買春するダヴィデ。.... 佐久間學

(08/4/22-08/5/10)

Blog Version


5月10日

VAJDA
Choral Works
Gábor Hollerung/
Budapest Academic Choral Society
Budapest Youth Choir
Honvéd Male Choir
Dohnányi Orchestra Budafok
HUNGAROTON/HCD 32551


ヤーノシュ・ヴァイダという1949年生まれの現代ハンガリーの作曲家なんて、名前を聞くのも初めての人でした。とりあえずハンガリーの新しい合唱作品で「マニフィカート」などというタイトルであればそれだけで食指が動きますから、ダメモトで聴いてみるのはもはや習性です。
と、殆ど期待もしないで聴いてみると、思いもかけない喜びに出会えるものです。その「マニフィカート」がとびっきり明るい、賑やかな音楽で始まった瞬間に、このヴァイダという人の魅力にどっぷり浸かることになってしまったのですからね。その時に感じた印象は、「これは、ハンガリーのジョン・ラッターではないか!」というものです。それは、以前こちらで、ラッターのことをなにも知らない人が書いたインフォに騙されて、ついつまらない作品を聴かされてしまったという苦い体験を、十分に払拭してくれるものでした。ヴァイダは、まさにラッターのように、音楽の楽しさを天性のサービス精神で表現できる才能を持った人だったのです。年齢も殆ど同じですし。
この「マニフィカート」は、全部で7つの部分から出来ている大きな曲ですが、1曲ごとにオーケストラと大合唱の壮大な響きの部分と、メゾ・ソプラノ独唱に2本のフルートとオルガンの伴奏が付くだけ、というコンパクトな部分とが交代で現れます。こういう構成を見ると、同じタイトルを持つあのバッハの作品を思い出しませんか?そう、あれにもオブリガートにフルート2本と通奏低音というアリアがありましたっけね。ここでソロを歌っているアンドレア・メナースは、つい最近バルトークの「青ひげ」でユディット役を聴いたばかりですが、あの時とはかなり印象が違います。曲に合わせたのでしょうか、こちらでは思い切り解放された伸びやかな歌い方になっていて、あのユディットとは全く別人のように聞こえます。一方、オーケストラが入った3曲目などは、まるでオルフの「カルミナ・ブラーナ」のような単一ビートに乗った屈託のない曲、もう頭の中が空っぽになってしまいそうです。
最後の曲が、割としっとりと終わる構成になっているため、いたずらに騒ぎ立てるだけ、といった印象からも免れています。もっとも、ここでの合唱団がこういう繊細な音楽があまり得意ではなかったために、ちょっと歯がゆさを感じてしまいますが。
続いて、男声合唱とオーケストラのための「聖ペテロと傭兵」という曲が演奏されます。なんでも、元のテキストはあのハンス・ザックスが書いたものなんだそうです。ここでは、それをハンガリー語に訳したものが使われています。ペテロ役のテノールと、神様役のバリトンのソロも入りますが、明るすぎる曲調は変わりません。なによりも、ハンガリー語の抑揚で、いかにもマジャールっぽいリズムが強調された曲の中に、いきなりオルランド・デ・ラッススのマドリガーレ「マトナの君よ」がまざーるのですから、驚きます。「ドンドンドン・ディリディリ・ドンドーンドンドン」というリフレインも入りますし。
そして、最後は聴きなれたこどもの遊びうたのようなものをテーマにした「変奏曲」です。全部で10曲の変奏に、それぞれ気のきいたオーケストレーションが施され、それに乗って混声(+児童)合唱が歌うというものです。これはもはや「歌のメリーゴーランド」の世界、次々に繰り広げられるアイディア豊かなアレンジを楽しんでいるうちに、曲はお約束の盛り上がりを見せて終わります。もちろんそこには、ここまで聴いてきた1時間ほどがなんと有意義な時間だったのだろうという、カーソン・クーマンなどとは比較にならない心地よいものが残っていることでしょう。

5月8日

In a State of Jazz
Marc-André Hamelin(Pf)
HYPERION/CDA67656


「ジャズ風に」というアルバムタイトルは、この中に収録されているアレクシス・ワイセンベルクの「ジャズ風ソナタSonate en état de jazz(Sonata in a state of jazz)」から取られたものです。あの一世を風靡したピアニスト、ワイセンベルクは、作曲もしていたのですね。婦女暴行だけではなく(それは「ワイセツベルク」)。
そんなタイトルにもかかわらず、ライナーの中で、アムラン自身が「このアルバムには、ジャズの曲は一切入っていない」と語っているのが興味あるところでしょう。彼によれば、「ジャズ」と「クラシック」とは全く別の音楽だというのです。その最大の違いは、アドリブ・ソロの有無、即興的なソロこそがジャズの命ですが、ここではそれらは全て楽譜として書かれているために、もはやジャズではあり得ない、ということなのでしょう。逆に言えば「クラシック音楽とは、楽譜に書かれたものである」ということになるわけです。
確かに、そのワイセンベルクの作品などは、いったいどこが「ジャズ」なのか、という印象を与えられるものです。そもそも、4つの楽章がそれぞれ4つの都市にちなんだ音楽によっているというものの、それが「タンゴ(ブエノス・アイレス)」、「チャールストン(ニューヨーク)」、「ブルース(ニューオーリンズ)」、「サンバ(リオ・デ・ジャネイロ)」というのですから、そもそも「ブルース」以外は「ジャズ」とはあまり関係なさそうにも思えてきます(いや、ある時代には「クラシック」以外の音楽を「ジャズ」といっていたこともありましたが)。さらに、それぞれの曲も、いったいどこがタンゴでどこがサンバなのか、という、かなり抽象化された技法の集積の産物となっていますから、「ジャズ風」というタイトルもそのままうけとるべきでないのかもしれません。
もう一つの彼の作品「シャルル・トレネによって歌われたシャンソンによる6つの編曲Six arrangements of songs sung by Charles Trenet」にしても、素材がクラシック以外の曲というだけのこと、そのテーマを華麗な超絶技巧を駆使して高度のパラフレーズに仕上げたという点ではクラシック以外の何者でもありません。かといって、このレーベルの輸入代理店が「ブン」のようなただのシャンソンを「歌曲」などと訳しているのは、依然としてこの国のクラシック界を覆っている権威主義の名残なのでしょうか。
ワイセンベルクと同じように、カプースチンの場合も決して「ジャズ」ではあり得ないものをジャズだと言い張って(?)いる、まさに「ジャズ風」と呼ばれるにふさわしい、頭でっかちな音楽に聞こえます。ジャズの様式を単に模倣したに過ぎないその作風は、ジャズのサイドからはもちろんのこと、クラシックのサイドからも胡散臭い目で見られてしまうことでしょう。
しかし、紛れもないジャズマンとしても活躍していたフリードリッヒ・グルダの場合は、たとえ細かいところまで記譜されていたとしても、そこにはしっかりジャズの精神が宿っていることを感じることが出来ます。ジャズの悦びを、何とかしてクラシックの人たちにも楽譜を通して知ってもらいたいという熱意のようなものすら、感じることは出来ないでしょうか。
そんな、多様な「ジャズもどき」の作品たちを、いとも軽やかにアムランが演奏している、というところにこそ、注目すべきなのでしょう。彼の手にかかると、ジャズであろうがなかろうがそんなことは全く問題にはならなくなってきます。そこに広がっているのは、信じられないほどのメカニックに裏付けされた完璧な音のストラクチャー、その圧倒的な音の洪水に酔いしれてしまっては、ジャズの魂がどうのこうのと言うこと自体が些細なことに思われてしまいます。そう、これはアムランが作り上げたまさにジャンルを超えた音楽なのです。

5月6日

FIESTA
Gustavo Dudamel/
Simón Bolívar Youth Orchestra of Venezuela
DG/00289 477 7457
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1395(国内盤)

このコンビの最初のアルバムがリリースされたときには、国内盤が出たのは輸入盤が出てから3ヶ月以上経ってからのことでした。あまりにマイナーなアーティストなので、国内盤が出ることはないのかな、と思い始めていた頃にひょっこり出た、という感じ、担当者のためらいが感じられたものでした。しかし、3枚目ともなると、どうでしょう、殆ど輸入盤と同時発売、いや、もしかしたら国内盤の方が先行されてリリースされていたのかもしれない、と思えるほどの機敏なセールスに変わっていたのですから、その間に彼らに対する評価が決定的に変わってしまっていたことがよく分かります。
あるいは、最近この国のオーケストラによる青少年の更正プログラムの様子が紹介されたドキュメンタリー映像が、テレビで放映されたことも大きな要因だったのかもしれませんね。なにしろ、このオーケストラのメンバーだったコントラバス奏者が、今ではベルリン・フィルに入団しているというのですからね。
「フィエスタ」などという明るいタイトル、原色をふんだんに使ったジャケット、そしてホルン奏者が立ち上がって楽器を振り回しているこの写真を見れば、このアルバムはいかにもラテン・アメリカらしいリズミカルでノーテンキな音楽で満載のものなのだろうと思ってしまうことでしょう。しかし、そんな期待は実際の演奏を聴くと見事に崩れ去ってしまうはずです。そもそもここで取り上げられている作曲家にしても、普通に馴染みがあるのはアルゼンチンのアルベルト・ヒナステラぐらいのもの、他の人は殆ど初めて聞く名前ばかりですし。
最初に聞こえてくるのが、そんな初体験の作曲家、メキシコのシルベストレ・レブエルタスの「センセマヤ」という曲です。猟師に撃たれて食べられてしまう狸がいたというところではありません(それは「センバヤマ」)。静かに始まるなにやら神秘的な7拍子のオスティナートに乗って、ポリリズムの世界が次第に盛り上がる、という趣向ですが、そこにはうわついたリズムなどは存在せず、真摯な音楽表現に満ちあふれています。
彼らの母国ヴェネズエラの作曲家では、エベンシオ・カステジャーノスという人の「パカイリグアの聖なる十字架」という曲が聴き応えのあるものです。16分にも及ぶ大作ですが、さまざまな情景がオーケストラの多彩な音色によってある時はしみじみ、ある時は力強く迫ってくるという味わい深いものです。その中で使われるリズミカルな要素は、決して浮き上がったものではなく、全体の流れの中での必然として伝わってきます。さらに、そんなリズムの中にヴァイオリンあたりがいともさりげなくフレーズを挟み込んでいるのを聴くと、彼らの中でのリズムの受け止め方が、とても自然なのがよく分かります。アントニオ・エステベスの「平原の真昼」という曲も、叙情的で大人の情感に満ちた素晴らしい曲です。
アンコール(これは一応ライブ録音)で演奏されていたのが、唯一南米の作曲家ではないレナード・バーンスタインの「マンボ」。アメリカのクラシック(というか、ミュージカル)の作曲家が、南米のリズムを意識的に強調して使ったこの作品で、逆に彼らがごくさりげない動きだけで見事なグルーヴを出しているのが、面白いところです。
思うに、これは次期ロス・フィルの音楽監督というメジャーなポストを手にしたドゥダメルが、ラテン・アメリカの「現代作品」をきちんと知ってもらおうという意図のもとに行った録音なのではないでしょうか。いたずらにノーテンキなことだけをやっている国民では決してないことを、世界に向けて発信しようとしていたのかもしれません。これは、とても素晴らしいことです。我々日本人が外国にもたれている印象が、例えば外山雄三の「ラプソディ」などという愚にも付かない駄作によって作られているのだとしたら、これほど情けないことはありませんからね。

5月4日

ストレス
Various Artists
AVEX/AVCL-25187


クラシックのコンピといえば、あの「アダージョ・カラヤン」を皮切りに、「イマージュ」だ、「オーラ」だ、「フィール」だといったような、いかにもおしゃれなタイトルの下に、ひたすら甘く爽やかな音楽を提供するものと相場が決まっていました。あたかもそれがクラシックの役割であるかのように、柔らかな羽毛で包み込むような音楽を集めたCDが今の世の中には氾濫しています。
確かに、クラシックにはそんな側面がないわけではありません。そもそも、王侯貴族の娯楽として磨きがかけられた音楽なのですから、その中には「人を優しく楽しませる」という要素は不可欠になってきます。さらに、こんな(↓)トンデモ本で語られているように、もしかしたらモーツァルトあたりは自分の病気(注意欠陥多動性障害や、統合失調症)を治すために、本気で「癒し」効果を求めて作曲を行っていたのかもしれませんね。なんでも、モーツァルトの曲には、そのような病気の症状を和らげる働きのある脳内物質「ドーパミン」を増加させる作用があるんですと。

しかし、そんなものはクラシックのほんの一面に過ぎないのだ、と、このコンピは高らかに宣言しているかのように見えます。優しいだけがクラシックではない、時には不快感を与えるものもあったっていいじゃないか、と。そこで、まず登場するのが「現代音楽」というジャンルからジョージ・クラムの「ブラック・エンジェルズ」です。先日の茂木さんの本ではありませんが、「現代音楽」はクラシックからは排除すべきだというようなご意見もあるようですので、そもそもこれは反則技、目もくらむような不協和音やクラスターといった、決してドーパミンなどは出そうもないようなストレス満載の音響を味わって頂きましょう。
しかし、最初にそんな過激なものを聴かされてしまうと、後に続くショスタコーヴィチなどは逆にとても爽やかに聞こえてしまうから不思議です。事実、交響曲第10番の第2楽章など、演奏する側にとってはとてつもない難しいことを執拗に繰りかえさせられるのですからとびっきりのストレスには違いありませんが、これを聴いた人が果たしてストレスにさいなまれるか、というのは疑問です。
リゲティの「ムジカ・リチェルカータ」の第1曲にしても、これは言ってみれば同じ音符を延々と繰り返す「ワン・ノート・サンバ」のパクリなわけですから、そのシンプルさから快感を得ることはあってもストレスはないんじゃないですかねぇ。極め付きはカバレフスキーの「道化師」のギャロップ。こんな生き生きとした軽快な音楽からストレスを感じるというのは、いったいどんな神経構造を持った人なのでしょう。
ストラヴィンスキーに至っては、もはや体中でリズムを受け止めるという、究極の快感を味わえる曲たちではありませんか。これを聴けばストレスだって発散できてしまうのでは。そして、ジョン・ケージの「ソナタ」から得られるのは、極上のユーモアではないのでしょうかね。
確かに、最後の「熊蜂の飛行」には、イライラさせられ、ストレスも募るかもしれません。ただ、これはオリジナルではない吹奏楽のアレンジであることと、それを演奏している人たちがあまりにヘタだからそう感じるだけのことです。
そんなわけで、ジャケットでのたうち回っているエビスさんのキャラのような強烈なストレスが感じられたのは、最初のクラムだけ、ということになりました。ということは、こんなに和む音楽にもかかわらず、それをストレスと受け取る人がいるのだ、と、このコンピの制作者は考えていたことになります。あるいは、これを聴いてストレスを感じなかった人は、まっとうなクラシック・ファンではないと決めつけられてしまうのでしょうか。う〜ん、そのような発想自体が、とてつもなく滑稽なものに思えて仕方がありません。「クラシックには、ストレスになるものもある」というつもりで作ったものが、結局は、「クラシックは癒し」だと再確認させてくれたのですから、笑うほかはありません。

5月2日

FAURÉ
Requiem
Elin Manahan Thomas(Sop)
Roderick Williams(Bar)
Harry Christophers/
The Sixteen
Academy of St Martin in the Fields
CORO/COR 16057


あのエリン・マナハン・トーマスがソロを歌っているフォーレのレクイエム、合唱は彼女も在籍していた「ザ・シックスティーン」ですから、期待は高まります。きっと、一本心が通った中にも、精緻な世界が広がっているという至福のフォーレを聴くことが出来ることでしょう。しかし、そんな「憶測」、あるいは「先入観」を持って立ち向かうというのはちょっと危険なことには違いありません。
フォーレを聴く前に、カップリングのモーツァルトで、まずその先入観をぬぐい去っておきましょう。1曲目の「アヴェ・ヴェルム・コルプス」では、まず、なんとも懐かしいアカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ(「アカデミー室内管弦楽団」って言ってましたっけ?まだやってたんですね)の、かなり荒っぽいイントロが印象的です。そして、そのイントロのテイストとは全く無関係に思い入れたっぷりの合唱が始まる、というところで、その「先入観」は見事に打ち破られることになります。もはや「16人」などという編成にこだわることなく、ここでは30人ほどのサイズに膨らんでしまった合唱団は、かつてのちょっと気取ったスタイルから、見事な脱皮を図っていました。それにしても、このクサさはなんでしょう。
続く「ヴェスペレ(証聖者のための盛儀晩課)」でも、決して小さくまとまることのない、そのダイナミックな姿にはちょっとたじろいでしまいます。もちろん、この曲ではあくまでもモーツァルトの持つシンプルさを可能な限り守りきろうという姿勢は歓迎できることでしょう。そして、ここにソリストとして登場するマナハン・トーマスも、先日のソロアルバムとは微妙に異なる人間くさい挙動を見せてくれています。このCDはコンサートのライブ録音だそうですから、オーディエンスを前にしての、これはある種緊張のあらわれなのでしょう。
そして、フォーレです。この合唱団と指揮者、そして、かつてのこの合奏団でしたら、当然「第2稿」に基づく楽譜で演奏するのだろうという「先入観」も、やはりいともたやすく打ち砕かれることになります。オリジナル楽器系の演奏家と共演しているからといって、必ずしも楽譜を吟味するとは限らないものなのでしょう。しかし、この編成で「第3稿」というのは、いくらなんでも、という気がします。
しかし、ここでも見事にエモーショナルな表現に終始している合唱を聴いていると、その「第3稿」でもあまり違和感がなくなってくるから不思議です。というより、ここでの彼らの演奏には、版の問題なども超えた、いえ、もっといえばフォーレの作品であることすら超えた熱いものが込められているのが、ひしひしと感じられるのです。テノールの輝かしい響きは、「Kyrie」のパートソロではまさにフォーレにはあるまじき力強さとなって迫ってきます。およそ静謐からは遠いところにあるこのレクイエム、たとえそれが見当外れのものであっても、そこから伝わるエネルギーには、捨てがたいものがあります。
さて、お目当てのマナハン・トーマスの「Pie Jesu」はどうだったのでしょう。先ほどのモーツァルト同様、かなりの固さが見られ、高音はともかく、中低音での響きや音程はかなり悲惨なものがあります。なによりも意外だったのが、歌詞の発音がとても汚いこと。別にラテン語に堪能なわけではありませんが、今まで何百回と聴いてきたこの曲のテキストを、こんなにゴツゴツ歌っているのには初めて出会いました。抜けるような高音とはかなさすら伴うビブラート、それを以てサラ・ブライトマンの亜流になってしまうのでは、という「先入観」が的中してしまうことほど、悲しいものはありません。あれって、痛いんですよね(それは「陥入爪」)。

4月30日

RAILROAD RHYTHMS
Classical Music about Trains
Jiri Starek/
SWR Rundfunkorchester Kaiserlautern
HÄNSSLER/CD 93.187


有名なオネゲルの「パシフィック 231」のような、蒸気機関車の走行音をオーケストラで再現した曲が集められたもの・・・のはずです。それにしても、そんな曲だけが13曲も集められたのですから、ちょっとすごいというか、無謀というか。
世界中の作曲家による「鉄」の音楽、アメリカ代表はまずエーロン・コープランドです。彼の「ジョン・ヘンリー/鉄道バラード」という曲は、確かに機関車の模倣という形をとってはいますが、えらく屈折した情感まで伴ってくるのはなぜなのでしょう。他の彼の作品同様、どこか住む世界が違うような空虚さに、こんな曲までもが支配されている、というのが興味あるところです。そして、彼の流れをくむレナード・バーンスタインのエントリーもミュージカル「オン・ザ・タウン」の中の「地下鉄乗車と想像上のコニー・アイランド」という、シーン・ミュージックでした。これは電車そのものの描写ではなく、そのようなシーンを暗示するような音楽、ちょっとアルバムの趣旨からは離れるようなものです。
しかし、そんな文句は言ってはいられません。チェコのアントニーン・ドヴォルジャークという、「超」のつく「鉄」マニアの名前があれば、だれだって、さぞや精密な、そう、まるで忠実に縮小された鉄道モデルのように細部にまでこだわった音楽のジオラマを期待してしまうはずですよね。ところが、聞こえてきたのはあの有名曲「ユモレスク作品101の7」ではありませんか。ここからいったいどんな蒸気機関車を想像しろと言うのでしょうか。それに対するライナーでの言い訳は、「汽車に乗ってたどり着いた避暑地でのすがすがしい空気」なんですって。
そこで、オネゲルのようなまっとうな描写音楽は、やはりフランス圏の(オネゲルはスイス人)作曲家にかぎるということになります。イベールの「地下鉄」や、ダンディの「緑の地平線」などには、確かにそんな期待を裏切らないものがあります。その上で、いかにもフランス人らしいウィットも。イベールの曲の最初に聞こえる警笛の音が、ベートーヴェンの「第9」の第4楽章の最初のハチャメチャな和音そっくりなのは、単なる偶然ではないのかもしれませんよ。
サンバの国ブラジルの作曲家、エイトール・ヴィラ・ロボスの「ブラジル風バッハ第2番」からの「カイピラの小さな汽車」となると、汽車も踊り出します。それは、単純なビートではない、シンコペーションが奏でる軽快さ。あいにく、このオーケストラにその軽快さが殆ど備わっていないことから、ちょっと不器用な踊りにしか聞こえないのが残念なところ。同じように、シュトラウス・ファミリーの曲も、あまりに「機関車」を意識しすぎたために本来のダンス・ミュージックからはほど遠い仕上がりになってしまいました。
しかし、「北欧のシュトラウス」と呼ばれたデンマークの作曲家ハンス・クリスティアン・ロンビの「コペンハーゲンの蒸気機関車ギャロップ」は、まさにオーケストラで演奏された蒸気機関車そのものでした。汽笛の音やスチームのリズムを、あくまで単純に楽器によって再現しようというリアリズム、それだからこそ自然に体が動き出してしまうほどの軽快感が生まれるのでしょう。頭が空っぽになってしまうほどの楽しさは、ちょっとクセになってしまうほどの魅力です。でも、演奏する側にしてみれば、ひたすら単純なリズムを刻み続けている低弦などは、相当のストレスが募ることでしょうね。それが電子音のパルスによって解消されるまでには、ドイツのテクノバンド、クラフトワークが「ヨーロッパ特急」を発表するまで、もう100年ほど待たなければなりません。
なんでも、指揮者のスターレクは、お父さんが鉄道マンだったんですってね。宇宙船を運転していたのは、別の人(それは「スタートレック」)。

4月28日

WAGNER
The Ring, An Orchestral Adventure
Neeme Järvi/
Royal Scottish National Orchestra
CHANDOS/CHSA 5060(hybrid SACD)


ヤルヴィが指揮したワーグナーなんて、ちょっと珍しいレパートリーなのではないでしょうか。ただ、このタイトル曲「指輪・管弦楽の冒険」というのはワーグナーのオリジナルではなく、彼の「指輪」の中の音楽を切り刻み、それを集めて貼り付けたものなのです。それが、良くある「ハイライト」のように、聴かせどころの曲をそのまま並べたのではなく、それらを切れ目なくつないで一つの作品にした、というのが、ユニークなところです。
そんな、言ってみれば「指輪」の「再構築」を行った人は、オランダのヘンケ・デ・ヴリーガーという人です。もちろん、フリーターではなく、打楽器奏者で作曲家というきちんとした職業に就いています。彼が1991年に作ったこの「作品」は、「指輪」の音楽を素材にして、まるで4楽章から成る交響曲のようなしっかりとした「構成」を持つものとして仕上がっている、と言われています。確かに、オリジナルのオペラの流れをそのまま踏襲したこの「作品」は、「ラインの黄金」の導入部から「ワルハラ」までが堂々たる第1楽章となっています。しかし、次の「ワルキューレ」からは「ワルキューレの騎行」と「魔の炎の音楽」しか使われていなくて、それで「スケルツォ楽章」と片づけられているのは、ちょっと寂しい気がします。逆に「ジークフリート」は、「森のささやき」から始まってブリュンヒルデとジークフリートの愛のデュエットまでをたっぷり用いて、リリカルな「アンダンテ楽章」を形作っています。そして、フィナーレはもちろん「神々の黄昏」ということになります。
それはなかなか興味深い「冒険」ではあるのですが、別々のところから持ってきた曲を、あくまで一つのつながりとして聴かせようとするためにデ・ヴリーガーが行っていることは、とても不自然に聞こえてなりません。曲と曲の間に、あたかも自然であるかのように見せかけるために「つなぎ」の部分を作って挿入しているのですが、それが逆に耳障りになってしまっているのです。最悪なのは、「神々の黄昏」の楽章での「葬送行進曲」へのつながりの部分です。そこでは、かなり長い時間にわたって、ワーグナーのモチーフを使ってデ・ヴリーガーが新たに作り上げた音楽が鳴り響きます。彼はおそらくワーグナーになりきったつもりで、それらのモチーフを論理的につなぎ合わせたと思っているのでしょうが、そこからはワーグナーとは全く無縁の醜悪な音楽しか聞こえてはこないのです。そう言えば、英語の「冒険」という言葉には、「向こう見ず」や「山師」といった意味もありましたね。
そんなとんでもない編曲ですが、ヤルヴィは精一杯仕事をこなしているように見えます。特に後半での甘い情景の歌い上げや、クライマックスでの盛り上がりなどはなかなか楽しめます。ただ、前半ではなにか集中力の定まらないもどかしさを感じてしまいます。特に、冒頭の混沌とした部分のなんとも雑な扱いには失望を禁じ得ません。これはせっかくのSACDを使いこなせていない録音スタッフにも責任があることなのかもしれません。なにしろ、音が団子になってしまって、肝心のホルンの動きなどが全く聞こえてこないのですからね。「ワルハラ」でのワーグナー・チューバも、なんとも薄っぺらな音ですし。
ただ、カップリングの、こちらはワーグナーのオリジナル「ジークフリート牧歌」でも、なんだかあまりやる気がないように聞こえてくるのはなぜでしょう。愛情たっぷりの思いで作られたこの曲には、おもいっきり感情を込めて歌って欲しいところがたくさんあるのに、ヤルヴィはいとも冷淡な扱いしかしてくれていないのです。ここまで無神経な演奏に終始されてしまうと、この指揮者はそもそもワーグナーに対して共感出来るものがなにもないのでは、とさえ思ってしまいます。

4月26日

Fantasista! Schubert
Various Artists
TOWER RECORDS/TWMZ-4


今年もまた大型連休の期間に行われる「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」の季節が巡ってきました。これが何回目なのかというのも分からないほど、この催しはすっかり日々の音楽生活の中に定着してしまったようですね。なにしろ、今では「フォル・ジュルネ」という言葉が俳句の季語にまでなっているのですから。

  ふぉるじゅるね 今夜のおかずは とん汁ね

そして、これも恒例になっていますが、その年のテーマ作曲家にちなんだコンピレーション・ボックスが、今年もタワーレコードから発売されました。こちらでも取り上げた一昨年のモーツァルト同様、NAXOSの音源を使って音楽ライターの山尾敦史さんが選曲、ライナーノーツも書いているというものです。なんせ、10枚組で税抜き2500円、コンサート帰りのお土産には格好のアイテムです。今年も、有楽町界隈には綿飴や水風船や金魚すくいに混じって、このボックスをうずたかく積み上げた屋台が登場することでしょう。
最初、このパッケージを見たときには「『未完成』全曲入り!」とタスキに書かれているのにちょっとびっくりさせられました。そこまでマニアックなことをやってくれたとは。最近は「7番」と呼ばれているその交響曲は、2楽章までしか演奏されないバージョンが殆どだというのに、それを4楽章まで「全曲」を聴かせてくれるなんて、えらいぞタワー!、えらいぞNAXOS!。・・・しかし、どうやらそれは全くの勘違いだったようです。そもそもこのシリーズのポリシーは、1つの曲の最大1つの楽章を、フェイド・アウトなしで「全部」聴かせるということ、ただ、「未完成」に関しては2つの楽章という「全曲」を収録して目玉にした、ということだったのです。そんなことだろうとはうすうす思っていましたが、ちょっとがっかり。
モーツァルト盤同様、シューベルト自身の作品が聴けるのは10枚のうちの6枚だけです。しかし、その中に宗教曲やオペラが1曲も入ってはいないというのは残念です。ミサ曲などこんな機会でなければ聴くことの出来ないような名曲がいっぱいあるというのに、NAXOSに音源がないことにはしょうがありません。その代わりと言ってはなんですが、例えばリストがピアノソロに編曲した「ます」などという珍品が聴けるのは嬉しいものです。もっとすごいのは、おなじ「ます」のゴドフスキ編曲版、ミサ曲もないのにこんなものがカタログにあるのですから、NAXOSというのはほんとにヘンなレーベルですね。というより、こんな超珍品を見つけてきた山尾さんというのは、本当にヘンな人。さらに、サラ・ヴォーンが歌った「アヴェ・マリア」とか、さりげなくヘンなものを忍び込ませているのですから、油断は出来ません。
その他のCDには、シューベルトが生きていた街ウィーンにちなんだ、ウィーンゆかりの作曲家たちの曲が入っています。グルックからウェーベルンまで、シューベルトに直接の関係があった人もなかった人も並べられているのは、ある意味壮観です。出来れば、グルックの「精霊の踊り」はきちんと中間部のフルートソロが入った「全曲」を入れておいて欲しかったものですが、ひょっとしたらこれが最初の形だ、という啓蒙的な意味もあったのかもしれません。侮れませんね。
最後の1枚は、ウィーンの演奏家たちのヒストリカル音源が集められています。その中で興味を惹いたのが、ブルーノ・ワルターが1938年にウィーン・フィルを指揮したマーラーの「アダージェット」です。ここで聴けるのは、たっぷりしたビブラート、したがって、ノリントンがその頃のウィーンではまだオーケストラでビブラートをかけて演奏することはなかったと言っているのが真っ赤な嘘であったことが分かります。
選曲同様、油断の出来ないのが山尾さんの軽妙なライナーです。これを読破すれば、シューベルトの裏も表もすっかり分かり、ふぉるじゅるねも数倍楽しめることでしょう。

4月24日

VASKS
Pater noster
Sigvards Klava/
Latvian Radio Choir
Sinfonietta Riga
ONDINE/ODE 1106-2


バルト3国の真ん中に位置するラトヴィアを代表する現代作曲家、ペーテリス・ヴァスクスの宗教曲集です。ヴァスクスは1946年の生まれ、お隣エストニアの有名なアルヴォ・ペルトが1935年生まれですから、ひとまわり後の世代の作曲家ということになります。ペルト同様、初期の頃にはさまざまな前衛的な手法に手を染めていたものが、ある時期から至極オーソドックスな三和音の世界へたどり着くという、現代の作曲家では少なからず見られるような道を経てきている人です。
このアルバムの曲は、1991年以降の作品、もはや彼の語法は確固としたものとなり、迷わずに信じた道を進んでいるさまがうかがえるものばかりです。その1991年の作品が、「Pater noster」です。混声合唱と弦楽オーケストラという編成、それは何も知らないで聴けば何百年も昔に作られたものだといわれても疑いを持たないほどの、穏やかな調和を持ったものでした。そこには、おそらく意識して取り入れたのでしょう、バッハの「マタイ受難曲」の「受難のコラール」を彷彿とさせるようなメロディ・ラインとハーモニーを感じることが出来るはずです。そして、その息の長いフレーズは、同じ「マタイ」の最後の合唱のような、圧倒的な力を感じさせてくれるものでした。慣れ親しんだ語法だからこそ、迫ってくるその力にも共感出来るのかもしれません。
次の曲は、1996年に作られた「Dona nobis pacem」です。実は、この曲の世界初録音というものを、かつてエストニア・フィルハーモニック室内合唱団の演奏で聴いたことがありました。その時にはこの曲の中に先ほどのペルトとよく似たテイストを感じたものです。これもやはり弦楽オーケストラが一緒に演奏していますが、その飽和した厚ぼったい響きは明らかにペルトを意識したものでした。今回の演奏は、同じ曲でありながらその時のものとはかなり肌触りが異なって、より洗練されたものに仕上がっています。それは、ごく短い「Dona nobis pacem」というテキストによる、事実上たったひとつのモチーフを執拗に繰り返す中で生まれてくる高揚感が、非常に見晴らしのよい形で見渡せるものだったからなのでしょう。それぞれのパーツの中ではナチュラルに振る舞っているにもかかわらず、それが重なりとなったときに発揮される大きな力というものを、大切にしている、これはこの作曲家の創作姿勢ともきっちりシンクロした演奏なのかもしれません。この作品は一見ミニマニズムのような外観を持っていますが、もっと根元的な自然界の現象(寄せては返す波のようなものでしょうか)などともリンクしているのではないでしょうか。
最後は、この中では最も大きな作品、「ミサ曲」です。構成的には、通常文から「Credo」を欠くという凝縮された形、本来は2000年に無伴奏合唱曲として作られたものですが、それがまずオルガン伴奏の形に改訂され、さらに2005年にここで演奏されている弦楽オーケストラ伴奏に再改訂されています。その伴奏のオーケストラが、まず、かなりのハイテンションで雄弁な音楽を作り出しています。それに続く合唱もテンションの高さでは負けてはいません。教会でしっとりと祈りをあげる、というシチュエーションとはちょっと違った、殆ど体育会系のノリの「叫び」がそこには見られます。その目指すところは、やはり自然の中で喜びを声高らかに謳う、といった趣でしょうか。そんな中にあって、「Sanctus」での民謡を素材とした素朴な楽想がひときわ印象的に響きます。
ハイレベルの技術を備えた上で、あくまで飾らないひたむきさを表現したラトヴィア放送合唱団は、生きていく上で何の役にも立たないムダな知識を披露することなく(それは「トリヴィア」)、ヴァスクスによって示されたシンプルな音楽の持つ大きな力の意味を、ストレートに伝えることに成功しています。

4月22日

MOZART
Davide Penitente
Trine Wilsberg Lund, Kristina Wahlin(Sop)
Lothar Odinius(Ten)
Morten Schuldt-Jensen/
Immortal Bach Ensemble
Leipziger Kammerorchester
NAXOS/8.570231


さる音楽雑誌に、このレーベルの歴代売り上げチャートみたいなものが載っていました。それによると、以前ご紹介したオルフの「カルミナ・ブラーナ」が「四季」に次いで堂々の第2位、そして、やはり取り上げていたモーツァルトのレクイエムが第4位に入っているそうです。オールソップのオルフはイマイチでしたが、モーツァルトの方は文句なしの名演ですので、それが売れているというのはとてもうれしいものです。
その時の指揮者のモーテン・シュルト・イェンセンが、今度は同じモーツァルトの「悔悟するダヴィデ」を録音してくれました(日本語の帯のタイトルは「改悛するダヴィデ」)。オーケストラも同じライプツィヒ室内オーケストラなのですが、合唱が違っています。前回は「ゲヴァントハウス室内合唱団」だったものが「イモータル・バッハ・アンサンブル」という、聞いたことのない名前の団体に変わっています。ただ、その名前の中にある「イモータル・バッハ」というのは見覚えのある名前、というかタイトルでした。常連さんであれば思い当たるかもしれませんが、それはノルウェーの作曲家ニシュテットが作ったバッハのコラールを原形をとどめぬほどに解体してしまうという、バッハと現代を見事に結びつけたあの痛快な合唱曲のタイトルではありませんか。
ブックレットを読んで、その謎は解明されました。この合唱団は以前の団体が、ただ「改名」しただけだったのですね。そして、やはりニシュテットの作品とも関連が。この合唱団(と言うか、アンサンブル)が、それこそ、バッハの時代の作品から現代の曲までを幅広くレパートリーにするというコンセプトが、その中には込められているのだそうです。
そんなリニューアルを果たした合唱団、その演奏には、前作にも 増して「凄み」のようなものが宿っています。いつもながらの軽快な指揮者のテンポ、しかし、合唱が歌い始めると、そこになんとも言えない重みが感じられるようになります。渋くしっとりとした音色で丁寧に形作られたたフレーズたち、それからは、全ての音にきちんと責任を持たせるという強い決意のようなものさえ感じることが出来るはずです。その「凄さ」が最もはっきり現れているのが、終曲の「Chi in Dio sol spera」です(ご存じのように、「ダヴィデの悔悟」という曲は「ハ短調ミサ」のパロディですので、これは元ネタの「Gloria」の終曲「Cum sancto spiritu」に相当します)。トゥッティのイントロに続いてフーガが現れるのですが、そのフーガ主題の歌わせ方にはなんという陰影が込められていることでしょう。これは、もしかしたらラテン語の聖書のテキストから、おそらくダ・ポンテが作ったとされているイタリア語の自由な歌詞に変わったことを、意識して強調した結果なのでしょうか。いずれにしても、その細部まで磨き上げられた音の「かたち」には、信じられないようなメッセージが込められていることに気づくはずです。それに続くメリスマにも、単に音の羅列ではない、真の意味での音楽が宿っているのは、まさに奇跡としか言いようがありません。
ただ、ソリストたちがその合唱団のテンションにちょっとついて行けていないのが、残念なところです。特に第2ソプラノのテンポに乗りきれないもっさりとした芸風は、致命的ですらあります。

おとといのおやぢに会える、か。


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