植えると、出ずに。.... 佐久間學

(10/5/30-6/18)

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6月18日

BOCCHIRINI
Symphonies
Matthias Bamert/
London Mozart Players
CHANDOS/CHAN 10604

ルイジ・ボッケリーニと言えば、「メヌエット」がとても有名な作曲家ですよね。いや、もはやこの曲は作曲家の名前がつかなくても、ほとんど「パブリック・ドメイン」のノリで親しまれている曲なのではないでしょうか。それこそ、パッヘルベルの「カノン」のように。いや、あちらは「カノン」以外はほとんど知られることのない「一発屋」ですが、ボッケリーニの場合は夥しい数の室内楽が知られていますから、そんな人と類似の作曲家と見られるのは心外なのかもしれません。
そうは言っても、室内楽以外のジャンルでは、やはりボッケリーニはその実態はそれほど知られてはいないはずです。今回のバーメルトの「モーツァルトの同時代の作曲家」シリーズで取り上げられている「交響曲」にしても、今まで全く耳にしたことはないものばかりでしたからね。
実際は、ボッケリーニが作った「交響曲」は20曲以上あるそうなのです。ただ、ここに収録されている3曲の「交響曲」のうちの、2曲までが、「Concerto」というタイトルを持つ曲です。しかし、それぞれ楽章は4つですし、特に独奏楽器を立てているわけでもないので、「協奏曲」というよりは「コンセール」と思えばいいのでしょうね。どちらも、ボッケリーニが仕えていたスペイン宮廷の王子のために1771年に作られたものです。それこそ「メヌエット」を思い起こさせるような、とことん上品で柔らかな肌触りの音楽が、最初から最後まで聴く人を魅了して放さないという、とてもキャッチーな作品です。ざっと聴いた感じ、同じ時代の「交響曲」にありがちな無駄な部分がほとんど見当たらないところが、そんな風に感じられる要因なのかもしれません。そんなあたりが、この作曲家の最大の美点なのでしょうね。
「第3番」では、管楽器はオーボエとホルンしか入っていないという、この時代のスタンダードな編成がとられています。あくまで優雅に進められている音楽の肌触りは、第3楽章のメヌエットになっても変わりません。と、ひとしきりメヌエットの優しさに浸りきったところで、トリオになったらいきなりピッコロのソロが聞こえてきましたよ。もちろん、ここで演奏しているロンドン・モーツァルト・プレイヤーズでは、その部分だけはフルート奏者が担当していますが、この曲が作られた当時はそんな贅沢なことは出来るはずもありませんから、オーボエ奏者がピッコロを吹いたのでしょうね。実は、ここは譜面上はフルートなのだそうです。それをあえてピッコロで演奏しているのですが、それはこの楽器にありがちな刺激的なところなど全く感じられない優雅なものでした。奏者の技量もあるのでしょうが、ピッコロでさえこれほどまろやかに歌わせられるのが、ボッケリーニの「ウリ」なのでしょうね。
「第8番」になると、編成はオーボエがなくなってフルートとホルンだけになります。ここでは、この2本のフルートが入れてくれる合いの手が、とっても素敵です。常に2本がセットになってハモっているのが、なんとも柔らかで、穏やかな雰囲気をたたえています。こういうフルートの使い方は「モーツァルト」ではあまり見られません。この楽器を信じてくれていれば、これほど美しいものが作れたはずなのに。
最後の「21番」は、それから15年後、プロイセンのフリードリヒ大王のために作られました。こちらは「Sinfonie」というタイトルとは裏腹に、あちこちに独奏楽器が登場する「シンフォニー・コンチェルタンテ」の形をとったものです。面白いのは、この時代の「交響曲」にはあるまじき、楽章の交換が行われていること。まるでベートーヴェンの「第9」のように、第2楽章が「メヌエット」、第3楽章が「アンダンテ」になってますよ。その「アンダンテ」での、哀愁に満ちたオーボエ・ソロと、それに絡みつくチェロのソロは、まさに絶品です。

CD Artwork © Chandos Records Ltd

6月16日

BRUCKNER
Symphony No.4(3rd version)
Osmo Vänskä/
Minnesota Orchestra
BIS/SACD-1746(hybrid SACD)


ご存じのように、ブルックナーの交響曲の中で最も演奏頻度の高い「4番」には、3種類の異なる「稿」が存在しています。1874年の「第1稿」、1878年から1880年にかけての「第2稿」、そして、1888年に作られた「第3稿」です。その中で、「第3稿」というのは、「ブルックナーの弟子によって改竄されたもの」という評価が一般的で、昨今では、まず演奏されることはありませんでした。
ところが、ごく最近になって、「第3稿」に関する見解が今までとはガラリと変わってしまうような事態が勃発します。2004年に、国際ブルックナー協会の全集版(いわゆる「ノヴァーク版」)として、この「第3稿」が出版されたのです。つまり、今までは「改竄版」という扱いで全集からは無視されていたものが、他の稿と同じ「原典版」として出自の正しいものであることが認められたのですね。出版にあたって楽譜の校訂を行ったのは、ベンジャミン・コースヴェットというアメリカの音楽学者、したがって、この楽譜は「レーヴェ版」とも呼ばれていた従来の「第3稿」(そもそも、1889年に最初に出版された楽譜。かつてはハンス・レートリッヒによる校訂版がオイレンブルクから出ていましたが、今では「第2稿」に変わっています)と区別するために「コースヴェット版」と呼ばれています。これからはこうすべえ、ということですか。
かつては弟子のフェルディナント・レーヴェが、「第2稿」のままではとても出版は出来ないということで、より一般受けするようにワーグナー風のサウンドに半ば独断で改訂を行い、ブルックナーはそれを認めてはいなかった(楽譜にサインをしていない)という認識が強かったこの「第3稿」なのですが、コースヴェットの研究によればそのようなことでは決してなく、作曲家と弟子とによる共同作業の結果出来上がった、まさに作曲家の最終的な意思が反映されているものであることが明らかになったということなのです。
これは、今まで日陰者の身だったものが、いきなり表舞台に引きずり出された、というような事態なのでしょうね。本当かなあ、という気はするのですが、まあなんせ国際ブルックナー協会のお墨付きを得られたのですから、まちがいはないのでしょう。そして、これからは「第3稿」は、他の2つの「稿」と同等に演奏家の選択肢の一つとなっていくことでしょう。
もっとも、現時点ではこの楽譜による演奏は、2005年の内藤盤と、そして、最新の2009年1月に録音された、このヴァンスカ盤しかありません(ヴァンスカは、2008年の11月にも、別の小さなレーベルに録音を行っています)。内藤盤は日本国内のマイナー・レーベルですので、ワールドワイドにコースヴェット版の録音が聴かれるのは、これが最初のものとなるのでしょう。
この新生「第3稿」、いかにまっとうなものに待遇が変わったといっても、やはり今までのレーヴェ版で味わってきたおどろおどろしいイメージは、変わることはありません。ピッコロやシンバルが加わったド派手なフィナーレに慣れるには、しばらく時間がかかることでしょう。何よりも、第3楽章のスケルツォが、1回目と2回目では違った形になっているというのが、とても違和感があるところです。1回目は、何とトリオに向かってディミヌエンドしていくんですよね。こんなブルックナーらしくない「配慮」には、戸惑いを禁じ得ません。そして、2回目は途中で70小節近くカットしたあとで、このディミヌエンドもスルーして別のコーダに入り、元気に終わる、というわけです。
かつてこの曲(もちろん「第2稿」)を演奏したさる長老指揮者が、このスケルツォの最後で、まだ1回目だと勘違いしてオケは終わっているのにまだ指揮を続けていたという醜態を演じたことがありましたが、コースヴェット版がもっと早く世の中に出ていれば、そんな恥をかかなくても済んだでしょうに。

SACD Artwork © BIS Records AB

6月14日

MAHLER
Symphony No.9
Roger Norrington/
Radio Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.244


マーラーの交響曲第9番と言ったら、なにしろ複雑で難解な作品、一生のうちに何回も演奏するものではないと、演奏家からも恐れられている曲です。さる指揮者などは、この曲を演奏する前の晩には眠ることが出来なくなってしまうといいますから、大変なものです。いや、その方の場合は、泊まったホテルの隣の部屋から、得体の知れない外国語が聞こえてきて、それがどこの国のものなのか考えていたら、寝付けなくなっただけのことだったそうですがね。
今まで、ひたすら「ピュア・トーン」を前面に押し出して進められてきたノリントンとシュトゥットガルト放送響とによるマーラー・ツィクルスですが、そんな「9番」だからといって、彼らのスタンスにはまったく「ブレ」はありません。したがって、さまざまな要素が何層にも重なり合って、これでもかと言うほどの重っ苦しさを聴き手に与えるはずの第1楽章が、まるで拍子抜けしてしまうようなすっきりとしたものに変わってしまいます。そこからは、一つ一つのフレーズを大汗をかきながら力を込めて演奏する、といったような情景はまるで想像できません。その代わりに見えてくるのは、もしかしたらこれがマーラーが目指した「未来の音楽」なのではないか、という思いです。ビブラートが全くかかっていない、したがってほとんど感情を表に出さない弦楽器が奏でる歌は、そんな熱い感情などはすっかり忘れてしまった未来社会(あるいは「現代」社会)の姿を垣間見せてくれるもののようには、響いてはこないでしょうか。もちろん、それはそれでとてつもなく強いメッセージが込められた「表現」には違いありません。もしかしたらマーラーの「毒」にそれほど染まっていない人ほど、そのメッセージをより強く受け取ることが出来るのかもしれませんね。
同じように、思い入れなど全く無いようにさえ見えるほどあっけらかんとした終楽章も、それだからこそエンディングでの浄化された風景がさりげなく心に突き刺さってきます。

ところで、第1楽章の最後近くの419小節目から、16小節にも及ぶほとんどフルートが一人で吹いているような部分が登場します(上の楽譜)。その最後から2小節目の最初の音には、アクセント記号(>)が付けられていますね。しかし、pppの中でこんなところにアクセントを付けるというのは、実際に吹いてみるとなんともしっくり来ないのですよね。これは、次のハーモニーに解決する前の重要な音だから強調する、という意味があるそうなのですが、この、次第にフェイド・アウトしていくフレーズの途中でいきなりこの音を目立たせるのは、実に気持ちの悪いものでした。そこで思い出したのが、これによく似た扱いを受けていたドビュッシーの「シランクス」です。こちらにあるように、以前の楽譜でアクセントとなっていたのは、実はディミヌエンドだったというのが最近の「常識」、それと同じことが、マーラーの楽譜でも起こっていたのではないか、と。もちろん、そんなフルーティストの思いなどは一顧にもされず、手元にあった10数種類の演奏を聴いてみると、ここでの「アクセント」はいずれも明確なものだったのです。ただ一つ、1938年に録音されたブルーノ・ワルターとウィーン・フィルのものを除いては。そう、この録音こそは、ノリントンその人が「ピュア・トーン」によるマーラーを演奏する時によすがと頼ったものなのですが、ここでのワルターの解釈は、「アクセント」ではなくまぎれもない「ディミヌエンド」、最後の「Ges」のピアニシシモには、そんな古い録音からも明確な主張が感じられます(もっとも、ここはディミヌエンドというよりは「スビト・ピアニシシモ」といった趣ではありますが)。もちろん、ノリントンがその解釈をとったのは当然のこと、そのなめらかなディミヌエンドの、何と美しいことでしょう。

CD Artwork © SWR Media Services GmbH

6月12日

SANDSTRÖM
Messiah
Robin Johansen(Sop), Roxana Constantinescu(Alt)
Timothy Fallon(Ten), Michael Nagy(Bar)
Helmuth Rilling/
Festivalensemble Stuttgart
CARUS/83.453


新しい作品を作ることにかけては精力的なリリンク、記憶に新しいところでは2000年のバッハ・イヤーの際に世界中の作曲家に4つの受難曲を委嘱していましたね。そして、昨年2009年のヘンデル・イヤー(没後250年)には、なんとあの「メサイア」を下敷きにしたオラトリオを、スウェーデンの作曲家スヴェン・ダヴィッド・サンドストレムに委嘱したのです。サンドストレムと言えば、合唱界ではもう少し若いヤン・サンドストレムが有名ですが、もちろん別の人です。
こちらのサンドストレムは1942年生まれ、同世代の作曲家の例にもれず、前世紀の多くの作曲様式の洗礼を受けることになりますが、最終的にはペンデレツキのように「ネオ・ロマン」に落ち着いた、という分かりやすい作風の変遷を遂げている人です。彼は、この「メサイア」を手掛ける前にも、1994年にはバッハの「ロ短調ミサ」を下敷きにした「ハイ・ミサ High Mass」という、結婚できない女性を描いた曲を作っています(それは「ハイミス」)。この曲はドイツ語ではよく「Hohe Messe」と呼ばれていますから、そのまんま、ですね。
この新生「メサイア」は、リリンクが主宰するオレゴン・バッハ・フェスティバルと、シュトゥットガルト国際バッハアカデミーの委嘱によって作曲され、初演は2009年7月にアメリカで行われました。この録音は同年9月のシュトゥットガルトでの演奏のライブ録音です。ブックレットには、ベルリンのフィルハーモニーでのリハーサルの写真もありますので、そこでも演奏されたのでしょうね。
サンドストレムは、ここではヘンデルの作品の台本を手掛けたチャールズ・ジェネンズのテキストを、そのまま継承しています(もちろん英語で歌われます)。全体が3つの部分に分かれているのも同じ。ただ、ソロや合唱といった曲による編成は、ほぼ同じ形で作っているようですが、一部では微妙に変更を加えている部分もあります。冒頭の本来はテノール・ソロによる伴奏つきのレシタティーヴォも、そんな一例、ここでは「ネオ・ロマン」の常套手段、かつての自身のよりどころであった前衛的な手法を披露するという場になるのですが、歌っているのはソロではなく合唱となっています。そういえば、「序曲」はありませんね。しかも、「Comfort ye」という歌詞をヘブライ語に変え、打楽器を多用したオーケストラをバックになんともおどろおどろしい情景を醸し出しています。
しかし、そんな意味ありげな難解さはそれっきり。次第に音楽はなんともキャッチーで明るいものに変わります。ソリストなどはバロックのパロディでしょうか、この場にはあまりにもそぐわないコロラトゥーラのパッセージなども披露していますよ。それは、ほとんど「ミュージカル」を聴いているような錯覚に陥るほどの、サービス精神満載のものだったのです。実際、第1部の終わり近くにある「Rejoice greatly」などは、あのフレデリック・ロウの名作「My Fair Lady」の中の「I could have danced all night」に酷似したメロディを持っていますし。第1部の最後を飾る合唱「His yoke is easy」も、ラテン・リズムに乗ったとことんダンサブルなナンバーです。
そうなってくると、第2部の最後、お馴染み「Halleluja」がどんなものになっているのかが興味のあるところですが、ここでは原曲の荘厳さがすっかりなくなった、なんとも軽いタッチに変わっているのは当然のことでしょう。そして、第3部の最後のアーメン・コーラスで、また冒頭の深刻さが戻ってくる、というのも、予想されたこととはいえなんともありきたりな感は否めません。
そんな、極めつけの駄作ですが、世界中から集まったメンバーによって編成された室内オーケストラと60人の合唱は、極めて高度の能力を発揮してくれていました。ソリスト達は「ミュージカル」には似つかわしくないビブラートたっぷりの豪華な歌い方に徹しているのが、笑えます。

CD Artwork © Carus-Verlag

6月10日

PENDERECKI
Violin Concerto, Horn Concerto
Robert Kabara(Vn)
Radovan Vlatkovic(Hr)
Krzysztof Penderecki/
Sinfonietta Cracovia
CHANNEL/CCS SA 30310(hybrid SACD)


ペンデレツキの新作、ホルン協奏曲の世界初録音盤です。指揮は作曲者ペンデレツキ自身が行っていますが、演奏しているオーケストラは彼の祖国ポーランドのクラコフ市にある「シンフォニエッタ・クラコヴィア」という、ちょっとアブない病気(それは「クラミジア」)みたいな名前の団体です。
その初録音を聴く前に、まずは、1977年に作られた「ヴァイオリン協奏曲第1番」です。この曲は、今でも忘れられないほどの強烈な印象を与えられたものとして、記憶の中に残っています。とは言っても、別にその作品としての素晴らしさに打ちのめされたというわけではなく、その逆、とてつもない失望感を味わったという記憶です。その時までは、ペンデレツキといえば斬新な音響を伴う全く新しい世界を切り開いた偉大な作曲家という、ある意味畏敬の対象でした。「ルカ受難曲」などは、何度聴いてもその素晴らしさに打ち震えたものです。その作曲家が大御所アイザック・スターンのためにヴァイオリン協奏曲を作ったという噂が聞こえてきました。その演奏はすぐにレコードとなって、メジャーレーベル、米コロムビア(CBS)から発売されました。こんな大物の演奏で、こんな立派なレーベルからの発売、それはなにか誇りに感じられるようなものではなかったでしょうか。ところが、そのレコードを買って聴き始めた時に、そこからはなんと「メロディ」が聞こえてきたではありませんか。それはいとも甘美なものでした。その瞬間、それまでこの作曲家に対して抱いていた「特別なもの」という感情は、見事に崩れ去ったのです。
そんな大昔の痛ましい思い出を伴う曲を、改めて聴き直してみると、ここから作曲家自身の「苦悩」のようなものを感じることが出来たのは、ちょっと意外な発見でした。ロマンティックではあっても、彼がそれまでに親しんでいた技法はそこここに見え隠れしています。これらを完全に捨て去ることが自分には出来るのか、それは、そんな問いかけのようにも聞こえます。やはり、彼も悩んでいたのですね。
それから30年以上経って、2008年に作られたのが「冬の旅」というタイトルを持ったホルンとオーケストラのための協奏曲です。なんでも、これは彼が金管楽器のために初めて作った協奏曲なのだそうですね。ここでも演奏している名手ヴラトコヴィッチによって、すでに同じ年に日本でも初演が行われているのだとか、もはや、過去のしがらみからは完全に解き放たれた「ネオ・ロマンティスト」は、今では別の意味での信奉者も増え、自ら信じた道を突き進むのに、何のためらいもないかに見えます。
そして、この作曲家は、最近ではその道を極めるために、本物の「ロマンティスト」の芸を自らの中に取り入れる、という大胆な作風までも見せるようになっています。彼のもっとも新しい交響曲である「第8番」が、まさにマーラーの「大地の歌」を下敷きにしたものであることは、こちらでご紹介しましたが、今回彼が選んだ「ロマンティスト」は、どうやらリヒャルト・シュトラウスだったようです。
冒頭の、なにやらおどろおどろしい低音のトレモロは、なんだか「ツァラ」のオルガンの低音を思い起こさせるものでした。もちろん、期待通りその後には分散和音のテーマが現れます。なにしろ「ホルン」といえばシュトラウスのアイデンティティといってもいい楽器です。「ティル」や「アルペン」で大活躍するこの楽器のフレーズをつなぎ合わせさえすれば、誰でも「シュトラウス風」の音楽を作り上げることが出来ます。この作曲家は、そこからいったい何を目指しているというのでしょう。
まさにSACDならではの素晴らしい録音で響き渡る極上のサウンド、頭を空っぽにして、本当に空っぽの音楽に浸るのも、たまには良いかもしれません。

SACD Artwork © Channel Classics Records bv

6月7日

WAGNER
Lohengrin
Jonas Kaufmann(Lohengrin)
Anja Harteros(Elsa)
Wolfgang Koch(Telramund)
Michaela Schuster(Ortrud)
Richard Jones(Dir)
Kent Nagano/
Bayerisches Staatsorchester
DECCA/074 3384(DVD)


昨年7月にミュンヘンで上演されたオペラが、もうDVDとなって店頭に並んでいました。これは、やはりタイトル・ロールを歌っているカウフマンの人気を裏付けるものなのでしょうか。というか、これはすでにこのアーティストをメインとした2枚のCDと1枚のDVDをリリースしているDECCAの戦略なのでしょうね。このレーベルからの最初のCDこそ、いかにもアイドル的な売り方で、ちょっと無理があるようなレパートリーでしたが、それ以降は彼の持ち味が存分に発揮できるものとなり、きっちり実力を知らしめるようなものになって行ったのは、幸運なことでした。そして、今回は間違いなく彼の本来の資質であるワーグナー・テノールとしてのステージです。待望久しい本格的なヘルデン・テノール、しかも、あのペーター・ホフマンのように、まさに「英雄」にふさわしい外観を備えているカウフマン、期待はいやがうえにも高まります。
確かに、カウフマンは完璧なローエングリンを見せてくれました。彼の声は理想的な「ヘルデン」であるとともに、力ずくで押しまくることは決してないクレバーさをも併せ持つしなやかなものです。そんな柔軟性を駆使して繰り広げられるワーグナーは、決して一本調子に陥ることのない表情豊かなものとなります。最後の大ソロ「In Fernem Land」では、ほとんどファルセットに近いソット・ヴォーチェでそっと始まり、徐々に盛り上げて最後に輝かしいクライマックスにたどり着くという、計算しつくされた表現、これは、確かにCDでも聴くことが出来たものでしたが、それをステージで味わうとまさに鳥肌が立つほどのインパクトが感じられます。もちろん、ここは慣例通り「1番」しか歌っていませんが、こちらでの口直しに、「2番」もぜひ聴いてみたかった気がします。
そのCDでの繊細なオーケストラの印象がまだ残っていたのでしょう、ここでのバイエルン州立歌劇場のピットからは、なんとも雑な響きしか聞こえてはきませんでした。こんなところが、出来合いの公演をそのまま収録して商品にしているというDVD(もしくはBD)の弱点なのでしょう。その場にいて味わうには過不足のないものでも、このようなメディアで繰り返し聴かれるときの、このルーティン・ワーク根性丸出しの演奏は致命的です。
ここでの、リチャード・ジョーンズによる、例によって現代に「読み替え」られた演出も、同様に悲惨なものでした。荒唐無稽な英雄譚からもっと現実的な意味を見出そうという意図は分かりますが、そんな演出家の思いはあいにく出演者、特に合唱の群衆には全く伝わることはなかったのでしょう。とてもプロとは思えない(現代のオペラハウス付きの合唱団には、「歌って踊れる」資質が欠かせません)学芸会のレベルの演技は、醜悪そのものでした。それにしても、白鳥に導かれて登場するはずのローエングリンが、ロボット(首が動いていましたね)の白鳥を抱きかかえて歩いてくるとは。
映像監督は、「ニューイヤー」を担当していたカリーナ・フィービッヒでした。こんな感じで、おそらく今までブライアン・ラージが占めていたポジションを継承することになるのでしょうか。確かに、息の長いズームインなど、ラージの様式を忠実に取り入れているところもあるようですね。それと同時に、独自の「冒険」も試みています。ここでは、ステージ袖の手持ちカメラでしょうか。確かに、この演出ではそんな奇抜さも効果を発揮しています。
それは、カーテン・コールを待つ歌手たちの素顔などという、面白いものも提供してくれます。カウフマンのリラックスぶりといったら。しかし、その映像からは、こんなとんでもないカットも。



うすうす知ってはいましたが(デ・ニースがDVDで暴露していましたね)カウフマンほどの人でもマイクが必要な時代なのですね。まあ、これは録音用の補助だったのだ、と思いたいものです。

DVD Artwork © Decca Music Group Limted

6月5日

MARTIN
Golgotha
Judith Gauthier(Sop), Marianne Beate Kielland(Alt)
Adeian Thompson(Ten), Mattijs van de Woerd(Bar), Konstantin Wolff(Bas)
Daniel Reuss/
Capella Amsterdam, Estonian Philharmonic Chamber Choir
Estonian National Symphony Orchestra
HARMONIA MUNDI/HMC 902056.57


かつてRIAS室内合唱団の音楽監督(2003年から2006年)だったダニエル・ロイスが、ポール・ヒリアーの後任としてエストニア・フィル室内合唱団の音楽監督に就任したのは、2008年のことでした。彼が1990年から指揮者を務めているオランダの合唱団、カペラ・アムステルダムとの録音は、最近こちらで聴くことが出来て、その素晴らしさを存分に味わったところでしたが、「エストニア」との演奏はなかなか聴く機会がなかったところに、なんと、「アムステルダム」と「エストニア」とを同時に指揮しているという、こんなアルバムが出たではありませんか。おそらく、現在では世界最高の水準を誇っているはずの2つの混声合唱団の共演、これは聴き逃せません。
演奏しているのは、フランク・マルタンのオラトリオ「ゴルゴタ」です。もちろん、その名の通りゴルゴタの丘で十字架に架けられたキリストの「受難」を描いた作品、決して日本の政治を描いたものではありません(それは「ゴタゴタ」)。
曲の構成としては、あのバッハが作った「受難曲」のような形がとられています。サブタイトルに「福音書と聖アウグスティンのテキストによるオラトリオ」とあるとおり、お話はマタイ、ヨハネ、ルカなどの福音書にしたがって進み、その間に5世紀ごろの聖人アウグスティンによる「瞑想」や「懺悔」からの美しいテキストが、バッハで言えばピカンダーによる歌詞のように扱われています。全体は2つの部分に分かれていて、演奏時間は1時間半ほど、作曲家自身もバッハを大いに意識したそうで、バッハの作品に馴染みがありさえすれば、ごくすんなり入っていける世界です。
それは、最初の合唱ですぐに気づかされます。テキストはフランス語ですが、その「Père! Père!」という呼びかけは、まさにバッハの「ヨハネ受難曲」の冒頭の合唱「Herr!」を思い起こさせるものでした。続く聖書朗読の部分は、一人で歌うエヴァンゲリストがいるのではなく、その時に応じてさまざまなソリストと、時には合唱が担当しています。しかし、イエス役はバリトンのソリストが固定されています。
音楽は、決して煽り立てることのない淡々とした語り口の中で、マルタン特有の深みのあるハーモニーに彩られて進んでいきます。「アリア」というほどのメロディアスなナンバーがない中で、第2部の最初の曲は、アルトのソロと合唱の掛け合いによって、ドラマティックな世界が広がります。アルトのキーランドという人の、芯の通った澄みきった音色は、とても素敵です。そういえば、他のソリスト達も、テノールがややクサ過ぎるのを除けば、しっとりとした歌い方に徹していて、それは合唱の透明な響きに見事に溶け合っています。さらに、オーケストラも、特に弦楽器の落ち着いた響きはとても魅力的です。
そんな精緻な響きをたたえて現代に蘇った「受難曲」は、深い感動を与えてくれるものでした。そもそも、この曲は委嘱を受けて作られたものではなく、なんでも、1945年にこのジャケットにも使われているレンブラントの「3つの十字架」という銅版画を見たことが、作曲の直接の動機となったのだそうですね。それは、マルタン自身の悲惨な戦争体験を宗教的なメッセージと重ね合わせるというものでした。曲が完成したのは、それから3年後の1948年、その翌年にはジュネーヴで初演されますが、彼自身は当初は公開の場で演奏することは考えてはいなかったそうなのですね。それほどの深い思いを受け止めるだけのものが、このアルバムの中には確かに息づいています。
それを余すところなく伝えたテルデックス・スタジオによる録音も、素晴らしいものです。これがSACDであったなら、と思える瞬間がしばしばあったのも、決してエンジニアの責任ではありません。

CD Artwork © Harmonia Mundi s.a.

6月3日

HAMERIK
Requiem
Randi Stene(MS)
Thomas Dausgaard/
Danish National Symphony Orchestra and Choir
DACAPO/6.200002(hybrid SACD)


アスガー・ハメリクというデンマークの作曲家の交響曲と「レクイエム」が入った4枚組のBOXが出ました。1843年に生まれて1923年に亡くなったというこの作曲家、全く聞いたことのない名前ですが、このレーベルの商品だったらいつも良心的なものが届けられていたような印象があったので、「レクイエム」だけでも、と思い買ってみました。そんなに高くもありませんでしたし。
ハメリクという人は、母国デンマークで基本的な教育を受けた後、ドイツに留学、そこでハンス・フォン・ビューローや、あのベルリオーズの教えを受けることになります。その後はアメリカに渡り、ボルティモアの音楽大学で長いこと教師、あるいは指揮者としての生活を送ります。そこでは80人編成のオーケストラを作ったりしていたそうですね。晩年はデンマークに戻りますが、アメリカ時代ほどの名声は得られなかったのだとか。
彼は全部で7つの交響曲を作っていてそれがこのBOXには収められているのですが、そのすべてにタイトルが付いているというのは、やはりベルリオーズの影響なのでしょうか。「1番」の「詩的交響曲」、「2番」の「悲劇的交響曲」から始まって「6番」はなんと「精神交響曲(輸入元による邦題)」というのですから、すごいですね。この日本語のタイトルだと、「精神的に高潔」なのか、「精神的にアブない」のか分からなくて、いまいち不安ですが。さらに「7番」になると「合唱交響曲」と、ベートーヴェンの最後の交響曲みたいですが、これはどうやらオーケストラ伴奏の合唱曲のようですね。
お目当ての「レクイエム」は、1887年に作られました。冒頭を単音で始めるというのは、フォーレの名曲を思わせるアイディアですが、その音が厳粛に全音下がってまた元の音に戻るという最初のフレーズを聴くと、我々日本人は反射的に「座ったままではいけない、た、立たなければ」という思いに駆られるのではないでしょうか。そんなちょっと恐ろしいテーマですが、どうやらそこまで深い意味はなかったようで、音楽はいとも派手に進んでいきます。
次の「Dies irae」は、予想通りのらんちき騒ぎです。師ベルリオーズ譲りの、例のグレゴリアン・チャントが、恥ずかしいほどちゃんと使われている上に、ドラは鳴るは、ティンパニ(2セット?)は荒れ狂うはで、その迫力はSACDによってさらにリアルに伝わってきます。もちろんトランペットも大活躍、しかし、「タタタター」というリズムで長三和音を重ねられると、ほとんどメンデルスゾーンの「結婚行進曲」にしか聞こえないのですから、笑えます。
そんな曲ですから、合唱は悲惨です。元々そんなに高いレベルの合唱団ではないのですが、それがハイテンションでわめき立てるさまは、確かに「最後の日」の悲惨さを実感できるものにはなっています。もちろん、もっと節度のある音楽と、きちんと訓練された合唱を聞き慣れている人にとっては、これは苦痛以外の何者でもありません。
途中で入ってくるメゾ・ソプラノのソロも、力だけはこもっていても到底敬虔な思いなどは抱けないな、というものですし。
Sanctus」あたりは、もろヴェルディのパクリといった感じですね。「Agnus Dei」では、グレゴリアンがまたまた登場します。同じことをデュリュフレがやるのはもう少し先の時代になるのですが、それをすでに聴いてしまっている人には、なんとも唐突に感じられるのではないでしょうか。なんで、こんな底の浅い音楽の中でこのテーマを聴かなければいけないのか、と。
これ1曲でこの作曲家のことをボロクソに言うのは間違っているのかもしれませんね。せめて「精神交響曲」ぐらい聴いたあとで、再度このBOXが語れれば良いのでしょうが、果たしてそんな勇気がわいてくるかどうか。

SACD Artwork © Dacapo Records

6月1日

GAUBERT
Le Chevalier et la Damoiselle
Marc Soustrot/
Orchestre Philharmonique du Luxembourg
TIMPANI/1C1175


スーストロとルクセンブルク・フィルのコンビによるフィリップ・ゴーベールの珍しい作品の録音の第2弾です(ちなみに、吸うのはストローではなく、飲み物の方なのですが)。前作で、この作曲家の魅力に触れた人の期待を、これも決して裏切ることはないはずです。
今回もやはり「世界初録音」となったのは、2幕から成るバレエ曲「騎士と姫君」です。作曲家が亡くなった年、1941年に作られ、当時は大好評を博したそうですが、現在では完璧に忘れ去られています。一度聞いただけで好きになれるような親しみやすさが満載の曲ですが、それからほんの少し先の時代というのはそんな「ポップ」なスタイルは認められない、もっと「アヴァン・ギャルド」なものが求められていたのでしょうね。こんな軟弱なものは、世の中の趨勢からははじき出されてしまったのでしょう。
そんな時代の流れを通り過ぎて、音楽に対する嗜好が「親しみやすいもの」に変わったとき、この曲もその魅力が再度認められることになりました。ここから聞こえてくるものは、なにか懐かしいテイストに彩られたもの、よく聴いてみると、それはラヴェルの「マ・メール・ロワ」とか、レスピーギの「古風な舞曲」とよく似た肌触りを持ったものでした。もしかしたら、ディーリアスあたりのさわやかさも含まれているのかもしれませんね。
それよりも、現代の私たちの耳には、これはゲーム音楽のようには感じられないでしょうか。特にそのほうに詳しいほどの実績と体験が伴っていない中であえて感想を語るとすれば、すぎやまこういちの一連の「ドラゴン・クエスト」の音楽が持つ、ポップでありながら重厚、そして何か中世的な雰囲気もたたえている、そんな気がしてしまいます。
オープニングの「前奏曲」は、なんと「5拍子」で始まります。もちろん、それはいかにも変拍子という不自然さではなく、ちょっと小粋なダンス、といった面持ちで登場してきます。このテーマはその後も何度も現れますが、そのたびに新鮮な印象を与えてくれます。そして、後半になるとガラリと趣を変えて「古風」な、それこそルネッサンスとか、「ドラクエ」の中世っぽいたたずまいの音楽に変わります。
曲の中にフィーチャーされている華麗なヴァイオリン・ソロも、なにか古典的なバレエ音楽のエッセンスのようなものを感じさせるものです。チャイコフスキーの「白鳥の湖」に出てくるような、あのあでやかなヴァイオリンですね。終わり近くにはヴィオラの名人芸までも登場しますよ。さらに、うれしいのが、ゴーベールの代名詞ともいうべきフルートの大活躍ぶりです。オーケストレーションの中では、この楽器は常に音楽全体にやわらかな音色を提供してくれていますし、第2幕の「王女の孤独」という曲は、まるまるフルートのソロとなっていますよ。
そうなってくると、オーケストラのソリストたちの資質が問われることになりますが、ルクセンブルク・フィルのメンバーたちは名人ぞろい、そのフルート奏者も、たっぷりとした歌心で、聴き手を魅了します。もしかしたら、それは甘ったるくなる一歩手前でギリギリ踏みとどまっているものなのかもしれません。弦楽器のソフトな音色も、これがクセナキスを日常的なレパートリーにしているオーケストラとは思えないほどです。
そんな甘い音楽と甘い音色に酔いしれていると、セッション録音のはずなのに、なにか時折ノイズが聞こえてくるのに気付きました。気をつけて聴いてみると、それはどうやらCDのトラブルのようですね。時には音飛びなども起こしています。いまどきの製品には珍しい不良品にたまたまあたっただけなのか、そもそもマスターに原因があるのかは、もはや返品期限をとっくに過ぎているので確かめようもありません。届いてすぐ聴かずに、1ヶ月以上も未開封でほったらかしておいた報いでしょうか。

CD Artwork © OPL/Timpani

5月30日

STRAVINSKY/Le Sacre du Printemps
REVUELTAS/La noche de los mayas
Gustavo Dudamel/
Simón Bolívar Youth Orchestra of Venezuela
DG/00289 477 8775


この前、LAが舞台の「ヴァレンタイン・デー」という映画を見ていたら、いきなり「ウォルト・ディズニー・コンサートホール」が画面に登場したので、びっくりしたことがありました。もちろん、実際にLAなんかに行ったことはありませんし、ましてや、その豊田さんが音響設計を担当した素晴らしいホールに入ったことなんかもあるわけはないのですが、知り合いから話を聞いたりサイトを覗いたりしているうちに建物の外観自体はなじみ深くなっていたものですから、スクリーンに出てきたとたんにそれはすぐわかりました。なんたって、あの奇想天外な、それこそディズニーランドにあってもおかしくないような派手なメタリックの外装ですからね。デブじゃないですよ(それは「メタボリック」)。
その画面には、ホールだけではなく、さらになじみのあるものも映し出されていました。それは、ホールの外壁に沿って掲示されていた巨大なタペストリーに描かれた、そのホールをフランチャイズとするオーケストラの音楽監督、グスタヴォ・ドゥダメルの姿だったのです。この映画はかなりヒットしたものですから、世界中の多くの人、もちろんクラシック音楽なんか全く興味のない人でも、ここでドゥダメルのカーリー・ヘアが無意識のうちに脳内に焼きつけられることになりますよね。アメリカのメジャー・オケのシェフになるというのはこういうことなんだな、と、不思議な感動がよぎったものでした。
そんな、まさにハリウッド的なノリで世界的な大指揮者になってしまったドゥダメルは、しかし、彼のキャリアのルーツであるヴェネズエラのユース・オーケストラを忘れることはありません。今年の2月にカラカスで行われたコンサートのライブ録音も、こんな風にすぐCDになって世界中でリリースされるのですからね。
この前のFIESTAに続いて、今回は「RITE」というワン・ワード・タイトル、もちろん「Le Sacre du Printemps」の英訳の「The Rite of Spring」の中に使われている単語ですね。
しかし、ここの「春の祭典」での若い人たちのオーケストラは、なぜか「祭典」という弾けた感じではなく、どちらかというとその単語の元の意味である「儀式」のような厳粛なアプローチに終始しているように感じられます。いや、確かにバスドラムなどはばかでかい音を出してインパクトを与えようとしてはいるのですが、例えば変拍子の嵐でわき起こるはずの高揚感が、このオケ全体からはほとんど与えられないのですよ。ストラヴィンスキーのリズムには、このような力任せの演奏からはちょっと引いた、ある意味醒めた感覚がないことには、なかなか人を揺り動かすところまではいかないという難しさが潜んでいるのかもしれませんね。
一方、「FIESTA」でも「センセマヤ」という曲が演奏されていたメキシコの作曲家シルベストル・ラブエルタスの「マヤの夜」という作品は、そもそもは映画音楽として作曲されたもので、特に4つの楽章のうちの最初のものなどは、いかにもスペクタクルなテイストが満載の聴きやすい曲です。さらに、何でもこの作曲家は「ラテン・アメリカのストラヴィンスキー」と呼ばれているそうで、「春の祭典」時代のストラヴィンスキーの様式に大きな影響を受けている部分が確かに感じられます。しかし、彼の場合のリズムの処理は、ストラヴィンスキーよりももっと「自然」というか、南米の人にとってはおそらく直感的に「ノレる」タイプのものなのではないでしょうか。そのあたりが、この演奏では「春の祭典」での素っ気なさとは打って変った、共感に満ちた「ノリ」を示している所以なのでしょう。
とくに最後の楽章でのパーカッション奏者たちの「やる気」は聴きもの。まさに「頭」よりは「体」を使った演奏は、彼らにしか出来ない爆発力を生んでいます。

CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

おとといのおやぢに会える、か。


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