アンタのバラード。.... 佐久間學

(08/7/31-08/8/18)

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8月18日

REINECKE
Von der Wiege bis zum Grabe
Fenwick Smith(Fl)
Hugh Hinton(Pf)
Members of the Boston Symphony Orchestra
NAXOS/8.570777


メンデルスゾーンの後を継いでライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者も務めたドイツの作曲家カール・ライネッケは、1824年といいますから、ちょうどシューマン(1810年)とブラームス(1833年)の生年の間に生まれたことになります。フルートのためのソナタと協奏曲、そして、モーツァルトのフルートとハープのための協奏曲のカデンツァなどは広く知られていますが、他の曲なんかアッタッケ、というぐらい、マイナーな作曲家です。もちろん、実際はあらゆる分野で多くの作品を残している人なのですが。
このCDはタイトルにある「揺りかごから墓場まで」という曲集と、2つの管楽器だけのアンサンブルの、世界初録音盤になります。とは言ってもこのNAXOS盤の新譜は初出ではなく、以前1993年にETCETERAレーベルから出たもののリイシューです。
「揺りかごから墓場まで」というのは、私たちの国には全く縁のない、行き届いた福祉政策を指し示す言葉として知られていますが、このライネッケのピアノ曲集の場合は、人の一生を16曲の小品で描いたものという意味で付けられたタイトルなのでしょう。その中から8曲を選んで、フルートとピアノのために編曲をしたのが、エルネスト・ケーラーでした。そう、フルーティストを目指す人は必ず勉強することになる、あの多くの練習曲を作った「ケーラー」です。お世話になった方も多いことでしょうね。この作品での、まるで最初からフルートのために作られたようなその編曲はなかなか素敵です。曲集自体はそれぞれに分かりやすい表題が付いているほんの2分か3分の曲が集まったもの、おそらく意識的にシューマンあたりのテイストを借用しているのでしょう、それぞれの曲は愛に満ちたまなざしで彩られています。
中でも、3曲目の「おお、美しき五月の夜よ」の、流れるように美しい旋律はひときわロマンティックな情感にあふれたものです。原曲のピアノソロは聴いたことがありませんが、このメロディがフルートによって演奏されることによって、その魅力はさらに大きなものとなっているのではないでしょうか。これを吹いているフェンウィック・スミスの密度の高い音色は、その魅力を十二分に伝えてくれています。
最後の「夕日」という曲も、もちろん人生の最後のメタファーなのでしょうが、なにか晴れ晴れとした面持ちが心を打つものです。
室内楽作品としては、まず二本ずつのクラリネット、ホルン、ファゴットにフルートとオーボエという編成の「八重奏曲」が収録されています。この編成、モーツァルトの時代のセレナーデなどによく用いられた形によく似ていますが、ソプラノパートがオーボエ2本ではなくオーボエとフルートというのがユニークなところです。この二つの楽器があるときは重なりあるときはソロとなるという、ロマン派以降のオーケストラの木管パートの縮図のようなものが、よく現れている編成です。さらに、2本のホルンによる深いハーモニーは、曲全体に重量感のある響きを与えています。第2楽章のスケルツォ主題のリズム的なおもしろさ、最後の楽章の十六分音符の掛け合いの妙、そしてそれらに挟まれたアダージョ楽章のカンタービレと、魅力は尽きません。
その13年後に作られたのが「六重奏曲」です。ふつうの木管五重奏にホルンをもう1本加えたという変わった編成になっています。ただ、このホルンは、先ほどの曲のような厚い響きではなく、個別の声部としての役割が与えられているような気がします。しかし、この曲では「八重奏曲」ではストレートに伝わってきたパトスが、なにかに邪魔をされているような気がしてなりません。まるで、ちょっとした作為の跡のようなもの、素直な情感を表に出すことが恥ずかしいと思われる時代の、それは前触れのように聞こえます。
そのあたりを、こちらで確かめられてはいかがでしょうか。

8月16日

HAUSEGGER
Natursymphonie
Ari Rasilainen/
WDR Rundfunkchor Köln
WDR Sinfonieorchester Köln
CPO/777 237-2


ドラマや映画の音楽というのは、本当は作るのがものすごく難しいものなのでしょうね。基本的な役割は、そのシーンを音によってより雄弁なものにすることなのでしょうが、そこで音楽だけが目立ってしまっては、肝心のドラマが食われてしまいます。理想的なのは、その存在が全く気づかれないものなのかもしれません。なんだか盛り上がっているようだけど、音楽そのものは全く気にならない、そんなシーンに出会えたときには、まさに「劇伴」のプロの仕事に感服してしまいます。「刑事コロンボ」にもあったじゃないですか。ある映画音楽の「大家」が書いたコテコテの音楽は監督にボツにされたのに、その弟子が代わりに作った本当に要所だけを押さえた薄〜いスコアが採用されたという、あれですよ(そんな「秘密」を守るために、弟子は殺されるのでしたね)。
そういう意味で、最近のテレビドラマの音楽あたりはなにか勘違いをしているような気がしてなりません。今NHKで放送されている大河ドラマの音楽などは、そんな勘違いの最たるものなのではないでしょうか。音楽自体はとても美しく、心に訴えかけるところの多いものなのですが、あまりに主張が強すぎてそれ自体で完結してしまい、それが流れているときのドラマに全く溶け合っていないのですよ。もっと言えば、その時の物語の内容とは全く関係のない音楽が、のべつ幕なしに流れているのです。本当ですよ。ちょっと注意して耳を傾けていると、何でこんなしっとりとした場面に、こんな威勢のよい音楽を当てたのだろうといったような場面が殆どですから。
もっとも、これを作った作曲家にしてみれば、そんなことを言われても全く理解出来ないかもしれません。彼にとっては、それは完璧にそのシーンに合致した音楽、として聞こえているのでしょうからね。
「自然交響曲」という大層なタイトルを持つ音楽を作ったジークムント・フォン・ハウゼッガーは、もっぱらブルックナーの交響曲を、それまで用いられていたレーヴェなどによる改竄稿ではなく、ブルックナーの自筆稿に忠実な楽譜による演奏を初めて行った指揮者として知られています。1932年に交響曲第9番を初めて「原典版」によって演奏したことが、その後のハースによる旧全集への緒となるわけです(1938年のミュンヘン・フィルとの演奏が録音として残っています)。
この曲は、彼が39歳の時、1911年に作られました。彼の音楽のルーツは、ワグネリアンだった父親フリードリッヒ(だから、こんな名前を付けられたんですね)の影響でワーグナー、しかし、作られた音楽はそのワーグナーからドロドロとしたものを洗い流したような、非常に明快な情景描写に長けたものでした。これはまさに、殆ど勘違いに近い昨今のドラマの音楽そのものではありませんか。従って、この曲を聴くとき、我々は作曲者があるいは抱いていたかもしれないプログラムとは全く無関係な情景を、そこから思い浮かべることになるのでしょう。
曲は、オルガンと、最後の部分に合唱が加わるという大きな編成を持ったものです。一応4つの楽章に分かれていますが、それらは連続して演奏されます。オルガンソロに導かれる「第2楽章」は、最初のゆっくりとした部分にはとても満ち足りた情感が込められています。その穏やかさが、後半の同じパターンの繰り返しによって無惨にも砕け散る、といったあたりが、一つのクライマックスでしょうか。
「第4楽章」の合唱は、ゲーテの詩をテキストにしたものです。終わり近くに「Unermesslichkeit(無限の存在)」という言葉がア・カペラで歌われるところでは、まるでこの同じ年に作られたマーラーのあの交響曲第8番の大詰めのような引き締まった風景が見えてきます。もちろん、そこにはマーラーほどの屈折した感情は込められてはいませんが。
「自然Natur」と言うよりは、なにか芝居がかった作為を感じさせる曲でした。

8月14日

BACH
Choralfantasie BWV1128, Die Kunst der Fuge
Gerhard Weinberger(Org)
CPO/777 403-2


分かりにくいかもしれませんが、このジャケットの右下には「ヨハン・セバスティアン・バッハの新作 New work by J. S. Bach」というシールが貼ってあります。亡くなってから250年以上経っているのにまだ「新作」を発表出来るのですからすごいものです。もちろん、これは「新しく作られた」曲であるわけはなく、「新しく発見された曲」ということになるのですがね。実は、このオルガンのためのコラール・ファンタジー「主なる神、われらを守りたまわずば Wo Gott der Herr nicht bei uns halt」は、今年2008年の3月にオークションに出品された写筆譜が、バッハが作った音楽をコピーしたものに間違いないということになって、晴れて新しくバッハ作品番号BWV1128が与えらることにばっはものなのです。
この写筆譜は、バッハの自筆稿ではなく、19世紀の旧バッハ全集の編纂にあたっていたヴィルヘルム・ルストという人が、おそらくバッハのものであろうという楽譜を写譜したもので、当初は全集にも入れるはずのものだったのが、他の編集員が真作とは認めず、結局BWVでも「付録2(偽作の疑いがあるもの)」というカテゴリーに収録されることになってしまいました。ですから、曲自体は以前から知られていたものであり、今回のオークションでたまたまルストの遺品の中にあった彼の写筆譜と、その元ネタの由来が記されたものを元に再調査を行った結果、「真作」であると認められたというだけのものなのです。したがって、この曲はもちろん「新作」ではありませんし、「新発見」ですらないことになります。
それでも、「新発見」の報を受けて楽譜は直ちに出版され、5月にはバッハのオルガン曲全集録音のプロジェクトを進行中のワインベルガーによって、「最後の」作品であり、かつては最後の作品番号(BWV1080)でもあった「フーガの技法」の余白に録音されたのです。なんという早業なのでしょう。もちろんCD発売にあたっては、「世界初録音」という意味を込めて、さっきのようなシールを貼ることも忘れてはいません。ただ、正確には、もっと早く録音してCDを出したオルガニストがいたそうですので、これが「世界初録音」であるのもちょっと疑わしい気がしますが、「発見」されてから2ヶ月後には録音、4ヶ月後にはCDがリリースされていた、というのはすごいことではないでしょうか。それだけ、情報が世界を巡る時間が短くなったのでしょうね。
ただ、それがあまりに早過ぎると、逆に流行を追っているみたいでちょっと白けてしまうことはありませんか?正直、この前の「新曲」であるBWV1127(ソプラノのアリアでしたっけ)の時でも、大騒ぎして録音はされたものの、別にどうというものでもなかったような気がしてなりません。今回も「抱き合わせ」が大曲の「フーガの技法」ですから、当然2枚組、この曲だけを目当てに買うには、ちょっと勇気のいるパッケージです。それとも、「バッハの新曲」だったら、このぐらいの値段でも買う人がいるだろうというのがレーベルの目論見なのでしょうか。
確かに、初めて耳にするこの6分ちょっとのコラール・ファンタジーは、新鮮な息吹を与えてくれるものでした。しかし、だからといって、それはバッハの今まで知られている膨大なオルガン作品の中の1曲と何ら変わるものではありません。「初録音」などという大げさな扱いを受けずに、何かの折りに他の同じような曲を一緒に演奏されたものを聴いた方が、どれだけ自然に感じられることでしょうか。
カップリングの(とは言っても、当初はこちらがメインだったはず)「フーガの技法」は、この曲に与えられた厳格な対位法の集大成という「堅苦しい」イメージを振り払ってくれるような、とてもイマジネーションの豊かな演奏です。ポリフォニーの間から、バッハのリリカルな面、そう、あの美しいアリアなどのテイストが垣間見えてくるようで、とても幸せな気分に浸れるものでした。こんな「おまけ」が付かなくても、充分楽しめるCDなのに。

8月12日

MOZART
Don Diovanni
Pietro Spagnoli(Don Giovanni)
Mario Luperi(Commendatore)
Myrtò Papatanasiu(Donna Anna)
Marcel Reijans(Don Ottavio)
Charlotte Margiono(Dona Elvira)
José Fardilha(Leporello)
Jossi Wieler, Sergio Morabito(Dir)
Ingo Metzmacher/
Chorus of De Nederlandse Opera
Netherlands Chamber Orchestra
OPUS ARTE/OA 3020B D


ヴィーラーとモラビトの演出による「ダ・ポンテ三部作」、この「ドン・ジョヴァンニ」では、設定を読みかえるだけではなく、ドラマの構造そのものを解体するという冒険(暴挙とも言う)に挑んでいます。ステージ上に並んでいるのは夥しい数のダブルベッド、一見家具屋さんの寝具コーナーのように思えてしまいますが、序曲の間それぞれのベッドの上には熟睡している人がしっかり横たわっているので、それはないだろうということになります。しかも、一つのベッドのコーナーだけがやたらマニアックな設定、昔の8oフィルムや、プロジェクター、編集機などが棚に並んでいます。同じ棚には、それこそ「ドン・ジョヴァンニ」の写真(カラヤン盤のジャケットにある、サミュエル・レイミーのコスプレ写真)まで飾ってあるのですから、これは家具屋さんではあり得ません。おそらく、これはそこに横たわっている人たちのそれぞれの寝室を、時空を超えて集めたものなのでしょう。もちろん、こんなオタクっぽいコーナーはレポレッロの寝室に決まってます。8oフィルムのコレクションは、ポルノ、そして戸棚の中には、なんと写真そっくりの「ドン・ジョヴァンニ着ぐるみ」が入っているではありませんか。これは、後にドン・ジョヴァンニとレポレッロが入れ替わってドンナ・エルヴィラを騙すシーンで実際に用いられるという、「実用的」な効果も持っているのですが、こんなアブナイものをクリーニングに出して後生大事にしまっておく、というのは、レポレッロの変身願望の象徴、というのが、演出家の意図なのかもしれませんね。
ですから、結婚式の衣装のまま、真っ白な可愛らしいベッドに寝ているツェルリーナとマゼットの願望は、初々しくつつましい新婚生活を送ることだったのでしょうか。もちろん、そんな願望が叶うはずもなく、ツェルリーナの純白のウェディング・ドレスは、ドン・ジョヴァンニの「暴行」によって、真っ赤な血で汚されてしまうことになるのですがね。
そんなふうに、これらの「寝室」はそれぞれのキャラクターの潜在意識が象徴されるかのような様子を見せています。そんな中で、1人眠ることが出来なくて歩き回っているのが騎士長。「フィガロ」ではとんでもない音程で1人音楽的に足を引っ張っていたバルトロを演じていた人ですが、そんな重苦しい音程がここでは逆に深刻さを良く出していますから、こちらの方がハマリ役なのでしょう。この騎士長の出番は極端に少ないので、最初に出てきて「死んだ」あとには、本当に死んだようにベッドの上で寝ています。この人のヘッドが、まるでダースベーダーのように見えてしまうのはかなりブキミ。ちなみに、この騎士長のベッドだけが、第2幕になると半分床に沈んで斜めになっています。それは、果たしてどんな意味を持っているのでしょうか。
おそらく、そんな一つ一つのセットや歌い手の動きには、演出家としてはきちんとした意味を持たせたつもりなのでしょう。そして、その意味を深く詮索し、理解するのは、今時のオペラ愛好家にとっては必要不可欠なスキルなのかもしれませんし、それが最先端の流行であるのは良く分かります。しかし、正直これだけ独りよがりで見当違いのことを堂々とやられると、そんな努力が果たして意味のあることなのか、少々疑問になってはきませんか?
そんな、夢とも現実ともつかないようなプロットを原作に馴染ませるために、ここではレシタティーヴォのいくつかがカットされています。そのいかにも中途半端な措置は、なまじ普通にやられている部分があるだけ違和感が募ります。ここまで「読みかえ」を行ったのであれば、それこそその道での古典、ノイエンフェルスの「こうもり」ぐらいの大鉈を振るわないことには、目の肥えた聴衆を満足させることなど出来ませんよ。

8月10日

MOZART
La nozze di Figaro
Garry Magee(Count)
Cellia Costea(Countess)
Danille de Niese(Susanna)
Luca Pisaroni(Figaro)
Maite Beaumont(Cherubino)
Jossi Wieler, Sergio Morabito(Dir)
Ingo Metzmacher/
Chorus of De Nederlandse Opera
Netherlands Chamber Orchestra
OPUS ARTE/OA 3020B D


この「ダ・ポンテ三部作」は、2006年の11月から2007年の1月にかけて「コジ」、「ドン・ジョヴァンニ」、「フィガロ」の順に3日連続してツィクルスとして上演されたものです。キャストにも共通性があり、この「フィガロ」では「コジ」に出ていた殆どの人がそのまんま他の役を演じています。さらに、「ドン・ジョヴァンニ」でも、「フィガロ」のマイナーな役の人が3人ほどメイン・ロールに変貌と、びっくりするようなキャスティング、それこそ「指環」のように、まさに一貫したツィクルスとしての性格が強調されています。
今回の設定は、車のショールーム、でしょうか。真ん中には本物のオープンカーが展示されています。ステージの上の方にはその車のエンブレムが飾られていますが、そこにある文字は「アルマヴィーヴァ」、そう、ここでは「伯爵」は自動車会社のオーナーという「読みかえ」がなされているのです。キャストは「コジ」ではドン・アルフォンソ役だった人です。実はこのセット、2階部分も設けられていて、そこが「オーナー夫人」の事務所、彼女は設計担当なのでしょうか、そこにはドラフターなどが置いてあります(この人は、ここだけのキャスティング)。そしてケルビーノ(2日前はドラベッラでした)あたりは整備工、会社のロゴの入ったツナギ姿で、車の下から登場です。
そうなると、その他の役どころは自ずと想像出来ることでしょう。フィガロはグリエルモ、そしてスザンナはデスピーナ役だったデ・ニースということになります。フェランドだった人も、目立ちませんがドン・クルツィオ役で登場しています。ただ、もう一人の目立たない役、ドン・バジリオが、ここではかなり活躍する場面を与えられています。序曲の間に結婚パーティー用の飲み物を運んできた業者の女の子の尻をなでたりしているので、最初はこの人が伯爵(いや、オーナー)だと思ってしまったぐらい、存在感がありました。ですから、第4幕の普通はカットされてしまう唯一のアリアも、しっかり歌わせてもらえています。もう一人のやはりアリアをカットされがちなマルチェリーナも、しっかりフルで歌っているのは、この二人が「ドン・ジョヴァンニ」でドン・オッターヴィオと、ドンナ・エルヴィラを演じていることと無関係ではないはずです。
この「ショールーム」のセットは、最初から最後まで変わることはありません。第1幕の、本来はケルビーノが椅子の後ろに隠れて伯爵の話を盗み聞きするところなどは、真ん中のオープンカーを上手に使って(エンジンルームに隠れるというのはちょっと無理がありますが)面白い味を出していますし、第3幕の結婚式の場面でも効果的な使われ方をしています。しかし、第4幕になるととうとうこのセットだけではどうにもならなくなって、プロジェクターで監視カメラのような映像を流して情景を描くという「反則技」に走ってしまいます。いくらなんでもそれはないだろうというこの扱い、DVDにはそのカメラの映像しか映りませんが、歌手たちは一体どんな風にこの白々しい状況を耐えていたのでしょうか。
そんな演出の破綻とともに、ここではメッツマッハーの作り出す音楽がなんとも流れのない停滞したものに感じられてしまいます。モーツァルトにはなくてはならない生気あふれるテイストが、まるで見当たらないのですよ。もう一つ、レシタティーヴォの通奏低音もこの指揮者が自ら演奏しているのですが、その楽器がシンセサイザーなのです。これは、いくら「現代」でも、ちょっと許し難い措置なのではないでしょうか。チェンバロやフォルテピアノの代わりに使うには、この「楽器」はあまりにも貧相な音色です。まるで気が抜けた新鮮なサイダーみたい。

8月8日

MOZART
Così fan tutte
Sally Matthews(Fiordiligi)
Maite Beaumont(Dorabella)
Luca Pisaroni(Guglielmo)
Norman Shankle(Ferrando)
Danille de Niese(Despina)
Garry Magee(Don Alfonso)
Jossi Wieler, Sergio Morabito(Dir)
Ingo Metzmacher/
Chorus of De Nederlandse Opera
Netherlands Chamber Orchestra
OPUS ARTE/OA 3020B D


ネーデルランド・オペラがあの2006年の「モーツァルト・イヤー」に制作した「ダ・ポンテ三部作」が、まとめてDVDになりました。ヨシ・ヴィーラーと、セルジオ・モラビトというチームによる演出はもろ現代に読みかえたプラン、クリスマスはまだですが(それは「モロビト」)なかなか楽しい仕上がりになっています。まずは、一番楽しめた「コジ」から。
ネーデルランド・オペラといえば、以前やはりDVDで見た「指環」がとても印象に残っています。客席と舞台とが一体化した壮大な装置が、特に目を見張るものでした。今回もアムステルダムの音楽劇場という会場は同じです。しかし、そこはモーツァルトのこと、ワーグナーのような大げさなセットではありませんでした。とはいっても、かなり広い空間を使っての回転舞台が、ここではテンポの良い演出を可能にしています。
モーツァルトのように18世紀後半の時代様式にどっぷり浸かった台本と音楽で出来ているオペラの舞台を21世紀に置き換える時には、そこには当然何らかの操作が必要になってきます。その操作を「読みかえ」と呼ぶことは、周知のことでしょう。
そんな「読みかえ」が行われたプロダクションは、以前ピーター・セラーズのもので見たことがありました。そこでは、なぜ現代でなければいけなかったのか、という疑問に対する明確な答えが与えられるだけの強い主張が感じられたものです。ただ、それを、今回の2人の演出家に求めるのは、ちょっと酷な気がします。ここには、アイディアとしては楽しめても、残念ながらそれが論理的には辻褄が合っていないために、「突っ込み」どころがいくらでも見つかってしまうからです。「素」のフェランドはアフロヘアなのに、「紳士」に変装したあと元に戻った時には普通の髪になっているとか、「紳士」の時にもひげがあったりなかったり、というあたりが、そんな間抜けなところでしょう。
おそらく、そのようないい加減さは、原作がそもそもいい加減なプロットなのだ、という開き直りから来ているのかもしれません。したがって、そんないい加減なことをまともな大人がするわけがない、というのが、彼らのプランの出発点だったはずです。ここでは二組の恋人は高校生ぐらいの年齢という設定、「ビバヒル」や「ドーソン」ではありませんが、元カノが親友とエッチするなどというのは日常茶飯事の世界です。
もちろん、ドン・アルフォンソとデスピーナは「大人」として登場するキャラクターになっています。ただ、そんな「大人」が、「子供」をけしかけてスワッピングをやらせたりするわけですから、かなり「ワル」ではありますがね。デスピーナがドラベッラをデートに送り出す時にコンドームを持たせてやる、といったあたりが「大人」としての分別をあらわしているのだとしたら、笑えますが。
オーケストラは、金管にナチュラル楽器を用いてはいますが、基本的にはモダン指向、しかも、レシタティーヴォの通奏低音にギターを用いているのがユニークといえばユニークなところです。このギターはまるでヒッピーのような格好でステージ上をうろついて、普通の低音の合間に、即興的に他のオペラからの一節を奏でるという趣向です。「若さ」のまわりに漂っている雰囲気をこんな形で表現したのは、なかなかのアイディアではあります。
お目当てのデ・ニースは、そういう演出の元ではなかなか本領が発揮されないもどかしさがあります。しかし、他のキャストは、合唱も含めてこの演出を本気で楽しんでいるようでした(合唱の人、マジで笑ってませんでした?)。そういうところから発散される「力」にも、無視できないものがあることに、ここでは気づかされます。

8月6日

BONIS
Romantic Flute Music
Tatjana Ruhland(Fl)
Florian Wiek(Pf)
Mitglieder des Radio-Sinfonieorchesters
Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.204


メラニー・ボニという作曲家の名前は、この前のケネス・スミスのアルバムの時に初めて耳にしたものです。お魚みたい(それは「ポニョ」)。あの時に聴いたフルート・ソナタがなかなか素敵な曲だと思って、彼女の名前が頭の中に残ってまだ消えないうちに、こんな、彼女のフルートを含む室内楽だけを集めたアルバムが出るなんて。
彼女の生涯は、まるでドラマのように波乱に満ちたものでした。彼女は1858年にフランスのプチ・ブルの家に生まれましたが、両親は全く音楽には無関心、彼女はお針子にでもなるようにしつけられます。そんな中で、知人の薦めで独学でピアノの勉強を始め、それがセザール・フランクの目にとまって、ついにはパリ音楽院に入学することになるのです。そこで彼女の才能は花開くのですが、1881年に音楽院での仲間であったアメデー・ランドリー・エティシュと恋に落ちてしまったから、いけません。怒り狂った両親はメラニーを退学させ、20歳以上も年上のバツイチの資産家アルベール・ドマンジュと結婚させてしまうのです。それからは、彼女は音楽からは離れ、メラニー・ドマンジュとして、夫の5人の連れ子と、自分自身の4人の子供の世話を見るという生活を強いられることになります。
しかし、その4人の子供のうちの1899年に生まれた最後の女の子は、実は元カレのエティッシュとの子供でした。不倫、ってやつですね。二人の間の愛の炎は、まだ消えてはいなかったのです。しかし、彼女はこのことで大きな罪悪感を抱くようになり、結局二人の関係が長続きすることはありませんでした。
1900年台に入って彼女は「メル・ボニ」というペンネームで創作活動を再開、300曲あまりの作品を残し、リュドゥック社などから出版もされます。それらのいくつかは当時の一流の音楽家たちによって演奏され、彼女の作曲家としての地位は確固たるものになったかに見えました。しかし、現実には彼女の死後はその作品は完全に忘れ去られ、それが再評価されるようになったのはごく最近のことなのです。
以前、ケックランの珍しい作品を紹介してくれたシュトゥットガルト放送交響楽団の首席フルート奏者タチアナ・ルーラントは、ここでも今まで顧みられることのなかった知られざる名曲を発掘してくれました。ここではさらに、「女性だから」ということでまわりから理解されない中で自らの芸術を造り上げたこの作曲家への共感も加わって、なかなか気迫に満ちた仕上がりとなっています。なんせ、9曲の収録曲のうち、5曲までが世界初録音なのですからね。
ボニの作風は、アルバムのタイトルにもあるようにフランクの流れをくむロマンティックなものがベースになっています。しかし、そこには同時代のドビュッシーなどに見られる斬新な和声や異国趣味なども垣間見ることが出来るでしょう。フルートの作品に限ってみれば、あのフィリップ・ゴーベールのようなテイストが、かなりの部分で感じられるはずです。
そんな中で、彼女だけにしか見られない特徴は、直接的に胸をえぐるようなセンチメンタリズムの発露が感じられるメロディ・ラインではないでしょうか。それは、最初のトラック、初録音の「組曲」の1曲目「セレナード」で、まず聴き取ることが出来ることでしょう。
「古いスタイルによる組曲」という、やはり初録音の作品も、なかなか興味深い特徴を持っています。2曲目の「フゲッタ」などは、いかにもバロック風のフーガ仕立てですが、その主題の後半に不似合いなシンコペーションが入るあたりがとってもユニーク。次の「コラール」も、まるでバッハのような音楽です。
ルーラントの演奏は、確かに共感には満ちているものの、なぜかあまり訴えかけてくるものがないのはなぜなのでしょう。ケネス・スミスを聴いたときには確かに感じられた深いメッセージが、ここではなにか表面的なものしか伝わってこないような気がします。

8月4日

PROKOFIEV/PeterSneaky Pete and the Wolf
SAINT-SAËNS/Carnival of the Animals
Peter Schickele(Narration)
Yoel Levi/
Atlanta Symphony Orchestra
TELARC/CD-80350


もともとは1993年にリリースされたものなのですが、このレーベルの「Classics」というシリーズのアイテムとしてのリイシューです。ジャケットやライナー、そして品番も全く初出と同じものなのに、ミドプライスになっている、というあたりが、このレーベルのユニークなところです。
もちろん、このCDの目玉は、ナレーションを担当しているピーター・シックリーであることは、言うまでもありません。なんたって「P・D・Qバッハ」のファンですから、彼のやることはなんでもしっくりきます。よく見ると、タイトルの「ピーター」のところには、手書き文字で赤線が入って、「スニーキー・ピート」と書き直してありますね。こんなところは、もしかしてシックリーのアイディアで何かやってくれているのでしょうか。そういえば、そんな名前のカントリー・ミュージシャンもいたような。それにこのシックリーの写真も、いかにも「ウェスタン」といったコスプレです。期待してもいいのかも。
「ある日、スニーキー・ピートは、酒場のスイング・ドアを押し開けて表の通りへ出た」という、いかにも飲んだくれというがらがら声のシックリーのナレーションが最初に聞こえてきたとき、その期待は裏切られることがなかったことに気づきます。この、いかにも西部劇の幕開けのような語りは、「ある朝早く、ピーターは木戸を開けると、広い緑の牧場へとびだしていきました」というオリジナルのナレーションの、見事なパロディではありませんか。そう、ここはもはやロシアののどかな田舎などではなく、荒くれ男たちが行き交う西部の町だったのです。もちろん、そこには「小鳥」やら「アヒル」、ましてや「ぶつくさ文句を言うおじいさん」などは登場することはありません。なにしろ、フルートが奏でる小鳥のさえずりは、ピートの胃袋の中で飛び回っている蝶々をあらわしているのですからね。そんな風に、ここではプロコフィエフが特定の楽器と人物、あるいは動物の間に設けた相関関係を、全く別のものに「読みかえ」て、抱腹絶倒の西部劇にしてしまっているのです。もちろん、音楽は1音たりともいじってはいません。これは、かなり爽快なことではないでしょうか。そもそもこの曲が「教育」目的に使われている現場では、「弦楽合奏のメロディは、いかにも元気な少年のようですね」みたいな、ある意味「押しつけ」を強要しているわけですが、シックリーはそんな欺瞞を見事に笑い飛ばしてくれているのですからね。
ですから、この「西部劇」版のナレーションを聴きながら音楽を聴いていると、同じメロディが今まで思っていたのとは全く別なものに感じられてしまうという、不思議な体験が味わえます。しかも、そこにはなんの違和感もないのですから、それはちょっとしたショック。もしかしたら、音楽の与えるイメージなどというものは、決して一つの概念に固定されることはない、ということを、シックリーはここで証明してみせたかったのではないでしょうか。そして、それは大成功を修めています。例えば、町の悪ガキがピートの決闘相手のエル・ロボ(この人の本名がウルフ)に紙飛行機をぶつけるというシーンで流れるヴァイオリンの音型は、まさに紙飛行機がヒラヒラと飛んでいる様子を描写したものにしか聞こえません。それが原作ではピーターが狼を捕まえるためにこっそり縄を投げおろすという場面で使われているなんて、ちょっと信じられないほどですからね。
「動物の謝肉祭」の方は、元からあったオグデン・ナッシュという人の書いた詩を、現代風にシックリーが手を入れたものが、それぞれの曲の前で朗読されます。これもなかなか気が利いていて楽しめます。ただ、こちらには品のよいジョークはあっても、「ピート」のような「毒」が込められているというようなことはありません。

8月2日

MOZART
Requiem, Messe c-moll
Arleen Auger, Kristina Laki(Sop), Doris Soffel(MS)
Thomas Moser, Robert Swensen(Ten)
Stephen Roberts, Thomas Quasthoff(Bas)
Gary Bertini/
Kölner Rundfunkchor und Rundfunk-Sinfonie-Orchester
PHOENIX/CD 116


最近、新しいレーベルが日本に紹介されたようですね。PHOENIX(フェニックス)というのだそうですから「不死鳥」ですか。なんか意味ありげな名前です。その1回目のリリース分から、モーツァルトの「ハ短調ミサ」と「レクイエム」がカップリングされている2枚組を買ってみました。これで1枚分のお値段ですからお買い得、とは思いましたが、新録音ではなく一度CAPRICCIOという別のレーベルから出ていたものでした。そんなあたりが、このレーベル名の由来なのでしょうか。
ここで指揮をしているのは、2005年に亡くなったベルティーニ。「ハ短調」(エーダー版)は1986年、「レクイエム」(ジュスマイヤー版)は1991年の、それぞれライブ録音です。そういえば、「ハ短調」でのソリスト、アーリン・オージェも1993年に亡くなっていましたね。
まず、その20年以上前に演奏された「ハ短調」です。オーケストラは当時の呼び名でケルン放送交響楽団、おそらく放送用の音源なのでしょうが、そこから聞こえてきたのは、最近はあまり耳にすることのなくなったかなり仰々しいサウンドでした。録音もかなりモヤモヤしたもので、「重さ」は感じられるものの、フットワークはかなり鈍いもののように思われて、ちょっとたじろいでしまいます。合唱もかなりの大人数、しかも、それほどトレーニングがされていないようなかなり雑な声が聞こえてきます。ソプラノ・パートあたりはかなり悲惨、大人数の合唱の悪いところだけが目立ってしまうような演奏です。最近は、こういう合唱は努めて聴かないようにしていたので、なんか、久しぶりにお目にかかった、という感じ。
ソリストも、事情は同じことです。さっきのオージェなども、この頃は代表的なモーツァルト歌手のように言われていたものですが、今改めて聞いてみるとそのヒステリックな歌い方は、到底今の時代には通用しないものになっていることに気づかされます。もう一人のソプラノ・パートのソリストは、殆どアルトと言っても差し支えのないゾッフェルが担当しています。この人も、例えば「Laudamus te」あたりでのあまりにも堂々とした歌い方にはかなりの違和感があると
ソプラノ・ソロに木管楽器がからむ終わり近くのナンバー「Et incarnatus est」では、今までずっと休んでいたフルートが初めて登場します(もちろん、元々はオーボエ奏者が持ち替えで演奏していたものです)。これはフルート奏者にとってはかなり辛いもの、この奏者もコンディションがつかめていないのがもろに分かってしまうのが、ライブ録音ならではのことでしょう。ここでも、ソプラノと木管ソリストたちのアンサンブルを楽しむことなどは到底できません。
そんな、かなり悲惨な「ハ短調」の5年後に演奏された「レクイエム」では、合唱が見違えるように素晴らしいものになっているのは、どういうことなのでしょう。確かに、合唱指揮者がヘルベルト・シェルヌスという人からゴットフリート・リッターという人に代わっていますから、そのせいなのかもしれません。それに加えて、ここでのバスのソリストのクヴァストホフが、本当に素晴らしい「Tuba mirum」を聴かせてくれています。まるでビロードのような滑らかな声、それはもしかしたらこの曲には必ずしもふさわしいものではないのかもしれませんが、このベルティーニの作り出す厚ぼったいサウンドの中では見事に輝かしい光を放っています。
ベルティーニのアプローチは、「ハ長調」と全く変わっていないにもかかわらず、ここからは格段に心を打つ音楽が発散しているのは、「レクイエム」という曲の持つ性格のせいなのでしょうか。確かに「Lacrimosa」など、最初は合唱が聞こえないほどオーケストラが張り切っていて、そのままのハイテンションで曲が進んでいき、盛大に終わるというかなりの「臭さ」なのですが、それもすんなり許せてしまえるほどの懐の深さが、この曲には潜んでいることに気づかされます。

7月31日

WAGNER
Der fliegende Holländer
Hans Sotin(Bas), David Pittman-Jennings(Bar)
Christiane Libor(Sop), Endrik Wottrich(Ten)
Antoni Wit/
Orkiesta Symfonicza i Chór Filharmonii Narodowej
CD ACCORD/ACD 143-2


一般に「ワルシャワ・フィル」と呼ばれているポーランドの名門オーケストラは、正式には「ワルシャワ国立フィル」というのだそうですね。さらに、これが母国語の表記になると単に「国立フィルハーモニー」となるということで、なかなか渋いものがあります。2002年から音楽監督に就任したアントニ・ヴィットとともに、NAXOSあたりには多くの録音を行っているのは、ご存じのとおりでしょう。
そんなヴィットとワルシャワ・フィルのコンビが、オペラハウスではなくコンサートホールで行った「オランダ人」の演奏のライブ録音です。「ホール・オペラ」としての公演なのか、あるいは衣装などは着けない(あ、「裸で」という意味ではありませんよ)コンサート形式の演奏なのか、ということは、ポーランド語とドイツ語だけで書かれたライナーノーツからは、知ることは出来ません。
何も知らずに聴いたら、ピットの中に入っているオーケストラかと思われるほどの、なんともモヤッとした音には、一瞬たじろいでしまいます。特にティンパニの、あたりのことを全く考えていないような盛大な、というか、乱暴な響きは、お粗末な録音スタッフのせいなのでしょうか。
そんな、とてもステージ上のオーケストラとは思えないようなひどいバランスではありますが、それを我慢すれば、ヴィットがここで目指しているものはかなりストレートに伝わってきます。おそらく彼はオペラを専門に演奏する指揮者ではないのでしょう。ここには「ドラマ」を造り上げる、というよりは「音楽」をきっちりと演奏することによって、自ずとその中から「物語」の形を浮かび上がらせる、といったような姿勢を感じとることが出来ます。
ソリストたちの歌は、そんな流れで、ストーリー展開をあまり意識していない分、それぞれのアリアを独立して楽しめることになります。オランダ人役のピットマン・ジェニングスは、このロールにはちょっと合わないような滑らかなバリトンですが、過剰にドラマティックな歌い方を避けたせいで、あまり暗くなりすぎない歌を楽しむことが出来ます。ゼンタ役のリボールも、のびのびと歌っている感じ、「ゼンタのバラード」(もちろん、ト短調バージョン)も、悲壮感や切迫感とは殆ど無縁な、純粋にソロと、そして女声合唱とのアンサンブルを楽しむための音楽になっていたのでは。
ソリストの中での最大の収穫は、エリック役のヴォットリッヒでした。力強さと甘美さを兼ね備えた上に、音楽のフォルムをきちんとコントロール出来る賢さも併せ持つという逸材ではないでしょうか。ここでエリックが歌う2つのアリアは、いずれも格別に魅力的でした。
同じような姿勢は、合唱にも感じられます。特に最近のように、合唱団にまで複雑な「演技」(もしくは、「振り」)が要求され、つい歌がおろそかになってしまうという本末転倒状態が起こりがちなオペラのステージとは違い、ここではきちんとした「音楽」を伝えられるまともな「合唱団」として聴くことが出来ます。それが端的に表れているのが、第3幕冒頭の「水夫の合唱」。正直、今までこのノルウェー(あ、初稿ではスコットランドでしたね)の船乗りたちの合唱は、単なる場つなぎの音楽としか思えていなかっただけに、ここで聴ける「音楽的」な演奏にはちょっと感激しているところです。本当は、こんな美しい音楽だったんですね。
幕間なしで演奏する本来の形を取っているために、2時間半という長丁場を休憩なしで体験するという、お客さんにとっては大変なコンサートとなりました。しかし、その間緊張感を持続させたまま充実した音楽を提供していたヴィットには、もしそこに居合わせたとしたら、その声がしっかり録音されているお客さんと一緒にきっと本気で「ブラボー」と叫びたい気持ちになっていたことでしょう。

おとといのおやぢに会える、か。


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