたく結婚できるハッピーエンドを迎えるお話です。というより、「チェコの国民的オペラ」と呼ばれるこの作品は、もう少し前の時代の「オペラ・ブッファ」そのものの形式を踏襲しているようにさえ思えます。「実は、私はあなたの息子なんです」などという、モーツァルトの「フィガロの結婚」にも似たようなオチがある他愛のない物語を、レシタティーヴォ、アリア、アンサンブル、そして合唱を連ねて進行させる、極めて古典的な音楽劇そのものの形をとっていながら、その音楽にはチェコ独特の情緒にあふれたフレーズに彩られているとても楽しいものです。
日本で、このオペラの人気が高まったのは、おそらく1965年にNHKが招聘した「スラブ・オペラ」のおかげではないでしょうか。その時には、「ボリス」、「イーゴリ公」、「オネーギン」といった格調高いロシア・オペラに混じって、唯一「軽め」のこのチェコ・オペラが上演されていました。もちろん、それらはすべてNHKのテレビで繰り返し放送されましたから、そこでこの作品の魅力にとりつかれた人も多かったはずです。
その割には、このオペラは、最近では録音にはあまり恵まれてはいないようです。一番新しい全曲盤は、おそらく2005年にリリースされたマッケラス指揮のCHANDOS盤でしょうが、これはチェコ語ではなく、英語で歌われているものでしたね。なんでも、チェコ語による録音は、1981年のコシュラー盤(SUPRAPHON)以来全く行われていないそうなのですね。それが、今回30年ぶりに最新のチェコ語盤の登場です。とは言っても、これはこのオペラがコンサート形式で演奏された時にBBCが放送用に録音したものを転用してCDにしたものです。音を聴く限りこの前のRAIの録音のような会場ノイズは全く聴こえませんし、残響の感じもなんだか空席のホールのようですので、おそらくゲネプロなどを編集したものなのでしょう。いや、実際この録音はCDにしておくにはもったいないほど素晴らしい音ですから(このレーベルは、SACDから撤退したという噂は本当なのでしょうか)かなり手間をかけて収録されたものなのでしょう。
演奏しているのは、ビエロフラーヴェク指揮のBBC交響楽団、歌手は全員チェコかスロバキアの人たちです。2011年5月の録音当時はこのオーケストラの首席指揮者だったビエロフラーヴェクも、今では古巣のチェコ・フィルのシェフに舞い戻っていますから、またとないタイミングで録音できたことになります。そんな、いくつもの要素が重なって素晴らしい全曲盤が完成しました。
オーケストラは、有名な序曲にしても、劇中に演奏されるダンスにしても、とことんドライブ感にあふれた演奏を聴かせてくれます。それは、チェコの指揮者がチェコの音楽を指揮することへの期待を見事に裏切ったもののようにも感じらます。いや、もしかしたら、これがスメタナが求めた、民族的な素材を使って、全世界に通用する音楽を作るということだったのでは、と思わせられるような、まさに「世界標準」とも言える音楽がここからは聴こえてきます。
全曲を聴いたのは、それこそ「スラブ・オペラ」以来だったのですが、信じられないことに、アリアの細かい部分までしっかり記憶に残っていて、とても楽しめました。ただ、そうなってくると、以前はフラーニョ・パウリックという人がとてもエモーショナルに歌っていた「うすのろ」のヴァシェクの役は、ここではイケメンのイェニークを歌っている人の方が適役なのではないか、などといういえにくい(言いにくい)おせっかいをさしはさみたくなってしまいます。

CD Artwork © Harmonia Mundi s.a.

12月23日

牧神から吹いた風
寺本義明(Fl)
野平一郎
(Pf)
FONTEC/FOCD 20090


もうだいぶ前のことですが、テレビで音楽コンクールのフルート部門の入賞者の演奏を放送していた時がありました。その時に出ていたのが、寺本義明さんです。いったい何位に入ったのかなどはすっかり忘れてしまいましたが、その、あまり華のない、はっきり言って野暮ったい風貌と、そんな外観を裏切らないとても素朴で手堅い演奏だけは、なぜだか覚えています。その時の寺本さんのポストは名古屋フィルの2番奏者だったはずです。コンクールに入賞しても、首席奏者にはなれないのだなと、その時思ったことも覚えています。
そして、ごく最近、東京都交響楽団がマーラーの交響曲第8番を演奏した模様をやはりテレビで見たときに、その寺本さんがトップの席に座っているのに気づきました。やはり、この人はしっかりと頭角を現していたのですね。
正確には、2000年からこのオーケストラの首席奏者を務めている寺本さんは、音楽大学ではなく、京都大学の文学部を卒業していたことを、今回のアルバムのプロフィールで初めて知りました。大昔ならいざ知らず(日本フルート界の草分け、吉田雅夫さんや、日本フィルの初代首席奏者峰岸壮一さんなどは、慶應義塾大学卒業)音楽大学を出てさえも、オーケストラの団員として「就職」できる人などほとんどいない今の時代に、首席奏者のポストを得るだけではなく、こんな風にCDまで出せるのですから、世の音大生はさぞや悔しがっていることでしょう。しかし、音楽の修行などというものは言ってみれば「芸事」ですから、本当は、才能さえあれば学歴などはあまり関係がないものなのでしょう。というか、そもそも音楽なんて「大学」で学ぶようなものではないのかもしれませんね。
このアルバムのタイトルは、たぶん寺本さんが付けられたのでしょう。いかにも「文学的」なフレーズ、どこぞとは言いませんが、某ナクソスのキャッチ・コピーとは雲泥の差です。「牧神」というのは、もちろんここで最初に演奏されているドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」のことです。「吹いた風」というのも、もちろん「風」である「息」を使ってフルートを演奏することを指しているのでしょうが、それだけではなく、もっと形而上的な意味まで含まれているに違いありません。そんな、ドビュッシーからピエール・ブーレーズに至るまでのフランスのフルート音楽の系譜を、「風」に乗せて辿ろうというのが、寺本さんの思いなのでしょう。
その「牧神」は、まさに新しい「風」にふさわしい、まるで音の原初ともいえるサイン・カーブのような音色のフルートで始まりました。野球の話をしているのではありませんよ(それは「カーブのサイン」)。極力ビブラートを抑えられたドビュッシーのフレーズは、まるで水墨画のような世界を思わせるものです。と、そこに野平さんのピアノが、控えめに「色」を付け始めると、そこは紛れもないフランスの世界に変わります。
続く、ミヨー、オネゲル、プーランクといった、いわゆる「6人組」の音楽になると、寺本さんの明晰なフレージングが、これらの作品をほんの少し「フランスらしさ」から遠のけているような印象が与えられます。それは、「エスプリ」などと称されるこじゃれた趣味からは、出来ることなら逃れたいという演奏者の意思のようにも思えます。もしかしたら、それは、次のジョリヴェ、メシアンといったハードな音楽を経て、あくまで最後のブーレーズを目指しているという意思だったのかもしれません。
そう、このアルバムでの目的地は、あくまでこの「ソナチネ」だったのではないか、と思えるほどの、それはハードでパワフルなブーレーズでした。拍手。
ちなみに、使用楽器が「19.5K Gold/10K Gold」と、まるで2種類のフルートを使い分けているような表記になっていますが、これは本体には19.5K、メカニズムには10Kの金が使われている楽器という意味です。

CD Artwork © Fontec Inc.

12月21日

MAHLER
Symphonie Nr.8
9 Soloists
Markus Stenz/
Mädchen und Knaben der Chöre am Kölner Dom
Chor des Bach-Vereins Köln, Domkantorei Köln etc.
Gürzenich-Orchester Köln
OEHMS/OC 653(hybrid SACD)


マルクス・シュテンツとケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団とのマーラー・ツィクルス、交響曲としてはこれが6枚目となるのでしょうか。この曲は何しろ編成が大規模で合唱やソリストも大人数が必要とされていますから、そう簡単に演奏するわけにはいきません。そこで、何か特別の機会で演奏されたものを録音するしかないのでしょう。そんな「機会」というのが、このオーケストラの本拠地、ケルンの「フィルハーモニー」が1986年の9月にオープンしてから25年経ったお祝いのコンサートでした。
そんなわけで、2011年の9月に行われた「記念演奏会」では、ステージとその後ろの客席いっぱいに演奏者が並ぶことになりました。写真を見てみるとコントラバスが管楽器の後ろに横一列になって10本あることが分かりますから、恐らく「18型」の弦楽器の編成なのでしょう。ソリストもオーケストラの後ろに8人並んでいます。ん?8人?この曲は、楽譜の指定ではソリストは「全部で8人」必要なはず、そのうちの1人のソプラノは「栄光の聖母」という役で第2部の最後だけ、普通は客席のバルコニーあたりで歌いますから、ステージ上には「7人」しかいないはずなのですが。
クレジットを見ると、2人目のソプラノ、オルラ・ボイランには、第2部での役が与えられておらず、第2ソプラノが歌うことになっている「懺悔する女」役は、3人目のソプラノ、クリスティアーネ・エルツェになっています。実際の演奏では、恐らく第1部の第2ソプラノなどはボイランが歌って、エルツェはあくまで「懺悔する女」のパートだけに専念しているのでしょう。このマーラー・ツィクルスではすべての曲でソプラノ・パートを歌っているエルツェは、確かにこの「かつてグレートヒェンと呼ばれていた女」にふさわしい清楚な声をしていますから、この役にはうってつけなのですが、それ以外の第2ソプラノのパートではもっと強靭な声が求められているような気がします。そのために、シュテンツはあえてここを「ダブル・キャスト」にしたのではないでしょうか。ここでのボイランはかなり悲惨な歌い方ですので、結果的には成功しているとは言えませんが、試みとしてはおもしろいところです。もちろん、こんな措置を取った演奏は初めて聴きました。そのほかのソリストでは、バスのギュンター・グロイスベックが素敵でした。テノールのブランドン・ジョヴァノヴィチはいまう゛ぃち(いまいち)。
そんな「9人」のソリストの名前や、本当は6つの団体が集まっている合唱団のすべての名前などは、とてもここには収められませんから、ほとんど割愛しています。しかし、代理店の「帯」ではそうもいきませんから、例によってこんな小さな文字の「力技」で全部のメンバーを収めています。ご苦労さんとしか言いようがありません。

ところが、この小さい字をよく見てみると合唱団が一つ足りません。「Kartäuserkantorei Köln」という団体ですね。日本語だと「ケルン・カルトジオ=カントライ」でしょうか。これだけ入れるには、もっとポイントを下げなければいけませんから、カットしたのでしょう。ヴァルヒャの時はもっと小さな字を平気で使っていたのに、変なところで気を使ったものです。
演奏は、さっきのソプラノの扱いにもみられるように、とても細かいところまで行き届いた素晴らしいものでした。第1部で合唱が終わってオーケストラだけになる部分の直前でのフェルマータの異常な長さには驚かされますが、確かにこの場面転換にはそれだけの時間が必要なのかもしれません。そして、何よりも素晴らしいのが録音です。SACDの特性をフルに使いきった精緻極まりない音、そこにはアナログ録音にも迫る瑞々しさと、アナログ録音を超えたダイナミック・レンジがあります。前に聴いた「2番」と同じ録音スタッフですが、聴こえてきた音は雲泥の差です。

SACD Artwork © OehmsClassics Musikproduktion GmbH

12月19日

DVOŘÁK
Symphony No.9, Cello Concerto
Mario Brunello(Vc)
Antonio Pappano/
Orchestra dell'Accademia Nazionale di Santa Cecilia - Roma
EMI/914102 2


「新世界」と「ドボコン」のカップリング(2枚組)なんて、普通はまず買うことはないのですが、通販サイトのインフォメーションに「協奏曲はオリジナル版」などという言葉があったものですから、「版マニア」としては手を出さないわけにはいかなくなってしまいます。ところが、現物のCDのパッケージでは、「版」に関しては何のコメントもありませんでした。なんだか、騙されたような気分です。実際に聴いてみても、特に今までのものと変わっているところはないように感じましたしね。まあ、単に耳が悪いだけの事なのかもしれませんが。
この2曲は、日にちは違いますが、いずれもコンサートのライブ録音です。ここで演奏しているローマの聖チェチーリア国立音楽院管弦楽団は、2002年にローマに新しくオープンしたホールを本拠地にして、演奏会を行っています。それは、巨大な野外劇場のまわりに3つのコンサートホールが立ち並ぶというローマの新名所、「アウディトリウム・パルコ・デッラ・ムジカ(オーディトリアム音楽公園)」の中の、2800人収容のワインヤード型のホール「サラ・サンタ・チェチーリア」です。ちなみに、ほかの2つは、1200人収容のシューボックス型の「サラ・シノーポリ」と、700人収容の小ホール「サラ・ペトラッシ」です。「ペトラッシ」は、フラダンスを踊る犬(それは「パトラッシュ」)ではなく、イタリアの作曲家の名前ですし、「シノーポリ」はあの夭折した指揮者のことでしょう。
そんな、だだっ広いホールで録音したからでしょうか、あるいは、これが放送局(RAI)によって録音されたものだからでしょうか、どちらの曲もなんともお粗末な音に仕上がっているのが、「オリジナル版」云々の無責任なコメントよりも腹が立ちます。弦楽器の高音の艶が、まるで失われていますし、金管がフォルティッシモになったところでのとても乾いた精彩のない音色はいったい何なのでしょう。しかも、客席がやたらとやかましいのですね。日本のコンサートではとても考えられないような、演奏中の派手な咳払いや話し声がもろに聴こえてくるのですから、ひどいものです。終わってからの拍手と、ちょっと品のない歓声までも、カットされずにしっかり入っていますしね。最近DGが進めているモーツァルトのオペラ全集も、やはり経費の関係でライブ録音を行っていますが、このコンサートでは、前もってできるだけ咳払いなどはしないようにとお客さんにお願いしていたそうです(拍手は編集でカットしてあります)。少なくとも、「商品」としてCDを作るのなら、こんなただの放送音源の使いまわしではなく、そのぐらいの配慮を見せることが、「良心」というものなのではないでしょうか。というか、今や実体を失ってしまったEMIには、とてもそんなところまで気を遣う余裕などはなくなってしまっているのでしょう。この老舗レーベルが、ここまでおちぶれるとは。
でも、演奏しているパッパーノたちには、それは何の責任もないことです。まずは、パッパーノにとっては初録音と言われている「新世界」では、この手垢のついた「名曲」をいとも颯爽とさばいている姿が気持ちよく感じられます。第1楽章の91小節から始まる木管の「ソ・シ♭・シ♭ラ・ソ/ラドドラ・ドー」という素朴なテーマは、そのあと第2ヴァイオリンで同じ音型が繰り返されますが、その表情が全然違っているのも、かなり目新しい演奏です。実は楽譜では確かにスラーの付け方が全然違っているのですが、ほとんどの人が慣習的に同じスラーで演奏していますからね。この楽章の最後の「巻き」も、ハッとさせられます。
チェロ協奏曲では、ライブならではのソリストの熱演が光ります。まあ、こんなハイテンションの演奏が聴けるのがライブ録音の醍醐味なのでしょうから、そう思って我慢することにしましょうか。

CD Artwork © EMI Records Ltd.

12月17日

WALCHA
Choral Preludes Volume I
Wolfgang Rübsam(Org)
NAXOS/8.572910


ヘルムート・ヴァルヒャという高圧洗浄機(それは「ケルヒャー」)みたいな名前の人は、DGの「研究レーベル」であるARCHIVに、2度にわたってバッハのオルガン全集を録音したオルガニストとして知られています。それぞれ、当時は珍しかったヒストリカル・オルガンを用いて演奏したという、まさに「原典」とも言うべきその録音は、殆どバッハのオルガン曲の「規範」として、長い間レコード界に君臨していたのではないでしょうか。その厳格な演奏は、時代が変わっても確かな意味を持つものには違いありません。
バッハゆかりの街、ライプツィヒに生まれたヴァルヒャは、幼いころから聖トマス教会で演奏されるバッハのカンタータを聴いて過ごし、最初の音楽教育を、その教会のカントルであるギュンター・ラミンから受けた、まさにバッハを演奏するために育ったような人でした。しかし、生まれつき弱視であったうえに、10代後半には完全に失明してしまったヴァルヒャにとって、複雑な対位法を駆使したバッハの曲を勉強するのは、とても大変だったことでしょう。伝えられるところによると、彼は母親(結婚してからは奥さん)に弾いてもらったそれぞれのパートを、すべて憶えてしまったということです。まあ、最近では同じような境遇にある日本人のピアニストのケースが大々的に話題になっていますから、それがどれほどハードなものであるかをより一層知ることが出来ることでしょう。
そんなヴァルヒャが、実は作曲も行っていたことを、このCDによって初めて知りました。ここに収録されているのは、1954年にペータースから出版された25曲から成る「コラール前奏曲第1集」ですが、それ以後この曲集は第4集まで出版されることになったのだそうです。さっきの日本人ピアニストも最近は「作曲」を行っているようですが、現代ではそのようなハンディキャップがあっても、「作曲」という作業自体はそれほど困難なことではなくなっています。別に五線紙に書きとめなくても、演奏した「音」がそのまま出版物として認められるような時代なのですからね(現代の「音楽出版」というのは、実はほとんどそのような形で行われています。楽譜などは、ただの覚書に過ぎません)。しかし、ヴァルヒャの時代にはそうはいきません。今でもそうですが、特にクラシックの場合は最初に楽譜ありきという状態は厳然と存在していますから、おそらく彼の場合は、バッハを勉強したのとは逆の手順で、「楽譜」を作っていったのでしょうね。彼が演奏した頭の中の音楽を、奥さんなどが記譜していったのでしょう。
そのようにして出来上がったそれぞれ2、3分ほどの作品は、教育のために広く用いられていたそうです。ヴァルヒャ自身も、多くの弟子を育てていましたが、おそらくこれらを「教材」として教えていたのでしょうね。このCDで演奏しているアメリカ在住のオルガニスト、ヴォルフガング・リュプサムもそんな弟子の一人、今回の「第1集」に続いて、すでに「第2集」もリリースされていますから、おそらく全4集を録音してくれるのではないでしょうか。
バッハの膨大なコラール前奏曲と同様、これらの曲も良く知られた讃美歌のテーマをもとに、様々に修飾を施して演奏されたものです。その手法は、ぼんやり聴いている分には、まさにバッハその人のものとほとんど変わらないような気がしてくるものばかりです。ヴァルヒャの脳の中にはバッハの音符が完璧にコピーされています。バッハ自身がヴァルヒャの肉体を借りて憑依することなど、恐山のイタコによる「口寄せ」などよりはるかに簡単なことだったに違いありません。それにしても、第20番「ただ愛する神の力に委ねる者は」で、「♪宵闇迫れば〜」というフランク永井の「君恋し」のフレーズが聴こえてきたのには、びっくりしてしまいました。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

12月15日

DURUFLÉ
Complete Organ Works, Motets, Requiem
Bo Skovhus(Bar), Randi Stene(Sop)
Kristian Krogsøe(Org)
Carsten Seyer-Hansen/
Aarhus Cathedral Choir
Vocal Group Consert Clemens
DANACORD/DACOCD 726


2枚組のこのアルバムは、実はメインは2012年の2月から4月に録音されたデュリュフレのオルガン作品の全集でした。そこに、「おまけ」として、2010年の5月に録音されたオルガン伴奏の「レクイエム」と、無伴奏の「4つのモテット」が入っている、というものです。
録音はデンマークの東部の港町オーフス(オルフス)の大聖堂で行われましたが、演奏者はすべてこの大聖堂の関係者で占められています。オルガンは専属オルガニストのクロウセー(まだ30歳なのに大役を任されて、大変ですね。若いうちは「苦労せえ」)、そして、カントールのセイヤー=ハンセンが指揮をする、大聖堂に縁の深い2つの合唱団です。さらに、「レクイエム」のソリストには、デンマークのビッグ・ネーム、ボー・スコウフスと、ノルウェー出身のランディ・ステーネという豪華な布陣です。
「レクイエム」は、2つの合唱団が合同で歌っています。それぞれ16人編成の団体ですが、恐らく「かけもち」している人もいるでしょうから、まあ20人ちょっとといった感じでしょうか。これはもう、パート内での声がきれいにそろっていてとても気持ちの良いものです。特に、アルトがかなり存在感のある発声で、合唱団全体の音色の重心を低くしてくれています。男声も、パート・ソロを難なくこなすつわものぞろいですし。
バリトン・ソロのスコウフスも、思いっきり存在感を主張していました。安定した伸びのある声に加えて、「Libera me」の中間部のソロでは、びっくりするような演技も見せてくれています。ステーネの「Pie Jesu」も、清楚でいい感じです。
最もインパクトがあったのが、オルガンです。この大聖堂のオルガンは、そもそもは1730年に、シュニットガーの弟子のカステンスというビルダーが作ったものなのですが、その後何度も改修され、特に1927年頃の改修ではフランス風のストップが大幅に加わっています。ですから、その音色はまさにフランスのオルガンらしいとても軽やかで色彩豊かなものです。このオルガンは、おそらくデュリュフレが愛用したサン・テツィエンヌ・デュ・モンの楽器と、かなり近い傾向の音を持っているに違いありません。
そのオルガンのフランス的な趣味を、オルガニストのクロウセーは目いっぱい引き出しているような気がします。「レクイエム」の伴奏では、例えば「Domine Jesu Christe」の後半の「Hostias」というバリトン・ソロが入る直前のフレーズなどは、まるでシンセのような、トレモロのたっぷりかかったストップで攻めてきますし、「Sanctus」の前奏でも右手の三連符のふんわりした4フィート管の音色は素敵です。
作品の異常に少ないデュリュフレですが、そのオーケストレーションのスキルは天才的なものがあることは、例えば1932年に作られた「3つの舞曲」などを聴けば分かります。ただ、1947年に作られた「レクイエム」のオーケストレーションも、まさに熟達の極みではあるのですが、クライマックスの作り方などはなにか平凡な盛り上がりのような気がしないでもありません。こういうオルガンを聴いてしまうと、もしかしたらデュリュフレは最初にオーケストラ版を作った時にも、オルガンの音色をかなり意識していたのでは、と思ってしまいます。事実、その翌年に作られたオルガン版は、結局現在では最もスタンダードなバージョンになっているのですからね。このアルバムに収録されている彼のすべてのオルガン作品を聴くにつけても、その感は高まります。
もう一つの合唱曲「4つのモテット」は、Vocal Group Consert Clemensだけのア・カペラで歌われています。「レクイエム」よりワンラン精度の上がった響きとともに、この大聖堂の豊かな残響もたっぷり味わうことが出来ます。まさに、会場と演奏家とが一体となった、至福のデュリュフレです。

CD Artwork © Danacord

12月13日

DURUFLÉ
Requiem
Christine Rice(MS), Mark Stone(Bar)
Guy Johnston(Vc), Tristan Mitchard(Org)
David Crown/
The Choir of Somerville College, Oxford
STONE/5060192780208


2011年7月に録音された、一番新しいデュリュフレの「レクイエム」です。バージョンはオルガンと一部(Pie Jesu)チェロ伴奏の「第2稿」です。イギリスの「Stone Records」という、全く聞いたことのないレーベルからリリースされたものです。
ジャケットは、第二次世界大戦の空襲で廃墟と化したドレスデンのモノクロの写真、いかにも「レクイエム」らしいインパクトのあるものだな、と思って、表紙をめくると、そこには短パンにタンクトップというあられもない姿であぐらをかいているピチピチギャル(死語)の写真が現れます。その、あまりの落差には戸惑うばかり。なんだかわけのわからないアルバムです。
そのギャルたちは、もちろん合唱団のメンバー、オクスフォードのサマーヴィル・カレッジの聖歌隊の人たちです。暑かったので、軽くいっぱい、でしょうか(それは「サマービール」)。最近まではこのカレッジは女子しかいなかったそうで、ギャルの後ろには男子もなんだか居心地悪そうに座っています。まあ、そんなお行儀の悪い写真でも、それはいかにも最近の若者らしい、何の憂いもなく明るく人生を送っているという感じがよく出ていて、別に不快ではありません。いくら「レクイエム」を歌うからと言っても、別にお客さんの前ではなくスタッフ以外の誰もいない教会の中ですから、改まって喪服を着る必要など、さらさらありませんからね。いや、やはりこういう曲であっても、基本的に音楽というものは自分をさらけ出すものですから、7月の暑いさなかには、このぐらいくだけていても何の問題もありません。
イギリスの大学のカレッジにはどのぐらいの聖歌隊があるのかは分かりませんが、このオクスフォードやケンブリッジのカレッジから出てきた「コラリアーズ」たちは、まさにイギリスの合唱界の裾野となっている存在です。サマーヴィル・カレッジの場合は、トレブルのパートは少年ではなくさっきのギャルが担当している、ごく普通の混声合唱団ですが、そのような「伝統」はどのように受け継がれているのでしょう。
そのようなちょっとした「期待」を持って聴き始めると、このあまりに成熟度の低い合唱には、心底がっかりさせられてしまいます。とりあえずきちんとハーモニーは聴かせられるし、テンポもキープできてはいるので、かろうじて「合唱」の外観だけは保っているのですが、素材としての「声」があまりにもお粗末なのですね。特に男声が、全く張りのないだらしない声なのが、致命的です。この曲ではテナーのパート・ソロが随所に出てきますが、それらがこの覇気のないいい加減が声で歌われるのを聴くのは、ほとんど拷問に近いものがあります。さらに、トゥッティになった時の秩序のなさは、まさに忍耐の限界を超えるものです。メンバー全員が、自分の声に何の責任も持たずに勝手気ままに大声を出すとどれだけ醜い響きになるかという、またとない見本です。
こういう合唱を聴くと、逆にデュリュフレを歌うにはどれほどのスキルが必要なのかを知ることが出来ます。身内で楽しむのならともかく、他人に聴かせるためにCDなどにすることは決して許されない演奏であることを、ここからは知ることが出来るでしょう。
合唱がこんなにひどいのに、ソリストたちがそれぞれ立派な声で頑張っているというのが、不思議です。バリトンのストーンさん(レーベルのオーナー?)はとても深い声で的確な表現を見せてくれますし、メゾのライスさんはこの曲にはもったいないほどのスケールの大きな歌を聴かせてくれています。
もう1曲、ロビン・ミルフォードというイギリスの作曲家が1947年に作った「5声のミサ」という、オーソドックスなスタイルの、殆どア・カペラで歌われる曲も収録されています。この曲を「美しい」と感じさせるだけのスキルも、やはりこの合唱団にはありません。

CD Artwork © Stone Records Ltd.

12月11日

The Greatest Hits
James Galway(Fl)
Charles Gerhardt/
National Philharmonic Orchestra
SONY/SICC 30109


1991年に、まだ「BMGビクター」と言っていたRCAの国内販売元からリリースされていたゴールウェイの初期のアルバムからのコンピレーションは、「SONY BMG」時代の2007年にこのジャケットで再発されていますが、それがソニーご自慢の「BSCD2」という、なんだかいかにも音のよさそうなCDとなって再々発されました。しかも、「24bit/192kHz Remastering」などという、これ以上はないというリマスタリングが施されているというのですから、これは実際に聴いてみて、最近のリマスタリングの技術がどこまですごいものになっているのか、確かめなければいけません。それを、さんざん聴きなれたゴールウェイの録音で確かめられるというのも、ひとえにSONYBMGを吸収してくれたおかげです。
1991年のBMG盤には録音データが全く記載されていませんでしたが、今回はそれが詳細にインレイに表記されています。ところが、どのトラックがいつ録音されたものなのかとデータと曲目を照らし合わせていくと、データにある「16番」が見当たりません。逆に、「17番」のデータがどこにもありません。つまり、曲目の番号のミスプリントだったんですね。デタラメだらけのNAXOSの帯データならわかりますが、こんな初歩的な校正ミスを、天下のSONYが犯すとは。

気を取り直して、データの確認です。ここでは、ゴールウェイが1970年代にRCAから出した最初の3枚のオムニバス・アルバムから編集されています。1975年に録音された「Showpieces for Flute」(のちに「Man with the Golden Flute」とタイトルが変わります)から7曲、1976年に録音された「The Magic Flute」から6曲、そして、1978年に録音された「Songs for Annie」から2曲です。プロデューサーは前の2作はジョージ・コルンゴルト、最後のはラルフ・メイスです。ただ、ゴールウェイの自伝では、コルンゴルトではなく、指揮をしているチャールズ・ゲルハルトがプロデューサーとなっていますし、ラルフ・メイスに替わった経緯も詳細に述べられていましたね。エンジニアも、クレジットでは前2作はコリン・ムーアフットになっていますが、自伝では全部ケネス・ウィルキンソンだったような書き方ですし、本当はどうだったのでしょう。
もう一つ、わけのわからないことがあります。さっきの曲目を全部加えると、「15曲」にしかならないことに、すでにお気づきだと思いますがその最後の1曲が、データ上はなんとも不思議なことになっているのです。それはドビュッシーの「シランクス」。録音年月を見ると、1984年から1985年となっていて、確かにこの時期にはドビュッシーのソナタなどが収録されている「Clair de Lune」というアルバムが録音されており、その中には「シランクス」も入っているのです。しかし、この時期にはプロデューサーはさっきのメイスに替わっていて、エンジニアもこのドビュッシー・アルバムのクレジットではマイク・ロスであるにもかかわらず、今回のデータではケネス・ウィルキンソンとなっているのです。つまり、この曲に関してはエンジニアか録音年月かのどちらかが間違っていることになります。
しかも、実際に聴いてみると、この「シランクス」は、ドビュッシー・アルバムに入っているものとは全く別のテイクであることが分かります。演奏時間がほんの少し短くなっていますし、トリルの付け方など、演奏自体が明らかに別物、さらに、録音もこちらはかなりデッドな音で、最初の音を聴いただけで全く別の場所、あるいは別のマイクアレンジであることが分かります。となると、この録音年月日が間違っているのでしょうか。しかし、この乾ききった音は、とてもウィルキンソンの録音とは思えません。いったい、これはなんだったのでしょう。だれか、知らんくす
肝心のBMG盤とSONY盤の聴き比べですが、全く違いは分かりませんでした。それよりも、CDが出たばかりの1982年に日本でプレスされたRCA盤の「Songs for Annie」の方が、はるかに奥行きの感じられる音なのですから、スペックばかりを羅列したリマスタリングがいかにいい加減なものかが分かります。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

おとといのおやぢに会える、か。


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