(東北限定)あんだん手(あなたの手)。.... 佐久間學

(07/2/3-07/2/24)

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2月24日

GOTTWALD
Transkriptionen
Marcus Creed/
SWR Vokalensemble Stuttgart
CARUS/83.181


お馴染み、クリトゥス・ゴットヴァルトの編曲作品だけを集めたアルバムです。ここで演奏しているクリードとシュトゥットガルト・ヴォーカルアンサンブルが録音したゴットヴァルトというと、半年ほど前にご紹介したこちらのアルバムを思い出す方もいらっしゃることでしょう。実は、この中にはそこに含まれていたのとまったく同じ曲目も収録されています。特に最後のマーラーの「私はこの世に見捨てられ」は教会でのライブ録音ですから、もしかしたら同じ音源? と思ってしまうのは当然のことです。ただ、表示されている演奏時間がずいぶん違っています。しかし、聴き比べてみるとこれは全く同じもの、HÄNSSLER盤では拍手が入っていて、その分長くカウントされていた、というだけのことでした。もう2曲、ワーグナーの「ヴェーゼンドンク」からの曲も同じ音源、「温室で」の演奏時間が双方で異なっているのは、CARUS盤の単なるミスプリントです。
プロデューサーやエンジニアを比べてみても、この2枚の間には共通点が見られます。そもそもSWRが録音したものを「共同制作」という形で2つのレーベルに振り分けたものなのでしょう。HÄNSSLERはもちろんこの放送局とは密接な関係にありますし、CARUSの方はゴットヴァルトの楽譜を出版している、というつながりなのでしょう。もちろん、どちらのレーベルも本拠地はシュトゥットガルトですし。
その、「相互乗り入れ」を行っている曲を除いたドビュッシー、ラヴェル、カプレ、メシアンというフランスもの、そしてベルク、ホリガーというドイツものの編曲は、ほとんどが世界初録音となっています。1985年に作られた先ほどのマーラーの編曲が、今ではしっかり合唱団のレパートリーとして定着しているように、ゴットヴァルトが作り上げた多声部の無伴奏合唱による宇宙は、特異な存在感を主張して確固たる地位を築き上げました。ここで、その最新の成果に触れられる幸せは、例えばリゲティの「ルクス・エテルナ」を聴いて「イケテルナ」と、その魅力に取り憑かれた人にとっては何にも替えがたいものがあるはずです。
新しい地平を拓く、という意味で最も注目に値するのは、メシアンの「イエズスの永遠性に対する頌歌」ではないでしょうか。これは、ご存じ「世の(時の)終わりのための四重奏曲」の第5曲目、チェロとピアノによって演奏されるあの瞑想的な曲です。ピアノが刻むパルスをバックに、チェロが流れるようなゆったりとした無限旋律を奏でるというもの、それを合唱に置き換える際に、ゴットヴァルトはメシアン自身が「3つの典礼」という女声合唱曲のために作った歌詞を、コラージュ風に用いています。ここで必要とされるパートはなんと19声部、その厚ぼったい響きが主にピアノのパートを受け持った結果、この曲はオリジナルが持っていた単旋律の流れよりは、煌びやかな和声の移ろいの方がより強調されることになりました。言ってみれば、この曲の中にメシアンが遠慮がちに秘めていた輝きを、白日の下にさらしたようなもの、全く装いも新たな、ほとんど別な曲として生まれ変わりました。
カプレの「イエズスの鏡」からの3曲も、オリジナルでの控えめな合唱の使い方に物足りなさを感じていた人には嬉しい編曲でしょう。元の女声合唱を生かしつつ、器楽のアンサンブルや独唱を合唱に置き換えるという手法は見事です。
この合唱団は、ゴットヴァルトの編曲の持つ緊張感を、鋼のような硬質の音色で良く表現しています。ソプラノの一本芯の通った力強さはいかにも「ドイツ的」。ですから、フランス語のディクションの拙さもあってか、これらのフランスの曲の持っていたある種の「ゆるさ」が、もっと厳しいものに置き換わっているという印象は免れません。その点、アルバン・ベルクやハインツ・ホリガーの曲では、構成の逞しさまでも表現しきった編曲ともども、圧倒的な力を感じることが出来ます。

2月22日

Wolfgang Windgassen singt Wagner
Wolfgang Windgassen(Ten)
Richard Kraus, Ferdinand Leitner,Leopold Ludwig/
Bamberger Symphoniker, Münchener Philharmoniker,
Radio-Symphonie-Orchester Berlin
DG/000289 477 6543


昔からレコードを聴き続けている人にとっては、これはとても懐かしいジャケットデザインなのではないでしょうか。ドイツ・グラモフォンの、多分モノラルLPの時代のものが、こんな感じ、レーベルカラーの黄色がベタで広がっているというデザインです。ステレオ時代になると、今でも使われている「枠」で、この黄色い部分を囲むようになるのでしょうね。
1914年に生まれて1974年に亡くなった不世出のワーグナー歌手、ヴォルフガング・ヴィントガッセンのこのソロアルバムも、1953年から1958年にかけて録音された、もちろんモノラルLPでした。今回はその初CD化、LPには収録されていなかった「マイスタージンガー」からの3曲もボーナス・トラックとして加わっています。
ただ、データはそれぞれのトラックの録音年しか記載されておらず、プロデューサーやエンジニアの名前は分かりません。さらに、ちょっと問題なのはここで演奏している指揮者とオーケストラがどの曲を演奏しているのかという情報が全く欠けていることです。指揮者は3人、オーケストラも3つクレジットされていますが、誰がどのオケを振っているのかすら分かりません。まあ、半世紀以上前のものですからそれは許してあげましょうか。私たちはヴィントガッセンの声さえ聴ければいいのですから。
実際に聴き始めると、録音のせいもあるのでしょうが、確かに、オーケストラがどこであるか分かったところで何の意味もなさそうな、いかにも田舎臭いサウンドにはちょっとひるんでしまいます。木管あたりもかなり怪しげ。しかし、ひとたびヴィントガッセンの声が響き渡ると、そんなことは全く気にならなくなってしまいます。何という存在感のある声なのでしょう。力強く、中身のいっぱいつまったその声は、まさに「ヘルデン・テノール」の理想的なもののように聞こえます。しかし、しばらく聴いているうちに、その存在感の拠り所は単に声の質だけではないことに気付かされます。それは、例えば「ジークフリート」の「鍛冶屋の歌」で見られるリズム感の良さなのかもしれません。どんなオペラ歌手にもありがちな、ちょっとした自分の都合による(ブレスなど)リズムの揺れが、この人の場合は全く見当たらないのです。
さらに、これだけの「強い」声を聴かされると、ほんのちょっと抜いた軽い声がとてつもない力となって伝わってきます。それが体験できるのが「ローエングリン」の「In fernen Land」でしょう。第1幕の前奏曲と同じ、透明な弦の響きによるイントロ(ここでのオケには、そんな透明感は望むべくもありませんが)に続いて歌われる歌には、この世のものとも思えない澄んだ輝きが宿っていました。その聖杯の物語が進むにつれて徐々に盛り上がっていくさまは、興奮なくしては味わえません。そして、最後はとっておきのあの力強い声です。
ちょっと不思議だったのは、「パルジファル」で歌が始まった瞬間に、他の曲では見られなかったような明るさが感じられたことです。もしかしたらキャラクターの若々しさを表現するために意図して音色を変えていたのかもしれません。これはすごいことです。
これほどのコントロールがきいて、自在に表現を操れる「ヘルデン」など、現代のテノールの中にはちょっと見当たりません。あるいはヨナス・カウフマンあたりが、将来はそうなって欲しいという思いを託せる人でしょうか。
ただ、ボーナス・トラックの「マイスタージンガー」は、なにか気の抜けたような一本調子で、表現はちょっと雑。このトラックの素性は知るよしもありませんが、こんなところがオリジナルLPで「ボツ」になった理由なのでしょうか。とは言え、久々に味わえたヴィントガッセンの魅力、暖冬の今年はなかなか機会がありませんでしたから、なによりの贈り物となりました(それは「雪合戦」)。

2月20日

BUXTEHUDE
Membra Jesu Nostri
Wolfgang Katschner/
Capella Angelica
Lautten Compagney
RAUMKLANG/RK 2403


今年は、1637年に生まれて、1707年に亡くなったドイツの作曲家、ディートリヒ・ブクステフーデの没後300年となる記念すべき年回りにあたっています。昨年の某有名作曲家の生誕250年には遠く及ばないものの、何かしらの恩恵はあるのではないか、というのは淡い期待に過ぎませんが。
かつてブクステフーデといえば、わずかにオルガン曲が聴かれる程度のものでしたが、最近では1972年に作品リストを作り上げたゲオルク・カルシュテットという人によって、その作品の全貌がほぼ明らかになっています。それが「ブクステフーデ作品目録 Buxtehude-Werke-Verzeichnis」というものなのですが、これをそのまま頭文字をとって略号にすると「BWV」となってしまい、あの偉大な作曲家の作品目録と同じになってしまいますから、こちらは「BuxWV」と呼ぶことになっています。バッハさんと張り合おうなんて、どうがんばっはも無理に決まっています。
こちらの目録もバッハの場合と同じ手法を踏襲しています。つまり、ケッヘルのような作曲年代順ではなく、ジャンル別のナンバリング。その並び方もバッハと同じ、カンタータ、その他の声楽曲、オルガン作品、クラヴィーア作品、弦楽器の作品の順に通し番号が付けられています。トータルで275アイテム、かなりのものですね。そのうちの「カンタータ」と呼ばれる宗教的な声楽曲は1番から112番までというもの、こちらもそのうち全曲録音などがされる日が来ることでしょう。
そのカンタータの中で、特に人気を誇っている作品がBuxWV75にあたるこの「われらがイエスの四肢」です。以前別の演奏をご紹介したこともあるように、この曲だけでかなりの数のCDが出ているはずです。ブクステフーデの場合、1曲の「カンタータ」はバッハの作品のような長さはなく、ほんの10分足らずで終わってしまう程度の規模のものです。それを7曲ドッキングさせた「連作カンタータ」という形をとっているこの曲は、トータルでも1時間ほどの演奏時間ですから、1枚のCDとしても手頃なサイズとなっています。
今回のCDは2004年の録音、ここで指揮をしているのは、1984年に「ラウテン・カンパニー」というリュート・デュオのグループを結成したリュート奏者ヴォルフガング・カチュナーです。このグループは現在では他の楽器も加わった室内アンサンブルとして、バロック・オペラまでをその活躍の場として広げているものです。そして、彼らがまさにこの「四肢」を演奏する機会があった2002年に結成された合唱団が、ここで参加している「カペラ・アンジェリカ」、オリジナル楽器のフィールドで活躍しているプロの歌手が集められています。
今回の録音では、SSATBという5つの声部にそれぞれ2人ずつ、片方は「ソロ」担当で、ソリストとしてアリアや重唱を歌い、もう片方は「リピエーノ」として、合唱の時に「ソロ」と一緒に歌うという形です。アルトパートはもちろん男声アルトです。
アンサンブルには低音として、ヴィオローネと2本のテオルボが加わっているために、独特の安定した響きが聞こえてきます。それに支えられたヴァイオリンなどが、とても雄弁な音楽を作り出しているのが、まず印象的です。かつてよく見られたようなオリジナル楽器特有のいかにもとってつけたような不自然な表現は皆無、そこからは生き生きとした自発的な主張が感じられます。テンポはかなり速め、そのあたりが、この躍動感の源なのかもしれません。
合唱は、やはり自由度のあふれた伸び伸びとしたものです。2人のソプラノソロの声がかなり傾向が異なっていることから分かるとおり、決して小さくまとめようとはしていない姿勢が、結果として良いものを産み出しました。
速いテンポのせいでもないのでしょうが、「おまけ」としてBuxWV38「主よ、あなたさえこの世にあれば」とBuxWV62「イエスは私の生命の生命」という、「四肢」と関連のあるテキストのカンタータが2曲カップリングされています。最後に入っているBuxWV38は、決まった形のバスの上で歌われる「パッサカリア」、なかなか聴き応えのあるものです。

2月18日

MOZART
Così fan tutte
Ana María Martínez(Fiordiligi)
Sophie Koch(Dorabella)
Stéphane Degaut(Guglielmo)
Shawn Mathey(Ferrando)
Helen Donath(Despina)
Thomas Allen(Don Alfonso)
Ursel & Karl-Ernst Herrmann(Dir)
Manfred Honeck/
Wiener Philharmoniker
DECCA/00440 074 3165


女性の貞節の危うさを肴に賭を行うという不謹慎極まりないオペラ「コシ・ファン・トゥッテ」に隠されたメッセージを、最近の演出家はそれぞれのやり方で明らかにしているということは、こちらで詳しく述べられています。少しでもまっとうな姿勢を貫きたいと思っている演出家であれば、題名の通り「女はみんな不倫をするものさ」などというノーテンキなテーゼをそのまま信用することは決してないということが、これを読めば分かることでしょう。
もちろん、スワッピングでお互いの関係に微妙な変化が生じたあとは、以前と全く同じ関係でいられるわけがない、というところでは共通しているものの、その「変化」の扱いは多種多様、今回の「M22」でのヘルマン夫妻のプロダクションでは更に新しいアイディアが開発されているのですから、楽しみは尽きません。
これは、「ザルツブルク」とは言っても、元々は2004年の「イースター」でのプロダクションだったものを、共同制作として「夏」の音楽祭のレパートリーにしたものです。まずは、祝祭大劇場の間口の広いステージを十分に生かし切った広々とした空間が目を引きます。地平線を思わせるホリゾント、その前には舞台装置らしいものは殆どなく、卵のようなオブジェが置かれているだけ、コンティヌオのチェンバロまでが(もちろん、奏者も一緒にいます)ステージの上にあるのには、なにかシュールな気配すら漂います。そう、まさに「シュール」の代名詞、あのサルヴァドール・ダリの世界がそこには広がっていたのです。場面転換のためにちょっとした小道具が使われますが、そこで登場するY字型の支柱(「三つ又」と言うんでしたっけ?)などは、まさにダリのモティーフそのものではありませんか。このようなステージで演じられれば、この物語を「現実」と捉える人は誰もいなくなるはずです。
ヘルマン夫妻のプランでユニークなのは、デスピーナのキャスティングでしょうか。本来は若いキャピキャピの「発展家(死語!)の小間使い」という設定だったものを、そこに起用されたのはヘレン・ドナートという超ベテラン歌手でした。しかし、なぜか超セクシー。あっけらかんと姉妹にアヴァンチュールをそそのかす、というよりは、「大人」として人生を楽しむように進言する、といった趣です。この役はアレンの演じるドン・アルフォンソの異様な老けぶりともマッチして、若いキャストで占められた恋人達との恋愛観、あるいは人生観の違いを強調しているかに見えます。
ところが、このプロダクションで明らかになるのは、ただの世間知らずのお嬢様だったはずの姉妹のとてつもないしたたかさでした。男どもが賭けの相談をしているシーンで、その広いステージの彼方から姉妹がその様子をのぞいているというカットが、執拗に映し出されることにより、この2人が男どものお芝居を知りながらそれに付き合っていくということが分かってしまいます。その結果、結婚式のシーンで「種明かし」をしたグリエルモは、フィオルディリージから手痛い平手打ちを喰らうことになってしまうのです。もちろん、その先に待っているものは救いようのない関係であることが、幕切れの演出で暗示されるのも当然のことでしょう。
ホーネックの音楽には、軽やかな滑らかさがあります。軽快そのもののハイスピードで突っ走る序曲から、その流れは始まりました。恋人達のそれぞれのアンサンブルもとても心地よいものです。女声ほどの個性があまり前に出ていない男声、特にテノールのマテイの声はとても魅力的でした。ただ、アリアの「Un'aura amorosa」(17番)あたりはあまりに軽すぎ、これからの人、ということでしょうか。もう少しまていろ(待っていろ)とか。

2月15日

MOZART
Requiem(Ed. Beyer)
Jutta Böhnert(Sop), Susanne Krumbiegel(Alt)
Martin Petzold(Ten), Gotthold Schwarz(Bas)
Georg Christoph Biller/
Thomanerchor Leipzig
Gewandhausorchester
RONDEAU/ROP4019


2006年1月のライブ録音ですから、バイヤー版としては最も新しいものになります。この年の1月と言えば、当然「お誕生日」である「27日」に演奏されたのでは、と誰でも思ってしまいます。しかし、実際は微妙に異なる「21日」でした。もしかしたら、「しち」と「いち」を間違えたのではないでしょうか(「いち字違い」って)。
録音されたのは、バッハゆかりのライプチヒ・聖トマス教会、ここでモーツァルトというのがちょっとユニークなところかもしれません。広い空間を感じさせるたっぷりとした残響が、とても心地よく感じられます。それが過度にモワモワしたものではなく、音の芯がくっきり捉えられているのが素敵なところです。ソリストの定位もはっきりしていますから、かなりオンマイクで録られているのでしょう、明晰さと雰囲気を兼ね備えた素晴らしい録音です。「ライブ」といっても、聴衆によるノイズが殆ど聞こえきませんから、スタジオ録音と変わらないクオリティを持っています。
フランツ・バイヤーの校訂によるモーツァルトのレクイエムは、出版されたのが1971年ですから、もう30年以上の「実績」を持っていることになります。何のかんのと言ってみても、現時点ではジュスマイヤー版に次ぐ演奏頻度を誇っており、このあたりが「版レース」の到達点なのかもしれませんね。長く親しまれたものは決して変えないで、問題のある部分だけさりげなく入れ替える、そんな謙虚さの勝利でしょうか。
そのバイヤー版の最初の録音の時にも、やはり今回と同じように少年合唱が使われていました(テルツ少年合唱団)。それは、オーケストラ(コレギウム・アウレウム)のレベルともどもとても今の聴衆の鑑賞に堪えられるものではありませんでした。その録音によって、この曲は決して少年合唱の演奏では聴くべきではないと刷り込まれてしまった人も多かったに違いありません。しかし、今回のトマス教会合唱団の少年達は、そんなトラウマも払拭してくれるほどの見事な演奏を聴かせてくれています。それをなし得たのは、一つには圧倒的な人数の多さでしょうか。少年ソプラノ、少年アルトのパートは合わせると40人近く、これだけ揃っていればこのパートに付き物の弱々しさは克服できるはずです。
そうは言っても、やはり少年特有のちょっと曖昧なイントネーションはついてまわります。「Kyrie」の二重フーガなど、音楽としての不満は全く感じられないにもかかわらず、ほんのちょっとしたところで見えてくる「拙さ」のようなものが、やはり気にはなってしまうのです。しかし、これがライブの力でしょうか、そんな頼りなさも曲が進んでいくうちに徐々に消えていくのが良く分かります。そして、それに入れ替わるようにして現れてくるものは、大人の合唱からは決して聴くことの出来ないひたむきな「力」だったのです。「Sanctus」あたりの何というストレートな力強さ。汚れていない心を持っているからこそ伝えることの出来る一途な訴えかけ、これは感動的です。
ハンス・ヨアヒム・ロッチュの後を継いで1992年にトマス教会のカントルに就任したビラーは、そんな少年達の力を信じ切った大きな流れの音楽を作ってくれました。これは、同じバイヤー版からゴツゴツとした醜いものを引き出した某カリスマ指揮者からは望むべくもない魅力です。やはり音楽は美しい方が良いに決まってます。
もう一つの収穫は、ソプラノのベーネルト。「Kyrie」で最初に彼女の声が聞こえてきた時には合唱団員が歌っているのかと思ってしまったほどの、澄みきった無垢な声は、久しくこの曲の録音からは聴くことの出来ないものでした。彼女はオペラでもキャリアを築いているそうですが、こんな声のスザンナはさぞ魅力的なことでしょう。いくら「花の乙女」でも、ワーグナーはちょっとやめてほしい気はしますが。

2月13日

この一冊で読んで聴いて10倍楽しめる!
クラシック
BOOK
飯尾洋一著
三笠書房刊(王様文庫)
ISBN978-4-8379-6375-2

著者の肩書きは「音楽評論家」、しかし、最近こと「クラシック音楽」のフィールドでは、このような呼び方をされている人はめっきり少なくなってしまったような気はしませんか? 何と言ってもその様に呼ばれるべき人のモデルとして、私たちは吉田秀和翁を持ってしまっているわけですから、とてつもなく高尚なイメージがこの言葉にはつきまとっているはずです。ですから、たとえ「評論」を書く立場にある職業でも、自らを「評論家」とは呼ばず「ライター」などという当たり障りのないところでカテゴライズするというのが、最近の流れなのではないかと思えるのですが。
飯尾洋一さんといえば、ネット社会ではCLASSICAというサイトの主宰者として夙に知られている方でした(私のサイト、ブログでもいつもお世話になっています)。そこで垣間見られる彼の素顔(あくまでネットを通してのものですが)からは、そんなタカビーなイメージはさらさら感じられません。考えてみれば、この「評論家」という言い方自体は、同時に、実に胡散臭いイメージを備えているものでもありました。巷には「○○評論家」の何と多いことでしょう。「ゲーム評論家」、「ゴスロリ評論家」、「カレー評論家」、「温泉評論家」、「ヨーロッパ評論家」・・・・・。おそらく、そんな語感までを含みつつのちょっと斜に構えたスタンスで、「評論家」と名乗っているのでは、というのは、あくまで当て推量にすぎませんが。
この本の構成は、古今の作曲家40人についての解説と、代表的な作品の紹介という、正攻法のものです。しかしこれがあまたの「ハウツー本」と異なるのは、その視点の低さでしょう。ともすれば「評論家」が陥りがちな、自分の知っていることを初心者向けに噛み砕いて「やさしく」解説する、という姿勢が、ここには全く見当たらないのです。あくまで自分が知っていることを他の人たちと共有したいというマニアックなスタンスが、素敵です。もちろん、音楽だけではなく、映画なども交えた広範な視野も見逃せません。そんな著者が作曲家のプロフィールを語るのときの、ポイントを押さえた筆致には思わず引き込まれてしまいます。そこには、音楽的な業績よりは、その作曲家の人間としての姿がより多く記されているという点が、その最大の理由ではないでしょうか。女性関係についての記述が多いと感じられるのは単なる錯覚でしょうか。「リアル父」という言い方、好きです。いきなり「フィボナッチ数列」などという、絶対に音楽家の伝記には現れるはずのないタームが出てくるのには一瞬ひるんでしまいますが、著者の経歴を見てみるとそれも納得、彼は理科系の人だったのですね。もしかしたら音楽を語ることにかけては、理科系の方が得意なのかもしれない、そんな自信も与えてもらえます(余計なことですが、私も理科系)。
もうひとつ、「おもしろ雑学集」というコーナーが秀逸です。中でも「感動指数」(これも理科系っぽい表現)に関する言及は、音楽を聴く意味の根源をここまで平易な言葉で語ることが出来るのか、という感動すらわきおこる一文です。「音楽をポジティブに聴く」という姿勢をこれほどすんなりと受け入れられる書物には、正直初めて出会ったような気がします。
吉田翁の事実上のリタイアという事態を受け止める中で、私たちは吉田翁の呪縛から解かれた等身大の「音楽評論家」がようやく登場してきたことを、喜びと共に実感しているところです。
蛇足ですが、プッチーニの項でのワールドカップに於ける「誰も寝てはならぬ」の起源については、こちらの方がより正確な事実関係ではないでしょうか。

2月11日

MOZART
La Finta Giardiniera
Alexandra Reinprecht(Violante/Sandrina)
John Graham-Hall(Don Anchise)
John Mark Ainsley(Berfiore)
Véronique Gens(Arminda)
Ruxandra Donose(Ramiro)
Adriana Kucerová(Serpetta)
Markus Werba(Roberto/Nardo)
Doris Dörrie(Dir)
Ivor Bolton/Mozarteum Orchester Salzburg
DG/00440 073 4322(DVD)


「偽の花作り女」とか「偽りの女庭師」などという邦題が付けられている、モーツァルト18歳の時の作品です。「finta」というのは確かに「偽りの」という意味ですが、このオペラの場合は「ふりをする」ぐらいに解釈した方が、ストーリーとマッチするのではないでしょうか。「なんちゃって庭師の女」とかね(そんな好き放題の邦題は認められません)。
なぜ庭師のふりをしているのか、というのは普通の上演の場合はあとの方にならないと分からないようになっているのですが、かつてベルリン国立歌劇場で「コジ・ファン・トゥッテ」の見事にはじけたステージを作り上げた映画監督ドリス・デーリエは、序曲の間にカットバックのようにそのシーンを挿入して、息もつかせぬダイナミックなドラマの流れを作り出すことに成功しました。舞台は18世紀、ロココ風のセットの中で伯爵令嬢ヴィオランテは嫉妬に狂った恋人ベルフィオーレ伯爵の手にかかって息を引き取りますが、そこに入ってきた従者ロベルトの心肺蘇生術(これで、まず笑いをとります)によって生き返ります。
本来は、そのあとヴィオランテはサンドリーナと名前を変え(ロベルトも従弟のナルドとなって)、庭師のふりをして市長であるドン・アンキーゼの屋敷に雇われるという設定なのですが、もちろんデーリエはそんなありきたりの展開はさっぱりと捨て去ります。市長の屋敷はなんとガーデニング商品の充実した巨大なホームセンターに置き換えられ、ドン・アンキーゼはそこの店長という役どころとなっています。序曲が終わった瞬間、そこに、時空を超えてサンドリーナ達が現れてしまうのです。ドン・アンキーゼは一目でサンドリーナを気に入って、ナルドと一緒に店員として採用、その店には本来小間使いだったセルペッタが、レジ係として派手なタトゥー姿で働いています。騎士のラミロも、パンクなファッションを制服に包んだ、アルバイト店員でしょうか。
店長の姪アルミンダの婚約者として登場するのが、先ほどサンドリーナを殺したばかりのベルフィオーレ、彼はさっきのままのロココファッションですから、いやでもサンドリーナとのつながりが分かってしまうという仕掛けになっています。
物語は、ホームセンターの商品を総動員して進行していきます。庭の置物でしょうか、三美神の石像がベルフィオーレのアリアの間に彼に絡みつくというのにはギョッとさせられます。白塗りのその豊満な胸・・・と思ったら、それは「DJ-OZMA」と同じ事、ボディスーツの上にプリントされた乳房でした。そんなエロティックな仕掛けも満載、なんせサンドリーナは大詰めではバスタオル1枚ですからね。
ステージがあまりにファッショナブルなので、つい音楽を忘れてしまいそうになりますが、それぞれの持ちアリアは本当に魅力的なものが揃っています。滑稽なものから激しい心情をぶちまけるものまで、モーツァルトのアイディア豊かな音楽がたっぷり味わえます。例えば、第1幕でドン・アンキーゼが歌う3番のアリア「Dentro il mio petto io sento」では、最初はフルートとオーボエが優しく語り合っているところへヴィオラが憂鬱な雰囲気を持ち込み、最後は打楽器と金管がめちゃめちゃにしてしまうという歌詞に、その通りの音楽が付いているという楽しいものです。ちなみに、フルートが登場するアリアはこれ1曲だけ(のはず)。オーボエも2本入っていますから、持ち替えではなくここだけのためにフルート奏者が待機していたのでしょうか。
第1幕や第2幕のフィナーレも、情景が変わるのにシンクロして音楽がどんどん変化していくのがとってもスリリング、あの「フィガロ」の第2幕のフィナーレを思わせられるような高い完成度が見られます。
若手中心のキャスティング、それぞれの軽やかな声が、軽快なステージと見事にマッチしています。ジャンス(アルミンダ)あたりはあまりに立派すぎてちょっと浮いている感がなくはないと思われるほど、それはフレッシュな布陣です。ボルトンの指揮の中に垣間見られるある種の「タメ」に違和感を抱く人は、きっとアーノンクールが嫌いなのに違いありません。

2月9日

Daniel Powter(New Edition)
Daniel Powter
WARNER/9362 43224 2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCR-12496(国内盤)

昨年、最も売れた「洋楽」アルバムがこれです。カナダのシンガー・ソングライター、ダニエル・パウターのファースト・アルバムですが、この品番のものはジャケットはそのままで1曲新しい曲を追加した「ニュー・エディション」というバージョンです。国内盤では、さらにボーナス・トラックが1曲加わっています。
最近の「洋楽」シーン、なんか心を打つものが少なくなっているという気がしませんか?しっとりとした歌なんか恥だと言わんばかりの、とんがったビートに支配された息苦しいものが、まさに市場を席巻しているという有り様。もちろん、その主流はヒップホップ、それぞれが自分の好みで音楽を聴くこと自体は一向に構いませんし、ああいう音楽が好きな人のことを非難する気持ちは毛頭ありませんが、シーン全体がヒップホップ一色に塗りつぶされているという今の状況には、ちょっと耐えきれない気がしてしまいます。その尻馬に乗って、「邦楽」でも聴くにもおぞましい日本語ラップが蔓延しているのには、怒りすら覚える昨今です。
そんな中に現れたのが、このダニエル・パウターです。自らピアノを弾きながら歌うパウターの作り出す音楽は、そんな押しつけがましい喧噪とは無縁の、実に爽やかなものです。サウンドの基本はそのピアノを前面に押し出したアコースティックでシンプルなもの、所々に別のキーボードでちょっとした味を加えているあたりが、「今」を感じさせるものの、作り出される音楽はそれこそ80年代以前の懐かしいテイストが漂うものです。そんな、ある意味オーソドックスなアプローチが、全世界のファンを魅了した結果これだけのセールスとなったのでしょう。
シングルカットされて全世界でチャートを賑わしたヒット曲「Bad Day」なども、今時珍しい3分ちょっとの長さしかないというシンプルなもの、その構成もきっちり王道を行くスタイルです。ピアノの弾き語りであっさりAメロ(メージャー)とBメロ(マイナー)が歌われたあと、リズムが入ってそれがもう一度繰り返されるのはお約束、そして、あのキャッチーなフック(サビ)が現れます。2コーラス目はAメロを省いてBメロから始まるというのは、フックを早く聴かせたいという配慮でしょうか。そのあと転調してブリッジが出てくるのが素敵。そして、元に戻って3コーラス目はAメロ+フックで、フェイド・アウトしていきます。
これを聴いて思い出したのがエルトン・ジョンです。そもそもピアノの弾き語りという点である種の共通したイメージが感じられますし、メロディー・ラインやコード進行などどことなく似ているものはありませんか?アルバムの中の「Jimmy Gets High」などは更にエルトンっぽい仕上がりなのではないでしょうか。
もちろん、パウターの声はそんなエルトンの持つアクの強さなど一切ない、軽く爽やかなものです。ちょっとおっかない外観からは想像できない、その、どことなくシャイで憂いを秘めた声には、刺激的なサウンドに疲れ果てた現代人の心を、優しく包み込むような力が秘められているように聞こえます。しんしんと降り積もる粉雪のように(それは「パウダー・スノー」)。
昨年末に来日、東京フォーラムの一番大きなホールでコンサートを行いました。その模様をテレビで見たことがありますが、客席へ降りていって歌ったりするなど、アルバムのイメージとはひと味違った、ライブならではの盛り上がりを見せていました。そこでも見ることが出来た確かなピアノのセンスには、大人の音楽が感じられました。

2月7日

Sonne, Mond und Sterne
Bine Becher-Beck/
Cant'Ella
ARS PRODUKTION/ARS 38 457


女声合唱の作品を集めたある種のコンセプト・アルバム、ラウタヴァーラ以外には全く聴いたことのない作曲家の曲が並んでいますが、これは殆どジャケ買いです。というのも、ご覧のようにかなり前のLux aeterna」というアルバムと同じレーベルの、非常によく似た感じのジャケットだったからです。事実、あちらは「光」をテーマにした曲を集めたもの、そしてこちらは「太陽、月、星」、いずれも、このレーベルを支えるプロデューサー、アネッテ・シューマッハーのセンスが前面に押し出された素敵なアルバムになっています。
演奏しているのは、ドイツの「カンテラ」という名前の女声合唱団、確かに「光」にも関係しています(その「朝も早よからカンテラ下げてよ〜」の『カンテラ』とは違いますが)。20人ほどの、それほど若くはない女性が集まったグループです。指揮者も女性の方。各地のコンクールで優勝しているという、折り紙付きの実力だと言うことです。
確かに、最初のジークフリート・シュトローバッハという人の、「Ich denke Dein」という2002年の作品でありながら殆どロマン派の合唱曲と言っても差し支えないほどのシンプルなメロディと和声の無伴奏の曲を聴くと、その暖かい響きには引き込まれるものがあります。決して凄さは感じられないのですが、合唱としてのまとまりは素晴らしく、安心して聴いていられます。一人一人の声はそれほど強いものではないので、パートとしての一体感は抜群、ハーモニーも見事に決まっています。録音されたのが、おそらく教会の中なのでしょう、豊かではあっても過度でない残響が心地よく合唱を包み込んでいます。
ただ、ブラームスの弟子だったというグスタフ・イェンナーという人のピアノ伴奏の曲では、その声の「弱さ」がもろに聞こえてしまって、ちょっと残念な結果に終わっています。おそらく、このようなきちんとした曲はあまり得意ではないのでしょう。
ですから、この中でもっとも成功しているのが、北欧系の作曲家の、ちょっと気取った和声に支配された曲たちです。フィンランドのラウタヴァーラが、例の「カレワラ」を英訳したものをテキストにした「The first Runo」では、この作曲家の様々なアイディアが次々と繰り出される中で、多彩な情景が目に浮かぶようなドラマティックな仕上がりが聴けます。ノルウェーのSteinar Eielsen(読めません)のノルウェー語による流れるようなリズムの曲「Vandrestjerner(さまよう星)」でも、その透き通ったハーモニーは魅力的に響きます。
このアルバムの中で最も大きな作品が、アルフレート・ケルッペンという人が作った「太陽の物語」です。2人の子供(ソロで歌われます)が、黒鳥から太陽の誕生や、それが人間にもたらす魅力などを語って聴かせられるという冒険の旅を描いた童話がテキストになっているそうです。全部で5曲から成っていますが、その間に「語り」が入るのがちょっとユニーク。そこでは男性の声で「光」や「太陽」についての科学的な話や歴史が語られているのですから。「ニールス・ボーア」などという、あの忌まわしい「量子力学」の創始者の名前などが出てくるのにはギョッとさせられます(物理は苦手)。音楽の方はとてもカラフルな魅力にあふれたものですが、ポリフォニックな処理や不思議な音列が使われていてかなり難易度は高いものです。しかし、この合唱団は心から楽しんで歌っているのが良く分かります。
最後に、シュトローバッハの冒頭と同じようなテイストの「Der Mond ist aufgegangen」という曲が演奏されます。それによって、ヴァラエティに富んだアルバム全体が、何とも穏やかな後味をもって締めくくられることになりました。確かに、夜空には煌々と月が輝いているようです。

2月3日

これで納得!よくわかる音楽用語のはなし
関 孝弘/ラーゴ・マリアンジェラ共著
全音楽譜出版社
(ISBN4-11-880227-9)

音楽用語としてのイタリア語は、もはや音楽に関係のない人でも日常生活に使うほど浸透しています。なんたって「のだめカンタービレ」ですからね。今の日本には、「カンタービレ」というイタリア語を知らない人などいないのではないでしょうか。「ヴェローチェ」という名前のコーヒー屋さんもありますし。アイスも売ってます(それは「ジェラート」)。
ですから、例えばイタリア旅行に行ったとすると、この音楽用語を使えばある程度はコミュニケーションが図れるともいわれています。タクシーに乗った時に「急いでくれ!」という意志を伝えたい時には「アレグロ!」とかね。「アレグロ」と言えば音楽用語の中でも代表的な速度をあらわす言い方で、「速く」という意味を持っていたはずですから、これを使えば運転手さんは間違いなく急いでくれるはずです。ところが、いくら「アレグロ!」と連呼したところで、運転手さんは一向に車の速度を上げる気配はありません。それもそのはず、イタリア人に「アレグロAllegro」と言っても「急いでくれ」という意味は全く伝わらないのです。なぜならこの言葉には「陽気に」とか「楽しく」という意味はあっても「速く」という意味はぜんぜんないのですから。
つまり、「音楽用語」として使われている「イタリア語」には、本来その言葉が持っていた意味とは全く異なる「日本語」が置き換えられていることがあるのです。その事を、実に分かりやすく語ってくれるのがこの本です。著者は長くイタリアで生活してきたピアニストの関孝弘さんと、彼のイタリア人の奥さんラーゴ・マリアンジェラさん、「イタリア語」と「音楽用語」と、そして「日本語」の3者のネイティヴな使い手として生きてこられたお二人の指摘には、心から納得できるだけの重みがあります。
そもそも音楽用語にイタリア語が用いられているというのは、石井宏さんの「反音楽史」をひもとくまでもなく、「クラシック音楽」の中心地はイタリアだったからです。五線紙に書かれた音符だけでは表せない細かいニュアンスを伝えるために何らかのメッセージを付け加えようと思ったら、イタリア語で書くしかなかったのですよ。「ここは楽しい感じで演奏して欲しい」と思った作曲家はそこに「Allegro」と書きました。「楽しい感じ」だったらテンポは早いほうがいいはずです。そこで、結果的に「Allegro」と書かれていれば早めに演奏するようになったのでしょう。そう、音楽用語の中でも「速度標語」と呼ばれているものの殆どは、本来は単に早さだけを表すものではなく、曲の表情を伝えるものだったのです。それが「結果」として速度を指定することになっただけのことなのです。
そんな、速度標語の持つ細かいニュアンスを破壊してしまった張本人のことも、この本の中では述べられています。その人の名はヨハン・ネーポムク・メルツェル、そう、あの「メトロノーム」の発明者です。彼は一定のビートを産み出す機械を発明(正確には改良)してその特許を取るのですが、もちろんその機械自体は非常に役に立つものとして音楽家にとってなくてはならないものとなりました。しかし、ご覧下さい。手元にあったゼンマイ式とクォーツ式の2種類のメトロノームには、1分間のビート数と一緒に「速度標語」が書かれていますね。それによると「アレグロ」は120から168、それよりも速くなると「プレスト」という言葉を使わなければいけません。
これが、メルツェルが犯した最大の過ちでした。音楽「後進国」であるドイツ人ゆえの悲しさでしょうか、イタリア人が奥深い意味を込めて書いた言葉を、少なくとも「速度」に関しては完璧に数字に置き換えることが出来ると考えてしまったのでしょう。そして、このように速度標語を数字と対応させてきっちり定義してしまったのです(と、この本には書かれています)。その結果、「Allegro」からは「楽しく」という意味は失われ、単に「120から168」という「速度」しか残らなくなってしまいました。そんなドイツ人のメソッドを盲目的に受け入れてきた日本人の間では「Allegro=速く」と受け止められたのも、至極当然のことです。
例えば「スタッカート」には「離れる」という意味しかなく、「音を短くする」というのは単にその結果でしかないと知っている人は、「達人」として、ある意味尊敬の念を持って迎えられたものです。しかし、この本を読みさえすれば、誰でもそんな「達人」になれますよ。

おとといのおやぢに会える、か。


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