シャルル民主。.... 佐久間學

(13/2/9-13/3/2)

Blog Version


3月2日

Refractions
Grete Pedersen/
Det Norske Solistkor
Nowegian Radio Orchestra
BIS/SACD-1970(hybrid SACD)


グレーテ・ペデーシェン率いるノルウェー・ソリスト合唱団のBISからの3枚目(もっとあるかもしれませんが)のアルバムがリリースされました。2009年録音のWhite Night2010年録音の「ブラームス&シューベルト」に続いては、2011年から2012年にかけて録音された20世紀の作品集です。
ここで取り上げられた作曲家は4人、全く聞いたことのないノルウェーのファテイン・ヴァーレン(1887-1952)という人と、彼と同じ世代の、こちらは有名なアントン・ウェーベルンとアルバン・ベルク、そして、さらに一世代下のオリヴィエ・メシアンです。
アルバムは、普通の音楽辞典には載っていない、主に声楽曲や合唱曲を作っていたヴァーレンさんの「アヴェ・マリア」から始まります。これは合唱曲ではなくオーケストラとソプラノ・ソロのための作品です。リヒャルト・シュトラウスをもっと熟れさせて、ほとんど「無調」の領域まで足を踏み込んでいる曲調からは、このテキストの敬虔な感じはあまり聴こえては来ませんが、とても伸びのある声のソリスト(ベリート・ノルバッケン・ソルセト)の力によって、そんなうじうじしたメロディからもふんだんに魅力が感じられます。
そして、次の曲がメシアンの「5つのルシャン」です。ソプラノ・ソロで始まるオープニングで、その前の曲のソリストの声がそのまま聴こえてきたのには、ちょっと驚いてしまいました。彼女は、この合唱団のメンバーだったのですね。ソルセトは、ソリストとしても存在感を持っていたのですが、合唱の中でもしっかり核となる声となって、全体のサウンドをとてもタイトなものにしてくれています。調べてみると、前回のアルバムには、彼女は参加していませんでした。2003年からのメンバーなのだそうですが、ソリストとしても忙しいのでしょう。それにしても、彼女が加わったことで、今まで聴いてきたこの団のサウンドがさらにグレード・アップしたような感じです。
そんな、とても充実したサウンドで聴くメシアンは、とても素晴らしいものでした。なによりも、情緒を廃して毅然とした態度で音楽に向かい合っている姿勢が素敵です。この曲になよなよした甘ったるさは要りません。
続くウェーベルンも、そういう姿勢で歌われると見事にその存在意義が見えてきます。Op.19の「2つの歌」では小アンサンブル(オスロ・シンフォニエッタのメンバー)との共演ですが、ちりばめられた楽器との絡みなどは絶品です。
そのあと、さっきのヴァーレンの、ノルウェー語による無伴奏のモテットが2曲演奏されます。1曲目はもろ無調、2曲目は、クラリネットが1本合唱の中に入ってカノンを展開するという、面白い曲です。ただ、「アヴェ・マリア」同様、この合唱団の力をもってしてもあまり魅力を感じさせることはできません。
ベルクの曲は、歌曲の「Die Nachtigall」を、あのクリトゥス・ゴットヴァルトが編曲したバージョンです。例によって16声部の入り組んだ編成で、伴奏までア・カペラの合唱に置き換えた難易度の高い編曲ですが、この合唱団は完璧にハーモニーもハイ・ノートもクリアしています。ここでのゴットヴァルトは、先ほどの「5つのルシャン」のように、多くの「現代作曲家」に合唱曲を委嘱した人物としての意味合いでの登場となるのだそうです。
そのあと、もう1曲ヴァーレンの曲が演奏されています。今度はオーケストラと合唱の「詩編121」、これが驚いたことに今までの曲とは全然スタイルの異なる、ほとんどブラームスのエピゴーネンといった感じになっています。実は、これがこの中では最も初期の作品、こんなところでも、「現代作曲家」の作風の変化が味わえますよ。
最後のメシアン「O sacrum convivium」でも、この合唱団のスキルは全開です。ホモフォニックなこの曲の中で、房状コードが醸し出す色彩が時間とともに変わっていくさまは、まさにアルバムタイトルの「Refractions(光の屈折)」そのものです。

SACD Artwork © BIS Records AB

2月28日

DEBBUSSY, STRAVINSKY, RAVEL
Philippe Jordan/
Orchestre de l'Opera National de Paris
NAÏVE/V 5332


収録曲はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ストラヴィンスキーの「春の祭典」、ラヴェルの「ボレロ」。3人の作曲家のそれぞれ最も有名なオーケストラ作品を集めたという分かりやすいアルバムです。オープニングがすべてほとんど管楽器一人、という点でも共通しています。
演奏しているのは「パリ国立オペラ座管弦楽団」という団体。いや、パリのオペラ座のオーケストラは「バスティーユ・オペラ管弦楽団」と言うのでは、とお思いでしょうが、どちらも全く同じもののはずです。確信はありませんが、レーベルとの契約の関係で名前を使い分けているのかもしれません。いずれにしても、1989年に誕生した新しいバスティーユのオペラ座と、それまであったガルニエ宮の旧オペラ座の両方で演奏することがもっぱらの役割であるオーケストラです。
「バスティーユ」発足時の音楽監督はチョン・ミョンフンでしたが、現在はその次の次、フィリップ・ジョルダンが音楽監督を務めています。やはりオペラが得意だったアルミン・ジョルダンの息子ですね。ある意味、世襲。
2つの会場で同時に別の演目を上演することもありますから、オーケストラのメンバーは174人もいるのだそうです。この前のマリインスキーほどではありませんが、これでも日本の田舎オケ3つ分は優にある人数です。ブックレットには、この録音の時のメンバーだけが記載されていますから、「牧神」のソロはフレデリック・シャトゥーが吹いていると分かります。
その「牧神」で始まるこのアルバムでは、ことごとくこれらの曲の今までのイメージが覆るようなシーンが現れます。この曲の場合は、漠然とした「午後」という感じではさらさらなくて、もう「真っ昼間」という元気で分かりやすい音楽が楽しめます。まあ、でも、こんなドビュッシーが一つぐらいあってもいいのかもしれません。固定概念に縛られていては楽しめるものも楽しめなくなってしまいますからね。オーボエのスタンドプレーが、伏兵となって更なるサプライズを与えてくれるはずです。
「春の祭典」は、言ってみれば「ヘタウマ」の世界でしょうか。この曲を演奏するために必要なスキルはハンパではありませんから、どんなオーケストラでも「完璧さ」が達成できるとは限りません。いや、逆に、あまりにアンサンブルに隙がないと、かえってつまらなく感じられてしまうこともあったりしませんか。そんな、報われない努力をするよりも、いっそハチャメチャなやり方で「笑い」を取った方がどんだけ楽しいか、と考えたわけではないでしょうが、これはこれでちょっと驚かされる演奏に仕上がっていました。要は、ユニゾンにあまり神経質にならないように、と心がけたのでしょうね。その結果、トゥッティでのパルスからは、攻撃的な意思が全くなくなって、いとも穏やかな佇まいが見えてきます。同じ旋律を別の楽器が重なって演奏するときも、決して「まるで一つの楽器に聴こえるように」といったようなけち臭いことは考えず、それぞれの楽器が全く別々の方向で演奏すれば、同時にいろんな味が楽しめるという、ぜいたくな気分も味わえますよ。何よりもうれしいのが、後半で出てくるアルト・フルートの元気の良さ、ここでは誰しも修行僧のような禁欲的な演奏を心がけるものですが、まずブレスをはっきりとっているのがたまりません。
「ボレロ」でも、小太鼓はよくあるいじいじした超ピアニシモではなく、最初からでかい音で叩きはじめます。どれだけ無駄な緊張感がなくなることでしょう。ここでは、指揮者はエンディングに向かってほんの少しずつテンポを上げようしていますが、それに対する反応が楽器ごとにマチマチなんですね。これですよ。人間が演奏しているんですから、これぐらいアバウトでなくっちゃ。
アバウトついでに、ブックレットでの時間表示が実際より3分も短くなっています。これではまるでNAXOSですね。

CD Artwork © naïve

2月26日

幻の楽器 ヴィオラ・アルタ物語
平野真敏著
集英社刊(集英社新書0674N)
ISBN978-4-08-720674-6

本屋さんの店頭で、こんなヴァイオリンのような楽器が表紙になっている新書が目につきました。「幻の楽器」とか「ヴィオラ・アルタ」などといった、とても興味をそそられる言葉もあるた。同じ「ヴィオラなんとか」でも「ヴィオラ・ダ・ガンバ」ヤ「ヴィオラ・ダモーレ」というのは、外観がただのヴィオラとは全然異なっていますが、これは何の変哲もないヴィオラにしか見えません。ただ、著者がその楽器と一緒に写っている写真を見ると、かなり大きなものであることは分かります。でも、このぐらいの大きさのヴィオラだったら、実際に弾いている人を見たことがあるような気がします。しかし、「幻の」というような言葉をわざわざ使っているところを見ると、やはりこれは特殊な楽器なのかもしれません。
実際に買って読み始めたら、一気に最後まで読めてしまうほどの面白さでした。それは、単にこの楽器に関する情報を提供するだけのものではなく、ほとんど「ミステリー」と言ってもかまわないほどのエキサイティングな展開を味わえる、極上のエンターテインメントでさえあったのですからね。
まず著者は、この楽器が普通のヴィオラとはどのように違っているかを、克明に語ってくれます。確かにヴィオラにはかなり大きなものもありますが、これはそれらとはかけ離れて大きなサイズなのだそうです。そして、今回初めて知ったのですが、弦楽器というものは完全に左右対称の形のものなどないのだそうなのですね。しかし、これはとても精密な対称性を持っています。さらに、著者の持つこの楽器は本来は弦が5本付いていたようで、おそらく通常のヴィオラのC線、G線、D線、A線の上に、さらにE線が張られていたらしいのです。つまり、上の4本の弦は、ヴァイオリンと全く同じ音域を持っていたというのですね。もちろん、最低音はヴァイオリンの5度下まであることになります。
そして、何よりも音色がヴィオラとははっきり違っているそうです。ヴィオラ特有の「鼻にかかった音」ではなく、もっとほかの弦楽器に馴染む音なのだとか。巻末で紹介されている著者のウェブサイトでは、実際にそれを聴くことが出来るようになっています。確かに、低音はチェロ、高音はヴァイオリンのような音でしたね。
この楽器は、作られた当時は多くの作曲家に好まれたようで、特にワーグナーは、彼のオーケストラのサウンドにはなくてはならない楽器として、バイロイトにこの楽器の発明者であるヘルマン・リッターを首席ヴィオラ・アルト奏者として招き、ヴィオラパート全員にこの楽器を持たせて、リッターに奏法を教えさせたのだそうです。
それほどまでに隆盛を誇った楽器が、現在では完璧に誰も知らない楽器になってしまっています。その「謎」を解くために、著者はわざわざヨーロッパまで行って、各地で様々なリサーチを試みます。そして、決定的な「証拠」を見つけるまでの描写のスリリングなこと、これはぜひ実物を読んでいただきたいものです。
そんな本筋とは別に、先ほどのバイロイトのくだりで、新しく「5本」のヴィオラ・アルタを購入したというところに引っかかりました。リッターの楽器と合わせても6本、音色をそろえるための措置なのですから、そこに普通のヴィオラが加わることは考えられません。ということは、これが当時のバイロイトのオーケストラのサイズだったのでしょうか。現在の半分近くの人数ですね。しかし、手元にあったピリオド楽器による「オランダ人」のCDのメンバー表では、ヴィオラはまさに「6人」でした(弦全体の人数は10-9-6-6-4)。ということは、現在のおそらく16型ぐらいの弦楽器のサイズは、決してワーグナーが求めたものではなかったのかもしれませんね。前々回のゲルギエフは、そんなことも考えてあのような編成をとっていたのかも。

Book Artwork © Shueisha Inc.

2月21日

武満徹全合唱曲集
山田和樹/
東京混声合唱団
EXTON/OVCL-00488(hybrid SACD)

武満徹の「合唱曲」は、全部集めても1時間ちょっとしかないんですね。ですから、SACDたった1枚で「合唱曲全集」が出来てしまいます。帯の日本語表記は「全合唱曲集」ですがね。
武満が「現代音楽作曲家」だった頃には、合唱曲はこの半分もありませんでした。アルバムの最初に入っている初期の作品「風の馬」は、決して普通の「合唱人」にとっては魅力的なものではありませんでした。いや、そのような「現代音楽作曲家」たちに新しい作品を委嘱して、それを演奏会で初演する、というのが、ここで歌っている東京混声合唱団の「使命」だった時期があったのですね。その「委嘱」という言葉は、現在多くの合唱団で日常的に行っているものとは微妙に肌触りが異なっていたことを理解できる人は、少なくなってしまいました。
個人的なことですが、実際にこの合唱団の定期会員になっていたことがあり、毎回定期演奏会のあとには、演奏会のライブ録音(カセットテープ!)と、そこで委嘱初演された曲の楽譜が送られてきました。それは、まさに初演の時に使われた作曲者の手書きの楽譜をコピーして製本したものです。それは膨大な数にのぼりましたが、今となっては普通の合唱団によって演奏されているものは皆無です。高橋悠治の「組曲千里塚」なんて、どうなってしまったのでしょう。

そんな中で、きっちり出版された楽譜として届いたのが、武満徹の「うた」でした。東混は演奏会のアンコールとして、小さな曲を武満に編曲してもらったものを歌っていたのですが、それがある程度まとまったので、このような形で送ってきたのですね。今は「全音ショット」から黄色い表紙で出ていますが、その頃は「全音」から出版されていました。しょっと違います。このアルバムのブックレットには、故岩城宏之がこの印刷楽譜を使ってリハーサルを行っている写真があります。ということは、初演される前にすでに出版されていた、という、かなり稀な状況にあったのですね。武満は。これも、現在「大漁歌いこみ」が初演の前に出版されるのとは、微妙に肌合いが違っています。
そんな、自らの委嘱による曲だからと言って、東混が歌っているこのSACDに対してはなんの期待も持っていませんでした。かつてのこの合唱団のイメージは、いかにもソリストになり損ねた声楽家の集まりのようでした。確かに、初見で難しい楽譜をスラスラ読む能力には驚異的なものがありましたが、その成果は一人一人の声ばかりが目立つ、「合唱」には程遠いものでした。
このアルバムでも、最初に入っている「風の馬」やキングズ・シンガーズの委嘱で作られたという「手づくりの諺」などは、とても聴いていて楽しめるような代物ではありませんでした。それが、後半の「うた」が「小さな空」で始まったとたん、そこには殆ど奇跡とも言っていいほどの音楽が広がっていたのです。それぞれの声は完璧に混じり合い、まさに一つの「流れ」として動いています。もう、どのパートがどうのといったような些末なことはそこからは消え、うねるような「流れ」はまるで生き物のように「音楽」を紡ぎだしているのです。
これらの曲は、何度となく他の合唱団で歌われてきたちょっとした「明るさ」を感じさせるものではありません。その代わり押し寄せるのは、極限までのピアニシモに支えられた、とてつもない緊張感です。「死んだ男の残したものは」のエンディングの超ピアニシモに圧倒されない人はいないでしょう。
これこそが、武満が聴かせたかった音楽だったのでは、と、完全に納得させられる演奏、それは間違いなく、楽譜の隅々まで読みこんで、それをきっちり「音」にした山田和樹の功績です。
もちろん、そんな生々しさが伝わってくるのは、SACDレイヤーを聴いた時だけです。CDレイヤーのなんとも平面的な音からは、山田が仕掛けた立体的な音楽は聴こえてきません。

SACD Artwork © Octavia Records Inc.

2月19日

WAGNER
Die Walküre
Jonas Kaufmann(Siegmund), Anja Kampe(Sieglinde)
Nina Stemme(Brünnhilde), René Pape(Wotan)
Valery Gergiev/
Mariinsky Orchestra
MARIINSKY/MAR0527(hybrid SACD)


2009年にスタートしたマリインスキー劇場の自主レーベルは、それほど数は出ていませんがそれぞれが厳選されているという印象はあります。今回のアイテムもかなり手間がかかっています。ゲルギエフ指揮の「ワルキューレ」の全曲盤ですが、劇場でのオペラではなく、マリインスキーのコンサートホールでの演奏会形式による上演を録音したものです。
そのデータを見てみると、なんと、この1作品について2011年6月から2012年の4月にわたって3回のセッションが持たれていることが分かります。それぞれ3日間から4日間かけて、実際のコンサートやリハーサルを収録して編集しているのでしょう。それぞれの時期には1つの幕だけしか演奏しなかったのでしょうか。しかし、出演している歌手はカウフマンを始め今や世界中のオペラハウスで活躍している超売れっ子たちばかりですから、もしかしたらすべてのキャストを同じ時期に集めることが出来なかったから、分けて収録したのかもしれませんね。確かに、3つの幕すべてに出演しているのはジークリンデだけですし、フンディンク、フリッカ、そして8人のワルキューレたちに至っては、1つの幕だけにしか出てきませんからね。
ブックレットには、その第1幕のコンサートの写真が載っていました。3人の歌手はステージ後ろの山台で燕尾服とロングドレスで歌っています。一方、オーケストラの男性メンバーは燕尾ではなく黒いシャツを着ています。ラフな感じ。女性はなにも着てません(それは「裸婦」)。面白いのは、指揮者のゲルギエフが、指揮台を使わずにベタで指揮をしていることでしょうか。ただ、ワーグナーにしては弦楽器の人数が少なめというのがちょっと気になります。ファースト・ヴァイオリンが12人しかいませんよ。例えばショルティの録音セッションの写真などではファースト・ヴァイオリンは16人写っていましたから、そのぐらいが現代のワーグナーの録音では標準のはず。まあ、ピットの小さなオペラハウスではこういうこともあるかもしれませんが、ここはコンサートホールですから別に制約はありません。なんたって、このオーケストラは劇場とコンサートホールで同時に公演が行われても十分なだけの人数を確保していますから、総勢200人以上、ファースト・ヴァイオリンだけで37人というものすごいメンバーですので、人が足らなかったというわけでもありません。
ということは、ゲルギエフは意識してこのような少なめの弦楽器の編成を用いた、ということになるのでしょう。確かに、これぐらいの弦楽器だと、オーケストラのサウンドがとても澄み切って聴こえてきます。バランス的にも、埋もれてしまいがちな木管楽器が、とてもはっきりしてきます。そのため、特に第1幕のようなしっとりとした場面が続くところでは、とても繊細で、ほとんど室内楽のような音楽を聴くことが出来ました。これは、今まで何度となく聴いてきた「ワルキューレ」のイメージを一新させられるような衝撃的な出来事でした。
ところが、そのような場面ではない、もっと「力強さ」が必要なところでは、そんなサウンドは全く裏目に出てしまっています。そもそも、第1幕の前奏曲からして「嵐」の情景とは程遠い薄さだと思っていたのですが、フンディンクの登場の場面でその「薄さ」は致命的なものになります。彼に付けられた音楽からは、全然「悪役」というイメージがわいてこないのですよね。ですから、第3幕の前奏曲(「ワルキューレの騎行」)などは悲惨です。普通にこの曲が持つとされている勇壮さがまるで感じられないのですからね。最近では、そういう演出のステージもありますが、コンサートで聴くときにはこれでは全然物足りません。
まあ、カウフマンのジークムントが聴けるのだから、それだけで満足なのですがね。

SACD Artwork © State Academic Mariinsky Theatre

2月17日

未完成
大作曲家たちの「謎」を読み解く
中川右介著
角川マガジンズ刊(角川SSC新書170)
ISBN978-4-04-731593-8

クラシックの作品の中には、何らかの事情で未完に終わってしまったものがいくつかあります(蜜柑が終わったら甘夏ですね)。そんな作品たちが、なぜ「未完成」になってしまったかという創作上の事情から、それが現代ではきちんとした作品として受容されるに至った経過、そしてそれらに関わった人たちの姿までを、膨大な資料を駆使して、まるで見てきたかのように生々しく語った労作です。
ここで著者が取り上げた「未完成」の作品は6つ、シューベルトの、その名も「未完成」という交響曲、ブルックナーの交響曲第9番、マーラーの交響曲第10番、ショスタコーヴィチのオペラ「オランゴ」、プッチーニのオペラ「トゥーランドット」、そしてモーツァルトの「レクイエム」です。
どのケースでも、著者は徹底して客観的な事実を集め、真実だと思われることだけを述べることに全力を尽くそうと努力しているように思えます。そこからは、今まで広く信じられてきた「俗説」がいかに間違ったものであるかをなんとしてでも明らかにしようという執念のようなものすら、感じることは出来ないでしょうか。真実を知ったからと言って、必ずしも幸せになれるとは限りません。「俗説」に包まれてある意味「幸せ」だったものを、身も蓋もない「真実」という「不幸の底」につき落とすことに、彼は命を賭けているかのように見えます。もちろん、そんな、人に疎まれる事を進んでやらない人がいなければ、この世に「真実」をもたらすことはできません。それが「マニア」の性なのでしょう。
そんな「俗説狩り」の最もダイナミックな「生贄」は、「マーラーは、9番目の交響曲を作るとベートーヴェンのように死んでしまうと思い、『大地の歌』には番号をつけなかった」というものではないでしょうか。そもそも、そのような「ジンクス」は、妻アルマが回想録の中で書いているだけで、マーラー自身が本当にそのように思っていたわけではないという証拠もあるのだそうです。
「トゥーランドット」の部分では、未完成となった経緯も詳細に語られていますが、それ以上に興味をひかれたのは、その初演を行ったトスカニーニの行動についての著者の「推理」です。すでに、アルファーノによって完成されたものがあったにもかかわらず、初演の時にはトスカニーニはプッチーニが作ったところまでしか演奏しなかった、という有名な逸話に関しての著者のリサーチは、当時のイタリアの最高権力者との確執まで引きずり出して、まるでオペラ以上にドラマティックな結末を教えてくれています。結局、最大の被害者はアルファーノだということになるのですが、そこで話を落ち着かせずに、もう一つの補作を行ったルチアーノ・ベリオまで話を持って行って欲しかったな、という思いは残ります。
ショスタコーヴィチの「オランゴ」については、ここで初めて知ることが出来ました。なんせ、2004年になって、今まで全く存在が知られていなかったオペラ用のスケッチが見つかったというのですからね。さいわい、それは捏造されたものではなく、2011年にはしっかり「初演」が行われ、その録音も翌年にはリリースされています。それよりも、著者がソロモン・ヴォルコフの「回想」を捏造と決めつけている方が気になります。
もっと気になるのは、モーツァルトの「レクイエム」では終始ジュスマイヤーの仕事を中心に「俗説狩り」を行っているにもかかわらず、2003年のアーノンクールや1999年のアバドの録音が参考音源として紹介されていることです。ジュスマイヤーの補作による演奏は他にいくらでもあるのに、なぜよりによってフランツ・バイヤーがさらに補筆したものや、その上にロバート・レヴィンの補作もランダムに加えたもので演奏している音源を取り上げたのか、これこそが、本書における最大の「謎」です。

Book Artwork © Kadokawa Magazines Inc.

2月15日

Trollfågeln
Emilia Amper(Nyckelharpa, Voc)
Johan Hedin(Nyckelharpa)
Andres Löfberg(Vc)
Dan Svensson(Perc)
BIS/BIS-2013 SACD(hybrid SACD)


BISの品番がついに2000を超えましたね。「BIS-1000」はBCJの「マタイ」ですが、これがリリースされたのが1999年ですので、13年とちょっとでさらに1000のアイテムをリリースしたことになりますね。数ではNAXOSあたりには及びませんが、それぞれのタイトルの完成度を考えたら、これは驚異的な数字です。
BISの場合、多くのタイトルがSACDであることも高ポイントの要因です。最近では録音のオリジナル・フォーマットもきちんと記載してくれていますから、安心して聴いていられます。今回も、そんなハイレゾならではの細やかな表現力が存分に発揮されたアルバムに仕上がっていますよ。
ジャケットを見て、「これはいったいなんだ!?」と思われた方は少なくないことでしょう。なにやらハーディ・ガーディによく似た、キーがたくさんついた弦楽器ですね。ハーディ・ガーディはハンドルを回して音を出しますが、これはヴァイオリンのように弓を使って演奏します。その時には首からストラップで支えますから、まるであの「ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ」みたいな構え方をして演奏することになります。
この楽器の名前は「ニッケルハルパ」、はるか600年以上前から伝わるというスウェーデンの楽器です。スウェーデン語で「キーのついたフィドル」という意味だそうですから、そのまんまですね。下の写真を見ればわかるように、おびただしい数のキーによって、弦の途中を押さえて弦の長さを変え、音程を作るというものです。このシステムはまさに「クラヴィコード」そのものですね。あるいは「大正琴」でしょうか。

弦は全部で16本。そのうちの4本だけが直接弓によって弾かれる弦ですが、キーによって音程が変えられるのは3本だけ(メロディ弦)で、一番低い弦は同じ音しか出ないドローン弦です。残りの12本は、その4本の弦の少し下に張られている共鳴弦です。キーは3段になっていて、それぞれ3本のメロディ弦を押さえることになります。この楽器の場合は高い方の弦から24個、14個、14個と、合計52個のキーが半音間隔で並んでいます。
もちろん、昔からこんな複雑な形をしていたのではなく、このような「クロマティック・ニッケルハルパ」は1929年にアウグスト・ボリーンという人によって作られたのだそうです。今ではスウェーデンには何万人ものニッケルハルパ奏者が活躍していますし、なんと「日本ニッケルハルパ協会」などというものも有るんですって。
若くて美しいエミリア・アンペル嬢の演奏によって初めて味わったニッケルハルパの音は、その物々しい外観同様、信じられないほど変化に富んだものでした。それは1曲目、彼女のオリジナルの「Till Maria」という曲でものすごいインパクトとともに明らかにされます。単音を伸ばしているだけなのに、弓の微妙な加減で刻一刻倍音の成分が変わり、なんとも言えない宇宙が広がります。そこに、彼女自身のヴォーカルが、あたかも楽器の一部のように加わると、その世界はさらに色彩を増します。この演奏によって、この楽器の可能性は、殆どアヴァン・ギャルドの領域にまでも及んでいることを知らしめているのではないでしょうか。
かと思うと、いとも素朴なトラディショナルな曲では、この楽器本来の民族性を思う存分楽しませてくれますし、さらには、ロックのテイストまで持ち込んだハードな曲も聴かせてくれます。もろ、クラシカルなストリング・アンサンブルとの共演もありますしね。
しかし、そんな風に様々なジャンルの音楽との融合を図ろうとしている中でも、決してこの楽器の本来のバックグラウンドから外れたような擦り寄り方はせず、一本筋を通しているところが、非常に好感が持てます。彼女は、この楽器だけではなく、この楽器が生まれた文化そのものを心から愛していることが、とてもよく伝わってくるアルバムです。

SACD Artwork © BIS Records AB

2月13日

BACH
Flute Sonatas
Andrea Oliva(Fl)
Angela Hewitt(Pf)
HYPERION/CDA67897


ローマ聖チェチーリア国立音楽院管弦楽団の首席フルート奏者、アンドレア・オリヴァのバッハ・アルバムです。明日はバレンタイン・デー(それは「ゴディヴァ」)。FALAUTレーベルからプロコフィエフ、プーランク、マルタンを収録したデビューアルバムをリリースして以来、今まで何枚かのCDを出していますが、HYPERIONからはこれが初アルバムとなります。
1977年モデナ生まれのイタリア人フルーティストで、2005年の第6回神戸国際フルートコンクールでイタリア人としては初めて第1位を獲得したとして、話題になりました。ちなみに、この時彼と1位を分け合ったのが小山裕幾さん、3位に入賞したのが高木綾子さんでした。
それ以前、2000年には、すでにベルリン・フィルで首席奏者として活動しています。この時期はあのエマニュエル・パユが一時退団していましたから、エキストラとして出演していたのでしょう。そういえば、あの頃の映像ではブラウが降り番の時には見慣れないフルーティストが何人か出ていたような気がしますが、その中にオリヴァもいたのでしょうね。
その後、2001年から2003年まではローマ歌劇場管弦楽団の首席奏者を務めていますし、ソリストとしてもこれまでに多くのオーケストラとの共演を行っています。
オリヴァはゴールウェイのマスタークラスも受講していて、師匠からは「同世代では最高のフルーティストの一人」という賛辞(これが賛辞と言えるのかは別にして)を与えられているそうです。彼の公式ウェブサイトでは何種類かのライブ映像を見ることが出来ますが、その中でメルカダンテのフルート協奏曲の第2楽章を演奏しているものなどでは、ゴールウェイそっくりの輝かしい音と、豊かな表現を聴くことが出来ます。なにより、フルートの構え方やブレスの仕方がそっくり、かなりの影響を受けているのでしょうね。
今回のバッハのソナタ集は、全部で6曲収録されています。一応BWVにはフルートのためのソナタは7曲入っていますが、そのうちのト短調(BWV1020)、変ホ長調(BWV1031)、ハ長調(BWV1033)の3曲は「追加II(偽作)」というカテゴリーで扱われています。これが全部ここには入っていますが、そこに「attribution」という注釈がついているのがちょっとユニーク。「帰属」ということでしょうが、「いくらかはバッハ自身に帰属する」といった意味なのでしょうか。あとの3曲は真作のロ短調(BWV1030)、ホ短調(BWV1034)、ホ長調(BWV1035)で、CDの収容時間目いっぱいの78分収録です。もう1曲のイ長調(BWV1032)は省かれています。この曲の場合は、第1楽章に欠損部分がありますから、不完全なものよりは偽作の方を選択したのでしょう。
バッハの演奏の際に問題になるのはどんな楽器を使用するかという点でしょう。ここでは、フルートもピアノも、ピリオド楽器とは全く縁のないアーティスト同士ですから、当然ムラマツ14Kゴールドのモダンフルート、そして、ファツィオーリのグランドピアノが使われています。なんと言っても、ピアノのヒューイットはこのレーベルの稼ぎ頭ですから、彼女のフィールドで勝負するしかないわけです。それはそれで一つの見識でしょう。ところが、フルートの場合は、モダン楽器を使っていてもピリオドっぽいテイストを出すことは出来ないことはありません。オリヴァは、まさにそれに近いことを試みているのですね。このCDからは、先ほどの動画から期待された音とは全く異なる、生気の乏しいフルートが聴こえてきました。さらに、おそらく演奏の主導権はヒューイットがとっていたのでしょう、テンポがやたらともたついています。実は動画にはロ短調のソナタ(伴奏はチェンバロ)も入っていたのですが、そちらではもっと颯爽としたテンポが聴けました。
最初から最後まで、オリヴァらしさも、そしてバッハらしさもほとんど感じることのできないアルバムでした。おそらく、ヒューイットらしさだけは満載だったのでしょう。

CD Artwork © HyperionRecords Limited

2月12日

ワーグナーのすべて
堀内修著
平凡社刊(平凡社新書668)
ISBN978-4-582-85668-2

さあ、ワーグナーの生誕200年です。しかもなんと没後130年という「キリのいい」年でもあるのだそうです。一体どこがキリがいいのか分かりませんが(普通は「125年」あたりがキリ年でしょう)今年1年はワーグナー好きにはたまらない年になることでしょう。
そんな、ワーグナーが好きでたまらない人たちのことを、「ワグネリアン」と言いますが、最近はそんな言葉はもはや使われることはないのだ、というようなショッキングな記述が登場するのが、この堀内センセーの最新の著作です。やはり「つぶ」より「こし」の方が良いのでしょうか(それは「練り餡」)。ちょっと受け入れ難い言及ですが、なにしろワーグナーに関しての最新の情報が網羅されているのですから、仕方がありません。
ここでセンセーが最も力を込めて書いているのは、ワーグナーの作品の「舞台芸術」としての姿ではないでしょうか。同じ舞台芸術である演劇が、単に台本だけがあっても実体としての存在がないように、オペラに於いてもスコアがあっただけでは実体をなさず、それは「上演」されてこそ意味をなすものだと真剣に考えたのがワーグナーなのだ、という観点から、センセーは特に演出についての考察を詳しく行っています。そして、現代における大胆な「読み替え」による演出の必然性についても、深い洞察力で解明してくれます。
その過程で、やはり一つの時代を築いた演出家として、戦後バイロイトにおけるヴィーラント・ワーグナーの名前が挙げられているのは、普通の「ワーグナー本」であれば至極当然のことでしょう。しかし、最近の研究では、その「新バイロイト様式」と呼ばれる演出プランの誕生には、ヴィーラントの妻のゲルトルート・ライシンガーの方がより関わっていることが明らかになっています。そのことについての言及が全く見当たらないのが、「最新」のワーグナー本としては物足りないところです。
そして、それぞれの作品についての詳細な解説が入ります。この部分だけでもワーグナーのガイドとしては十分なぐらいの、必要なことはすべて盛られている部分です。さらに、味気ない解説だけではなく、そこにそれぞれの作品についてのセンセーの思い入れ、というか、長年ワーグナーの上演に立ち会ってきたセンセーでなければ決して語ることのできない薀蓄が述べられます。そこで、先ほどの新しい演出について、それぞれの作品ごとの「各論」が展開されています。例えば「パルジファル」では、最初は門外不出の「秘曲」であったものが、最近の演出では様々な解釈が可能なもっと「面白い」ものに変わってきている、といったように、ワーグナーに対する聴衆の受容のあり方自体が変わってきているのだ、といった指摘です。これには確かに納得できる部分と、多少先走りしているのではないか、という部分が見られますが、まあこのあたりは主観が大きく物を言う世界ですから、甘んじて受け入れることにしましょう。
そして、さきほどの「『ワグネリアン』はもはや死語だ」という、大胆な指摘の登場です。もはやワーグナーの作品のキーワードであった「無限旋律」や「ライトモチーフ」といった概念を気にかけなくとも、ワーグナーを楽しめる時代になっているのでは、というのがその根拠です。あるいは、演奏家や歌手は、ワーグナーにもイタリア・オペラにも同じように接するようになっていて、ワーグナーだけを演奏するような専門家はほとんどいなくなっているのだ、とも。もしかしたら、それは正しいことなのかもしれません。何しろ、今ではクラウス・フローリアン・フォークトのような甘ったるい声の持ち主が、「ワーグナー歌手」として「のさばる」ことを聴衆が許している時代なのですからね。確かに、彼の登場によって、「ワグネリアン」の牙城がもろくも崩れ去ったことだけは、認めざるを得ません。

Book Artwork © Heibonsha Limited, Publishers

2月9日

MOZART
Requiem
Phyllis Curtin(Sop), Florence Kopleff(Alt)
Blake Stern(Ten), Mac Morgan(Bar)
Charles Munch/
Tanglewood Choir
Boston Symphony Orchestra
TAHRA/Tah 734


1968年に亡くなった往年の指揮者、シャルル・ミュンシュが、1962年に演奏したモーツァルトの「レクイエム」の録音などというものが発売されました。寡聞にして、ミュンシュがこんな曲をレパートリーにしていたなんて知りませんでした。たぶん、公式にリリースされたものはこれが初めてなのではないでしょうか。
ブックレットにある資料によると、ミュンシュはバッハなども演奏していたそうです。「ヨハネ」は10回、「マタイ」は9回、「ロ短調」は5回生前に演奏していたそうですよ。そして、モーツァルトの「レクイエム」は、パリ音楽院管弦楽団時代に2回、ボストン交響楽団時代に4回演奏しています。そのボストン時代の最後の年の7月22日に演奏されたものが、この録音です。
恐らく、ラジオ放送用の音源なのでしょう、最初と最後にはアナウンサーの声で「ソリストが入ってきました」というような実況の音声が聴こえてきます。もちろんモノラル録音、不安定な部分もありますが割と聴きやすい音になっています。というより、ここでのミュンシュがふりまいている圧倒的なテンションには、つい引き込まれていって多少の音の悪さなどは全く気にならなくなってしまいます。ミュンシュのライブ録音では何度も味わってきた高揚感に、ここでもたっぷり浸ることが出来ますよ。
Introitus」はたっぷりとしたテンポで重厚に迫ります。合唱はかなりの大人数で、繊細さからは程遠い荒っぽさが目立ちますが、なぜかそれがすんなり許せてしまうほどの、情熱のようなものを感じてしまいます。決してきれいにまとめようとするのではない、特別な推進力が働いているようにすら思えてきます。ソプラノ・ソロも、とても毅然とした歌い方で、意志の強さを伝えようとしているのではないでしょうか。
Dies irae」になると、冒頭の合唱はまるでシュプレッヒゲザンクのような、もう完全な「叫び」になっています。この曲をここまで激しく歌っているのは初めて聴いたような気がします。それを後押しするかのように、トランペットの炸裂がやはり聴いたことないようなバランスで響き渡ります。ジュスマイヤー版のトランペットがこれほどまでにはっきり聴こえてくる録音もないはず、たまたまマイクとの相性が良くてこんなに目立ってしまったのでしょうが、もちろんそこにはミュンシュの意思もしっかり感じ取ることが出来ます。
Tuba mirum」になると、ミュンシュはとてつもなく細やかな表情を4人のソリストに要求しているのがよくわかります。フレーズの一つ一つに、たっぷりとした思いが込められています。これ以上やると、それこそメンゲルベルクみたいな鼻持ちならないものになってしまうのでしょうが、ミュンシュはその一歩手前で、確かな情感を伝えることに成功しています。
Rex tremendae」では、さらなる衝撃が待っていました。やはり激しい語り口で進んできた合唱が、最後の「salva me」になったとたん、それまでとはガラリと表情を変えて、見事に「ピアノ」の世界を作り出したのです。こんな繊細な表現ができることを、彼らはずっと隠していたのですね。この、まさに思いがけない見事さには、感服するばかりです。
同じようなコントラストを、彼らは「Confutatis」でも見せてくれています。後半の「voca me」からの柔らかい世界は、それまでが厳しかっただけにひとしおです。そして、そのままの平穏さで続く「Lacrimosa」の美しいこと。
面白いことに、ミュンシュは「Benedictus」では、同じ四重唱でありながら「Tuba mirum」のような濃厚な表現を求めてはいません。もしかしたら、彼は本能的にこれはモーツァルトの真作ではないことを感じていたのかもしれませんね。
曲は、まるで銅鑼でも使っているかのようなティンパニの強打の中で終わります。これこそが、ミュンシュにしかなしえなかったモーツァルトなのでしょう。

CD Artwork © TAHRA

おとといのおやぢに会える、か。


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