ヤク、要らん?.... 佐久間學

(08/1/13-08/1/31)

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1月31日

MOZART
The Magic Flute
Joseph Kaiser(Tamino), Amy Carson(Pamina)
Benjamin Davis(Papageno), Silvia Moi(Papagena)
Rene Pape(Sarastro), Lubov Petrova(Q.o.N.)
Kenneth Branagh(Dir)
James Conlon/
Chamber Orchestra of Europe
SHOWGATE/PCBE-52728(DVD, HD DVD)


昨年の7月に日本でも公開されたケネス・ブラナー監督による映画版「魔笛」がDVDになりました。なにしろ「魔笛」と言えばオペラハウスでもさまざまな読みかえがなされるのは普通のことになっている作品ですから、映画監督であればさらに自由な発想で作り替えてしまうことも可能でしょう。このような映画による「魔笛」で、思い出されるが1975年のベルイマンによる作品ではないでしょうか。あそこではドロットニングホルムのオペラハウスを舞台にして、あくまで「オペラ」にこだわるかに見せて、映画ならではのファンタスティックな世界を作り上げていましたが、この女性下着のような名前(それは「ブラジャー」)の名優でもある監督の作品では最初から映画でしかなしえない独特の設定が用意されていました。テキストもベルイマン版ではスウェーデン語に訳されていたように、ここでも英語に変わっており、さらに内容までもその設定に合わせて微妙に変えられています。
DVDのエクストラ・フィーチャーとして、メイキングが収められているのはお約束ですが、ここではそれはこの作品の目指すところを知る上で非常に重要な資料となっています。そのドキュメンタリーの前半で描かれるのは、サウンド・トラックを録音するシーンです。ロンドンのアビー・ロード・スタジオという有名な場所での録音セッション、コンロンの指揮で行われているそのリハーサルで、最も精力的に歌手や合唱団に注文を出しているのは、ブラナー監督その人でした。本来そういうことはすべて指揮者に任せるものなのでしょうが、ブラナーの場合はそうではありません。吹き替えではなく、本人が歌ったものに合わせて演技をしているこの映画では、歌そのものがすでに演技をするときのセリフと何ら変わらないもの、そこで、納得のいくまでテキスト(ブラナー自身が脚本も書いています)の表現に対して要求するのは、至極当然のことなのでしょう。そこで、その要求は英語を母国語としていないルネ・パーペに対してはかなり手厳しいものにならざるを得ません。たった一つの単語の発音を執拗に繰りかえさせられて最後にはキレてしまうという、「ウェスト・サイド・ストーリー」でのホセ・カレーラス状態がここで見られるのですから、その生々しさったら。
うれしいことに、そこまでテキストを改変しているにもかかわらず、音楽に関しては完全に楽譜通りに演奏されています。ベルイマンでさえ、「映画の都合」でかなりのカットや入れ替えを行っていましたが、ブラナーの場合はたぶんセリフの部分を切りつめたのでしょう、2時間を少しはみ出るぐらいできっちり撮り終えています。これはかなり重要なポイントです。モーツァルトの音楽に対してこれだけ真摯な態度を貫いていたからこそ、彼の独特のイマジネーションの世界にも安心して浸ることが出来たのでしょう。そこが、同じ英語訳であっても、無惨なカットで作品を台無しにしてしまったジュリー・テイモア(「ライオン・キング」で有名なミュージカル演出家。一昨年METでそんな独りよがりな「魔笛」を上演しました)との最大の相違点です。
もっとも、ブラナーは第1幕のフィナーレでタミーノと対面するはずの弁者のナンバーを、ザラストロが歌うように変更しています。これは、このプロットからは至極当然の措置でしょう。逆に、これはオペラファンには新鮮な驚き、次のシーンでさっき会ったのが実はザラストロ本人だと知ったタミーノに向けられたパーぺの悪戯っぽいウィンクは、そんなオペラファンをからかっているもののように思えてなりません。
初回限定特典として、本編のHD DVDが同梱されています。これは、もはや完全にBDに水を空けられてしまったHD DVD陣営の最後の抵抗なのでしょうか。CGを駆使して、愛と叡智が諍いのない美しい世界を取り戻すのだというテーマを謳いあげたこの作品の精神とはあまりにもかけ離れたその発想には、笑うほかはありません。

1月29日

FISCHER
Orchestral & Choral Works
Veronika Winter, Jenny Haecker(Sop), Henning Voss(Alt)
Nils Giebelhausen(Ten), Matthias Gerchen(Bas)
Rainer Johannes Homburg/
Kammerchor der Marien-Kantorei Lemgo
Handel's Company
MDG/905 1477-6(hybrid SACD)


前にHARMONIA MUNDIの新譜でCDとSACDを別々に発売していたために、間違ってCDを買ってしまったことがありましたが、このMDGというレーベルも同じようなことをやっています。SACD(もちろんハイブリッド)の場合は価格設定を高くしているというのは、依然としてSACDの方に高級感を与えたいという思惑のあらわれなのでしょうか。そんな無駄なことはやめて、すべてのCDがハイブリッドに一本化されるという日は、果たして訪れるのでしょうか。
しかし、初めて手にしたこのレーベルのSACDには、なにやら見慣れぬロゴマークが付いていました。それは「2+2+2」というものです。ライナーにはその説明が書いてありますが、どうやらこれはマルチチャンネルに関する新しいテクノロジーのようですね。一般的な「5.1」と違うのは、スピーカーの配置、全部で6本のスピーカーを使うのは共通していますが、センタースピーカーとスーパーウーファーはなく、その代わりにフロントの左右のスピーカーの上に、スピーカー間の距離の半分だけの間隔でもう1本ずつスピーカーをセットするというものなのだそうです。まあ、気持ちは分かりますが、いまいち浸透していないSACDなのに、こんなところで新しい規格を作ってどうしようというのでしょう。そもそも「SACD=マルチチャンネル」という悪しき先入観を消費者に与えたのは大きなまちがいでした。そのようなお遊びのフォーマットに血道を上げることをしないで、ピュアステレオの音の良さをもっと地道にアピールした方がよいと思うのですが、どうでしょう。真の音楽ファンでしたら、ステレオだけのSACDでも喜んで買うはずです。
まあ、そんな細かいことにはこだわらずにこのアルバムを聴いてみると、録音そのものはなかなか繊細なものに仕上がっています。ハノーヴァーとドルトムントのちょうど中間に位置するレムゴという町の聖マリア教会での録音、そのゴシック建築の鄙びた響きが、とても心地よく伝わってきます。
ここで演奏されている曲の作曲家、ヨーハン・カスパール・フェルディナント・フィッシャーという名前は、おそらく全く馴染みのないものではないでしょうか。1656年にボヘミヤに生まれているそうですから、あの大バッハのほぼ30年前の時代ということになります。最初の曲がオーケストラだけのインスト曲「組曲第1番」ですが、同じ名前のバッハの曲に比較するだけで、その時代による趣味の違いのようなものを感じることが出来ることでしょう。まさにフランスの宮廷で好まれたような瀟洒なタッチのこの曲は、打楽器も加わって華々しく盛り上がります。最後の「シャコンヌ」などにも、バッハのような重苦しさは全くありません。演奏しているオリジナル楽器の団体も、とても伸びやかにこの雅を表現しています。
そのあとに、同じ作曲家のミサ曲が2曲続きます。しかし、最初の「大天使聖ミカエルのミサ」が始まったとたん、この教会の付属の合唱団のあまりのやる気の無さには驚かされてしまいます。それまで聞こえていたオーケストラとのあまりの落差に、ちょっと聴く気が萎えてしまいそう。この曲にはソロも参加しますから、そのソリストたちに助けられて(とは言っても、カウンターテナーはかなりのひどさ)何とか最後まで聴くことは出来ましたが。ただ、次の「対位法によるミサ」になると、伴奏は通奏低音だけ、ソリストも入りませんから、合唱のひどさがもろに聞こえてしまい、かなり悲惨なことになっていました。どちらのミサ曲も、曲自体はモンテヴェルディを思わせるような非常に変化に富んでいて魅力的なものなのですが。

1月27日

WAGNER
Die Walküre
Birgit Nilsson, Astrid Varnay(Sop)
Ramón Vinay(Ten), Hans Hotter(Bas)
Hans Knappertsbusch/
Orchester der Bayreuther Festspiele
WALHALL/WLCD 0217


この前の「トリスタン」と同じ、1957年のバイロイトのライブ録音です。「指輪」全曲がリイシューされましたが、その中の「ワルキューレ」を聴いてみましょう。実は、この2年前、1955年のライブが、なんとステレオでちょっと前にリリースされて話題になったことがありましたが、こちらは前回と同じちょっと怪しげなモノラル録音です。
その怪しげさは、今回も健在でした。咳払いのなんと多いこと、バイロイト音楽祭は、確か夏の間に開催されていたはず。こんなに風邪をひいている人が多いなんて、この年のヨーロッパでは夏風邪の大流行でもあったのでしょうか。それよりも目立って聞こえてくるのが、プロンプターの声です。舞台下から歌手の歌い出しのきっかけを小声でささやいて教えてあげる人のことですが、それはとても「ささやく」などというものではなく、はっきりマイクに収められてしまっています。最近では演出がかなり高度になってきたためか、プロンプターを置かない上演が多くなっていますが、このヴィーラント・ワーグナーの時代にはまだしっかり居たのですね。
ここでの指揮者は、ハンス・クナッパーツブッシュ、ヒストリカル好きには神のようにあがめられている方ですね。そんな偉い人が、「クナ」なんてまるで犬か猫か缶詰(それは「ツナ」)のように呼び捨てにされるなんて、かわいそう。確かに、長くて覚えにくい名前ではありますがね。余談ですが、この名前の「ッ」と「ツ」を入れ替えて「クナツパーッブッシュ」だと思いこみ、発音するのにえらく苦労している人がいましたっけ。あなたも言ってみて下さい。はいっ、クナツ・・・。
しかし、この録音をこの前のサヴァリッシュや、55年のカイルベルトと比べてみると、指揮者としての存在感が全く異なっているのが分かります。なんと言っても、オーケストラを完全に掌握していて、まるで一つの楽器のように自由自在に操っているのには驚かされます。それでも、1幕の途中などはちょっと集中力が欠けているような気がしないでもないのですが、それ以降はまさに大きなうねりのような中にオーケストラも歌手も巻き込んで、壮大なグルーヴを見せてくれているのですからね。それはもしかしたら、歌手のちょっとした癖などもしっかり受け止めて、微妙に指揮の方を合わせていた結果なのかもしれません。いずれにしても、こんな指揮をされたら、歌い手は本当に気持ちよくなって自分のベストをさらけ出すことが出来るのかもしれませんね。ほんと、歌の間のちょっとしたオーケストラのフレーズが、まるで歌手の体にからみついているように感じた瞬間が、いったい何度あったことでしょう。
そんな風にうまく乗せられてしまった歌手の筆頭が、ホッターではないでしょうか。なにかともたつき気味の歌い方が、この指揮者のマジックによって全く目立たないようになっていますし、これが2年前と同じ人かと思うほど、音程も安定しています。
他のキャストも、2年前と殆ど同じ、ジークムントのヴィナイも、尻上がりに良くなっていきますね。そして、この年はジークリンデがなんとニルソンになっていますよ。ですから、第3幕ではニルソンとヴァルナイがいっしょに歌っているのを聴くことが出来るのですから、なんと贅沢なキャスティングでしょう。そこでは、まさに不世出の二人のブリュンヒルデが、一歩も譲らぬ貫禄を示してあっているのをまざまざと感じられることでしょう。
その2年前のステレオ録音ですが、これを聴いた後で聴き直してみると、なんだかとても貧弱な音に感じられてしまいます。ちょっといい加減なこのモノラル録音からの方が、はるかに力強いものが伝わってくるのですよ。それはまさにシンプルさの勝利だったのでしょうか。

1月25日

Songs in the Birdcage
コトリンゴ
AVEX/RZCM-45556


民放のFMラジオ局などというものは、いまやすっかりレコード会社のプロモーションだけのためのツールに成り下がってしまった感があります。そこで流される曲といえば、レコード会社が躍起になって売りまくろうとしている新曲ばかりなのですからね。
ある時、カーラジオで、そんな音楽的な完成度の著しく低い曲たちの垂れ流しの中から、ポップ・チューンにはあるまじき、作品としての主張がビンビン伝わってくる音楽が聞こえてきました。それは妙に存在感の立った曲でした。ボサノバを基調としたリズムの上には、えらくグルーヴの良いベースラインと、ジャジーなキーボードがからんでいます。そんなオケに乗って歌われるヴォーカルが、また独特の感触、殆ど語るようなその歌い回しは、なぜか懐かしさを誘います。それにまとわりつくように、まるでセオリーを無視したような、それでいて心地よいコーラスが聞こえてきます。メインヴォーカル自体も、細かくパン・ポットして、そのコーラスの中であたかも「かくれんぼ」を愉しんでいるかのようなファンタスティックな光景が広がります。声の質は全くいっしょですから、コーラスはおそらく同じ人がマルチチャンネルで歌っているのでしょう。
こんな、どこをとってみても完璧に仕上がっているだけでなく、とても暖かいテイストまで秘めた曲など、洋邦問わず久しく聴いたことがありません。曲が終わったときのMCをしっかりその辺にあったレシートにメモして、この曲、そして歌っているアーティストの正体を突き止めることにしました。
その結果、手に入れたのがこのアルバムです。半年ほど前にリリースされていた「コトリンゴ」という女性のファースト・アルバムでした。アーティスト名は「小鳥」+「りんご」でしょうか。なかなかかわいらしいですね。しかし、そんなかわいらしさとは裏腹に、彼女は実は折り紙付きの実力の持ち主でした。なんとバークリーを卒業、日本ではなくアメリカで活躍しているというのです。それを、あの坂本龍一に見いだされ、彼のプロデュースでアルバムを作ることになったというのです。もちろん、曲はすべて彼女の作ったもの、弦楽四重奏が入るものもありますが、そのアレンジも含めて、編曲もすべて彼女、コトリングス、ではなくてストリングスやギター以外の楽器は彼女自身が演奏しています。
ラジオで聴いたのは、1曲目に収録されている「hoshikuzu」という曲でした。これはかなり大規模なアレンジが施されたものですが、アルバムの中には殆ど「弾き語り」に近い、アコースティック・ピアノとヴォーカルだけ、それに薄くシンセが入っているというものも多く収められています。そのピアノが、とてもいいのですよ。何よりも音色がとても柔らか、タッチがよっぽどソフトなのでしょう、その音を聴いているだけでなにか安心した気持ちにさせられてしまいます。
そして、彼女のヴォーカル。最初に聴いたときに感じた懐かしさは、他の曲を聴いて納得できました。声の感じといい、歌い方といい、そしてさらには音楽の組み立て方までもが、かつての矢野顕子を彷彿とさせるものだったのです。いや、これはまさに矢野顕子その人、彼女のことを知った坂本龍一は、さぞ驚いたことでしょうね。実は、何十年か前に買った坂本がプロデュースした矢野のアルバムは、それまでのものと比べてちょっと馴染めなかったことを思い出しました。しかし、ここでの坂本は、そんな轍を踏むまいと考えたのでしょうか、彼女の魅力を存分に引き出しています。それが結果的に以前のパートナーそっくりの仕上がりになってしまったなんて、なんか皮肉ですね。
4曲目に入っている「hedgehog」というハリネズミの歌が、そんな矢野顕子節全開。「ハリネズミから、ハリをとったら ただのネズミにも、なれない だから3本残しとこ」という歌詞の世界も、まさにアノヤキコです。

1月23日

DEBUSSY/La mer, Nocturnes, Prélude...
細川俊夫
/Circulating Ocean
Jun Märkl/
Orchestre National de Lyon
NAXOS/8.570775


ジャケットには風景や名画を載せることはあっても、アーティストの写真などはまず使うことのないこのレーベルが、でかでかとこの指揮者とオーケストラの写真を載せているというだけで、彼らのセールスをメーカーサイドがいかに期待しているかがうかがえます。2005年からこのオーケストラ、リヨン国立管弦楽団の音楽監督に就任した準メルクルは、あのN響ともしばしば共演していますから、知名度も申し分ありませんし。もちろん、ローワン・アトキンソン似のそのマスクも、めくるめくおばさまたちをとらえて離さないフェロモンを放っています。
曲目は、このオーケストラが確か先々代の音楽監督クリヴィヌの時にDENONに録音していたドビュッシーの名曲集と、その中の「海」つながりでしょうか、細川俊夫の新作「循環する海」というもの、なかなか凝った選曲です。
まずは、ドビュッシーの「海」。いきなり聞こえてきたのは、マルチマイクによる大変解像度の高い管楽器の響きでした。それは、いかにも生々しいものに感じられます。ドビュッシーが仕掛けた絶妙のオーケストレーションが、ちょっとセンスのないこの録音によって損なわれなければ良いのですが。しかし、なぜかその荒っぽい録音は、この演奏には極めてマッチしたものであることが、次第に分かってきます。メルクルは、決して楽器の音を混ぜて曖昧な響きを作るというようなダサいことはせず、ひたすら各パートが奏でる音楽をクリアに主張させようとしていたのです。メルクルがフランスのオーケストラを使って、フランスの作曲家の作品から引き出そうとしたコントラプンクトの世界、これはすごいものがあります。その結果、この曲からは普通のフランスのオーケストラだったら例外なく味わわせてくれる「ほのかな香り」のようなものは一切聴くことが出来なくなってしまいました。それに代わって姿を現したのは、明晰な骨太のテクスチャー。それはそれで一つの魅力には違いありません。
そういう趣旨ですから、まさに「匂うような」音楽を期待して「牧神の午後への前奏曲」を聴こうとすると、軽い失望感を味わうことになります。ここでソロを任されたフルーティストは、自分がフランスのオーケストラのメンバーであることを殆ど忘れているのか、あるいは意図して「フランス的」(それがどんなものか、などとは聞かないで下さい)であることを拒んでいるのか、とにかく徹底して素っ気のない演奏に終始しているのですからね。例えば、カラヤン指揮のベルリン・フィルで、カールハインツ・ツェラーがソロを吹くという、とことん「ドイツ的」な演奏の方が、これに比べればよっぽど「フランス的」だと思えるほどの、それはフランスのオーケストラとは思えないような不思議な味わいを持ったものなのでした。
細川作品は、2005年にザルツブルク音楽祭の委嘱で作られたものです。初演はその年にゲルギエフ指揮のウィーン・フィルによって行われましたが、録音としてはこれが「世界初」となるものです。シリアスな曲ばかりを書いているという印象の強い細川ですが、最近は少し作風が変わってきたのでしょうか。この曲などではなんの引っかかりもない、まるで映画音楽のような自然描写の世界が広がっています。「笙」を思わせる不思議な響きも、われわれにとっては心地よいもの、心の奥から聞こえてくる「それがいったいどうしたというのだ」という声さえ無視すれば、十分に楽しめるものでしょう。「細川よ、おまえもか」という声も、聞かなかったことにしましょうか。

1月21日

MOZART
Die Entfürung aus dem Serail
Malin Hartelius(Sop/Konstanze)
Magali Léger(Sop/Blonde)
Matthias Klink(Ten/Belmonte)
Loic Félix(Ten/Pedrillo)
Wojtek Smilek(Bas/Osmin)
Jérome Deschamps, Macha Makeieff(Dir)
Marc Minkowski/
EuropaChorAkademie
Les Musiciens du Louvre-Grenoble
BELAIR/BAC028(DVD)


モーツァルトのオペラは、演出家にとってはまさに腕の見せ所、最近ではさまざまな「読み替え」を施した斬新な公演があちこちで見られます。「後宮」に関しても、先日のザルツブルク音楽祭でのようなとんでもない設定のものを見せられてしまうと、観客の方もちょっとやそっとのことでは驚かなくなってしまっていることでしょう。もっとも、その時のボルトンの演奏自体は至極まっとうなものでした。しかし、かつて、ミンコフスキが1997年のザルツブルク音楽祭でこの曲を演奏している映像を見たときには、演出ではなくもっぱら音楽の方に関心が向いていたことを思い出します。その時のミンコフスキは、この曲の「トルコ風」の趣味を最大限に拡大解釈してスコアには書かれていないような打楽器を用いてまさに「トルコ」そのもののグルーヴを醸し出していたのです。
今回のDVDは、2004年のエクサン・プロヴァンス音楽祭における公演を収録したものですが、ここでも彼のトルコ趣味は健在でした。それをもっと分かりやすく示すためなのでしょうか、なんとオーケストラのメンバーもすべてターバンを巻いてトルコの人になりきるという、念の入れ方です。もしかしたら、本当にそのあたり出身の音楽家が加わっているのかもしれません。というのも、メンバーはピットの中だけではなく、ステージ上でも、ある時は太鼓のアンサンブルで登場したり、リコーダーのようなものを吹いていたりしているのですから。
したがって、音楽的にはなかなか新鮮で刺激的な仕上がりとなっています。ただ、演出が、そんな音楽と一見調和しているかに見えて実はかなり退屈なものだったので、少なからぬ失望を与えられてしまいます。つまり、ここでは正規の登場人物に加えて「コメディアン」として5人の役者が加わっているのですが、この人たちの芝居、というか動きが完璧に音楽の流れを断ち切っているのですよ。時には音楽に合わせてダンスのようなものを踊ったりもするのですが、これが全くのイモ、ただ笑わせるだけのキャラだとしたら、ちょっと辛すぎます。
ただ、セリム・パシャ役の人が、ちょっと軽めでユニークな設定なのが、救いでしょうか。普通はどっしりと構えたどちらかというと重々しいイメージがあるのでしょうが、この人の場合は、何しろ最初の登場シーンからしてスピンをしながら出てくるのですからね。もちろん、その踊りはさっきの人たちとは別物のしっかりしたものです。
もう一人、とても可愛い金髪の男の子が出てきて、ちょっとした狂言廻しを演じているのがなかなかのものでした。一見無垢でいて、実は恐ろしさを秘めているというかなりの役回りです。名前から察するに、この子は演出家のお子さんなのでしょう。カーテンコールでそのお父さんにじゃれついていましたから。
ソリストたちは、メインのペア、コンスタンツェとベルモンテはちょっと力みすぎで馴染めません。かえって、黒人同士というキャスティングのサブのペア、ブロントヒェンとペドリユの方が好感が持てました。特にペドリユ役のフェリックスという人の伸びやかな声は魅力的です。オスミンは低音が殆ど出ないという、ちょっと不思議な人。おそらく、モーツァルト自身からのオスミツキを得られることはないでしょう。

1月19日

BACH
Six Concertos for the Margrave of Brandenburg
Trever Pinnock/
European Brandenburg Ensemble
AVIE/AV 2119


普通は「ブランデンブルク協奏曲」と呼ばれているバッハが作ったさまざまな形の協奏曲のセットですが、本来はこのタイトルにあるように献呈先を明記して「ブランデンブルク辺境伯のための6つの協奏曲」と呼ぶべきなのでしょうね。もっとも、実際にこんなタイトルを見たのは初めてのことですが。
1982年にイングリッシュ・コンサートとARCHIVへ録音して以来、20年以上を経ての再録音、ピノックとしては「前とは違うんだぞ」というところを、こんなタイトルで端的に伝えたかったのでしょうか。確かに、2006年の12月にイギリスのシェフィールドにヨーロッパ各地から集まったオリジナル楽器の達人たちが、ピノックの60才の誕生日の前後に行った「ブランデンブルク」全曲のコンサートとレコーディングには、なにか特別なオーラのようのものが漂っていたようです。
しかし、そのオーラは、例えばあのアーノンクールが放つ(彼に真の意味での「オーラ」があるとすれば、ですが。彼が放てるのはせいぜい「オナラ」)であろうものとは、かなり異なった健康的なものでした。それは、参加した全てのメンバーがピノックを信頼し、逆にピノックも彼らを信頼し切ったところから生まれた、何か暖かみのようなものなのでしょう。
「第1番」のような、さまざまな種類の楽器がソロとして活躍する曲では、それは最大限に発揮されているようです。ホルンが壮大に特徴的な三連符を繰り出すあたりでは、思いっきり伸び伸びと吹くことを許されたホルン奏者の喜びのようなものまで感じることは出来ないでしょうか。それにしても、このホルンの音程の良いこと。ナチュラルホルンですから、音程によって音色が変わってしまうところを巧みに分からないようにするテクニックの賜物でしょうか。オリジナル楽器の演奏技術もすごいところまで来たものです。というか、以前取り上げた辻さんの本でのオルガンの話ではありませんが、技術という点では本当は昔の方がはるかに進んでいた面があったのかもしれません。それが、現代になってやっとそこまで追いついたのだ、と言うことはできないでしょうか。
弦楽器だけの「第3番」では、とてつもなく早いテンポ設定に驚かされます。特に、最終楽章のスピードはまさに限界に挑むほどのすさまじいものです。しかし、そんなに早くてもせわしないという感じは全くなく、爽快な軽やかさを味わうことが出来ることでしょう。この辺も、一皮むけたオリジナル楽器の境地でしょうか。真ん中の楽章の即興的なカデンツァも長すぎず、短すぎず、ツボを押さえた心憎いものです。
「第5番」では、なんといってもピノック自身のチェンバロに注目です。アンサンブルの中では他のソロ楽器、ヴァイオリンとフルートとの掛け合いを楽しむことが出来ます。特に、同じフレーズの受け渡しなどでは、チェンバロだけ異質な感じになりがちなところを、しっかり馴染ませているのはさすがです。そして、完全なソロになったときの自由な振る舞い、これこそ協奏曲の醍醐味でしょう。
「2番」と「4番」に登場するリコーダーは、「5番」でのちょっとおとなしめなトラヴェルソよりは、よっぽど存在感を主張しているものでした。当時は「フルート」といえばこの縦笛のことを指したという、そんな時代の勢いまで感じられるほどです。
そして、久しぶりに聴いた気がするヴィオラばっかりの「6番」。そう、確かにバッハにはこんな世界もありました。
最近SACDの深みのある音を知ってしまったために、この録音にはちょっと重苦しさを感じてしまいます。オリジナル楽器の繊細さが殆ど感じられない、かなり大味なもの、実はこの無神経な録音のせいで、このメンバーのメッセージを受け取るにはかなりの忍耐を必要としたことを告白しなければなりません。

1月17日

WAGNER
Tristan und Isolde
B. Nilsson(Isolde), W. Windgassen(Tristan)
G. Hoffman(Brangäne), H. Hotter(Kurwenal)
Arnold van Mill(König Marke)
Wolfgang Sawallisch/
Chor und Orchester der Bayreuther Festspiele
WALHALL/WLCD 0213


普段はヒストリカル物に手を出すことなどまずないのですが、最近何かとマイブームの「トリスタン」の、一応新譜なので(当然リイシューでしょうが)、聴いてみることにしました。実は、バイロイト音楽祭のサヴァリッシュは昔から1962年の「タンホイザー」(PHILIPS)でさんざん聴いていたものですから、ある種の期待もありました。しかし、これはそれよりちょっと前の1957年のライブ、もちろんモノラルです。もう著作隣接権も切れているのでしょう、レーベルには「パブリック・ドメイン」を現す「PD」の文字が記されています。その分値段もお手頃、4枚組CDが3000円ちょっとでした。
そんなものでしたから、録音面には最初から期待はしていませんでした。しかし、いきなりノイズだらけの音が聞こえてきたのには驚いてしまいました。なに!これって板起こし?!さいわいそれはスクラッチ・ノイズではなく、ステージや客席のノイズだったのですが、それにしても前奏曲が始まっているというのに、この騒々しさは一体何なのでしょう。ステージで歩き回る足音や、咳払いなどが、肝心の演奏を押しのけて盛大に聞こえてくるのですからね。しかも、その咳払いはマイクに恐ろしく近いところで発する音のよう、どんなところにマイクを立てていたのか、知るのが怖いほどです。
この録音は、サヴァリッシュにとっては初めてバイロイトに登場したという記念すべき年のものでした。確か、その時の34才というのは、史上最年少の大抜擢だったはずです。しかし、やはり海千山千のピットでは、この「若手」はかなり苦労を味わったことでしょう。勢いはあるのですが、それがオーケストラにはなかなか伝わらないもどかしさが、随所で感じられてしまいます。そもそも、アインザッツひとつとってみても、とてもオーケストラを掌握しているとは言えないようなものですし。
しかし、キャストはまさに贅沢そのもの、なにしろハンス・ホッターがクルヴェナールですからね。彼はこの年には「指環」でヴォータンも歌っていたというのですから、ちょっとすごいことです。しかし、やはり彼にとってこの役は「軽すぎ」という感は否めません。というより、どんな役でも深刻に振る舞ってしまうこの人には、ちょっと無理があったのかもしれません。もちろん、サヴァリッシュがこの時点でも大ベテランだったこの歌手の気まぐれなルバートに合わせることなどは、そもそも出来るわけもありませんでした。ですから、ここではニルソンとヴィントガッセンという黄金コンビの、まさに「旬」の声を大いに堪能しようではありませんか。この時にはニルソンはまだ30代、ヴィントガッセンにしても40をちょっと過ぎたあたり、まさに最高のコンディションで聴くことが出来ますよ。ニルソンなどには「初々しい」とさえ感じてしまうほどの素直さまであるのですからね。彼らの突き抜けるような力のみなぎる声を聴いていると、いつしか会場のノイズや、そしてちょっと危なげなオーケストラなどは全く気にならなくなってきます。それは、ブランゲーネ役のグレース・ホフマンのリアリティあふれる歌唱とともに、まさにドラマとしての推進力がそこには存在していたからなのでしょう。
驚いたことに、この半世紀前の録音からは、現代のPCM録音をも凌ぐほどの、歌い手の息吹のようなものをまざまざと感じ取ることが出来ました。プリミティブな録音機材だからこそ、ストレートに情報が伝えられるのでしょうか。同時にそれは、このときの祝祭劇場の客席の空気まで、咳払いの音とともに伝えてくれているのです。ヒストリカルもなかなかいいものですね。かと言って、それをヒステリックに主張するほどのものでもありませんが。

1月15日

MOZART-SALIERI-RIGHINI
Arie di bravura
Diana Damrau(Sop)
Jérémie Rhorer/
Le Cercle de l'Harmonie
VIRGIN/00946 395250 2 7


ドイツ出身のソプラノ、ディアナ・ダムラウを初めて見たのは、2003年のコヴェント・ガーデンでの「魔笛」のDVDででした。その時の衝撃は強烈なもの、非の打ち所のない完璧な「夜の女王」の出現を、興奮気味に受け止めたものでした。その時の彼女の見た目は、かなりケバいメークのおかげで年齢不詳、というか、かなりの年増女に思えるようなものでした。その後、2006年のザルツブルクでの同じ「魔笛」では、いくらか抑えめのメークでしたから、やや素顔に近いものがうかがわれはしましたが、やはりそんなに「若い」という印象はありませんでした。もちろん、このときの「夜の女王」も完璧な仕上がり、ますます円熟の度を高めていたという印象とともに、演出のせいもあってかなり演技の上手な人だという発見もありました。
そして、待望のソロアルバムの登場です。このジャケ写で初めてその素顔に接したときの素直な感想は「わ、若すぎる・・・」というものでした。調べてみたら、彼女はまだ36才ということですから、それも納得です。この胸の大きく開いたドレス、とってもセクシーですね。
ここで彼女が選んだレパートリーは、お得意の「夜の女王」のアリアといったモーツァルトものの他に、あのサリエリと、そして初めて聞く名前、モーツァルトと同じ年に生まれたヴィンツェンツォ・リギーニのオペラアリアというものです。いずれも同じ時代に大活躍をしていたオペラ作曲家たちですね。なんでもダムラウは1998年にサリエリの「クビライ、ダッタンの大王Cublai, gran Khan dei Tartari」というオペラが世界初演されたとき(作曲家の生前には演奏はされませんでした)に、それの出演者だったんだそうです。そこでサリエリの魅力に惹かれ、それ以来、ぜひ最初のアルバムではサリエリの曲を歌おうと、いろいろ準備をしてきたそうなのです。その間に、たくさんの音楽学者(その中には、日本人のミツイシ・ジュンジさんという方も含まれます)の協力で、今まで忘れ去られていたサリエリの作品を数多く発見、それはこのアルバムでのダムラウの演奏によって、間違いなくその素晴らしさを再発見されることでしょう。
その「クビライ」と、2004年にスカラ座で歌った「見いだされたオイローパL'Europa riconosciuta」からは、それぞれ2曲のアリアが歌われています。最初のトラックの「残酷な疑惑の中にFra i barbari sospetti」から、その華やかなサリエリのコロラトゥーラは圧倒的に聴くものを魅了するものでした。まさに超絶技巧といってもよいその高い難易度の装飾を、ダムラウはいともたやすく、殆ど楽しんでいるかのように歌いきっています。いや、それだからこそ、単なる技巧に終わらないしっかりとした音楽となって、人に喜びを与えるものとして伝わってくるのでしょう。
何度も聴いてきた「夜の女王」の2つのアリアは、まさに絶品です。この人は、コロラトゥーラとはいっても、高い音だけではなく低い音もとても楽に出せるという、まさにあり得ないような声の持ち主です。ですから、低音が多く出てくるためになかなか名演には巡り会えない第1幕のアリアも楽々クリア、もちろん、有名な第2幕の方などは、鬼気迫るような感情まで、余裕で表現してくれています。
実は、このアルバムには同じテキストにサリエリとモーツァルトがそれぞれ曲を付けたものがいっしょに入っています。サリエリは「煙突掃除人Der Rauchfangkehrer」というオペラからのアリア、モーツァルトは単独のコンサートアリアなのですが、この2曲を聴き比べてみると、サリエリの曲の方が格段にキャッチーだとは感じられないでしょうか。モーツァルトのクラリネット五重奏曲が幕間に演奏されたというリギーニのオペラのアリアもとても素敵、このアルバムでダムラウは、胸のすくようなその声とともにサリエリ、リギーニといったモーツァルトと同時代の作曲家の知られざる魅力も、存分に披露してくれました。

1月13日

MacMILLAN
The World's Ransoming
The Confession of Isobel Gowdie
Christine Pendrill(CA)
Colin Davis/
London Symphony Orchestra
LSO LIVE/LSO0124


ロンドン交響楽団の自主レーベルであるLSO LIVE、もはやすっかりマーケットに定着して、これまでに多くの名盤を世に出しています。スタート当初から、ライブ録音とはいってもかなりクオリティの高い音を提供していくれていましたが、2004年頃からエンジニアがそれまでのトニー・フォークナーからジョナサン・ストークスに代わり、同時にDSDを導入したことでさらにグレードアップが図られています。そのあたりから、すべてのアイテムをCDとSACDの両方のフォーマットでリリースしてきていましたが、このアルバムだけはCDのみ、ちょっと残念です。
ところで、今更なんですが、このレーベルのロゴマーク、ただ頭文字を並べただけのものだと思っていたら、どうもその文字を使ってなにかの形をデザインしたもののようですね。確かに、右手に指揮棒を持って左手を挙げている指揮者を正面から見た姿のようには、見えてはこないでしょうか?
このアルバムには、このオーケストラからは多くの曲の委嘱を受けてきたジェームズ・マクミランの作品が2曲収められています。今までマクミランの合唱曲はかなり聴いてきましたが、オーケストラの曲を聴くのはこれが初めて、楽しみです。
1曲目は、1996年に作られた「世界の贖罪」という曲です。料理の材料をテーマにした曲ですね(それは、「世界の食材」)。いえいえ、本当はロストロポーヴィチによって初演された聖なる3日間を題材にした三部作の最初の曲、聖木曜日を扱ったものなのですが。その2作目はチェロ協奏曲、3作目は大規模な交響曲という中で、この1作目はコール・アングレの協奏曲という形を取っています。ここでマクミランが素材として求めたものが、聖木曜日にちなんだプレイン・チャントや、バッハのコラールなのですが、ソロのコール・アングレはもっぱら息の長いチャント風のフレーズを、延々と紡いでいます。合唱作品を聴いていたときにはあまり気づくことはありませんでしたが、マクミランの作曲技法で特徴的なのは、いくつかの異なる世界を、同時に提供するもののように思えます。この曲の中でも、バッハのコラール「Ach wie nichtig」が高らかに鳴り響く調性の世界と、混沌とした不思議な和声の世界の共存は、ひときわ印象的です。打楽器の使い方もかなり色彩的、単なるリズムに終わらない主張が込められているものです。最後の部分に寒々しく響き渡るおそらく硬質の木片によるパルスには、心も凍る思いです。
そして2曲目は、作曲者の故郷スコットランドでの、宗教改革による魔女狩りの犠牲となった女性の手記に基づく「イゾベル・ゴーディの告白」です。透き通るような弦楽器の奏でる癒しにも通じようかという瞑想的な部分と、金管楽器の炸裂する激しい部分との対比が聴きどころでしょう。変拍子やシンコペーションが混在したリズミカルなモチーフはこの作曲家の魅力の一つですが、そこでいまいちすっきり聞こえてこないのは、おそらく指揮者のせいなのでしょう。それでも、荒々しい不協和音によるアコードが13回連続する部分は、聴いているものにとってもあたかも自らが鞭打たれているかのような錯覚に陥るかもしれないほどのインパクトです。最後も死者を悼むような穏やかな弦楽器の響きによって、もしかしたら「救い」が得られたのかと思いかけた頃、その「C」の音のユニゾンの中からいきなり襲ってくる怒りに満ちた打楽器の嵐。その怒りは、いったい何に向けられたものだったのでしょう。
なんでも、4月にはマクミランの新作「ヨハネ受難曲」がやはりデイヴィスとロンドン交響楽団によって初演されるそうです。それもやはりこのレーベルから即座にリリースされる予定、これも聴き逃すことは出来ません。

おとといのおやぢに会える、か。


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