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(00/6/20掲載)


Syrinx
 ドビュッシーの作品の中には、1913年に舞台の伴奏音楽として作った「シランクスもしくはパンの笛」という、フルート1本だけで演奏される3分ほどの短い曲があります。今ではフルーティストの重要なレパートリーとして定着していて、数多くの演奏によって今までに多くの人を魅了してきました。有名な曲ですから、ご存じでしょうが、MIDIを作りましたので、聴いてみて下さい。(こんな名曲ですから、誰かがすでに作っていると思って捜してみたのですが、ありませんでした。)
 半音階と全音階が巧みに組み合わされ、東洋的な音階も見え隠れする独特な響き。こんな拙いMIDIではなく、生のフルートで演奏されるのを聴けば、1本の楽器だけで奏でられているとはとても信じられないような、ダイナミックスと音色の変化が体験できることでしょう。まるで凝縮された小宇宙とでも言うべき世界が、この曲の中には秘められています。
 ところで、このMIDIをお聴きになって、ちょっと聴き慣れない部分があったことに気付かれましたか?それはこの部分、最後から2小節前です。さきほどのMIDIと、普通一般に演奏されているものを聴き比べてみて下さい。
 楽譜ではこうなります。さきほどのMIDI譜例1、普通一般に演奏されているものが譜例2です。
譜例1
譜例2
 譜例1ではHの音にディミヌエンドがつけられていますが、譜例2ではアクセントになっていますね。種明かしをしましょう。MIDIの演奏は、作曲者の自筆稿のファクシミリ版によるものなのです。
 ここでちょっと、この曲の楽譜の出版についての蘊蓄を。じつは、作曲者自身にはこの曲を出版する意志がなかったために、自筆稿は公開されず、出版にあたっては初演者であり献呈者でもあったルイ・フルーリが校訂したものが用いられました。それが1927年に出版されたJobert版です。この段階で、ディミヌエンドが誤ってアクセントと記載されてしまったのでしょう。
 以後のこの曲の出版にあたっては、このJobert版が、唯一のソースとして用いられたため、これらの楽譜でも、Hにはすべてアクセントが付けられています。
Jobert スイスフルート協会版 Henle
 ただ、今までに私たちが、さまざまなフルーティストによる演奏を聴くたびに、あるいは拙いながらも自分で演奏する時に、このHの音につけられたアクセントにはなにか違和感があったことは否定できません。ここは、最後のDesさらに、その先に待っている果てしない沈黙に向かって、ただただけだるく力が抜けていくところです。その流れを、このようなアクセントによって断ち切る必要は全く感じられなかったのですね。
 ところが、1993年に作曲者の自筆稿が出版されたことによって、この疑問は氷解することになるのです。
Autographus Musicus
 ご覧になってお分かりのように、Hにつけられたものは明らかにディミヌエンドであり、アクセントなどではなかったのです。
 この自筆稿の出版という大事件は、世界中のフルーティストをパニックに陥れたのではないでしょうか。なにしろ、今まで信じていたものが、根底から覆されてしまったのですからね。もちろん、最近録音されたものは、きちんとここをディミヌエンドで吹いています。
有田正広(98/12) エマニュエル・パユ(99/8)
 しかし、師匠から授けてもらった奏法を後生大事に伝えていくことがなによりも珍重されるこの国の音楽業界にあっては、一度教え込まれたことを修正するのは、並大抵のことではありません。現に、私は最近、さる新進女性フルーティストがリサイタルで堂々とアクセントをつけて吹いているのを聴いたばかりですから。
 ちなみに、この自筆稿を底本にした楽譜も、現在私の知るところでは2種類ほど出版されています。Trevor Wyeの校訂によるNovello版と、Michael StegemannAnders Ljungar-Chapelonの校訂によるShott/Universal版です。
Novello Shott/Universal
 ところが、この2種類の楽譜は、それぞれ大きな問題を抱えているのです。
Novello版には、15小節目にミスプリントがあります。
Novello Autographus Musicus
Shott/Universal版は、ミスプリントではないのですが、4小節目に付けられた臨時記号の解釈に問題があります。最後から2つめの音(E)の前打音は、自筆稿には何の臨時記号もないので、他の楽譜はすべてFナチュラルと解釈していますが、この版だけ、同じ小節内のオクターブ下のシャープを意識してFisになっています。
Shott/Universal Autographus Musicus
MIDIではこうなります。
 余談ですが、私は先日、友人の結婚式の二次会でこの曲を披露しようと、買ったばかりのこのShott/Universal版を持って行きました。ほとんど暗譜しているのですが、やはり何かの時の用心にというわけです。ところが、演奏を始めてこの箇所にさしかかったら、指でおぼえていた音と、譜面の音が違っていたので、びっくりしてしまいました。それこそ完璧にパニクってしまった私は、そのあとは全く指に自信がなくなって、最後までボロボロの演奏を続けることになってしまったのでした。
 ここまでかかって長々と自筆稿の話をしたのは、実は、この言い訳がしたかったからなのです、なんちゃって。


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