無節操、カレといた。.... 佐久間學

(05/4/4-05/4/23)

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4月23日

VIVALDI
Motets
Patrizia Ciofi(Sop)
Fabio Biondi/
Europa Galante
VIRGIN/545704 2


5月にフェニーチェ座と来日、ヴィオレッタを歌うことになっているパトリツィア・チオフィというソプラノ歌手の前評判は上々のようですね。ただ、私の場合、彼女の初体験がヤーコブスの「フィガロ」、このアルバムについては前任者がレビューを書いていますが、その中での感想には驚くほど共感できるものがありました。つまり、他の歌手はそれぞれの持ち味を出しているというのに、スザンナを歌ったチオフィだけが、この役に求められるキャラクターと全く違っていたため、何かなじめないものがあったのです。そんなとき、ふと店頭で目に入ったのがこのCDです。チオフィが歌うヴィヴァルディのモテット、ヴィヴァルディの宗教曲といえば、合唱で歌われる「グローリア」あたりしか聴いたことがありませんから、弦楽合奏を伴うソロ歌手のためのモテットなんて、それこそ初体験です。この編成のモテットは、何でも20曲ほど残されているそうですが、いったいどんなものなのでしょう。
「初体験」には、期待とともに、ある種の「痛み」も伴うものです。しかし、1曲目の「Laudate pueri Dominum(神のしもべをたたえよ)」が聞こえてきたときに、今回に限っては「痛み」を味わうことはあり得ないことが確信できました。そこにあったのは、いつもながらの元気いっぱいのエウローパ・ガランディの弾けっぷり、そしてヴィヴァルディの持つ華やかさをふんだんに盛り込んだ浮き立つようなイントロに乗って、チオフィの深い響きのコロラトゥーラが現れた瞬間、私たちが「ヴィヴァルディ」と言ってすぐ思い浮かべる、あの協奏曲の世界が広がっていたのですから。そう、様々な独奏楽器のための協奏曲を山ほど作った作曲家、というプロフィールが最も浸透しているこの作曲家のイメージを裏切らないこのテイスト、「ソロ・モテット」というのは、まさに「歌手のための協奏曲」だったのです。この曲の場合は、全部で10の部分から出来ているのですが、アレグロの部分でのコロラトゥーラは、とても人間が歌うことなど想定していないような(実際は、カストラートに歌ってもらうつもりで作ったのでしょうか)超絶技巧満載のフレーズのてんこ盛りです。そして、間に挟まるラルゴの部分は、とことん歌い込みさえすれば、涙すら誘いかねない甘ったるさです。この曲以外の3曲は、もっと「協奏曲」に近づきます。緩/急/緩という3楽章構成の典型的なイタリア風協奏曲に、「歌」であることを強調するために「レシタティーヴォ」を挿入するという工夫はありますが、最後のアレグロが「Alleluia」という歌詞で華々しく終わるのであれば、とことん小気味よいブリリアントな仕上がりになります。
チオフィは、たとえばエマ・カークビーのような端正な歌い方は取らず、その低めの張りのある声を武器に、縦横無尽に超絶技巧を楽しんでいるかのようです。そこからは、バックのオケの奔放さにも存分に張り合えるだけの迫力が生まれます。やはり、こういう人にスザンナは合わないでしょう。クリスマスにはぴったりでしょうけど(「チオフィこの夜」)。

4月18日

BUXTEHUDE
OEuvres pour Orgue
André Isoir(Org)
CALLIOPE/CAL 9725


フランス北部に、ロッシーニの「ランスへの旅」というオペラで有名なランスという都市があるざんす。そこにあるサン・レミ・バジリカ教会は、1000年以上の歴史を持つと言われている由緒ある教会です。もちろん、かつてここにはオルガンが設置されていましたが、1918年に戦災によって破壊されてしまっていました。1991年からはじめられたオルガン再建のプロジェクトは、ユネスコの世界遺産にも指定されているこの建物にいかに新しい楽器を調和させるか、という点に最大の注意をはらわれて進行することになります。その成果として、2000年にベルトラン・カティオーの手によって作られたオルガンは、あたかも一つの装飾品のように、礼拝堂の石造りの回廊の壁面に見事に溶け込んでいたのです。3段マニュアルとペダル、総ストップ数45というこの中規模の楽器は、教会内のアコースティックスにもマッチした、繊細で透明な響きを醸し出しています。
オルガンの録音では定評のあるCALLIOPEによって収録されたこのアルバムでは、バッハの先輩格にあたるブクステフーデの作品が、もはや「重鎮」と呼ぶにふさわしいオルガニスト、アンドレ・イゾワールによって演奏されています。ここで選ばれた曲目は、非常にバラエティに富むもので、ブクステフーデのオルガン作品の、ほぼ全てのスタイルを知ることが出来るようになっています。バッハ自身も大きな影響を受けたとされるブクステフーデですが、彼の作風は、しかし、後のバッハとは大きく異なっていることが、このラインナップを味わうことによって、実感されるのではないでしょうか。
曲目の大半を占めるのが、「コラール」です。教会で歌われる賛美歌をオルガンによって演奏するもの。ここでは、素のメロディーラインを生かしたきわめてシンプルな楽想が、心を打ちます。バッハで言えば「オルゲルビュヒライン」に見られるような可愛らしさ、そこには、「コラール・プレリュード」のような、肥大化された複雑な様相は見られません。さらに、「今ぞ来たれ、異邦人の救い主よ」BuxWV.211では、フランスの作曲家が好んで作った「ノエル」を思い起こさせられるほどの生き生きしたテイストが満ちあふれています。
「前奏曲とフーガ」という、バッハではおなじみのジャンルでも、その違いは際だっています。バッハの場合、「前奏曲」と「フーガ」は厳然と切り離されており、中でも頑強な建築物を思わせる「フーガ」の、ほとんど有無を言わせぬほどの威圧感には、誰しも圧倒されてしまいます。しかし、ブクステフーデでは、その両者は渾然一体となって、いとも軽やかに見え隠れしているのです。その結果現れるのが、瞬時に景色を変えるパースペクティブ、まるでプロモーション・ビデオのようにめまぐるしいそのカット割りは、バッハのある種押しつけがましい厳格さからは、決して見えては来ないものなのです。
「シャコンヌ」あるいは「パッサカリア」でも、やはりバッハのそれを連想することはあり得ない、軽妙さを味わえるはずです。このような際だった違い、もしかしたら、この演奏がフランス人によってフランスの楽器を使って行われたことと、無関係ではないのかもしれません。

4月15日

WAGNER
Das Rheingold
Bertrand de Billy/
Symphony Orchestra of the Gran Teatre del Liceu
OPUS ARTE/OA 0910 D(DVD)


ハリー・クプファーという、韓国料理のような(それは「クッパ」)演出家が、ダニエル・バレンボイムと組んで最初に「指環」を作り上げたのは、1988年のバイロイトでのことでした。このプロダクションは1992年まで上演され、その模様は91年(「ライン」)と92年(それ以外)の映像をDVDで見ることが出来ます。レーザー光線を多用した近未来を思わせる演出は大きな評判を得ることになるのですが、このコンビはそれに満足することなく、1996年には、バレンボイムのホームグラウンドであるベルリン国立歌劇場で、バイロイトとは全く異なる新たな演出が作り上げられることになるのです。この、ベルリンでのプロダクションを、スペイン、バルセロナのリセウ劇場で2004年に上演したものが、このDVDに収録されています。実は、このベルリン版は、2002年に日本での引っ越し公演を行っています。それこそお金も時間もなく、そしてこれが最も重要なのですが、配偶者の理解も得られず、実際にこの上演に接することが出来なかった人でも、「居ながらにして」この想像を絶する大規模なステージに触れることが出来るようになった幸運を、喜ぼうではありませんか。
同じクプファーの演出でも、ある種無機的なバイロイト版を見慣れた目には、最初のラインの水底のシーンからして、異様にデフォルメされたリアリティに驚かされることでしょう。ぬめぬめした岩肌を、ラインの乙女や本当に醜いアルベリッヒ(ギュンター・フォン・カンネン。この人の存在感には、圧倒されます)がよじ登っている様は、まるで大昔のト書きに忠実な演出を見ている錯覚に陥るほどです。しかし、岩の後ろでは怪しげにレーザーが光っていますから、これがそんな先祖返りでないことはその時点で明白になっています。そして、本当にすごいのは、第2場のニーベルハイムへ移動する場面転換の部分です。ヴォータン(ファルク・シュトルックマン)とローゲ(グレアム・クラーク)が実際に「地下」へ潜ったと思ったら、ステージ全体が迫り上がってきて、そこにはアクリル製の斜めのトンネルが設けられているのが見えます(バイロイトではこのトンネルは垂直なただのはしごでした)。この中をヴォータンたちが歩いていくわけですが、下に着く頃には、そのセットは途方もない高さまで迫り上がっています。このセット、奈落の深さやタッパが十分に確保されているベルリンや、このリセウでは完璧に機能していますが、舞台機構の貧弱な日本の劇場では、果たしてどうだったのでしょうか。そのトンネルの周りの、まるでハリウッドの近未来映画から持ってきたようなおどろおどろしいマニアックなディテールにも、目を見張らせられます。場が変わるとともに、人物の設定も変わり、あの醜かったアルベリッヒが、奪った黄金のせいでしょうか、紳士然としたいでたちになっています。と同時に、場面が確実に未来へ向けてのベクトルを放ち出していることが窺えるのは、「指環」全体を通じての大きなメッセージへの伏線なのでしょうか。
ただ、しばらくして気づくのは、装置自体は大きな変化を遂げていますが、歌手の動きなどの演出プランはほとんどバイロイトとは変わっていないということです。ラインの乙女が大股を開いてアルベリッヒを誘惑する仕草も、そのアルベリッヒがヴォータンたちにだまされてしまうあたりの茶番のような段取りも、そして、終幕の神々の意味不明なつたない演技も、基本的に同じものでした。いささか「装置に負けている」という印象があったのは、ただリセウの歌手たちの修練が足らないだけのことなのでしょうか。しかし、このオペラハウスのオーケストラに対しては、そのような言い訳は通りません。およそ迫力に乏しい金管や、美しくない部分が目立ってしまう木管は、ド・ビリーの指揮を論じる以前の問題です。

4月13日

DUTILLEUX
Sur le même accord
Anne-Sophie Mutter(Vn)
Kurt Masur/
Orchestre National de France
DG/477 5376
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1232(国内盤)

最近のレコード業界は、いろいろ難しい局面を迎えているようですね。特にクラシックのように、基本的に「新曲」というものはあまり期待できない深刻な状況の中では、いかにして過去の作品の「カバー」を売っていくかが勝負になる訳ですから、よっぽどの付加価値がないことには、消費者は振り向いてはくれません。その反面、このムターのように、セールスがきっちり読めて、新しい録音があればただちにリリースへの道が開けているような限られたアーティストの場合は、もしそれが「新曲」だったりすれば、レコード会社はなんとしてでもアルバムを出そうとするはずです。
ここでムターが世界初録音を行ったのは、今年89歳になるフランスの重鎮アンリ・デュティユーが、ムターのために作った「同じ和音の上に」という曲です。副題として「ヴァイオリンと管弦楽のためのノクターン」とあるように、これは「協奏曲」のような大規模な作品ではありません。演奏時間が9分という、ほんの小品な訳ですから、シングル盤を出せるポップスならいざ知らず、クラシック業界ではこれだけで1枚のアルバムなど作れるはずもありません。そこで考えたのが、過去にリリースされた曲とのカップリングです。91年に小澤と入れたバルトークの2番、そして88年にパウル・ザッハーのサポートで録音されたストラヴィンスキーの、それぞれの協奏曲が、ここでは選ばれました。もちろん、そのような「使い回し」を正当化させるために、ライナーノーツでもっともらしい理屈をこねくり回すのには、抜かりはありません。ポール・グリフィスという高名な音楽評論家は、「曲が出来るにあたっての作曲家とヴァイオリニストの間の対話」というテーマで、バルトークにおけるセーケイ、そしてストラヴィンスキーにおけるドゥシュキンの役割をこのデュティユーの新作におけるムターのそれとを並列で論じるという手法で、2500円以上のお金がたかが9分の曲のために費やされなければならない理由を、だれでも納得出来るように説明してくれているのです。
全部でおそらく4つか5つの部分からなるこのノクターンは、ソロヴァイオリンのピチカートによる6つの音列の提示から始まります。それは執拗にティンパニなどで繰り返され、この音列が曲全体を支配しているテーマであることが印象づけられます。最初のうちは全体を覆っているいかにも上品なヴァイオリンとオーケストラのテクスチャーは、やがて、タランテラのようなリズミカルな部分によって消え去ります。このあたりの対比の妙は、この作曲家の持ち味でしょう。そして、そのあとに訪れる、ソフトなテイストに彩られた部分での、ムターのヴァイオリンの、なんて柔らかで暖かいことでしょう。この、まるで真綿にくるまれたようなフワフワした高音は、ちょっと今までの彼女の演奏からは聴くことが出来なかったもの、ここには、ヴァイオリニストとして、そして、女性として円熟を迎えていることの、確かな証を感じないわけにはいきません。
曲が終わると、この名演をたたえる盛大な拍手が聞こえます。そう、これはラジオ・フランスによる放送用のライブ録音(もちろん、編集もされてはいません)、もはやDGほどのレーベルでも、その制作には一切関わっていない音源に使い古しのアイテムを「抱き合わせ」て、レギュラー・プライスで販売するというような阿漕なことに手を染めなければならないほど、この業界は病んでいるのでしょうか。

4月11日

DURUFLÉ
Requiem & Messe cum Jubilo
Christianne Stotijn(MS)
Mattijs van de Woerd(Bar)
Erwin Wiersinga(Org)
Peter Dijkstra/
vocal ensemble THE GENTS
CHANNEL/CCS SA 22405(hybrid SACD)


珍しいことが続くときには続くものです。先日久しぶりにデュリュフレのレクイエムの新譜(録音は1999年と、少し前のものですが)をご紹介できたと思ったら、またまたこんな珍しい曲の新録音が出ました。今回はハイブリッドSACD、つまり、この曲の最初のDSD録音ということになります。ただ、値段が4000円以上、今時SACDでもこんなに高いのは無いのに、と思ってよく見たら、2枚組でした。カップリングがこの前のものとよく似ていて、レクイエムの他にはプーランクの「パドヴァの聖アントニオのラウダ」とメシアンの「おお聖餐」というところまでは全く一緒、そのほかの収録曲は、プーランクのもう一つの男声合唱曲「アッシジの聖フランチェスコの4つの小さな祈り」と、デュリュフレの「我らが父よ」と、ミサ「クム・ユビロ」です。ただ、これだけではトータルの時間は85分、せっかく2枚組にしたのなら、「4つのモテット」も入れて、デュリュフレの全合唱作品+αとしてくれたのであるふぁ良かったのに、という思いは残ります。
このラインナップを見てお気づきのように、レクイエム以外はほとんど男声だけの編成、そう、このアルバムのアーティストは、「ザ・ジェンツ」という、男声のアンサンブルなのです。1999年に、オランダの「ローデン少年合唱団」の団員だった人たちが結成したという、まだ出来て間もない団体ですが、すでに各方面で高い評価を獲得、4月下旬には来日公演も予定されているといいます。
カウンターテナーも含む16人編成のアンサンブル、それこそ「シャンティクリア」のようにそのままで混声合唱のレパートリーも演奏できなくは無いのでしょうが、ここで「レクイエム」を歌うときには、きちんと女声のメンバーを補充して演奏しています。その女声も、極力ビブラートを押さえた清楚な歌い方、しかもアルトのパートには男声が加わりますから、音色的には見事に均質化が図られています。ハーモニーも抜群、聴いていて不安になるところなど全くない美しい音楽が、そこからは流れてきます。しかし、その、まるで天上から聞こえてくるような安らかな響きにも、しばらく経つと少々不満が募ってきます。そこには「緊張感」といったものがほとんど感じられないのです。この曲に要求されるのは、「穏やかさ」とともに「力強さ」、その対比がまるで見えてこない弱々しいフォルテは、この団体の最大の欠点です。そのことに気づいた瞬間、今まであれほど魅力的だったハーモニーも何か色あせて聞こえてくるのですから不思議なものです。大詰め「In paradisum」の後半、「Chorus angelorum」という歌詞で始まる部分で聞こえて欲しい、この曲の最大の魅力であるふんわりとした色彩感を味わうことは、ついにありませんでした。消極的なサポートに終始して、音楽を作るための意欲がとことん欠如しているオルガンにも、責任の一端はあるはずです。
本来の編成である男声のためのミサ「クム・ユビロ」(「レクイエム」ではグレゴリオ聖歌を素材として曲が作られていましたが、その20年後に作られたこの曲では、男声パートは完全なユニゾン、つまり、現代におけるグレゴリオ聖歌の再創造の趣を持っています)では、そのユニゾンがいかにも頼りなげ、そしてプーランクの曲でも、このアンサンブルが持つ「ゆるさ」は、払拭されることはありません。どこか焦点の定まらない芯のない響きと表現、なまじハーモニーが美しいだけに、その拙さは際だっています。

4月9日

MOZART
Die Zauberflöte
Susie LeBlanc(Sop)
Christoph Genz(Ten)
Stephan Genz(Bar)
Sigiswald Kuijken/
La Petite Bande
AMATI/AMI 2301/3(hybrid SACD)


クイケンによるモーツァルトのオペラは、今までACCENTレーベルから「コジ」(1992年)、「ドン・ジョヴァンニ」(1995年)、「フィガロ」(1998年)が出ていました。これらは、現在ではライセンスが例のBRILLIANTに移って、「モーツァルト全集」の中に収録されていますから、非常に安価に(オペラ1曲あたり1500円程度)入手出来るという、大穴のアイテムです(ダイアナはポール・アンカです)。今回、モーツァルトのメジャーオペラの中ではまだ録音されていなかった「魔笛」が、AMATIレーベルからSACDで出されました。そうなると、3枚組で7000円近く、これが普通の値段なのでしょうが、ずいぶん高いものに感じられてしまいます。
これは、2004年のボーヌ国際バロックオペラ音楽祭におけるライブ録音です。ワインで有名なこの町の中心にそびえる、12世紀に建てられたノートル・ダム教会で上演されたもののようですが、いったいどのような舞台装置が用いられたのか、興味があるところです。会場のせいか、オペラには珍しいとても残響のある録音、オリジナル楽器の柔らかな響きと相まって、とても居心地の良い音響空間が広がります。もちろん、その居心地の良さは、クイケンの真摯な演奏によるところも大きいはずです。音楽の流れを大切にした自然な表現は、ひところのオリジナル楽器による挑戦的な演奏とは全く無縁なもの、ここには、モダンとかオリジナルといった範疇を超えた「良い音楽」しか有りません。時代はここまで来たのですね。そんな流れに敢えて逆らおうとしているのか、元々いびつな表現しかできないのかは分かりませんが、いまだに自分勝手で不自然な演奏を「これがオリジナルだ」と主張している某○ノンクールあたりを信奉している愚かな人が増殖しているのは、理解に苦しむところです。
ただ、歌手陣は粒ぞろいというわけには行きませんでした。ザラストロのコルネリウス・ハウプトマンは、音程が定まらなくて苦しんでいるのがありあり。そして、最も失望させられたのはタミーノのクリストフ・ゲンツです。声自体は柔らかなのですが、あまりに弱々しすぎて、「王子」としての存在感がまるでありません。セリフが棒読みになってしまっているのも、この演目のようなジンクシュピールでは致命的な欠陥です。しかし、もう一人のゲンツ、パパゲーノ役のシュテファン・ゲンツはまさにハマリ役、生き生きとしたキャラクターを存分に出し切っています。たまにオーケストラに乗りきれないリズム感の鈍さは、ライブということで大目に見ましょう。最も安定しているのは、パミーナ役のスージー・ルブランでしょうか。そして、こんな少人数(1パート4人)でよくぞここまで充実した響きを出せるものだと驚かされた合唱のすばらしさも見逃せません。ただ、童子を歌っているテルツ少年合唱団のメンバーは悲惨です。もうこういう稚拙なレベルでは通用しない時代になっているということに、早く気づいて欲しいものです。
パパゲーナ役は、「フィガロ」でもバルバリーナを歌っていたマリー・クイケン、オーケストラのヴァイオリンパートにもサラ・クイケンとヴェロニカ・クイケンというように、「クイケン兄弟」の娘たちがレギュラーポジションを占めるようになった「時代」、もはや「オリジナル」に身構えること自体が「時代遅れ」になっているのです。
あ、もちろんグロッケンシュピールを使ってますよ。マスター。

4月7日

Beatles Arias
Cathy Berberian(MS)
Guy Boyer/
Ensemble de musique de chambre
TELESCOPIC/PIC 11


1983年に亡くなったキャシー・バーベリアンについては、ひところのような知名度はもはや失われてしまっているのかもしれません。やはり肉も食べなくっちゃ(それは「ベジタリアン」)・・・。1928年生まれ(これが公式の生年だと信じられていたのですが、今回のライナーには「1925年」とあります)のこの不世出の歌手は、1950年にルチアーノ・ベリオと結婚(66年には離婚します)、彼の代表作「セクエンツァ」を献呈されるなど、「戦後」の現代音楽シーンに確かな足跡を残しただけではなく、そのころ蘇演が行われたモンテヴェルディのオペラに出演するといったように、時代やジャンルの枠を軽く飛び越えたところで、華やかに羽ばたいていたのです。
そんな彼女は、もちろんポップ・ミュージックにも関心を示していました。このアルバムは、全編ビートルズのカバーという、当時のクラシック歌手としてはほとんどあり得ないコンセプトになっています。彼女がいかにこのロックグループの作品を評価し、自身のレパートリーに加えようとしていたかは、これが録音された時期を考えれば、明らかになることでしょう。パリのスタジオでもたれたこのアルバムのためのセッションは、1966年の12月、そこで収録された12曲のうちの3曲は、そのほんの4ヶ月前、同じ年の8月にリリースされたばかりの、ビートルズの7枚目のオリジナルアルバム「REVOLVER」で初めて公になった曲だったのですから。いかにヒットしていたとはいえ、そんな短期間の露出の中で、これらの曲の価値を認めた彼女の慧眼こそを、ここでは評価すべきでしょう。
このアルバムは、フランスのPHILIPSのサブレーベルであるFONTANAから「Beatles Arias」というタイトルでリリースされたあと、ドイツとイギリスでジャケットのデザインは変わりますが、同じタイトルでリリースされました。しかし、アメリカで発売されたものは、このようにクラウス・ヴォアマンによる「REVOLVER」のデザインを見事にパロディにしたものになっています。しかも、タイトルが「REVOLUTION」とくれば、その2年後にビートルズが同じタイトルのシングルナンバーを発表していることとの関連性にまで思いを巡らすことすらも、可能になってくるのです。

ビートルズ・ナンバーをバロック・オペラのスタイルで歌う、というアイディア、しかし、40年の時を経た今となってみれば、その成果には疑問を差し挟む余地がないとは言えません。最大の誤算は、発表当時は紛れもないロックンロールであったビートルズの作品の一部が、現在ではほとんど「クラシック」と変わりない評価を得てしまっているという状況。そこでは、「ミッシェル」、「エリノア・リグビー」、そして「イエスタデイ」をクラシック風に演奏してみても、なんのインパクトも与えることは出来ません。ですから、オリジナルがきちんとロックのテイストを保っている「涙の乗車券」や「抱きしめたい」あたりの落差の大きさにこそ、真の価値を見出すべきなのでしょう。
本編は全てギイ・ボワイエの編曲によるものですが、ボーナス・トラックとして、「涙の乗車券」のルイス・アンドリーセンによるピアノ伴奏版のライブ・テイクなどが加わっています。1970年のWERGO盤(下の画像)でも聴くことの出来るこのバージョンは、ブリッジの部分がレシタティーヴォ・セッコ風になった、より完璧なアレンジ、これがなければ、この復刻版はただの懐古趣味で終わっていたことでしょう。

4月6日

LAURIDSEN
Lux aeterna
Stephen Layton/
Britten Sinfonia
Polyphony
HYPERION/CDA67449

先日ご紹介した「テンプルのヴェール」では、会場となったテンプル・チャーチで音楽監督を務めるスティーヴン・レイトンが、あのタヴナーの途方もない作品の音楽面での責任を一手に引き受けて八面六臂の活躍をしていたのは、まだ記憶に新しいところです。揚げ物までは手が回らなかったようでしたが(それは「テンプラ・チャーチ」)。このレイトンという合唱指揮者は、ひところのトヌ・カリユステのように、現在の合唱界に於いては最も忙しい指揮者の一人なのではないでしょうか。そのテンプル・チャーチでの演奏にも参加していた「ホルスト・シンガーズ」だけではなく、「オランダ室内合唱団」や、「デンマーク国立合唱団」といった実力も実績も飛び抜けている名門団体で首席指揮者などのポストを努めているのですから。そこにさらに、本命として、彼自身が創設した「ポリフォニー」が加わります。ちょっと頭の薄いおどけた容貌とは完璧に相容れない、透明で精緻な高水準の音楽を、その全ての団体から引き出しているレイトン、彼によって活性化された合唱シーンからは、ひとときも目を離すことは出来ません。
その「ポリフォニー」を率いてのアルバムは、1943年生まれのアメリカの作曲家、モートン・ローリドセン(「ラウリドセン」という表記もあります)の作品集です。この作曲家の名前は、かつて前任者が紹介してくれたクリスマスアルバムの中の「O magnum mysterium」の作者として、記憶の片隅にはあったものですが、このようなフルアルバムを聴くのは初めて、写真で実際の髭もじゃの顔を見たのも初めてです。
タイトルの「Lux aeterna」という、切れ目なく演奏される5つの部分からなる作品は、テキストの構成といい、母親が亡くなったことが作曲の動機になっていることといい、実質的には「レクイエム」と変わらないものです。室内オーケストラの伴奏が入った30分ほどの、何となくフォーレあたりと似通ったテイストを持つ曲ではありますが、最後の最後に「Alleluia」などという歌詞を入れて明るく終わるというあたりが、やはりアメリカ人の感性なのでしょうか。3曲目の「O nata lux」というテキストの、無伴奏で歌われる部分が魅力的です。というより、元のスコアのせいなのか、ここでの演奏者のせいなのかは分かりませんが、オーケストラのパートがなぜか生彩を欠いていて、せっかくの合唱の足を引っ張っているように感じられてしまうのです。オーボエソロのセンスのないこと。
ですから、本当に楽しめるのは、そのあとに入っている無伴奏の曲。「6つのマドリガル」という、イタリア・ルネッサンスの詩に曲を付けたものは、あえてルネッサンスの模倣の道を取らない印象派風の響きが素敵です。そして、最もこの合唱団の「すごさ」が分かるのが、最後に演奏されている3つのラテン語によるモテットです。「Ave Maria」、「Ubi caritas et amor」、そして、最初に述べた「O magnum mysterium」、いずれの曲でも、各パートがそれぞれにとんでもないメッセージを発信しているのに、それと同時に全体の響きが完璧に均質化されているという、理想的な合唱の姿を見ることが出来ます。そして曲の最後、ドミナント→トニカという解決のなんと美しいことでしょう。思い入れたっぷりに伸ばされたドミナントに続く、「音」と言うよりは「気配」と呼ぶにふさわしい、ほとんど静寂に近い極上のピアニシモのトニカ、「感動」とは、こういうものを聴いたときに用意されている言葉に他なりません。

4月4日

BACH
Suites for Solo Vc, Partita for Solo Fl
藤井香織(Fl)
ビクターエンタテインメント/VICC-60441

フルーティスト藤井香織は、まだ芸大在学中の1999年に、彼女のビクターへのファースト・アルバムとして、バッハの「無伴奏チェロ組曲」のフルート版を録音していました。その時に演奏したのは1番から4番まで、それから6年の月日を経て、ここに残りの5番と6番を録音、晴れて全組曲をリリースしたことになります。さらにここにはもう1曲、オリジナルのフルート・ソロのための名曲、無伴奏パルティータが収録されています。ここではたと気づいたのですが、シュミーダーによるバッハ作品目録(BWV)では、無伴奏チェロ組曲のあとにこのパルティータが置かれており、この3曲はBWV1011,1012,1013と、見事な連番になっていたのですね。もちろん、この番号自体にはなんの意味もないのですが、これはちょっとした盲点でした。
前のアルバムを紹介したときには、担当者に「香織ちゃん」などと呼ばれてしまっていた彼女ですが、ご覧ください、このジャケットを。まさに黄金の楽器を携えたセレブ、といった趣ではないでしょうか。これからは地上デジタル(それは「テレビ」)。さらに、裏ジャケットには別のアングルの、胸の谷間もあらわなセクシー・ショットも披露されていますので、ぜひ、店頭で手にとってご覧になることをお勧めします。
しかし、もし、外見だけの興味でこのアルバムを買ってしまった人は、そのようなスケベ心を根底から恥じることになってしまうことでしょう。この演奏には紛れもなく、一人のフルーティストの真摯な姿が反映されているのですから。それは、1曲目の「5番」冒頭の、限りなく深い「C」の低音を聴くだけで、明らかになります。この曲をフルート用に編曲したパウル・マイゼンがライナーに寄せている「バッハが要求している暗い響き、ほとんど悲劇的と言ってもいい音色」という言葉が完璧に具現化されたものが、そこにはあったのです。続く十六分音符の、終始ビブラートを抑えた禁欲的な響き、それはまさに、フルートの華やかな音色とは一線を画した、ほとんど魂の叫びと言っても良いものです。ここからは、バッハがこの曲に込めた思いが、楽器(チェロ→フルート)や時代様式(バロック→現代)の違いなど軽く飛び越えて、明瞭に伝わってきます。
「6番」になって、その表情がガラリと変わるのも、素敵です。この一見軽やかな、しかしフルートで演奏するには多くの技術的な困難を伴う曲を、彼女はいともさりげなく、目の覚めるような技巧を持って吹ききっていたのです。
そして、フルートのためのパルティータ。もちろん、あまたのフルーティストがこぞって演奏しているものですから、比較対象には事欠きません。そこで彼女がこの曲に込めたアイデンティティは、とことんモダンフルートにこだわるアプローチでした。アルマンドの最後の「A」の高音の、なんと艶やかなことでしょう。サラバンドの息づかいの、なんとおおらかなことでしょう。
そんな、ほとんど欠点など見つけることは出来ないとさえ思われる演奏ですが、聴いていて心地よい音程が維持できていないと感じられる瞬間が幾度となくあったのは、彼女にもこれからの課題がまだ残っているということでしょうか。それがクリアできれば、ジュネーブ国際音楽コンクールで予選落ちをするようなことはないはずです。

きのうのおやぢに会える、か。


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