吸盤リズム。.... 佐久間學

(07/8/3-07/8/21)

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8月21日

Magic Flute Remixed
Members of the Nationaltheater Mannheim
GENUIN/GEN 86078


昨年の「モーツァルト・イヤー」の残渣は、まだまだそこら辺に散らばっていたざんす。タイトルでもお分かりのように、これはモーツァルトの「魔笛」によるリミックス・アルバムです。「リミックス」という概念をクラシック的にどのように捉えるかは大問題ですが、ここでは、とりあえず現在の作曲家が、モーツァルトの「魔笛」をモチーフにしてその腕をふるった作品を集めたもの、と言うぐらいに受け取っておきましょうか。
集められている曲は、マンハイムの国立劇場がそんなコンセプトで「今」の作曲家に委嘱したものですが、実はそれは今から50年前の「生誕200年」の時に行われたものが前例となっています。その時に「『魔笛』を使って、なにか曲を作ってくれないか」という委嘱を行ったのは、当時の「現代音楽」の一つの中心であった「ドナウエッシンゲン音楽祭」でした。その委嘱に対して多くの作曲家は快い返事はよこさなかったといいます。あのピエール・ブーレーズあたりは、「俺とモーツァルトとの共通点といったら、名前に『z』という文字が1個ある(MozartBoulez)ということだけだろう」と、むげに断ったということです。
それから50年経った2006年にはこうして8人もの「現代作曲家」が曲を寄せるようになったのは、それだけ、モーツァルトとの距離感が変わってきたということなのでしょうか。ただ、いったいどこが「魔笛」なのか、という、注文の趣旨を完全にはき違えているものが殆どというのが、いつの世でも自意識の強い「作曲家」という人種の有り様を浮き出したものになっています。
そんな中で、ディーター・シュネーベル(1930-)の「Ein Mädchen oder」や、トーマス・ヴィッツマン(1958-)の「Pamina-Projection」などは、それぞれ「元ネタ」がはっきり提示された上でのコラージュという形をとった、いわば「古典的」な手法で、楽しむことができます。ヴィッツマンの曲はCDエクストラで映像バージョンも収録されているのですが、その映像の方がよほど難解に感じられてしまいます。
カローラ・バウクホルト(1959-)の「P.S.」という曲は、フルート1本のソロ・ピースです。前半は息音などをそのままSEのように使った「前衛的」な作風が刺激的。これを聴いて大量の水が流れている情景を思い浮かべてしまったのは、最近見た映画版「魔笛」のせいなのかもしれません。そこでは、タミーノが「水の試練」を受ける時に、濁流の中を流される、というシーンがありましたっけ。後半は短い音型を、キーの音と一緒に繰り返すというもの。吹きながら演奏者がマイクから遠ざかっていって、フェイド・アウトするという演出です。まるで試練を乗り越えることができなかったタミーノがすごすごと去っていくような気にさせられてしまいます。もちろん、この中には「魔笛」のアリアの断片などは一切現れることはありません。
もう1曲、ウケたのは、ペーター・アプリンガー(1959-)という人の「Weiß ist schön」という、サンプリングが用いられている曲です。1970年代に黒人の権利を主張したアンジェラ・デイヴィスという女性の演説をそのまま流すのと同時に、まるでメシアンのようにその語りのリズムとメロディを模倣してそれにハーモニーを付けてピアノで演奏するという手の込んだものです。これは物語の中に差別されるものとして登場するモノスタトスからの連想なのでしょうか。それでタイトルが「白は美しい」ですからね。
このアルバムを聴けば、まだまだ世の中にはとんがった作曲家が健在なことを知り、ひとまずの安心感は得られることでしょう。

8月19日

TAKEMITSU
Piano Music
福間洸太朗(Pf)
NAXOS/8.570261J


山根銀二という音楽評論家は、1950年に武満徹のデビュー作「2つのレント」を「音楽以前である」と評したことによってのみ、音楽評論史(そんなものがあるの?)に名を残すこととなりました。これは、吉田秀和翁がホロヴィッツの日本での演奏に対して発した「ひびの入った骨董品」というフレーズともに、彼らの本来の評論が忘れ去られることがあっても必ず後世に残るものとなるでしょう。もちろん、山根氏のコメントは、半世紀以上も前の日本の「現代音楽」の状況を的確に反映したものとして捉えるべきもの、それによって彼の評論家としての洞察力が貶められることは決してありません。
武満のピアノ曲は、「2つのレント」の前年に作られた「ロマンス」を皮切りに、1989年の「リタニ」まで、十数曲のものが残されています。今回の最も新しい録音による作品集には、そのうちのほぼ全曲が収録されています。「ほぼ」と言ったのは、1962年の作品「コロナ」が含まれていないからです。今でこそ、武満と言えば押しも押されもせぬ大作曲家として多くの人の支持を受けていますが、この頃はかなり「実験的」な作品も手がけており、「コロナ」はその代表とも言えるものでした。通常の五線紙は用いられることはなく、5枚の色紙に描かれた円周にそった曲線や点を、演奏家が各々の解釈で音にするという「不確定性」の音楽です。初演者である高橋悠治(左:WAVE/C25G-00032は入手不可、小学館の「武満徹全集」で聴くことが出来ます)と、ロジャー・ウッドワード(右:EXPLORE/EXP0016)のCDでその演奏は聴けますが、もちろんそれぞれのやり方で「図形」を「音」に変換していますから、全く別の音楽としてしか私達の耳には届かないはずです。
この曲が作られたときにも、そして、録音されたとき(いずれも1973年)にすらも生まれてはいなかった福間洸太朗にとっては、図形楽譜などというものは完璧に楽譜の概念からは遠くにあるものに違いありません。「コロナ」と同時期の、こちらは普通の記譜法で書かれた「ピアノ・ディスタンス」でさえも、先ほどの武満と同時代を生きた2人のピアニストに比べると、全く別の背景から生まれてきた曲のように聞こえてはこないでしょうか。福間の演奏からは70年代にはまだ存在していたはずのある種ひたむきなムーヴメントの残り香のようなものは見事に消え去り、過去の偉大なマスターピースとしての洗練された顔のみが現れていると感じられるのは、もしかしたらその時代の思い出を体のどこかに残している者の特権なのかもしれません。
最近の他の「武満のピアノ曲のアルバム」と同様に、「コロナ」と入れ替わりに近年多くの人に聴かれるようになった「うた」のテイストを色濃く秘めた「微風」と「雲」という、NHK教育テレビの「ピアノのおけいこ」のために作られた曲が加えられたことによって、このアルバムも晩年に丸みを帯びてしまった作曲家の姿が的確に反映されたものに仕上がりました。この中では最後に作られた曲「リタニ」が、「2つのレント」を楽譜を見ないでそのまま「再作曲」したものであることが、彼の創作遍歴の象徴であると思われるのは、あるいは作曲家にとっては不本意なことだったのかもしれませんが。
日本で企画されたこのナクソス・レーベルの日本作曲家シリーズは、これまでのところ順調にリリースを続けているように見えます。ただ、日本の代理店のサイトを見てみると、「9月いっぱいで解散します」みたいなことが書いてあるので、ちょっと不安になってしまいます。同じところに「録音が完了したものについては販売します」とありますが、これはそれ以上の録音はもうなくそすとしている、と受け取るべきなのでしょうか。

8月17日

MOZART/Requiem
ORFF/Carmina Burana
Sáinz Alfaro/
Orfeón Donostiarra
Orquesta Filarmónica de Andalucía
Orquesta Filarmónica de Málaga
RTVE/65273


最初はどうなることかと思いました。何しろ、このスペイン放送局のレーベルの2枚組CD、どんなことをしてもトレイからとれいないのです。普通のCDのトレイは、ボタンのような突起の真ん中を押してやると、そこが緩んで外れるようになっているものなのですが、これはそのような構造にはなっていなくて、力ずくでCDを「引っぱがす」しかないのです。下手をしたらCDが割れてしまうのではないかと心配していたら、その前にツメが欠けてしまって、それでやっと外すこと出来ましたよ。
1997年のジルヴェスター・コンサートで、アバド指揮のベルリン・フィルとも共演したこともあるという合唱団「OD」は、1897年に創設されたという由緒のある団体です。もっとも、同じ「OD」でも、スウェーデンの方は「オルフェオのしもべ」という意味ですが、こちら、スペイン版ODは、「サン・セバスティアンのオルフェオ」という意味なんですって。そんな、スペイン北部バスク地方の都市サン・セバスティアン(バスク語では「ドノスティア」)の合唱団が、南部アンダルシア地方で行ったコンサートのライブ録音が、ここには収められています。モーツァルトの「レクイエム」は、アンダルシア・フィルとの共演によるハエンでのコンサート、オルフの「カルミナ・ブラーナ」は、マラガ・フィルとの共演によるヘレス・デ・ラ・フロンテラでのコンサートです。
1枚目は、2006年の1021日に行われたモーツァルトです。全く聴いたことのないオーケストラですが、冒頭のファゴットとバセット・ホルンのアンサンブルでは、ビブラートたっぷりのかなり「濃い」歌い口が印象的、やはりラテンっぽいモーツァルトに仕上がっているのでしょうか。ところが、合唱が入ってくると、いくらライブとはいっても、その録音バランスがとてもひどいことに気づかされてしまいます。何しろ、オーケストラの、特に弦楽器に消されてしまって、合唱が殆ど聞こえてこないのですから。ジャケットには最初に合唱団の名前が書いてあることからも分かるように、これは合唱団がメインのアルバムのはず、これはいったいどうしたことでしょう。音の響き方を聴いてみると、どうやらこの会場はかなり広いところのよう、そんな響きを捉えきれずに、オケもソリストも合唱もてんでバラバラなことをやっているという感じしか伝わってきません。先ほどのCDのツメといい、このメーカーはこんな粗悪品を、よくも「商品」として販売できたものです。
ところが、2枚目のオルフでは、全く事情が違ってきたのですから、世の中は何が起こるか分かりません。こちらは1013日のコンサートですが、普通のホールを使っているようで、バランス的にはなんの問題もありません。そして、このバランスで聴くと、合唱団はとっても幅広いダイナミック・レンジを駆使していることがよく分かります。そんな小技は、モーツァルトの時の録音ではなんの意味も持たなかったのですね。そして、何よりもすごいのが、オーケストラと合唱団が一体となって作り上げているとんでもないテンションの高さなのですよ。例えば、最初と最後の「O Fortuna」での打楽器チームの張り切りようといったらどうでしょう。盛り上がったところでバスドラムが「タタタ、タン」と入れる前打音のかっこいいこと。張り切りすぎて「タタタタ、タン」なんてなっているのもご愛敬。アンサンブルはずれまくってかなりひどいのですが、それを超えた気迫には圧倒されます。ソリストも乗りまくっています。バリトンの「Ego sum abbas」で、客席から笑いがとれるなんて。
こんなにハチャメチャで楽しめる「カルミナ」なんて、久しぶりに聴きました。ほんと、世の中なんて最後まで分かりません。

8月15日

Solo
高橋悠治(Pf)
AVEX/AVCL-25154


ひところ、楳図かずおさんがテレビのワイドショーなどによく登場していましたね。びっくりしたのは、テロップにカッコ、70才、カッコ閉じ、と出ていたことでした。これは2つの意味での驚き、「まことちゃん」で一世を風靡したこの漫画家も、もう70才になっていたのか、という驚きと、久しぶりに見たその外見がとても70才とは思えないほどの若々しいものだったという驚きです。その服装も含めて、これは、まるで少年ではありませんか。
1938年生まれといいますから、高橋悠治ももはや殆ど70才と言っていいほどの歳になりました。しかし、こちらは外見的にはもはやすっかりじいさんです。何よりも、ジャケットのこの柳生弦一郎のカリカチュアは、まるで落語に出てくる長屋の大家さんといった感じ、残酷なまでに「老い」を強調したものとなっています。アーティストのイラストとして、これほどそぐわないものも希でしょう。サインペンのベタがいっそうのチープ感をそそります。
しかし、悠治の音楽はそんなじいさん臭さなど全く感じさせないような、「若い頃」となんら変わらないものでした。一見小品集のようなおもむきを見せるこのアルバムは、悠治ならではの刺激に満ちた、油断の出来ないものだったのです。
最初のトラック、モーツァルトのロンドニ長調が始まった瞬間に、聴き手はそのことに気づかされるはずです。巷にあふれるフワフワしたモーツァルトとの、なんという違いようでしょう。最も際だっているのが、装飾音の扱い、それらは元の音との関連性を否定されて、それ自体で存在を主張しているかのように、刺激的に響きます。そこからは、滑らかで落ち着きのある流れなどは生まれようもありません。悠治特有の独特の「間」とも相まって、あちこちにささくれだったところの残る原木のような、不思議な肌合いが姿を現すのです。最後に登場することになるイ短調のロンドに至っては、おどろおどろしいほどのテイストさえ備えています。
シューベルトのピアノソナタ第20番では、第2楽章だけを演奏するというアイディアによって、全体のソナタを聴いていたときには分からなかったようなこの曲のダイナミックな側面が認識されるようになります。確かに和声は紛れもないシューベルトのものであるにもかかわらず、悠治によって施された極限までのダイナミック・レンジによって、それは確実にロマン派の範疇を超えたスケールの作品になっていました。
ガルッピのソナタという、殆ど18世紀の陳腐さしか残らないような作品でも、悠治のレアリゼーションは容赦がありません。装飾的なフレーズを彼が弾くとき、それはとてもグロテスクな音列に変貌します。エレガントだと信じて疑わなかった音楽が、一皮むけばこんな醜いものだと知ったときの驚きは言葉には尽くせません。単調に繰り返される左手のほとんど白痴的な伴奏の、なんとシニカルに響きわたることでしょう。
ショパンのマズルカからは、見事に3拍子の「舞曲」としての側面が剥奪されていることが分かるはずです。ここでも、美しさの陰に潜む別の味わいを探り出す悠治の手腕は、冴えわたっていまずるか
自作の「子守唄」は、まるで他の「名曲」を読み解くときのパスワードのように感じられてなりません。それだからこそ、この曲の力の抜けたたたずまいは一層際だちます。
このアルバムで健在さを示した悠治の一貫した音楽に対する挑戦的な姿勢は、極彩色の邸宅を住宅地のど真ん中に建てようとする楳図かずおの子供じみた挑戦とは根本的に異なるものです。本当の若々しさは外見だけでは決して知ることは出来ません。

8月13日

BACH
Markus-Passion
Christiane Oelze(Sop)
Rosemarie Lang(Alt)
Peter Schreier/
Favorit- und Capellchor Leipzig
Neues Bachisches Collegium Musicum Leipzig
DECCA/442 9113


バッハの「マルコ受難曲」(BWV247)は、1731年の3月23日にライプツィヒの聖トマス教会で初演されましたが、その楽譜は消失してしまっています。現在残されているのはテキストだけ。ただ、その内容はバッハの他の作品や、他人の作品のパロディ(使い回し)であるらしいとの情報を頼りに、何種類かの「復元」バージョンが作られていて、それぞれ実際に演奏されたCDも出ています。とりあえず手元には、サイモン・ヘイズという人の復元によるロイ・グッドマンの演奏(MUSICA OSCURABRILLIANTによるライセンス盤)がありましたので、その概要を知ることは出来ていました。新聞連載も始まりましたし(それは、「ちびまるこ」)。
今回「ELOQUENCE」というUNIVERSALの廉価盤でリリースされたシュライアーの演奏は、ディートハルト・ヘルマンという人が復元した版が用いられているものです。こんな扱いですから当然再発売だと思っていろいろ調べてみたのですが、この、1997年頃に録音された音源は、一度もリリースされた形跡がないのです。ひょっとしたらこれが初出なのでしょうか。だとすれば、思いがけない掘り出し物ということになります。
「マタイ」などはCDを3枚使わなければ収録できない長さですが、「マルコ」の場合、ヘイズ版ではCD2枚組、2時間もかかりません。というのも、曲の大部分はレシタティーヴォとコラールが占めていて、ソリストによるアリアは6曲しかないからなのです。さらに、このヘルマン版になると、演奏時間はたった6829秒、バッハの受難曲が1枚のCDに収まってしまうことになりました。これは、第1部でコラールを2曲、第2部でアリアを1曲カットしているということもありますが、何よりも本来はレシタティーヴォや合唱などで歌われるべき福音書のテキストを、そのまま「朗読」しているということが大きな要因です。アリアやコラールは他のものを転用することが出来るでしょうが、レシタティーヴォではそのまま置き換えるのはちょっと無理(コープマンあたりはすべて自分で作ったそうですが)、それならいっそのことただ読むだけにしてしまおう、という発想なのでしょう。もちろん、バッハの音楽としてはあり得ない形なのですが、ここで朗読を担当しているヴォルフ・オイバという人がなかなか熱のこもった語りを聴かせてくれていますから、これはこれで楽しめます。彼が演じるのはエヴァンゲリストの他にイエスやペトロ、ピラトに群衆と、まるで「紙芝居」を聴いている感じです。
冒頭の合唱はヘイズ版と同じカンタータ198番からの転用ですが、切れの良いオーケストラのリズムに乗って現れた合唱には、ちょっとびっくりしてしまいました。人数は少なめなのでしょう、とてもシャープでいきがいいのです。ソプラノがとてもしっかりしていて、表情も細やか、音楽全体がとてもテンションの高いものに仕上がっています。エヴァンゲリストの「朗読」が終わってコラールが始まると、またびっくり。カンタータや受難曲のコラールといえば合唱パートとユニゾンでオーケストラが入っているものですが、ここではア・カペラで歌われていたのです。無伴奏で聴くこの合唱の、なんと素晴らしいことでしょう。ピッチは安定しているし、音色もきれいにまとまっている上に、極上の表現が付いているのですからね。その表現、指揮をしているシュライアーの、まさに全盛期のものを思わせるような表情を持っていたのが、面白いところです。
実は、第2部の最初のアリアを、シュライアー自身が歌っています。これが、往年の張りは全くなく、ちょっと悲しくなるような演奏でした。しかし、この合唱が聴ければ、十分に満足のいくCDです。なんせ、こんな珍しいものが1000円もしないで買えるんですから。

8月11日

VANHAL
Flute Quartets
Uwe Grodd(Fl)
Janaki String Trio
NAXOS/8.570234


ボヘミア出身、ウィーンで活躍した作曲家ヴァンハルは、1739年に生まれて1813年に亡くなったといいますから、ちょうどあのモーツァルトの生涯にそれぞれ前後に20年ほどはみ出して重なっているということになります。もっとも、晩年は精神的な病で創作活動は行わなくなってしまったそうですが。若い頃学校で手下を従えていた反動でしょうか(「番、張る」)。
ヴァンハルは、当時では珍しい、作曲だけで生活できるほどの売れっ子の音楽家だったそうです。作品の数も膨大で、交響曲を70曲以上も作ったのを筆頭に、あらゆるジャンルで万遍なく多くの作品を残しています。彼の作品のジャンル別の目録を作ったのが、ヴァインマンという人ですが、その方法は交響曲は「I」、協奏曲は「II」のようにローマ数字で大まかなジャンルに分け、さらにそれぞれに小文字のアルファベットによってより細かい分類を行うというものです。ですから、この「フルート四重奏曲」は「V」の「四重奏曲」の中の「Vb」という項目に含まれています(ちなみに、「Va」は弦楽四重奏曲)。そして、個別の作品は、その調性を頭に付けた番号で特定されています。ハ長調の3曲目でしたら「C3」、ニ短調の5曲目は「d5」といった具合です。
多くのものが生前に出版され、ヨーロッパだけではなくアメリカあたりでも演奏されていたというヴァンハルの作品ですが、現在ではそれらは殆ど忘れ去られています。このフルート四重奏曲にしても、今回の録音がすべて世界初録音だということで、その状況はうかがい知ることが出来るでしょう。正確には、これらの曲は「フルートまたはオーボエ」という指定があるため、オーボエ四重奏の形で演奏したものがいくつかはありますが、それにしても例えば同時代のモーツァルトの同じ編成による作品の知名度に比べたらそれはごくわずかなものでしかありません。
ここでフルートを演奏しているウーヴェ・グロットは、指揮者としても有名な方、ヴァンハルの交響曲や宗教曲をいくつかこのレーベルに録音しています。あのチェリビダッケに師事したということです。フルートの方はロバート・エイトケンに師事、ちょっと地味な音色や、揺るぎないテクニックなどは、師匠譲りでしょうか。アメリカの若い音楽家によって編成された弦楽三重奏団と、緊密なアンサンブルを繰り広げています。このメンバーの写真がブックレットにありますが、みんななかなか個性的な外見の持ち主、きっとライブでは盛り上がることでしょう。 ここで演奏されている3曲(Weinmann Vb:Bb1,G1,C1)はすべて、まるで交響曲のようなしっかりした4つの楽章から成っています。第1楽章はかなり大規模なソナタ形式、第2楽章はゆっくりとしたカンタービレ、第3楽章はメヌエット、そして終曲は華やかな早い楽章です。どの曲も、隙のない、まさに名人芸とも言える仕上がりとなっていて、全く飽きることなく聴き通すことが出来ます。中でも、カンタービレの楽章はその豊かなメロディで聴き応えがあります。常時フルートが目立ったパートを独占するのではなく、ヴァイオリンにも同等のウェイトがかけられていますから、幾分乾いたグロットのフルートと、甘美そのもののマッキニー嬢のヴァイオリンとの対比を楽しむことも出来ます。
全く知らなかったはずの曲なのに、なんの抵抗もなく楽しむことが出来たのは、たぶん、これらの曲の中に頻繁に顔を出す、おそらくモーツァルトあたりによってさんざん刷り込まれてきたエモーションのせいなのではないでしょうか。モーツァルトさえクリアしておけば、この時代の他の作品は難なく楽しむことが出来るということは、裏返せばモーツァルトはこの時代の様式を一歩も超えてはいなかったということにもなるのでしょうね。

8月9日

Corpus Christi
VA
MEMBRAN/231061


いつぞやのレクイエムばかりを集めたボックス・セットに続いて、同じレーベルがこんなボックスを出しました。前回同様10枚組、お値段は1700円と、殆どタダ同然です。
まず、ジャケットのかわいらしい写真が目を引きます。「かわいらしい」などと言ったら不謹慎なのかもしれませんが、十字架に磔になっているキリストは針金細工、ここまで抽象化されると、もはやオブジェのように見えてはきませんか?手のひらに打ち付けられた釘が、見事なまでにハマっています。余談ですが、「劇団四季」の演目、ロイド・ウェッバーの「ジーザス・クライスト・スーパースター」では、ジーザス(イエス)役の人は、実際に手のひらに釘を突き刺されて十字架に固定されます。本当ですよ。というか、オペラグラスを使ってその手元を何度も確認してみたのですが、いくら見ても実際に刺さっているようにしか見えません。あれはいったいどんなトリックになっているのでしょうか。
今回は、そんなキリストの受難をテーマにした「マタイ受難曲」が、メインの曲目になっています。有名なバッハの作品だけではなく、シュッツとテレマンのものが収録されているというあたりが渋いところです。この作品の様式の変遷なども踏まえつつ、聴き慣れたバッハだけではない広がりを実際の音として体験できる、貴重な選曲です。テレマンは、彼の数ある「マタイ」の中の1754年に作られたもの、なかなか耳にする機会はないはずです。バッハのようなアリアはなく、殆どレシタティーヴォと合唱で進んでいくという、ある意味淡々とした構成、バッハでおなじみの「受難のコラール」も登場します。
このレーベルの常で、演奏のレベルが必ずしも高くない点も、一つの時代的なサンプルの代償として大目に見ようではありませんか。例えばバッハの中では、ついこの間聴いたばかりのビラー盤で圧倒的なエヴァンゲリストとアリアを聴かせてくれたペツォルトの10年前の初々しい声を聴くことなども出来ますし。
その他のラインナップとしては、通常のミサ曲などと並んでマーラーの交響曲第2番や、オルフの「カルミナ・ブラーナ」なども加わっているというあたりが、このレーベルならではの胡散臭さです。「カルミナ・ブラーナ」などは、これ以上は望めないという緊張感のなさ、世の中、必ずしも完璧な演奏を目指す人ばかりではないのだな、という、なにかホッとした気持ちにさせられるものですよ。
「宗教曲」とは言っても、声楽を伴わないインスト・ナンバーもあります。そんな、モーツァルトの「教会ソナタ」が入っていたのが、実は最も嬉しいことでした。教会での礼拝の際に演奏される1楽章だけの文字通り「ソナタ形式」で出来た合奏曲ですが、その中にオルガンが加わっているのが大変魅力的。全部で17曲ほど残されていますが、それぞれのオルガンの扱い方が微妙に異なっていて、楽しめます。初期のものは殆ど通奏低音のような使われ方ですが、次第に一つのパートとして管楽器のような存在を主張し始めます。さらに、最後に作られたK336は、完全なオルガン協奏曲の形態をとったもの、モーツァルト唯一のこの楽器のための協奏曲として、愛好家にはたまらないアイテムです。
ここで演奏しているメンバーのクレジットは、誰がソリストで誰が指揮者なのか皆目分からないといういい加減なもの、もっといい加減なのは、必ずしも番号順に演奏されてはいないのに、演奏順がそのまま作品の番号になっているということです。先ほどのK336も本来は「17番」のはずが「14番」などと表記されていますから、ご用心。ひょっとしたら各パート一人だけのアンサンブルなのでは、と思わせられるようなちょっと貧弱なサウンドも、元々CDの少ないこの曲の貴重な録音だと思えば、全く気にはなりません。

8月7日

DURUFLÉ
Requiem
Isabelle Everarts de Velp(MS)
Benoît Giaux(Bar)
国分桃代(Org)
Geert Hendrix/
Koor Helicon
MELOPHONE/M001-06


ベルギーの音楽家たちによるデュリュフレのレクイエムのCDです。このジャケットは一瞬ブドウ畑なのかな、と思ってしまいましたが、よく見ると人の顔、そう、まさに作曲家デュリュフレの顔が水彩のタッチで描かれていたものでした。元になったのはこの写真でしょうね。
この曲は、ついこの間ご紹介したばかりだというのに、また新しいCDです。こちらの方はオルガン伴奏の第2稿ですが、なぜこんなに頻繁にリリースがあるのかと思っていたら、デュリュフレが亡くなったのが1986年のことですから、昨年は「没後20年」という記念の年だったのですね。世界中でこの曲のコンサートや、録音が数多く行われていたのでしょう。こんな風にして、同時代の音楽だと思っていたこの曲も、次第に名曲として歴史の中に位置づけられるようになるのでしょうね。
先日のオーケストラ版は日本人による演奏でしたが、こちらでもベルギー在住の日本人、国分桃代さんがオルガンを演奏されています。そのためか、ブックレットにはフランス語、ベルギー語、英語に加えて日本語のライナーノーツが掲載されています。そのせいでしょうか、バリバリの輸入盤であるにもかかわらず、「レコ芸」の月評でも国内盤として紹介されていましたね(いや、タスキに日本語が書かれてさえいれば、国内盤扱いになってこの雑誌で取り上げられるのだとか)。
ここでは、レクイエムに先だって、同じ作曲家の無伴奏のモテットと、オルガン・ソロの曲が演奏されています。最初のモテットを聴いた印象では、なかなかクセのない滑らかなハーモニーに惹かれるものがありました。強い主張を出すのではなく、そこはかとなく美しさを振りまく、そんな感じをもってっと。次のオルガンソロ「アランの名による前奏曲とフーガ」は、国分さんのご主人であるグザヴィエ・ドゥプレが演奏しています。ロンの大聖堂にある、1700年に作られたバロック・オルガンを、1899年にフランス風のカヴァイエ・コル・オルガンに改修したという歴史的な楽器は、リード管の響きが前面に出た鄙びた音色を持つものでした。しかし、おそらくアクションの関係で滑らかに演奏するにはかなりの技術が必要なのではと思われる、ちょっと気むずかしい楽器のような気がします。ドゥプレの音楽には、必ずしもそんなオルガンを御し切れていないようなもどかしさが伴っているのがちょっと残念です。
メイン・プロのレクイエムでも、国分さんはオルガンの気むずかしさにやや戸惑っているような気がしてなりません。何よりも、静かな部分でのアクションのノイズがとても目立って聞こえてしまうのは、ちょっと問題です。「Domine Jesu Christe」の神秘的な前奏が、「ガチャン、ガチャン」というとても耐えきれない騒音で邪魔されているのを聴くのは、かなり辛いものがあります。しかし、このオルガンにはスウェルが付けられているようで、時折聞こえるクレッシェンドやディミヌエンドが滑らかに聞こえてくるのは何よりの救いです。
合唱は、先ほどのモテット同様、美しさを伝えることに最大の努力を払っているように見えます。男声はちょっと危なげなところもありますが、女声の音程は完璧、包み込むような響きで、それこそ「静謐」な音楽を伝えてくれています。しかし、この曲の場合、それだけで終わってしまっていたのでは、軽い失望感を味わうことになってしまいます。肝心なところでの「主張」がない限り、決して名演にはなり得ません。
そこへ行くと、「Pie Jesu」でのメゾソプラノのソロの、ちょっと崩れたアプローチはなかなかのものがあります。ただ、ここだけに出てくるチェロパートを合唱団員に任せたのは悲惨。最初のフレーズこそまともですが、そのあとの乱れようには笑うほかありません。この辺の詰めの甘さが、いかにもユルい演奏を産むことになったのでしょう。

8月5日

Eternal Light
Elin Manahan Thomas(Sop)
Harry Christophers/
The Orchestra of the Age of Enlightenment
HELIODOR/4765970


キャメロン・ディアスやキルステン・ダンストを引き合いに出すまでもなく、青い瞳にブロンドの髪の女性というのは、ほとんど女神にも等しい美しさを秘めているものです。このジャケットを彩るマスクも、なんという魅力を放っていることでしょう。もっとも、これだけ大きく目を見開かれてしまうと、ちょっとした不気味さのようなものも漂ってきますが。
もちろん、この写真の主はモデルや女優ではなく、エリン・マナハン・トーマスというれっきとしたソプラノ歌手です。この度UCJ(ユニバーサル・ミュージック・クラシックス&ジャズ)が立ち上げたボーダーレスのレーベル「HELIODOR」の最初のアーティストとして、華々しいデビューを飾りました。おそらくLP時代からのクラシック・ファンであれば、この「HELIODOR」という名前はDGの廉価盤レーベルとして記憶に残っているに違いありません。CDが登場してしばらく見かけなかったと思っていたら、こんな形で「復活」してきましたよ。しかし、先日の「EDGE」といい、ユニバーサルは最近新しいレーベルに熱心ですね。そのうち、プッチーニのアリア集でも出すのでしょう(熱心・ドルマ)。
マナハン・トーマスというソプラノは、例えば「ザ・シックスティーン」や「モンテヴェルディ合唱団」にメンバーとして参加、数多くの録音を残しているというプロフィールが知られています。その一方で、こちらでご紹介したジョン・ラッターの「レクイエム」では、ソリストとしてセッションに参加しています。2002年に録音されたこのアルバムを聴く限りでは、その「無垢な声」には、たとえばエマ・カークビーに通じるほどの確かな魅力がありました。
それから5年の時を経て、晴れて彼女のソロアルバムの登場です。ラインナップは彼女が最も得意としているアーリー・ミュージックの名曲たち、バックを務めるのは「ザ・シックスティーン」での知己、クリストファーズの指揮によるエイジ・オブ・エンライトゥンメント管という、最高の布陣です。
しかし、最初のトラックはそのオーケストラを伴わない、無伴奏による歌でした。それはヒルデガルト・フォン・ビンゲンの「O Euchari」、この曲が最初に歌われたことによって、彼女が目指しているものがなんであるかが明らかになります。この中世の尼僧のシンプルなメロディは、まさにアーリー・ミュージックのエキスとも言えるものです。そんなジャンルの歌い手の先駆けであるカークビーその人の後継者たることを、この曲によって高らかに宣言したと感じることは、それほど見当はずれではないはずです。
確かに、そのピュアな歌声には、カークビーさえ持ち得なかった「色気」のようなものすら漂っていました。しかし、しばらく聴き続けていると、その「色気」の源はかなりはっきりしたビブラートであることが分かってきます。これはラッターの時にはそれほど目立たなかったもの、もはや「無垢」からはかなりの隔たりがある声になっていることを、いやでも認めないわけにはいきません。
さらに聴き進んでいくうちに聞こえてきたのは、ヘンデルの「リナルド」の中のアリア「私を泣かせて下さい」でした。そこまで来ると、もしかしたら彼女が目指しているものは、カークビーではなかったのでは、という思いに駆られます。そう、このアリアを一躍有名にしたサラ・ブライトマンこそが、彼女の目標ではなかったのか、と。
7曲目にはヴィヴァルディの「春」に歌詞を付けたものが歌われます。一瞬、それこそサラのような安直な編曲かと思ってしまいますが、実はこれは作曲者自身が「嵐の中のドリッラ」というオペラの中の合唱曲「そよ風のささやきに」に「春」の素材を転用したものなのです(良く聴くと、後半のメロディが微妙に異なっています)。このバージョンは1999年にリリースされたバルトリのアルバムで聴くことが出来ますが、それをソロヴォーカル用にアレンジして聴かせるというあたりが、このレーベルの指向性なのでしょう。彼女にはもっと輝かしいスターに育っていって欲しいものです。

DECCA/466 5692

8月3日

Bach to Cuba
Emilio Aragón
DG/00289 477 7031


ハバナ産の葉巻の木箱を模したジャケットが、なかなか凝ってます。シールをはがして蓋を開けると、なかなか手に入らないキューバの葉巻が出てくるような気にはなりませんか?
もう一つ凝っているのがレーベルです。右下にあるのがそのマークなのですが、そこには「EDGE」という文字がデザインされています。エッジのきいた音楽を専門に扱っているレーベルなのかと思いきや、真ん中の2文字、「DG」だけが黒くなっていることで、その正体が分かってしまいます。というか、この品番を見てもまさにドイツ・グラモフォンの数列そのものではありませんか。こういうちょっとしたボーダーレスのアイテムには、この「EDGE」というロゴが使われているのでしょうか。
このアルバム、アイディアとしては、以前SONYから出ていたクラズ・ブラザーズのような、クラシックとキューバのリズム・セクションとのコラボレーションです。ただ、「クラズ」は基本的にはジャズのバンドだったわけですが、こちらはれっきとしたクラシックの演奏家が、キューバン・リズムと共演したという、まさにガチンコ勝負になっています。アフリカ沖のスペイン領カナリア諸島、テネリフェ島にあるテネリフェ交響楽団のメンバーが、「クラシック・チーム」の選手です。これはテネリフェにあるコンサートホールで行われたコンサートの、ライブ録音だということです。
曲目として選ばれているのは、バッハの「ブランデンブルク協奏曲」の3、4、5番、それぞれ両端の「早い」楽章だけというのがユニークなところです。ちなみに、キューバン・ミュージシャンとのコラボだからといって、「9番」はありません(もともとないって)。その他に、「組曲」の2番と3番から有名な曲が集められています。
ブランデンブルクの3番と言えば、あの「スイッチト・オン・バッハ」で一躍有名になったチューンです。なんと言ってもあの歴史に残るアルバムのメイン・タイトルですから、もはやこのような企画には外すことの出来ないものとなっているのでしょう。それのキューバン・リズムとの合体、期待できるはずです。ところが、いったいどうしたことでしょう、これがさっぱり面白くないのですよ。クラシック・チームはバッハの譜面をそのまま、決して崩したりしないでまじめに演奏しています。一方のキューバン・チームはひたすらのんびりしたラテン・リズムを合わせているだけ、そこには異なる文化同士の息詰まるようなバトルなど、微塵も存在してはいませんでした。彼らはまるでリズム・マシーンのように、単調なリズムを繰り返しているだけだったのです。そののどかさといったらどうでしょう。彼らが中間のゆっくりした楽章を演奏していなかった理由も分かるような気がします。この楽章にこんなだらしのないリズムが加わったところで、退屈感以上のものを創り出すことなで出来るはずがありません。そもそも「3番」には2つの和音しか書かれていませんし。
「5番」も、状況は同じことです。第1楽章にあるはずのチェンバロのカデンツァあたりを使えばさぞ面白いことが出来たのにと思うのですが、プロデューサーであり、指揮や編曲も担当しているエミリオ・アラゴンは決してそんな冒険を望んではいなかったようです。
ただ、最後に収録されている「組曲第3番」からの「ガヴォット」では、ちょっと面白い試みを披露してくれていました。クラシック・チームがもう演奏を終わっているのに、キューバン・チームだけがこの曲のテーマ(「真っ赤だな」ですね)を元にコーラスなども入れて即興的なプレイを展開しているのです。これですよ。これを最初からやってくれていればもっともっと興味が湧きそうなアルバムに仕上がっていたはずなのに。

おとといのおやぢに会える、か。


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