さんざんっす。.... 佐久間學

(11/2/26-11/3/27)

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3月27日

WEISS
Requiem "Schwarz vor Augen und es ward Licht"
Dorothee Mields(Sop)
Andreas Karasiak(Ten)
Jörg Breiding/
Knabenchor Hannover
NDR Radiophilharmonie
RONDEAU/ROP 7008-09


このサイトは「レクイエム」に関しては異常な関心を示していることにお気づきの方は多いことでしょう。それは単にフォーレやモーツァルトの「レクイエム」についてコアなリサーチを行った結果、「レクイエム」そのものに対しても視界が広がった、というだけの話なのですが、そのおかげでさまざまな時代の、さまざまな様式の作品に接して来れました。いま、このような「未曾有」の惨劇の前に、死者を悼むための曲である「レクイエム」の最新作を聴く時には、どうしても「聴く」という行為自体に意味を見出したくなるものです。
ということで、ハラルド・ヴァイスという、1949年生まれのドイツの作曲家が作った「レクイエム」です。ここで演奏しているハノーファー少年合唱団の委嘱によって2009年に初演されたもので、すでにSchottから出版もされているそうです。
ヴァイスという人は、なかなかユニークな経歴の持ち主だそうで、基本的にクラシックの教育を受けてはいますが、その対象はジャズやロックにも及び、さらに音楽だけでなく映画や演劇の分野でも活躍しているという、まさに「クロスオーバー」のアーティストなのです。
「レクイエム」の場合は、まず「目の前は闇、そして、それは光となる」というサブタイトルが目を引きます。そんなコンセプトが込められているのでしょう。全体はそれぞれ45分ほどの2つのパートに別れているのですが、前半が「目の前は闇」、そして後半が「そして、それは光となる」というタイトルになっています。それぞれのパートは最初と最後に同じ曲を持ってくるという構成で、一つのまとまった概念を形作っているようです。テキストは通常の「レクイエム」に用いられているものの他に、詩篇のドイツ語訳やヘッセやリルケの詩までも動員、それらが自由に並びかえられています。
音楽としては、非常に聴きやすい仕上がりとなっています。それは、もっぱら「聴き慣れた」手法をいろいろなところから集めてきて、まさに「クロスオーバー」させているからなのでしょう。モーツァルトのような優雅な音楽があるかと思うと、ヴァイオリン・ソロが、まるでバッハの「無伴奏」のようなフレーズを延々と弾き続けるシーンもあるといった具合。それはもっぱら、作曲家の自らの音楽体験を披露しているだけのように感じられてしまいます。そこには、表現に対する切実な思いのようなものは、何一つ感じることはできません。
後半になってくると、今度はひたすらオルフのようなやたらオスティナートに頼っただけの音楽が頻発してきます。ダイナミックに盛り上げることで、「光」を暗示させるという、いかにも見え透いた手法です。そういえば、ヴァイスという人は打楽器奏者としても活躍しているそうですから、ここで用いられている打楽器の書法は、これ以上効果的なものは望めないほどの完成度を示しています。しかし、それが効果的であればあるほど、聴いているものは「何かが違う」と、醒めていくのです。
もしかしたら、作品そのものにはそれなりの「思い」が込められてはいたのかもしれません。しかし、ここでのメインの演奏者である合唱団が、あまりにも無気力で拙い演奏に終始しているために、そんな可能性が聴き手に伝わることは決してありませんでした。本当にこの合唱団、特にトレブル・パートの悲惨さは目を覆うばかりです。これは初演の時のライブ録音ですが、最後の方になってくると、明らかに集中力がなくなってくるのが手に取るように分かります。委嘱するのなら、もっと自分たちの身の丈にあったものにしておいたら、と言いたくなりますね。
カスのような駄作のしょうもなく貧しい演奏、こんな時にこんなものを聴いてしまったことを、心底後悔しています。偶然とはいえ、そんな人間の前に新しい「レクイエム」を届けてきた作曲家は、不運としか言いようがありません(ふーん?)

CD Artwork © Rondeau Production

3月25日

BACH
St John Passion
Mark Padmore(Ten), Hanno Müller-Brachmann(Bas)
Peter Harvey(Bas), Bernarda Fink(Alt)
Katharine Fuge, Joanne Lunn(Sop)
John Eliot Gardiner/
Monteverdi Choir, English Baroque Soloists
SDG/SDG 712


「再開」後の2つのアイテムは、実は震災前に準備していたストックに、多少手を入れたものだったので、音や映像は当然以前に体験していたものでした。自分で言うのもなんですが、なんだか他人が書いたもののような気がしてなりません。「あの日」を境に社会を見る目がガラリと変わってしまったように、おそらく音楽を聴く時にも感受性が微妙なところで変化しているのでしょうね。
今回は、正真正銘「震災後」、やっと、なんとかじっくりCDを聴く時間も取れるようになって、最初にきちんと聴いてみようと思ったのがバッハの「ヨハネ」だったなんて、確実になにかに導かれてのこととしか思えません。
とりあえず、聴くにあたっての準備として、ガーディナーがどんなアプローチをとっているかの確認です。楽譜については「ベーレンライター」とあるので、新全集を用いているのでしょう。今の段階(録音は2003年)では、彼は「稿」に関しては保守的な姿勢をとっているようですね。そして、声楽陣も、20人程度の「大きな」合唱と、専門のソリストという、こちらも「保守的」な編成です。エヴァンゲリストのパドモアは、レシタティーヴォだけではなく、すべてのテノールのソロのナンバーも歌っています。ミューラー・ブラッハマンだけが、イエスのレシタティーヴォの専任です。
第1曲目の合唱、「Herr, unser Herrscher, dessen Ruhm」のイントロが始まった瞬間、そこにはなんとも荒涼たる世界が広がっているのを感じないではいられませんでした。オーケストラのダイナミックスは、極端なまでにフォルテとピアノの間をひっきりなしに行き来しています。その振幅が、パートごとにそれぞれ微妙に異なっているものですから、そこからはまるで大きな波や小さな波が、それぞれの周期で寄せては返す、といった、とてもこの世のものとは思えない恐ろしい風景が眼前に広がっていたのです。それはまさに、ほんの数日前にテレビの画面を埋め尽くしたあの惨状ではありませんか。いや、それはあまりにも現実的過ぎる比喩なのかもしれません。もう少し音楽的な言い方をすれば、ジェルジ・リゲティが「レクイエム」の中でトーン・クラスターを使って描いてみせたような阿鼻叫喚の世界が、なぜかバッハの音楽によって感じられてしまったのです。合唱が入ってくると、それはさらにリアリティを持って迫ってきます。この合唱は、まるで「美しく」歌うことを最初から否定しているような、もっと根源的な「叫び」でなにかを表現しているようにすら思えてしまいます。「ヨハネ」って、こんな音楽だったの?という思い、そう、これは、今まで聴いたこともなかったような、とてつもなく過激な表現に支えられた演奏だと、感じられてしまったのです。あ、オペラではありませんよ(それは「歌劇」)。
そのような流れの中では、作品はもっぱら物語を緊迫感あふれる描写で進行させることに重きが置かれてきます。特に、第2部に入ってからの「Nicht diesen, sondern Barrabam!(その男ではなく、バラバを!)」、「Kreuzige, Kreuzige !(十字架につけろ!)」、「Wir haben ein Gesetz(私たちには律法がある)」といったような民衆の合唱などは、まるで背筋が凍るほどのあざけりのように聴こえます。それに対してのイエス(ミューラー・ブラッハマン)の包容力あふれる答えは、なんという慈愛に満ちたものなのでしょう。
ここでは、コラールさえも、攻撃的なメッセージとして歌われています。したがって、必然的に抒情的なアリアは、まるで居場所がなくなってしまったかのような肩身の狭さを味わっていることでしょう。正直、そんなものはここでは必要ないから、さっさと終わってほしい、そんな気持ちに駆られることの方が多かったのではないでしょうか。
ガーディナーが示した一つの音楽の形、それは、「今」の心情にとっては、あまりに重すぎるものでした。

CD Artwork © Monteverdi Productions Ltd

3月23日

BIZET
Carmen
Elina Garanca(Carmen)
Roberto Alagna(Don José)
Barbara Frittoli(Micaëla)
Teddy Tahu Rhodes(Escamillo)
Richard Eyre(Dir)
Yannick Nézet-Séguin/
The Metropolitan Opera Orchestra & Chorus
DG/073 4581(DVD)


昨年のベルリン・フィルの「ジルヴェスター・コンサート」では、指揮者のドゥダメルとともに、ソリストとして登場したエリーナ・ガランチャの魅力にも圧倒されたことでしょう。なんたって、ルックスが最高です。単に「美しい」というだけではなく、なにか親しみのある、すぐにでもお友達になれてしまえそうな包容力までも備えているのですからね。その時には、「カルメン」からのナンバーも歌っていましたが、それは今まで「カルメン歌い」として名を残している人たちのような、ある種「いやらしさ」のようなものが全く感じられないものでした。第2幕で歌われる「ジプシーの歌」などは、あるいはドゥダメルの趣味だったのかもしれませんが、恐ろしくゆっくりしたテンポで、この曲のイメージを全く変えてしまうようなものでしたし。
これは、「ジルヴェスター」のほぼ1年前、2010年1月にMETで行われた公演の映像で、そのガランチャがタイトルロールを歌っています。例の「ライブ・ビューイング」として、ハイビジョン映像を映画館で、アメリカでは生中継、日本でも数カ月遅れで上映されたソースですね。ドン・ホセを歌っているのがアラーニャ、当初は彼のパートナー、ゲオルギューがカルメンを歌う予定だったそうですが、直前になってなんとこの二人は離婚してしまったそうなのです。相思相愛だとばかり思っていたのですが、男と女の関係なんて分からないものですね。まさに「カルメン」を地で行ったようなお話です。その結果、代役にガランチャが登場してくれ、それが晴れて映像収録されたということです。ちなみに、ゲオルギューが出演した日もあったのですが、その時のドン・ホセはカウフマンだったそうです。こちらの方も見てみたいものですね。
指揮は、これがMETデビューとなるネゼ・セガン、とても若々しい溌剌とした指揮ぶりで、第1幕の前奏曲などはまさに疾走するような爽快さです。もっとも、その調子で突っ走るのかと思っていたら、幕が開いた後はごく普通の無難な音楽に戻っていましたがね。「ジプシーの歌」もありきたりのテンポ、なんと言ってもオペラの中では、まず全体のバランスを重視するのが必要なことなのでしょう。
そんな中で、やはりガランチャは期待通りの素晴らしさでした。別に大向こうをうならせるような強烈な個性を発揮させる、といったわけではなく、むしろ、歌も演技もごく自然なのですが、気が付いてみるといつの間にかその存在感をジワリと受け止めていた、みたいな感じでしょうか。それと、彼女はダンスのセンスがすごくいいのですね。特に、大勢で踊っている時の他のダンサーとのアンサンブルは、見事としか言いようがありません。彼女もまた、現代のオペラでは武器となる「歌って踊れる」資質を存分に備えた人だったのですね。
アラーニャも、さすが、悲しいほどにひたむきなオトコをしっかり演じていましたし、急な代役だったテディ・タフ・ローズのエスカミリオも、伸びのある低音を堪能できました。ただ、フリットリのミカエラは、ちょっと異質でしたね。
間奏曲の時に象徴的なダンスを取り入れたり、大詰めでは回り舞台でかっこよすぎるエンディングを決めたりと、リチャード・エアの演出も冴えあたっていました。
このオペラではフルートが大活躍するのですが、時たま聴こえてくるそのフルートが、とても印象的な音色であることに気が付きました。映像でたまに登場するピットの中を見てみると、フルートのトップの席にはデニス・ブリアコフが座っているではありませんか。METのオーケストラにはもう一人の首席フルート奏者がいますが、この日はブリアコフが乗り番だったのですね。これはラッキー。有名な「間奏曲」なども、彼の強靭な音色とたっぷりとした歌心で、とても素晴らしいものを味わうことが出来ますよ。


DVD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

3月21日

大震災の爪跡はまだ残っていますが、少しでも前に進む努力だけはしていきたいと思っています。今では私のアイデンティティとなった、この「おやぢの部屋」を再開するのも、そんな姿勢の表れと思っていただければさいわいです。

MAHLER
Symphony No.5
Valery Gergiev/
London Symphony Orchestra
LSO LIVE/LSO0664(hybrid SACD)


世界初の、SACDによるマーラーの交響曲全集の録音達成という栄冠こそはジンマンとチューリヒ・トーンハレ管のチーム(RCA/SONY)に持って行かれてしまいましたが、2007年から始まったこのゲルギエフとロンドン響とのツィクルスも、着実に「2番目」を目指してええ感じにリリースを重ねてきています。今回の「5番」に続いて、「9番」も近々発売の予定ですので、その完成も間近です。ちなみに、「世界初」というのは、あくまで最初からDSDなりPCMなりで録音されたものに限定させて頂いています。アナログ録音によるバーンスタインなどは、したがってSACDでも(まだ市場にあるのでしょうか)除外とさせて頂きます。
マーラー・イヤーとのかねあいもあって、最近では、SACDによるマーラーの交響曲の録音は、このほかにも多くのレーベルによって手がけられています。手元にあるだけでも、ノットとバンベルク響(TUDOR)、ティルソン・トーマスとサンフランシスコ響(SFS)、ヤンソンスとロイヤル・コンセルトヘボウ管(RCO)、ハイティンクとシカゴ響(SCO)、イヴァン・フィッシャーとブダペスト祝祭管(CHANNEL)、デ・フリエントとネーデルランド響(CHALLENGE)、インバルと東京都響(EXTON)など、多くのアーティストが、全集を目指して頑張っているようです(単発で終わる人もいるかも知れませんが)。
そんな、ある意味飽和状態にあるマーラー市場、それぞれにSACDならではの素晴らしい録音で購買意欲を煽り立てています。もとDECCAのサイモン・イードンがサウンド・エンジニアだったジンマン盤あたりが、録音では頭一つ抜きんでている、という感じはしましたが、なんせ「交響曲第1番『花の章』付き」などというタイトルがあったりしたものですから、すっかり醒めてしまいましたね。この人のえせ原典主義は健在でした。
ゲルギエフも、録音という点ではかなりのクオリティのものを出してきています。こちらはジンマン盤とは対照的に、あくまでホール・トーンを大切にした柔らかな音で迫っているようです。したがって、今回の「5番」でも第1楽章や第2楽章では、時折ゲルギエフらしいひらめきは感じられるものの、それがインパクトとして伝わってくるような場面はほとんどありませんでした。特に第2楽章などは、「嵐のように激しく」という曲頭の表記からなにかを期待していると、見事に肩透かしを食らってしまうほどの素っ気なさです。
しかし、第3楽章あたりからは、とても細やかな表情づけが徹底されているのが徐々に伝わってきて、全体がとても立体的に聴こえてきます。さまざまなエピソードが、それぞれの主張をもって的確に登場する、といった感じ、やはり、ゲルギエフはオペラの人なのでしょう。
そして、第4楽章では、なにかとても厳しい音楽に仕上がっているのに驚いてしまいます。ありがちな、甘ったるい情感で人を酔わせる、といったアプローチではなく、あくまで冷徹な目で作品の底にある魂をえぐりだすかのように、それは聴こえてきます。徹底的に弱音にこだわって、決して高揚感を与えることなく、この冷たいマーラーの世界を描き切った演奏には、打ちのめされてしまいます。
最後の楽章では、うってかわって明るくいきいきとした情感が現れます。しかし、その前の楽章を聴いてしまうと、それは、暗い葬送行進曲で始まったこの曲を、しっかり明るく終わらせるための方便のようにしか感じられなくなってしまいます。なにか無理をしているな、という思いですね。それだからこそ、曲全体が「明るく」ニ長調の大団円を迎えるかに見えるそのほんの8小節前に突如出現する不気味な変ホ−変ロという空虚5度が、その「明るさ」の正体を見事に暗示していることを、誰しもが受け取ることが出来るのではないでしょうか。
これこそが、ゲルギエフの底力、なんという、恐ろしい演奏なのでしょう。

SACD Artwork © London Symphony Orchestra

3月9日

WHITE NIGHT
Impressiouns of Norwegian Folk Music
Berit Opheim Versto(Vo)
Gjermund Larsen(Fid)
Grete Pedersen/
Det Norske Solistkor
BIS/SACD-1871(hybrid SACD)


ジャケットにノルウェーを代表する画家、エドヴァルト・ムンクの「白夜」という作品をあしらった、そのタイトルも同じ「白夜」というこのアルバムは、まさにムンクの絵画の世界を彷彿とさせるような「渋さ」とともに、「鋭さ」を味わわせてくれるものでした。登場メンバーは3組、フォークシンガーのベリト・オフェイム・フェルスト、フィドルのイェルムン・ラーシェン、そしてグレーテ・ペデーシェンの指揮によるノルウェー・ソリスト合唱団です。あ、別にチケットは要りません(それは「ダフ屋」)。
ベリト・オフェイムが「フォークシンガー」というのは、ちょっと誤解を招く言い方ですが、例えば吉田拓郎やなぎらけんいちのような、いわゆる「フォーク・ソング」を歌っている歌手のことではなく、民謡などの伝承歌を、民族的な発声で歌っている歌手のことですね。ただ、彼女の場合は、クラシックの訓練もしっかり受けている、というのが、重要な点でしょう。
同じように、「フィドル」とクレジットされているラーシェンの場合も、音楽大学を「民族音楽」と「ヴァイオリン」の両方の課程で卒業した最初の人、というのが、注目されるところです。このアルバムでは、彼のオリジナル曲も多数聴くことが出来ます。
そして、メインは1950年にノルウェー・ソリスト協会によって創設された合唱団です。その時の指揮者がノルウェーの重鎮作曲家である、あのニューステットなのですから、最初からハイレベルなものを目指していたことがうかがえます。今までに200曲以上の新しい作品を初演していますが、その半数はノルウェーの作曲家のものだ、というのですから、この国の合唱音楽には多大な寄与を誇っていることになりますね。1990年からこの合唱団の芸術監督を務めているペデーシェンは、あのエリクソンの生徒、ノルウェーの伝統的な発声や、伝承音楽にも造詣の深い方です。
アルバムは、フィドルのソロから始まります。その音色は、あの多彩な「ヴァイオリン」とは一線を画した、まるで「バロック・ヴァイオリン」のような鄙びたものでした。しかも、ラーシェンの奏でるその楽器からは、なんともねっとりとした、まるで白い肌が吸い付いてくるようなセクシーな、まさに「肌触り」さえ感じられましたよ。ただ、これはSACDならではの感触、CDレイヤーで聴いてみると、なぜかそんな妖しい気分にはなれません。
そして、そこに、まるで中世のオルガヌムのようにそっと女声コーラスが忍び込んで来るあたりも、ゾクゾクする美しさ、さらに男声が入って盛り上がる頃には、あまりの様相の変化に、ただただ驚くばかりだったことに気づくはずです。ダンスや子守唄、さらには宗教的な題材の伝承曲まで、あくまで本来の民族的なテイストをきっちりと取り込んだ歌い方と編曲で、次から次へと楽しませてくれます。宗教曲の一つは、先ほどのニシュテッドの編曲ですから、なんと贅沢な。
その間に、フィドルのラーシェンだけではない、他の現代ノルウェーの作曲家の、やはり伝承的なイディオムを大切にしたオリジナル曲が挟まります。ビューエンという人の「Allsang」という新作は、2人の「フォークシンガー」がフィーチャーされているものですが、それは「生きている人と、亡くなった人」という2人、もう一人のシンガーは92歳のときに録音された音源で、渋く迫ります。途中では「Alt」という言葉を、パルスで微妙にハーモニーを変えながら連呼するという、まるでミニマル・ミュージックのような手法も登場です。
最後の「ヴァルソイフィヨルドの結婚行進曲」というかわいらしい曲では、シンガー、合唱、フィドルが絶妙の絡み合いを見せてくれます。その単純なメロディの繰り返しには、思わず涙がこぼれてくるほどの美しさがありました。この合唱団は、うますぎます。

SACD Artwork © BIS Records AB

3月7日

WAGNER
Tristan und Isolde, An Orchestral Passion
Neeme Järvi/
Royal Scotish National Orchestra
CHANDOS/CHSA 5087(hybrid SACD)


だいぶ前にご紹介したワーグナーの「リング」を素材にしたオーケストラのための組曲An Orchestral Adventureの続編、今回は「トリスタン」が元ネタの「An Orchestral Passion」なんですって。編曲は同じデ・ヴリーガー、もちろん、ヤルヴィ指揮のロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団の演奏です。
前作は、編曲も演奏もとてもひどいものでした。それなのになぜまた買ってしまったかというと、それは、まず聴く機会のないワーグナーの初期の作品の序曲がカップリングされていたからです。ワーグナーは、現在のオペラハウスのレパートリーに入っている「リエンツィ」を作曲する前に、3曲のオペラを作っていました。最初の「婚礼」は途中で作るのをやめてしまった未完のオペラですが、そのあとの「妖精」(1834年)という無理難題を押しつけるわがままな恋人が主人公のオペラ(それは「要請」)と、「恋愛禁制」(1836年)という、愛し合うには釣り合いが取れていなければダメだよ(それは「恋愛均整」)というお話(どちらもウソですからね)は、何度か実際に上演されています。
初めて聴いた2つの序曲は、なかなか興味深いものでした。「妖精」の序曲は、あくまでドイツオペラの伝統にのっとったウェーバー風の作品ですが、そこに登場するフレーズは後のワーグナーの作品に登場する数々のテーマと共通したキャラクターを持ったものでした。「タンホイザー」あたりの官能的なメロディによく似ていますね。ただ、やたらとしつこく同じことを繰り返すのが気になります。自分の感情を、押さえきれずにそのままベタに並べ立てた、そんな感じでしょうか。
一方の「恋愛禁制」序曲は、なんともワーグナーらしくない曲であるのに驚かされます。信じられないことですが、なんでも文献によると、この作品ではあえてドイツ的なものに背いて、イタリアやフランスの様式を追求したのだというのですね。確かに、これはいかにも軽やかな、そう、まるでニコライとかレハールあたりのオペレッタの序曲のような明るさに支配されているのですね。ピッコロが常に最高音域を飾っているというオーケストレーションが、さらに華やかさを際立てています。若気の至りでしょうか、ワーグナーはこんなこともやっていたのですね。
さて、メインプログラムの「トリスタン」です。こちらは4時間はかかるオリジナルをたった50分に縮めたというとんでもないダイジェスト版。第1幕は前奏曲だけで、残りは全てカット、第2幕が25分、第3幕が20分というのが、その内訳です。確かに、必要なテーマは取りそろえているという感じはしますが、やはりこの曲をオケだけで聴かせようというのはそもそも無理な話だということを再確認したにとどまるものでしかありませんでした。それと、前作でも気になった、編曲者の「つなぎ」の唐突さが、やはりここでも解消されることはありませんでした。最後の「愛の死」が出てくる直前に、導入のような扱いでそのテーマを何度か繰り返す、というやり方が、なんかとても安っぽく感じられてしまうのです。確かに、本編でもこのテーマは一つ前のシーンで同じように出てきますが、それはここのようなあからさまな現れ方ではありませんし、その間にはしっかり別のシーンが入っていますから、きちんと伏線としての意味があったのですよね。
そして、やはりヤルヴィの指揮はワーグナー好きにはなんとも耐えられないものでした。なぜ彼は、これほど性急に音楽を運ぼうとしているのでしょう。作曲家がテーマに込めた意味をしっかり味わってから次に移りたいと思っているのに、この指揮者はそれを許さないのですね。ですから、聴いていてどんどん不満が蓄積していくという、最悪のスパイラルを招いているのです。
実は、この前には「パルジファル」も録音していたんですね。それは「An Orchestral Quest」ですって。そんなもの、誰が聴くもんですか。

SACD Artwork © Chandos Records Ltd

3月5日

MOZART
Symphonies 39 & 41
John Eliot Gardiner/
The English Baroque Soloists
SDG/SDG711


このCDのライナーノーツには、2つの興味深い点がありました。1つは、「曲目解説」を執筆しているのが、ダンカン・ドゥルースだという点です。「だれそれ?」と言われそうですが、この方はかつてモーツァルトの「レクイエム」の多くの修復稿の中で最も過激とされた、いわゆる「ドゥルース版」というものを作ったその人なのですよ。あの頃は、確かヴァイオリニストをやっていたはずですが、今ではこんなまっとうな「音楽学者」になっていたのですね。
そして、もう1点、ここには、普通はまずこういうところに顔を出すことはない「影の存在」であるレコーディング・プロデューサーの文章が載っていたのです。その人の名はイザベラ・デ・サバタ、名前から想像できるように、あの往年の大指揮者ヴィクトル・デ・サバタの孫娘です。というより、実はこの方はガーディナーの奥さん、以前はDGのプロデューサーをしていたのですが、企画されていたバッハのカンタータ全曲録音のプロジェクトをこの大レーベルが途中で投げ出してしまったために、DGを離れ、夫ガーディナーとともにこの「Soli Deo Gloria」というレーベルを立ち上げたのです。
ここで語られているのは、このCDが作られた顛末です。なんでも、エンジニアたちと話をしている時に、彼らはロック・バンドのコンサートを録音して、その日のうちにCDにしてお客さんに販売しているということを聞き、それをクラシックでも出来ないか、と考えたそうなのです。そこで、ガーディナーたちの「バンド」のツアーの最終日、2006年2月9日にロンドンのカドガン・ホールという、2004年に出来たばかりの中ホールで行われたコンサートの前半の2曲の交響曲のプログラムを、後半の「ハ短調ミサ」を演奏している間にCDにして、コンサートが終わった時にはお客さんの手元に渡るようにしたのです。その模様はテレビでも取り上げられて、結構大騒ぎになったそうですね。ま、今では日本でさえも、これはもはや珍しいことではなくなっていますが、最初にやった人は大変だった、ということなのでしょう。
つまり、今回のCDは、その時のものを普通の形でリリースしたものなのです。ですから、内容はその時の本番の演奏そのもの、ということになるのでしょうが、1曲目の「39番」のあとでは拍手がきれいにカットされていますから、何らかの編集は加えられているのでしょうね。
確かに、これは1度きりのコンサートの熱気を余すところなく伝えるものでした。中でも、「39番」の方は、お客さんを前にした演奏ならではの格別の味わいが、見事に発揮されたものに仕上がっています。ティンパニなどはまさにノリノリになって、いきいきとしたリズムで合奏を引っ張っていますしね。第2楽章あたりは、まさにその場で創られた、という、二度と同じものは再現出来ないような即興性にあふれたものです。テンポを遅めにとり、それをフレーズごとに微妙に動かすという絶妙の表情づけからは、とても奥深い世界が生まれています。第3楽章のトリオでは、クラリネットとフルートの掛け合いで、ちょっとした「事故」が起きていましたね。繰り返しでは最初に出てくるクラリネットが装飾をつけて、それをフルートが受ける、という段取りだったのでしょうが、前半ではなぜかクラリネットが普通に吹いたので、それに対応できなかったフルートだけが装飾をつける、という間抜けなことになっています。しかし、後半では、そのクラリネットは今度こそは、と、過剰すぎるほどの装飾をつけていましたね。なかなかほほえましい光景です。
しかし、「41番」では、なにか全体に重っ苦しく、あまり楽しんで演奏しているようには感じられませんでした。フィナーレなどは勢いだけで突っ走っていて、アンサンブルは完全に破綻していましたし。曲はハ短調ではなく、ハ長調なんですがね。まあそれも、「お土産」ならではのご愛嬌でしょう。

CD Artwork © Monteverdi Productions Ltd

3月2日

SCHUBERT
Winterreise(A Cappella version by H. Chihara)
里井宏次/
ザ・タロー・シンガーズ
EXTON/EXCL-00058

有名なシューベルトの連作歌曲「冬の旅」は、もちろん独唱者とピアノのための作品ですが、それを日本の超売れっ子合唱作曲家、千原英喜がア・カペラの混声合唱に編曲したバージョンの、世界初録音です。これは、全曲、ピアノパートまでもすべて合唱で演奏するというとてつもない企画です。
とは言っても、実はこの作品にはもっと「とてつもない」編曲があったことは、よく知られています。それは、ハンス・ツェンダーによるオーケストラ(というよりは、少し大きめのアンサンブル)のためのバージョンです。これは、ピアノ伴奏をそのままアンサンブルに移し替えるといったような生易しいものではなく、もっと積極的にピアノパート、あるいは曲そのものを拡大解釈して、大げさな描写を加えた、という代物です。アンサンブルには多くの打楽器が含まれるとともに、ギターやアコーディオンといった変わり種も入っていますから、その表現はハンパではありません(かなり変だ〜)。1993年に作られたこのバージョンは、ツェンダー自身の指揮、ブロホヴィッツのソロの1994年の録音(RCA)と、カンブルランの指揮とプレガルディエンのソロの1999年の録音(KAIROS)という2種類のCDが出ていますので、興味のある方はぜひ。カンブルラン盤はこちらでも聴けます。
KAIROS/0012002KAI

千原さんがこのア・カペラ・バージョンを作った時には、このツェンダーの仕事から多くの点で触発を受けたのは、まず間違いのないことでしょう。それはもちろん、全体のコンセプト、あるいは編曲に込められた「精神」のようなものを自らの作品にも取り込む、という、創造的な次元での話です。その上で、合唱ならではの表現を縦横に駆使する、といったあたりが、千原さんのオリジナリティの見せどころとなってくるわけです。
1曲目の「おやすみ」では、ピアノの前奏はいともまっとうな「合唱」として聴こえてきます。とりあえず、ツェンダーみたいな意味深な「前奏の前奏」みたいなものは入っていないのには安心しましょう。歌になってからも、ピアノの合いの手がごく自然に本来の歌のパートとからみ合って、立体的な音楽となっています。しかし、2曲目の「風見鶏」では、まず「ヒュー」という風の音がもろ具体的な描写として登場、ピアノ伴奏にも「ヒュルルル」という歌詞(?)が付きますので、イメージはさらに具体的に迫ってきます。途中ではなんと「コケコッコー」という鶏の鳴き声まで聴こえてきますから、それこそコンサートでのパフォーマンスとしてのウィットまで披露されていますよ。3曲目の「凍った涙」では、小さな拍子木で「キン」という、まさに凍りつくような音も加わりますし。
しかし、そんなちょっとユーモラスなテイストに油断していると、知らず知らずのうちにもっとどす黒いツェンダー的な世界へと引き込まれていくことに気が付くのが遅れてしまうかもしれません。有名な5曲目の「菩提樹」では、聴き覚えのある前奏の3連符のフレーズをあえて排したな、などと思っていると、いきなりシュプレッヒ・ゲザンクで「Komm her zu mir, Geselle」という「樹の呼びかけ」などが聴こえてくるのですからね。それからは、「本家」ツェンダーよりもある意味過激な表現なども交えて、楽しませてくれます。なんせ、最後の「辻音楽士」では、ハーディ・ガーディーのドローンが「ホーミー」なのですからね。ただ、その過激さもなにげに「草食系」なのは、やはり日本人ならではの細やかな情感の現れなのでしょうか。
タロー・シンガーズは、とても澄み切ったハーモニーで素晴らしい演奏を聴かせてくれていますが、ドイツ語の発音がやはりいまいちでした。これはかなりのマイナス。近々この楽譜が出版されるそうですので、ドイツの合唱団、RIASやシュトゥットガルトあたりの演奏で、ぜひ聴いてみたいものです。

CD Artwork © Exton Co., Ltd.

2月28日

BACH
Sonatas, Trio Sonata
Joshua Smith(Fl)
Jory Vinikour(Cem)
Ann Marie Morgan(Vc)
Allison Guest Edberg(Vn)
DELOS/DE 3408


クリーヴランド管弦楽団の首席フルート奏者、ジョシュア・スミスによるバッハのフルート・ソナタ、第2弾です。「第1弾」はこちらでしたね。その時はオブリガート・チェンバロとのソナタが集められていました。べつに苦い薬を飲むわけではありませんよ(それは「オブラート」)。今回は同じジョリー・ヴィニクールのチェンバロの他にアン・マリー・モーガンのチェロが加わって、通奏低音とのソナタが3曲、それに、さらにアリソン・ゲスト・エドバーグのヴァイオリンも入った「音楽の捧げもの」のトリオ・ソナタが演奏されています。
スミスの楽器は、前回同様ルーダル・カルテの木管なのでしょうね。ライナーの写真では、確かに木管に見える楽器の一部が写っていますし、何よりも音を聴けば、あの印象的な木管の響きですから、間違いないでしょう。ビブラート(オブラートじゃないですよ)も極力抑えられていますから、何も知らないで聴いたらトラヴェルソだと思ってしまうほどの、楽器と奏法でしたね。さらに、弦楽器も「バロック・ヴァイオリン」と「バロック・チェロ」というクレジットがありますから、たぶんピリオド楽器に近いものが使われているのでしょう。そんな楽器が集まったこのアルバムからはなんとも鄙びた風情が漂ってきています。ピッチはモダン・ピッチですが、やはりスミスの目指しているモダン・フルートを使った、バッハの時代の雰囲気の再生というコンセプトは、今回もしっかり貫かれているようでした。
演奏されている3曲のソナタは、それぞれに独特のキャラクターを持った作品です。中でも、ハ長調のソナタは、そもそもBWVではバッハ本人の作品ではないとされているものなのですが、ここでのスミスたちの演奏を聴くと、そんな、確かに「別な」キャラが、はっきりと伝わってきます。例えば、第1楽章の後半では、バスがドローンのように同じ音を伸ばしている間に、フルートはまるでカデンツァのような自由なパッセージを演奏しています。第2楽章で見られる軽やかな名人芸や、第3楽章の輝かしい装飾と相まって、そこからはほとんどイタリア風の明るいテイストさえ感じられはしないでしょうか。もちろん、それは大バッハの持つ資質とは微妙に異なっているものであることは、明らかです。
「真作」のホ短調とホ長調のソナタの間でも、このピリオド志向の強い楽器と演奏によると、モダン楽器ではあまり気がつくことのないキャラクターの違いがはっきり意識されることになります。特に、ホ長調の作品の中に見られるとびっきりの優雅さは、ひときわ印象的に伝わってきます。
そして、なんと言っても、聴き応えのあるのは全員が揃ったトリオ・ソナタでしょう。フリードリヒ大王が提供した、減7度の跳躍や半音進行などを含んだむちゃくちゃなテーマをもとに、バッハが職人的な技を込めて作り上げたこの傑作を、4人のメンバーはそれは楽しそうに演奏しているのですからね。そこには合奏の喜びがあふれているとともに、みんなが同じ方向を向いているというアンサンブルの基本が見事に反映されて、一つの「バンド」としてのグルーヴが感じられます。第2楽章のテーマの中に現れる付点音符のリズムを、後の細かい音符をほんのわずかだけ短くして不均等にするというのは、バロック音楽を演奏する時の一つのセオリーなのですが、そんなことが単に「当時の習慣」としてではなく、あたかも自発的にわき上がってきた「ノリ」であるかのように聴こえてくるのは、かなりスリリングな体験です。かと思うと、第3楽章でフルートとヴァイオリンがホモフォニックに進行するところでは、音色も音程も見事に溶け合っていて、まるでオルガンのように「一つの楽器」として聴こえるのですから、なにかほっとするような味わいです。
柔らかな音色に和まされるとともに、一本芯の通ったものが感じられる、油断の出来ないアルバムです。

CD Artwork © Delos Productions, Inc.

2月26日

SAINT-SAËNS
Music for Wind Instruments
Joanna G'Froerer(Fl), Charles Hamann(Ob)
Christopher Millard(Fg), Kimball Syks(Cl)
Lawrense Vine(Hr), Stéphane Lemelin(Pf)
NAXOS/8.570964


以前ロドリーゴの「パストラル協奏曲」での演奏を聴いていたカナダのフルーティスト、ジョアンナ・グフレエールが参加している「カナダ・ナショナル・アーツセンター木管五重奏団」と、ピアノのステファーヌ・ルムランによる、サン・サーンスの室内楽を集めた楽しいアルバムです。なかなか聴く機会のないサン・サーンスの管楽器のための作品が、存分に味わえますよ。ちなみに、このフルーティストのファーストネームの表記は、2004年にリリースされたロドリーゴのCDの帯では正しく「ジョアンナ」となっていたのに、日本の代理店が替わった今回は「ヨハンナ」というあり得ない表記になってしまっています。これは、人名表記ではつとに悪名高い「NML」の表記に合わせたからなのでしょうが、いい加減にしてもらいたいものです。こんなことではいかんな
とは言っても、「ジョアンナ」のフルートがソロで聴ける曲は、この中には入ってはいません。サン・サーンスが最初からフルートのために作った曲は作品37の「ロマンス」ぐらいしかなく、他には編曲ものが少しあるだけなのですよ。まあ、他の管楽器とのアンサンブルで、ここは我慢して頂きましょう。
その代わりと言ってはなんですが、サン・サーンスは最晩年の1921年に、クラリネット、オーボエ、ファゴットのためにそれぞれ「ソナタ」を作っています。このアルバムのメインとなったその3曲は、それぞれに楽器のキャラクターを知り尽くした、まさに大作曲家の円熟の境地とも言える見事な作品です。もはや86歳を迎えようという老境でこれだけのものを作ってしまえば、もはやフルートのためのソナタを作るほどの余力はなかったのでしょうね。残念なことです。
クラリネット・ソナタは、4つの楽章から出来ています。第1楽章は6/8拍子に乗ったシチリアーノ風のしゃれたテーマで始まりますが、中間部では一転、翳りのある楽想に変わります。細かい分散和音が、いかにもクラリネット的。第2楽章はクラリネットのもう一つの側面である軽快さが際立ちます。第3楽章は、ピアノの低音の前奏に導かれて、ソロも低音で暗〜いテーマを奏でます。まるで慟哭のような重苦しさから一転して、後半は高いレジスターで囁くように歌われます。この超ピアニシモは、まさにクラリネットの得意技ですね。そしてフィナーレは、超絶技巧満載のスケールやアルペジオが駆けめぐりますが、その中には時折繊細な歌が現れる、という小憎らしさです。
オーボエ・ソナタは3楽章編成、まず、最初の楽章の鄙びたコラール風のテーマは、まるで原初のオーボエを思わせるような素朴さをたたえています。第2楽章は、「アド・リビトゥム」という表記の牧歌的なレシタティーヴォに導かれて、付点音符による3拍子の宮廷舞曲が奏でられます。そして、最後の楽章はちょっとおどけたマーチ、あくまで粋なセンスが光ります。
ファゴット・ソナタは、3楽章とはなっていますが、最後の楽章が2つの部分に分かれているので、実質的には4楽章形式になるのでしょう。美しいカンタービレのゆっくりした楽章と、軽快な楽章とが交互に現れます。第2楽章が、まさにファゴットならではのおどけた軽快さを持って、楽しませてくれます。ただ、ここでの演奏家の資質なのでしょうか、せっかくのカンタービレがあまりにノーテンキに運ばれるのが、失笑ものですが。
フルートが加わるのは、初期の作品「フルート、クラリネット、ピアノのためのタランテラ」と、中期の「フルート、オーボエ、クラリネットとピアノのためのデンマークとロシアの歌によるカプリス」です。ここではフルートはもっぱら、作品の中の華やかなキャラクターを託されているのでしょう。グフレエールには、ロドリーゴの時ほどのチャーミングさがなくなっているのが、少し気になります。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

おとといのおやぢに会える、か。


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