夫はファーザー。.... 佐久間學

(11/3/29-11/4/17)

Blog Version


4月17日

BEETHOVEN/Symphony No.5
BLACKWOOD/Symphony No.1
Charles Munch/
Boston Symphony Orchestra
ALTUS/ALT102


今でこそ、FMラジオでステレオ放送を聴くのは当たり前のことになっていますが、AM放送しかなかった頃には、そんなことはとても無理な話でした。音質からして、高音も低音もカットされた貧しいものでしたし、ノイズはひっきりなしに入りますから、とてもステレオどころではありません。しかし、レコードでステレオ録音のものが出回ってくれば、ラジオでもそんなことをやってみようという人も現れてきます。なにしろ、当時はステレオのレコードを再生する装置はかなり高額でしたから、どの家庭にでもあるラジオを使ってステレオが体験できるのであれば、それは素晴らしいことだったのでしょう。そこで、「第1」と「第2」という2つのチャンネルを持っていたNHKは、それぞれに左右の信号を振り分けて同時に放送するということで、そんな「AMラジオによるステレオ放送」を実現させのです。ただ、普通は同じラジオを2台持っている家庭はありませんから、右と左ではかなり音質が違っていたはず、それは「立体音楽堂」というタイトルでしたが、いったいどんなステレオだったのでしょうね。
そんな番組のソースとして、NHKが招聘したミュンシュ指揮のボストン交響楽団の日本公演のライブ録音が残っていました。半世紀前にノイズの彼方から異様なバランスで聴こえてきた音が、とても素晴らしい音でCDとしてよみがえりました。なんせ「32bit」という、未だかつて体験したことのないビットレートでマスタリングが行われているのですからね。
1960年に来日、1ヶ月にわたって日本全国でツアーを行ったボストン交響楽団の、5月22日の日比谷公会堂(なぜか、ブックレットでは「5月5日」と表記されています)の「実況録音」の模様が全て収められているのが、このCDです。当日のプログラムは、ベートーヴェンの5番、アメリカの「若手」作曲家、アースレイ・ブラックウッドの交響曲第1番、そしてワーグナーの「マイスタージンガー前奏曲(+α)」が全て、それにアンコールを加えても、正味1時間ちょっとしかかかっていません。この頃のコンサートは、ずいぶん短かったのですね。
最初の「運命」でミュンシュは繰り返しを全て省いているのも、こんなに短くなっている要因なのでしょう。例えば、楽譜では第1楽章の第2主題冒頭のホルンのテーマは、提示部ではホルンで演奏されたものが展開部ではファゴットに変わっているところも、あえてホルンで吹かせるといった「あの頃」の慣習に見られるように、これはとても懐かしい様式の演奏です。その分、今ではとてもお目にかかれないような濃厚で迫力に満ちた仕上がりとなっています。特に第4楽章に入ってからの煽りにはものすごいものがあり、最後のアコードが打ち鳴らされた瞬間に盛大な拍手が起こるという、あの頃のお行儀の良い演奏会にしては珍しい「事件」があったことも、しっかり記録されています。ある意味、この「拍手のフライング」こそが、このCDの最大の聴きどころかも知れません。
次の曲の作曲家、ブラックウッドという人は、今では完全に忘れ去られていますが、当時はまだ26歳の未来を嘱望された作曲家でした。メシアンとヒンデミットに師事したということですが、この4楽章形式の交響曲は、もろにヒンデミットの影響が見られて、最初のうちは正直退屈な作品のように感じられました。ところが、最後の楽章になったら、そんなヒンデミットのエピゴーネンは姿を消し、とてもしっとりとした静謐な世界が広がっていたので、ちょっとびっくりです。この楽章だけは、今でも充分に鑑賞に耐えうるもの、逆にそれが当時は受け入れられずに、以後のキャリアがストップしたのでは、などと思ってしまいます。本当に静かにエンディングを迎えるため、今度はなかなか拍手が起こらないのが面白いところです。この日の聴衆はとても正直だったのでしょうね。

CD Artwork © Tomei Electronics "Altus Music"

4月15日

James Galway plays Flute Concertos
James Galway(Fl)
Various Artists
RCA/88697828122


最近のCDのリリース状況を見ていると、もはやメジャー・レーベルはクラシックに関しては殆ど新しい録音をやめてしまったのではないか、と思えるほど元気がありません。そんな中で、過去のカタログのたたき売りだけには、ものすごい情熱を傾けているかのようにすら感じられます。なんせ、中には100年以上の歴史を誇るレーベルもあるのですから、抱えている音源の量はハンパではありません。もはや制作費などはすっかり償却が終わっているのですから、ビジネスに徹する課程でアーティストに対する畏敬の念を放棄することに罪悪感を抱きさえしなければ、いくらでも安価な商品を提供することは出来るのでしょう。
かくして、RCA、つまりBMGの音源を全て手中に収めたSONYによって、あのゴールウェイの12枚組みのボックスが、割引などを適用するとたったの2690円で買えてしまうという時代が来てしまったのです。1枚たったの200円程度、新しいアルバムが出るたびに買い集めていた、その同じものが10分の1以下の値段になってしまうのですから、なんとも複雑な思いです。
今回のボックスは、彼の膨大なカタログの中から、協奏曲を演奏しているトラックが集められています。似たようなコンピレーションは今まで幾度となくリリースされていましたから、曲目に関してはすでにその中に入っていたものが殆どだと、普通は考えてしまいます。しかし、実際に手に取ってみると、この中には知る限りではまだCDになっていないものが含まれていたので驚喜しているところです。ゴールウェイがベルリン・フィルを退団してソリストとしてのスタートを切ったのは、1975年のことでした。それ以来、彼のアルバムはRCAからリリース、最近まで、ほぼ「専属アーティスト」という感じで、このレーベルに貢献してきていました。しかし、ソロ活動を始めた当初は、EURODISC(オイロディスク、決してエッチなレーベルではありません・・・それは「お色気ディスク」)など他のレーベルにも録音は行っています。そのEURODISC(すでにBMGの傘下に入っていましたから、当然SONYからも出すことが出来ます)に残した数枚のアルバムの中の、1978年の録音、テレマンの組曲と2曲の協奏曲を収録したものの中から、ト長調の協奏曲が、多分初めてCDになっていたのです。組曲はすでに還暦記念ボックスに入っていましたから、残るはハ長調の協奏曲だけですね(すでにCDは出ているよ、という方の情報をお待ちしています)。
さらに、今回はマスタリングも新たに行われているようです。全部聴いたわけではないのですが、初出のCDに比べると、明らかに音が良くなっています。なんといっても、これらのCDがリリースされたのは80年代から90年代にかけてですから、まだまだマスタリングは手探り状態だったはずで、今聴き直してみると繊細な部分がかなり損なわれているように感じられます。というより、これを購入した頃は、とりあえずゴールウェイの演奏には魅力を感じても、ちょっと繰り返して聴くには抵抗があるような音だったことを思い出していたところです。技術の積み重ねによって、こんな安価でもはるかに素晴らしいものを作り出すことに成功していたのですね。ただ、それは輸入盤のケースであって、国内盤の場合はそれほど遜色のないものだったのも、新しい発見でした。当時は、このレーベルに関しては、日本のマスタリングの方が輸入盤より優れていたのですね。
ゴールウェイの演奏は、いまさら何も言うことはありません。特に、バックのオーケストラをも圧倒するような存在感は、小ぶりになってしまった今時のフルーティストには及びもつかないものです。これからもこれほどの演奏家が出てくることはないのではないかと思えるほどのスーパースターの克明な記録、繰り返しますが、それがこんなに安価に入手出来るなんて、まさに奇跡です。
(4/16追記)
自他共に認める「ゴールウェイおたく」のTさんから、「テレマンのト長調はこちらに入っています」という情報を頂きました。ちなみにハ長調はやはりまだCD化されていないそうです。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

4月13日

音楽史を変えた五つの発明
ハワード・グッドール著
松村哲哉訳
白水社刊
ISBN978-4-560-08113-6

イギリスの作曲家、ハワード・グッドールが2000年に出版した著作「Big Bangs」の日本語訳です。原著のサブタイトル「The Story of Five Discoveries that Changed Musical History」が、そのまま邦題になっています。グッドールについては、こちらで彼の作品を紹介したこともありましたが、そのような「クラシック」の作曲家としてよりも、あの「ミスター・ビーン」のテーマ音楽を作った人として、広く知られているはずです。というか、この作品にしても、いわゆる「現代音楽」という範疇からは少し距離を置いた、ありがちな折衷様式で作られていたような気がします。
タイトルで「音楽」と「発明」という2つの言葉が並んでいることに違和感をおぼえるのは、ごく普通の感覚に違いありません。つまり、前者は「芸術」の概念であり、後者は「工業技術」の概念であるからなのでしょう。この二つの概念は本来なんの関係もないものなのですが、それを結びつけて論じることが出来ること自体が、「西洋音楽」がいかに特殊なものであるかを物語っています。そう、まず読者は、ここで言う「音楽史」というのは、あくまで「音楽」全体ではなく、「西洋音楽」というごく限られたジャンルの歴史であることを認識する必要があるのです。言い換えれば、この本によって著者が伝えたかったのは、「西洋音楽」が、いかに特殊なものであるか、ということなのではないでしょうか。
ここで著者が「発明」として挙げているものは、「記譜法」、「オペラ」、「平均律」、「ピアノ」、「録音技術」の5つです。これらのものは、まさに「ビッグ・バン」のようにある日突然現れ、それまでの音楽のあり方をすっかり変えてしまった、というのが著者の主張です。「オペラ」というのがいまいち馴染みませんが、他の4つの「発明」は、確かに西洋音楽が特別のものになるために欠くことの出来ないものだったことは良く分かります。
その中でも、「記譜法」を「発明」と捉え、そこから西洋音楽の特殊性を明らかにしているあたりの筆致は、なかなかエキサイティングです。頭の中に思い描くだけでなく、紙の上に記録できるツールを手にした時から、西洋音楽は他の音楽とは全く異なる道を歩み始めたのですね。確かに、複雑な対位法などは、「楽譜」というものがなければ、到底作り出すことはできなかったことでしょう。そして、その結果として、耳で聴くだけでは決して理解できないような音楽が生まれてしまうことになるのです。これこそが、西洋音楽、つまり「クラシック音楽」が、ある程度の素養がないことには充分に理解することが出来なくなってしまった最大の要因なのでしょう。著者は、もちろん、そのような懐疑的な態度を取ることはせず、この「発明」を手放しで賞賛しているように見えます。
そして、「平均律」に対しても、このシステムが欠陥の多いものであることは認めてはいても、何よりも限りない可能性を開いたものとして容認の態度を取っています。と言うより、このあたりの説明は非常に難解な書き方になっていて、それはあたかも平均律の欠陥を覆い隠すための恣意的な措置のようにさえ思えてきます。
そんな堅苦しい本論の合間に、「間奏曲」という、ちょっとしたコラムが挟まれているのも、なかなかの配慮です。「作曲するということ」では、彼自身の音楽の作り方が赤裸々に語られます。それはなかなか感動的な体験談なのですが、先ほどの作品を聴く限り、それほどのものから生まれたのだとは到底思えないのが、少々残念です。「選ばれた人々」とは、西洋音楽で多くの功績のあったユダヤ人作曲家たちのこと。マーラーに言及した部分で勢い余って、ブルックナーを「冗長でひどく単純」と決めつけているのは、多方面からブーイングを浴びるに違いありません。きっと減給されてしまうことでしょう。

Book Artwork © Hakusuisha Publishing Co., Ltd.

4月11日

STRAVINSKY
The Rite of Spring, Petrushka
Andrew Litton/
Bergen Philharmonic Orchestra
BIS/SACD-1474(hybrid SACD)


このジャケット、とても「BIS」とは思えないようなデザインと配色ですね。なにしろ、このレーベルが出来た当初は、いかにも「北欧」といった感じの全面黒一色にこだわったジャケットでしたからね。それも次第に自由なものには変わっていきましたが、ある種譲れないポリシーのようなものは、常に感じることができました。しかし、ついにここまで来ましたか。使っている絵がムンクの「太陽」だというのは評価できますが、全体を覆うこの安っぽさはもはやかつてのBISのものではありません。着色されたタイトルが致命的ですね。こうなってくると、あのNAXOSの方がはるかにマシに思えてきます。
しかし、このSACDを聴いてみると、そんなお粗末なジャケットからは想像も出来ないような魅力あふれる演奏だったのには、嬉しくなってしまいました。外見だけで判断してはいけません。
ここで、あの超難曲「春の祭典」を演奏しているのは、ノルウェーの、はっきり言ってローカルなオーケストラ、ベルゲン・フィルです。別にお腹を壊したわけではありませんが(それは「ゲリベン・フィル」)。名のあるオーケストラ、そして名のある指揮者の演奏でさえ、大汗をかきながら一生懸命やっているのが分かってしまうという、あらゆる面で落とし穴満載のこの曲ですから、まず、こんな「田舎の」団体が破綻なく最後まで演奏できるのかな、という程度の「期待」で聴き始めたって、決して悪いことではなかったはずです。ところが、そんな先入観をあざ笑うかのように、彼らは実に余裕のある、そして隙のない演奏を聴かせてくれたではありませんか。これは、なんともうれしい「誤算」でした。
そんな「余裕」は、ファゴットの超高音で始まる管楽器の掛け合いで、すでに十分にうかがえるものでした。ファゴット奏者はこんな酷な音域で、もしかしたら作曲家が願ったのかもしれない喘ぐような音とは全く無縁な、いともリリカルな音色で迫ります。さらに、彼のフレーズは厳密に楽譜に忠実な機械的なものではなく、もっと自らの呼吸を感じさせるような人間味あふれるものでした。バスクラリネットやアルトフルートも同じこと、訳のわからない複雑な譜割りなどを超越した、あくまで自分で「歌える」音楽を、その中に込めていたのです。
続く、いかにも原始的な「祭典」を思わせる不規則なアクセントをもつトゥッティのパルスの連続の部分でも、彼らは決して大げさな身振りを見せることはありません。それはいともさりげなく、まさにあるがままの姿で流れるといったごく自然なたたずまいに感じられます。ですから、曲がクライマックスを迎えるあたりの、小節ごとに拍子が変わるといった変拍子の応酬の部分でも、おそらく彼らは汗一つかくこともなく、その変拍子を不自然なものとは感じさせない、極めて滑らかなリズムであるかのように扱うことが出来るのでしょう。
後半になるにしたがって、これがとてつもない録音であることが次第に分かってきます。別にサブウーファーのようなもので補強したオーディオ・システムではないにもかかわらず、バスドラムのエネルギーに満ちた重低音は曖昧さを一切見せずに部屋いっぱいに響き渡りますし、繊細なサンバル・アンティークは、決して埋もれることなく明晰にスポットライトを浴びています。
もちろん、そんな怒濤の響きの饗宴の中から聴こえてくるのは、力ずくで煽り立てる音楽ではなく、なんとも風通しの良い心地よさを楽しんでいるうちに、ひっそりとストラヴィンスキーが企んだバーバリズムが忍び寄って来るという油断のならないものでした。いつの間にか、「春の祭典」でこんな演奏が出来る時代になっていたのですね。それはその前のトラックに入っていた「ペトルーシュカ」が、大編成の1911年版にもかかわらず、まるで室内楽のような肌触りで聴こえた時点で、予測出来ていたはずなのに。

SACD Artwork © BIS Records AB

4月9日

BACH
St John Passion
Markus Schäfer(Ev), Thomas Oliemans(Jes), Carolyn Sampson(Sop)
Micheal Chance(Alt), Marcel Meekman(Ten), Peter Kooiy(bas)
Frans Brüggen/
Cappella Amsterdam(by Daniel Reuss)
Orchestra of the Eighteenth Century
GLOSSA/GCD 921113


ついこの間ガーディナーの「ヨハネ受難曲」を聴いたばかりなのに、今度はブリュッヘンで同じ曲のCDが出ました。実は、もう少しすると、また別の演奏家による「ヨハネ」がリリースされることになっています。これを単なる偶然と受け取るには、あまりにもタイミングが絶妙過ぎます。しかし、キリスト教では「受難」というのはあくまで「復活」のための伏線なのでしょうから、こんな見事な、まるで見えない力に支配されているような粋なはからいを楽しもうではありませんか。そういえば、マーラーの交響曲第2番「復活」も、まるで用意されていたかのように新しい録音が出るようですしね。
今回のブリュッヘン盤は、先日のガーディナー盤とはまさに好対照な仕上がりとなっていました。特に、合唱に関してそれは顕著に表れています。あちらはかなり攻撃的な表現、確かにそれは際立った説得力を持つものではありましたが、「この時期」に聴くにはかなり辛いものがありました。しかし、今回の合唱は、なんという「静か」な力で迫って来ていることでしょう。ここで参加しているのは、「ロ短調ミサ」でも共演していた、ダニエル・ロイスの合唱指揮による「カペラ・アムステルダム」ですが、その透明感あふれるソノリテは、暖かく包み込むように聴くものを安心させる力を持っていました。
そもそも、第1曲からして、音楽は平静のうちに進みます。そこからは決して不安感を抱くことはありません。唯一、合唱が出てくる直前のクレッシェンドあたりが心に波を立てるものだったのかも知れませんが、それはもちろん人を追いつめるようなものではなく、あくまでも合唱に対する「期待感」を募らせるだけのものに過ぎませんでした。そして、その「期待」通りの、なんの押しつけがましい仕草も見せない合唱が「Herr!」と歌いだした時に、それは音楽以外には伝えることのないメッセージとして聴き手には伝わってきたのです。策を弄して相手をねじ伏せるのではなく、真の「美しさ」によってなにかを伝える、これこそが音楽の持つ「力」なのでは、と、その時気づくはずです。
このCDは、2010年の3月末から4月初めにかけて、オランダ国内のロッテルダム、ハーレム、ライデンという3つの都市の、それぞれ異なるホールで演奏されたライブ録音を編集したものです。録音会場が違うので、部分的にバランスや遠近感の違いがもろに分かってしまうという、ちょっと「商品」としては問題のあるものになってしまっています。ですから合唱も、第1部の頭ではそのような印象だったものが、第2部になると微妙に聴こえかたが変わっています。その中で、演奏のテンション自体もまるで別物のように感じられてしまうのが、ちょっと気になります。このあたりの合唱が、なにかずいぶん雑に聴こえるのですね。それが単にコンディションの違いから来るものなのか、あるいは意図して表現を変えているのかという判断がつけかねるのですよ。最後になると、また最初に聴いた合唱が戻ってくるので、一安心なのですが、こういう編集のやり方は、ちょっと納得できません。
合唱のクオリティの高さに比べて、ソリストたちが一段落ちるのも、残念なところです。特にひどいのが、テノールのアリア担当のベークマン。なんとも無神経な歌い方で、品位のかけらもありません。アルトのチャンスもバスのコーイも、もはや声は下り坂、期待していたソプラノのサンプソンも、ブリュッヘンのテンポに全く乗れずに、醜態をさらしています。そこへ行くと、エヴァンゲリストのシェーファーと、イエスのオリーマンスは安心して聴いていられますから、合唱の入っていないアリアのトラックは、スキップして聴くのがオススメ。春ですからね(それは「オスメス」・・・意味不明)。

CD Artwork © MusiContact GmbH

4月6日

PACINI
Il Convitato di Pietra
Leonardo Cortellazzi(Don Giovanni)
Geraldine Chauvet(Donn' Anna)
Zinovia-Maria Zafeiriadou(Zerlina)
Daniele Ferrari/
Südwestdeutsches Kammerorchester Pforzheim
NAXOS/8.660282-83


ロッシーニの作品を上演する音楽祭としては、彼の生地ペーザロで行われている「ロッシーニ・オペラ・フェスティバル」が良く知られていますが、もう一つ、彼が保養に訪れたドイツの街、バート・ヴィルバートでも、「ロッシーニ・イン・ヴィルバート・ベルカント・オペラ・フェスティバル」というものが毎年開催されています。2008年には、20回目という節目を迎えましたが、その時に「初演」されたのが、この、ロッシーニと同時代の作曲家ジョヴァンニ・パチーニが作った「Il Convitato di Pietra(石の招待客)」という作品です。
このタイトルを聞いて、とっさに別の作品を思い浮かべた方がいるかも知れません。そう、これは、あのモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の「元ネタ」として知られているガッツァニーガの作品のサブタイトルなのですね。ちなみに、モーツァルトの作品の正式なタイトルは「罰せられた放蕩者」でしたね。
このパチーニという人は、父親がバス歌手、なんでもロッシーニのオペラの初演でも歌っていたというような実力の持ち主だったそうです。他にも家族の中にはプロの歌手やアマチュアの歌手など、まさに「音楽一家」といった感じで歌手がごろごろしていたのだとか。そんな「ファミリー」で演奏しようと作られたのが、この「石の招待客」なのです。ですから、ちゃんとした劇場でお客さんを前に上演されたのは、この2008年のものが最初だったということになります。楽譜などもきちんとしたものではなかったようで、ジェレミー・コモンズという人と、指揮者のフェラーリがまず楽譜の修復から始めて、上演にこぎつけたそうです。
タイトルに「Farsa o operetta(道化芝居、またはオペレッタ)」とあるとおり、ここでは通奏低音を伴ったレシタティーヴォ・セッコではなく、「語り」のセリフによって物語が進行しています。これが本来の形だったのか、校訂者たちの見解でレシタティーヴォをセリフにしたのかは分かりませんが、これによって「オペラ」、あるいは「オペラ・ブッファ」というものとはやや趣を異にした「お芝居」のテイストが濃くなっているのは事実でしょう。そこで、まず、音楽が始まる前に、実際にパチーニが作った時に割り振ったファミリーたちが登場して、それぞれの役を自分たちで紹介する、といったひとくさりが、なにか和みます。ただ、ブックレットには対訳は付いてはいませんし、ネットでダウンロードできるリブレットもイタリア語だけですから、普通の人には細かい内容は分からないよう。ただ、モーツァルトの作品を知っていれば、とりあえず、誰と誰とが話しているか、とか、語調の感じでなんとなくお話を想像することは出来ることでしょう。もちろん、レポレッロは「フィッカナーソ」という名前に変わっていますし、ドンナ・エルヴィラも登場してはいない、というあたりはきちんと押さえておかなければいけませんが。
プライベートな作品だったせいなのでしょうか、オーケストラの編成も弦楽器にフルートが2本加わっているという簡素なものです。もしかしたら「ファミリー」にフルーティストがいたのかもしれませんね。そのフルートは、時にはピッコロに持ち替えられたりして、このシンプルな楽器編成からかなりの色彩感を出しているのは、作曲家のセンスがそんなに悪いものではない証なのでしょうか。もちろん、音楽全体はモーツァルトあたりとは比べるのも酷なぐらい単調でノーテンキな仕上がりなのですが、アリアはそこそこ美しいものですし、コロラトゥーラの妙技も味わえて、「娯楽」として楽しむには充分な手ごたえです。最後あたりに、おそらく騎士長が登場するシーンなどは、減和音などを多用してなかなかおどろおどろしい雰囲気も醸し出していますしね。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

4月4日

La Musique de la Belle Époque pour Flûte
榎田雅祥(Fl)
蒲生祥子(Pf)
CAMERATA/CMCD-28234


榎田さんというフルーティストは、長く大阪フィルの首席奏者を務められていた方です。1980年から2010年までの30余年、大阪フィルの「顔」として、その音色を支えていました。生でこのオーケストラを聴いたことはあいにくないのですが、時折テレビなどで放送されていたものを聴くと、そのフルートの音はとてつもない存在感を持っていたことを感じたものです。それはまさに「榎田トーン」といった、唯一無二の音でした。
そんな特徴的な音は、もちろんご本人の修練の賜物なのですが、彼の楽器に対するこだわりも寄与していたに違いありません。彼の修業はチューリッヒでアンドレ・ジョネ、ロンドンでウィリアム・ベネットという二人の巨匠のもとで行われたのですが、その二人が揃いも揃って使っていたのが、「ルイ・ロット」という楽器だったのです。師匠たちの吹くこの楽器の音をそばで聴いてその魅力に惹かれ、榎田さんは何本かの「ロット」を手に入れたそうです。すでに1951年には閉鎖されてしまったそのフルートの工房から生まれたほんの一万本程度の「ロット」は、今では宝物のように多くのフルーティストの羨望の的となっています。
もう一つのこだわりは、「Gis open」というシステムです。現在世の中に出回っているフルートは99%は「Gis closed」というもの、その違いは写真を見て下さい。

上が「Gis open」、画像は榎田さんが訳された「Angeleita Stevens Floyd/The Gilbert Legacy(邦題:フルート奏法成功への鍵 ジェフリー・ギルバートのレッスン・システム)」(1995年/音友)33ページ。下が「Gis closed」です。「closed」の方がキーが一つ裏側に余計に付いています。そもそもベームが作った楽器は「open」だったのですが、左手の小指に負担がかかるのでもっと楽に演奏出来る「closed」が主流になっていきます。しかし、キーとトーンホールが多い分、音色が犠牲になるので、特にこだわって「open」を使うフルーティストも健在、榎田さんもその一人です。ただ、その左手小指の運指が、今までのものと全く逆になるのがネックですね。
フルートにおける「フレンチ・スクール」の始祖の一人、ポール・タファネルも、「Gis open」の「ロット」を使っていました。彼は、1893年にパリ音楽院の教授に就任して学生を束ねることになったときに、卒業試験の課題曲として、毎年新曲を作曲家に作らせる、という制度を導入しました。それらの作品は、今ではフルーティストにとって欠かすことのできないレパートリーとなっていますし、たとえばフォーレの「ファンタジー」とかシャミナードの「コンチェルティーノ」などは、フルートに特に関心のないクラシック・ファンにもお馴染みのものなのではないでしょうか。
このアルバムには、その課題曲が全部で9曲と、おまけとしてタファネル自身の曲がもう一つ(課題曲の「アンダンテ・パストラールとスケルツェッティーノ」の他に「シシリエンヌ・エチュード」)が収められています。したがって、ここではエネスコの「カンタービレとプレスト」やゴーベールの「ノクチュルンとアレグロ・スケルツァンド」といった「有名曲」以外の、全く聞いたことのない作曲家の作品に接することが出来るという、資料的な価値が最大の魅力になってくるでしょう。
榎田さんの「ロット」の音色は、なんとも言いがたいセクシーなものでした。それはまさに「古き良き時代」を思わせるものです。さらに、曲の成立からも分かるように、ここで必要とされる技巧はハンパではありませんが、それを軽々とクリアしているテクニックの冴えも見事としか言いようがありません。しかし、表現になにか四角四面な印象が免れないために、曲としての魅力があまり伝わってこないのが残念です。というより、皮肉なことに、この演奏からは、これらの曲がなぜフルーティストの間だけの嗜好にとどまっているのかがはっきり分かってしまうのです。

CD Artwork © Camerata Tokyo, Inc.

4月2日

BLOCH
Works for Male Soprano, Rare Instruments and Orchestra
Jörg Waschinski(Male Sop)
Thomas Bloch(Rare Inst)
Fernand Quattrocchi/
Paderewski Philharmonic Orchestra
NAXOS/8.572489


トマ・ブロシュというミュージシャンは、オンド・マルトノ奏者として一度こちらでご紹介していましたね。そのアルバムの中でも自作を取り上げていましたが、今回は全て自らの作品という意欲作です。以前のアルバムのテイストからもすでに感じられていましたが、今回のライナーによって明らかになったように、1962年生まれのブロシュのルーツは「作曲家」ジョン・ケージやクセナキスなどから始まって、ロック・ミュージシャンにまで及んでいたのですね。
そんな背景を持ったブロシュが作った曲が、どのあたりのスタイルに集結しているのか、まずはアルバム中最も大きな作品である「Missa Cantate」で聴きとってみましょうか。これは、フル・オーケストラをバックに男声ソプラノが歌うという、編成的にも大きなものになっています。ただ、オーケストレーションはブロシュではなく、別の人が行っています。全部で10の部分から成るこの作品は、タイトルの通り「ミサ」の通常文の他に「レクイエム」などに使われているテキストや「Alleluia」などといった楽章もあって、ごった煮の感じ、そんなところを「カンタータ」と表しているのでしょうか。分厚い弦楽器で始まるこの曲のテイストは、まさにペルトやタヴナーといった、現代の宗教曲のメインストリームそのものでした。ソリストの歌う抑揚の少ないフレーズを、オーケストラの豊かな響きが包み込む、といった趣ですね。ただ、6曲目の「Sanctus-Benedictus」あたりが、かなりメロディアスな性格を持っているあたりが、ブロシュのアイデンティティなのかもしれません。しかし、正直この作品はオーケストレーションがかったるく、途中で眠くなってしまいますね。ちなみに、この曲はオーケストラだけ先に録音して、ソプラノ・ソロはその1年後に別のところで録音されています。このソロと、そのあとのブロシュ自身の演奏は、なんとブロシュその人が録音まで担当していますよ。自作自演+自録でしょうか。忙しくて死ぬ思いでしょうね(それは「地獄」)。
後半は、そんな「家内生産」で作られたもの、そこでは、ブロシュが演奏したさまざまな「楽器」も、さらにソプラノ・ソロさえも、多重録音によって何声部もの多くのパートを形成しています。
まず、「Sancta Maria」では、その2人の他にヴィオラが加わります。ヴィオラのピチカートで始まるこの曲は、かなりきっちり作られているような感じ、その間にブロシュのグラスハーモニカのきらめきと、多くのヴォーカル・パートが彩りを添えています。もしかしたら、ブロシュ自身もヴォーカルで加わっているのかもしれませんね。
次の「Cold Songs」では、一応ヴォーカルは7声部となっていますが、歌詞のないヴォカリーズなので、楽器と一体化して聴き分けられないほどです。その「楽器」ですが、「クリスタル・バシェット」(左)とか「ウォーターフォン」(右)といった、奇妙な楽器は、いったいどれがどんな音を出しているのか、さらに生音なのか変調を加えられているのかも定かではありません。

音楽も、果たしてきちんと楽譜に書かれたものなのか、あるいはそれこそジョン・ケージのような偶然性にゆだねられたものなのかも、聴いただけでは分からないという怪しさです。まあ、現代によみがえったケージの精神だな、と思うことにしましょうか。
最後の「Christ Hall Blues」という曲は、まるでバロック・オペラのアリアのように、レシタティーヴォとアリアに別れています。ここに来て、ソリストのワシンスキの、まさに「現代のカストラート」とも言える華麗な「ソプラノ」を堪能することが出来ることでしょう。ほんと、オトコにしておくのはもったいないほどの美しい声ですね。この曲で、初めてブロシュの本来の楽器であるオンド・マルトノが登場するのも、それまでの経過からなにか感動的な思いに浸れてしまいます。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

3月31日

KIND
Nidaros String Quartet
Kjetil Almenning
Ensemble 96
2L/2L-076-SABD(hybrid SACD, BD)


録音が売り物の2Lレーベル、そのスペックは24bit/352.8kHzという、なんだかハンパですが、とてつもないサンプリング周波数を持ったものでした。もちろん、これをそのまま再生できる民生用のオーディオ・システムはありませんから、現状では上限の規格であるブルーレイ・ディスクの音声トラック(24bit/192kHz)にコンバートしたものと、DSDに変換したSACDの2枚組というパッケージです。
ここで演奏しているのは「アンサンブル96」という、以前2004年に録音されたニューステットのアルバムでお目にかかっていた合唱団ですが、あの時の録音スペックは24bit/48kHzという、DSDに相当するものにも及ばないものでした。それがいつの間にか、どんどんレゾリューションが上がっていて、ついにDSDを超えてしまっていたのですね。その時も今回も、録音された場所がウラニエンボリ教会という同じ場所なので聴き比べてみたら、その違いは歴然たるものでした。声の滑らかさと、立体感が全然違っているのですね。今回は、まさに眼前で演奏している合唱団の姿が等身大で見えるような、素晴らしい録音です。若々しいメンバーの澄んだア・カペラの声が、的確な残響をともなって、リスニングルームに広がります。
Kind」というタイトルは、ドイツ語の「子供」でしょう。このアルバムは、ノルウェーの伝承歌の中から「子供」にちなんだ子守唄を合唱に編曲したものの間に、現代の作曲家が作った「子供」という言葉が含まれるタイトルを持つ作品が演奏されているという、まるで「幕の内弁当」のような構成を持っています。素朴な子守唄は、お弁当の基本である「ごはん」、そして現代曲は「おかず」ですね。
それは、新鮮な食材に思いっきり手間をかけたとびきり上等の「おかず」、楽譜も簡単に入手でき、すでに日本の合唱団のレパートリーにもなっているフィンランドのマンティヤルヴィの「Die Stimme des Kindes(子供の声)」と、デンマークのネアゴーの「Wie ein Kind(子供のように)I-III」、そして、この録音のために委嘱されたノルウェーの若手作曲家(1979年生まれ)マルクス・パウスの「The Stolen Child(さらわれた子供)」の3品(3曲)です。
最年長(1932年生まれ)のネアゴーの作品は、言ってみれば「焼き魚」。「子守唄」、「春の歌」、「不幸な出来事を伴う葬送行進曲」という3つの部分から出来ていますが、それらを続けて演奏するのではなく、他の曲の間、正確にはトラック4、6、10にちりばめるという構成が憎いところです。両端の2曲ではアドルフ・ヴェルフリの前衛的な詩がテキストとなっていますが、それは殆ど擬態語のようなもの、音楽も合唱がきれいにハモっている中でソリストが突拍子もない叫び声を上げるという、ユニークさです。特に最後の曲でのテナーのソリストは、実に微妙なタイミングと表現力で、不気味さを的確に演出していました。
1963年生まれのマンティヤルヴィの作品は、そもそもは歌詞のない合唱曲だったものに、ニコラウス・レーナウの詩を当てはめたもので、とても柔らかい味わいを持つ佳曲です。「卵焼き」でしょうね。
パウスの新作には、弦楽四重奏が加わります。テキストはアイルランドのW.B.イェーツ、6/8に乗ったまるでグリーグのようなノルウェー風のテイスト満載のシンプルな曲調を、合唱と弦楽四重奏がそれぞれに「壊して」いくところがスリリングです。こういう「壊し」は、ニシュテッドなどの先達の伝統なのでしょうか。まさに地域限定の「ささかま」ですね。
そして、「ごはん」も有機農法で作られたササニシキ、フランク・ハヴロイという人が編曲した様々な地方の子守唄です。それぞれの持つ魅力的なメロディを大切にした美しいアレンジが、まるでかまどを使って薪で炊かれたようにふっくらと、この卓越した合唱によって味わうことが出来るかま。いただきま〜す。

SACD Artwork © Lindberg Lyd AS

3月29日

ROTA
Piano Concertos
Janne Mertanen(Pf)
Hannu Lintu/
Tampere Philharmonic Orchestra
ALBA/ABCD 310(hybrid SACD)


イタリアの作曲家ニーノ・ロータは、1979年といいますから、もう30年以上も前に亡くなっていたんですね。まだ生きていたような気がしていたっす(それは「イーノ・ヘータ」・・・ご存じないでしょうが、「NISSANあ、安部礼司」のキャラっす)。
ロータといえば、なんたって「ゴッド・ファーザーの愛のテーマ」がすぐ頭に浮かぶほどですから(ついでに、「広い世界の片隅に やがて二人の朝が来る」という千家和也の訳詞で歌っている尾崎紀世彦のモミアゲ姿も、浮かんできませんか?)、映画音楽の作曲家として世界的に有名でした。しかし、彼は本来はクラシックの作曲家としての修業を続けていた人だったのですね。
彼が生まれたのは1911年、つまり、今年は「生誕100年」ということになります。音楽家一族の家に生まれたロータは、幼少の頃から作曲の才能を示し、12歳の時には「洗礼者ヨハネの幼時」というオラトリオまで作曲しているという、「天才」でした。その年にミラノ音楽院に入学、ピッツェッティの教えを受けることになります。その後、今度はローマの聖チェチーリア音楽院にも入学、そこではカセッラから作曲を学びます。その頃には、ストラヴィンスキーとも友人になっていますね。さらに、1929年には、トスカニーニの推薦でアメリカに渡り、カーティス音楽院に入学します。そこでは作曲をロザリオ・スカレロという人に学び、同時にフリッツ・ライナーからは指揮法を学びました。イタリアに帰ったロータは、イタリア南部、アドリア海に面したバーリという都市にあるバーリ音楽院の校長に迎えられ、30年以上その職にあったのです(ちなみに、指揮者のリッカルド・ムーティはこの学校の出身。ロータに、学生オケの代役を急遽任されたことが、指揮者になるきっかけだったのだとか)。
ロータの「クラシック」の作品は、多くのオペラや交響曲、室内楽など、多岐にわたっています。その中で、ピアノ協奏曲は全部で4曲残されています。このアルバムには、1960年に完成したハ長調の協奏曲と、「Piccolo mondo antico(昔の小さな世界)」というタイトルを持つ1978年のホ短調の協奏曲が収められています。
彼の作風は、「新古典主義」といったような範疇に収められるものなのでしょう。いわゆる「現代音楽」といった趣の12音やセリー、ましてやクラスターなどが顔を出すことは決してありません。友人であったピアニスト、アルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリに献呈されたハ長調の協奏曲の場合も、どこかショスタコーヴィチやプロコフィエフの作品を思わせるような、古典的な構成と響きを大事にした、聴きやすい曲です。しかも、第2楽章では、1972年に作られることになるさっきの「ゴッド・ファーザー」と非常によく似た旋律を聴くことができます。ですから、彼が映画音楽で披露した様々なキャッチーなメロディは、そもそも「クラシック」の中から生まれていたものなのですね。おそらく、彼が作曲する時には「クラシック」も「映画音楽」も、全く同じ姿勢で接していたに違いありません。逆に、この協奏曲を聴いていても、そのまま映画のシーンに使えそうな断片がいくらでも見つかることでしょう。
彼は、生涯そんなスタンスを貫いたのでしょうね。最後の作品となったホ短調の協奏曲の場合も、そんな「聴きやすさ」は健在でした。まるでラフマニノフのようなメランコリックな第1楽章、映画音楽で聴かれる「ロータ節」満載の第2楽章、そして、プロコフィエフ風の軽快さの中にも、まるでジョン・バリーのような壮大さも垣間見ることの出来る第3楽章と、聴きどころにあふれています。
フィンランドの期待の新星、ヤンネ・メルタネンが、そんなロータの魅力を、存分に伝えてくれています。熱いメロディの歌い上げは格別ですし、いきいきとしたパッセージのドライブ感は、爽快そのものです。

SACD Artwork © Alba Records Oy

おとといのおやぢに会える、か。


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