アンチョビ、ブロッコリー。.... 渋谷塔一

(04/3/29-04/4/22)


4月22日

MAHLER
Sinfonie Nr.1
Kyrill Kondrashin/
NDR Sinfonieorchester
EMI/562856 2
EMIからリリースされた、NDR(北ドイツ放送交響楽団)のアーカイブです。ちょっと早いかもしれませんが、プレゼントに(それはクリスマスイブ)。このコンドラシンの他に、シュミット・イッセルシュテットやケルテスのような、今は亡き名指揮者による歴史的な放送音源が、このレーベルから正規盤として発売されています。今までに幾度となく海賊盤として出回っていたものが、晴れてきちんとした形で入手できることになりました。
「歴史的」という意味では、このCDほどドラマティックな背景を持つものもないでしょう。なにしろ、この、アムステルダムのコンセルトヘボウでの演奏会、コンドラシンはテンシュテットの代役として急遽駆けつけたものですが、なんと、この演奏会を終えてホテルに帰ったとたん、心臓発作で亡くなってしまったというのですから。
そんないわく付きのライブ録音、かつて正規盤としてLPで出ていたそうですが、CDとして流布していたのは、おそらくそのLPからの「板起こし」と思われるCINCIN盤(→)でした(品番が「CCCD 1022」というのがおかしいですね)。これと、今回の正規盤の音を比べてみると、その違いは明らかです。弦楽器や金管楽器の豊かな倍音成分は、CINCIN盤では聴かれなかったもの、今までカーテンを通して聴いていたものが、すっぱり遮蔽物が無くなった感じになっています。もちろん、第3楽章の冒頭で聴かれた、明らかにスクラッチ・ノイズと思われるものも、全く聞こえません。
さて、そのあまりにも劇的な後日談を知ってしまっている私たちですが、この演奏とそのことを結びつけて考えるのは、おそらく見当はずれでしょう(そもそも、これから死ぬことを予想しつつ演奏することなど、あり得ません)。ここに聴かれるものは、あくまでコンドラシンの特質である起伏の激しいハイテンションの世界なのです。特に、その起伏の振幅の大きさには、思わず引き込まれてしまいます。第1楽章あたりで、のどかな田園風景のように流れていた音楽が、みるみるうちに激昂、そして元の平静に戻る様は、とことんスリリングです。
一方で、第3楽章、ハープによって導かれる例の「さすらう若人の歌」の引用の部分の美しさといったら、どうでしょう。第4楽章の途中で現れる、「Sehr gesangvoll」という表記(イタリア語だと、「Molto cantabile」でしょうか)の部分のヴァイオリンによる切々とした歌と共に、そこからは内からほとばしり出る密度の高い訴えかけがひしひしと感じられます。そして、このフィナーレ、そもそもとてつもないテンポで始まるのですが、大詰め、ヴィオラのファ・ソ・ラ♭(「びおらっ」と歌えます)というパートソロからスタートするエンディングでは、金管楽器などは殆どアマチュアのノリで、コンドラシンに煽られるまま体力の限界を超えたのめり込みを見せてくれています。その、殆ど狂気に近い盛り上がり、しかし、それを受け止めた聴衆の熱烈な拍手が、この正規盤からは見事にカットされているのは、ちょっと残念です。

4月21日

Chant du Cygne
Voyage de Chopin Vol.6
高橋多佳子(Pf)
EXTON/OVCL-00168
現在の日本では「CDが出ているか出ていないか」が「有名な演奏家かそうでないか」と言う判定基準となります。だから、どんなに優れた演奏家がいたとしても、CDとして聴けない限り(それも国内盤が望ましい)、人々の話題にされることは、あまりありません。逆にCDさえ出ていれば、とりあえず安心とも言えるのでしょう。
そんな中、昨年でしたか、ロシアの音源を中心に良心的なCDを製作していた「トライエム」が活動を休止するという話を聞いた時には正直びっくりしてしまったのでした。いくら作者がもういないといっても(それは「ドラエモン」)。確かに、最近クラシックのCDの売上状態は芳しくありません。しかし、ここは独自のルートを持っていたはずですし、ちょうどカプースチンの音楽(ほとんど、トライエムが権利を持っていた)もブームになり始めた頃でしたから。何より、このレーベルからCDを出していたアーティストさんの行く末は一体どうなってしまうのだろう・・・・と、かなりの愛好家が胸を痛めたはずでした。
そんな一人が、高橋多佳子さんです。いつぞやもご紹介しましたが、彼女はこのレーベルから「ショパンの旅路」と題したシリーズを発売。順調に巻を重ね、あと最後の1集というところまで来ていたのです。それが突然のこの事態。しかし、さまざまな経緯を経て、今回このような形で第6集が発売となり、「ああ、良かったな」と思ったのでした。その上、第1集から第5集までも、メーカーさんのご好意で再発。(同じ理由で入手不可能になっていたギンジンのアルバムも再発になったことを申し添えておきますね)思わず「エクストンさん、ありがとう」と呟いてしまいました。
「白鳥の歌」と題された今回のアルバムの曲は、文字通りショパンの晩年の作品から選ばれています。ピアノ・ソナタ第3番をメインに、幻想ポロネーズ、舟歌、そしていくつかのマズルカと19番の夜想曲。最後に遺作のマズルカ。これらの曲は、ショパンの作品の中でも、かなり重い内容を持つものばかりで、当然、演奏者としても思い入れを込めやすい作品でもあり、アルバムとしての完成度も高くなる要素の強い曲集といえましょう。
しっかりとした技巧に支えられたソナタ第3番。まず、あきれる程の力強いタッチに驚かされます。そして彼女の特徴とも言える叙情性の豊かさ。以前「楽譜の行間を読み取りたいのです」と語っていた通り、ショパンの残した譜面から、さまざまな音を拾い上げ、説得力ある新しい歌として聴かせてくれます。
で、以前も書きましたが彼女の演奏は考えに考え抜かれているので、表現についてはCDで聴くのと、実演を聴くのには寸分の違いもありません。計ってみたわけではありませんが、恐らく演奏時間も同じでしょう。強弱、アコーギク、もっと細かいことを言えば、一瞬の呼吸まで同じなはず。全くもって精度の高い演奏なのです。だからといって、機械的なわけではありません。胸の高まり、溢れる歌。それらを完璧に内包し、その上力強さも兼ね備えた音楽です。
とりわけ美しかったのが、第19番の夜想曲。ここの中間部はまさにショパンの「白鳥の歌」で、左手の刻むシンコペーションのリズムに乗って歌われる狂おしい程憧れに満ちたメロディ。ここがこんなに大切に演奏されているのを聴いたのは初めてでした。

4月15日

高橋悠治+佐藤允彦
高橋悠治(Pf,Prepared Pf,AKS)
佐藤允彦(Pf,Phodes,Mini Moog)
コロムビアミュージックエンタテインメント/BRIDGE-013
70年代、共にユニークな活動で注目を集めていたピアニスト二人、クラシック、というか、当時の「現代音楽」シーンには不可欠だったヴィルトゥオーゾ高橋悠治と、ジャズを中心にあらゆる分野で活躍していた佐藤允彦が、1974年に共演したアルバムが、復刻されました。ジャケットと一緒に、当時のタスキまで忠実に再現したというすぐれもの、例のグリコのおまけではありませんが、こんな気配りは昔からのファンには喜ばれることでしょう。上のジャケ写の左にあるのがそのタスキ、ただし、復刻されているのはそのうちの右半分、黒くなっているところです。左半分は今回のCD用のタスキ、しかし、ちょっと分かりづらいでしょうが、バックに写っているモーグ・シンセサイザーは、ウェンディ・カーロスや、富田勲が使っていたアッセンブルタイプ、別にこの中で使われているわけではありませんからちょっと興ざめです。ここで佐藤が使っているのは「ミニ・モーグ」というコンパクトな楽器なのですから。
そう、この、かつては「サマルカンド」と呼ばれていた、下着姿の踊り(それは「サルマタオンド」)ではなく、二人の即興演奏を収録した伝説的なアルバム、その後半、LPではB面に当たる部分で、当時やっと日本でもコンサートで使われるようになってきた新しい楽器シンセサイザーが使われているというのが、一つの目玉になっているのです。アルバムの構成としては、前半のA面では生ピアノ(スタインウェイ)2台による完全なアコースティックなもの、そして、B面の2曲目がシンセだけによる即興演奏、その間をつなぐ形で、B面の1曲目はプリペアド・ピアノとフェンダー・ローズという、セミ・アコ(なんだ、それ)トラック、時間を追って「エレクトリック度」が次第に増していく、当時としては考え抜かれたものになっています。
生ピアノによる「サマルカンド」では、この二人のバックグラウンドがそのまま即興演奏に反映されるという、ほほえましさが聴きものです。かなり自由なことをやろうとしても、つい「リフ」とか「ヴァンプ」が顔を出してしまう佐藤に対して、高橋はひたすらクセナキスを演じています。セミ・アコの「タクラマカン」では、もちろん高橋がプリペアド・ピアノでジョン・ケージ、佐藤がローズでブルースを奏でれば、これはもう決して融合することのないぶつかり合いの世界です。そして最後の「ロプ・ノール」、ここで高橋が使っているシンセは、今ではもはや見られない、しかし、当時は「現代音楽」でなぜか人気のあったEMSの「AKS」です。それまであったいわゆる「電子音楽」的なテイストを残したこの楽器の「前衛的」な響きによって、この即興演奏も決してヒーリングには陥らない硬質な肌触りを持つことになりました。
佐藤は高橋の3つ年下、なんでもバークリー音楽院に留学した時にそれまで高橋が住んでいた部屋を使うことになったとか、オリジナルのライナーからは、高橋に寄せる初々しい畏敬の念が感じられます。もちろん、それはこの演奏にも反映されていることでしょう。余談ですが、今回書き下ろされたライナーで高橋が「1953年生まれ」となっているのは、したがってまちがいです。

4月12日

Operatic Fantasies for Flute and Orchestra
Marc Grauwels(Fl)
Georges Dumortier/
Walloon Chamber Orchestra
NAXOS/8.555976
あたかも新譜のような顔をしてNAXOSから登場していますが、録音されたのは1993年、しかも2曲ほどは例のBRILLIANTから出ているコンピに入っているというものですから、かなりすれた素性のアルバムではあります。実際、これはかつてCAMERATAレーベルから出ていたものと同一音源。それでも取り上げようという気になったのは、モーツァルトの「魔笛」の中で歌われるアリアなどをメドレーで綴った、いわゆる「ハルモニー・ムジーク」が入っていたからです。
モーツァルトの時代には、もちろんCDなんかありませんから、劇場でオペラがヒットしたとなると、そのオペラの中の曲を小編成のアンサンブルで演奏出来るように編曲したものが出版されました。人々はそれを買ってきて、仲間うちで演奏したりして、楽しんだのです。これが、ハルモニー・ムジーク、モーツァルト自身も、「ドン・ジョヴァンニ」の晩餐会の場面で、バンダの楽士にその当時はやっていた別の人の曲を演奏させていましたね。目のまわりを黒くさせて(それはパンダ)。
この「魔笛による幻想曲」は、そんなハルモニー・ムジークを現代に蘇らせたものです。作ったのはRobert Fobbesという、1939年生まれということ以外には私には何の情報もない作曲家ですが、その選曲のセンスにはなかなかのものがあります。まず、オペラ全体の開始ということで序曲の冒頭がオーケストラで演奏されます。しかし、最初の3つのアコードでそれはあっさりおしまい、すぐさま第1幕のフィナーレ直前のパミーナとパパゲーノの二重唱「恋を知るほどの殿方には」が始まります。そして、それに続くのが、その幕の最初の夜の女王のアリアという具合に、物語の進行とは全く無関係に曲が並べられているのが、ちょっとしたスリルを感じさせられる構成となっています。しかし、一番最後はオペラの最後の合唱の部分で終わるという配慮も忘れられてはいません。最初と最後だけは、オリジナルと全く同じものを持ってきた、というわけです。2幕フィナーレ、いわゆる「火と水の試練」でのフルートソロを、そのまま使っているのもなかなか、ここまでやるのなら、1幕フィナーレの、フルートオブリガート付きのタミーノのアリアも入れて欲しかったと思ってしまいますが。
その他に収録されているのは、ショパンの「ロッシーニの主題による変奏曲」。「チェネレントラ(シンデレラ)」の中の有名なアリアによる、いかにもサロン風の変奏曲、良く言われるように、到底あのショパンの手になるものとは思えない、ベタな曲ですね。そして、ボルヌの「カルメン幻想曲」、フルートの機能を知り尽くした人の作った、まさに煌めくような技巧的な曲です。
演奏しているグローウェルズは、ベルギー生まれのヴィルトゥオーゾ、なかなか魅力的な音と、確かなテクニックの持ち主ですが、いかんせん、全く音楽的ではない変な癖のある人で、誰にでもお勧め出来るものではありません。

4月9日

湯浅譲二
美しいこどものうた
平松英子(Sop)
中川賢一(Pf)
ミュージックスケイプ/MSCD-0013
「こどものうた」という言い方をした時、そこには、いわゆる「童謡」とは異なったたたずまいが感じられはしないでしょうか。殆ど小学唱歌と変わらないノリで作られた、しかし誰が作ったのかすら定かではない完璧な匿名性を持ったものが「童謡」であるとするならば、同様に子供を対象にしていても、「こどものうた」の中にはしっかり作者の思いが込められた「作品」としての重みが感じられる、と言ったら、その違いが明確になってくるはずです。殆ど詠み人知らずの「童謡」として認知されかかっている「ぞうさん」(♪ぞうさん ぞうさん お鼻が長いのね)や「ぶらんこ」(♪ぶらんこゆれて お空がゆれる)が、それぞれ團伊玖磨や芥川也寸志といったかつての日本作曲界の重鎮が作った「こどものうた」だと知れば、おそらく接し方が変わってくるかもしれません。
そんな風に、当時の現代作曲家が子供のための歌を作るという一大ムーブメントが起こっていたことが、この国にはありました。大中恵や中田喜直などという、いわばヒットメーカーも現れ、ラジオやテレビの幼児番組が、良質の歌であふれかえっていた時代が、確かに存在していたのです。湯浅譲二も、そんな、多くの「こどものうた」を提供していた作曲家の一人でした。おそらく、「♪インディアンがとおる アッホイアッホイアッホイホイ」という歌い出しの「インディアンがとおる」は、ある年代以上でしたら知らない人はいないはずです。湯浅といえば、多くの刺激的な作品を世に問うてきたかつての「前衛音楽」の旗頭、一柳慧、武満徹などと一緒に前世紀中盤の作曲界を引っ張ってきた人ですが、一方でこのような愛すべき歌を作っていたことは、注目に値します。
このCDには全部で26曲の「うた」が収録されています。私にとっては「インディアンがとおる」と、「はしれちょうとっきゅう」(♪ビュワーン ビュワーン はしる)が馴染みの曲。そして、もう1曲、「チビのハクボク」は、思いがけず記憶の端から顔を出したものです。「トライ トレイ ライ ライ」というリフレインが印象的なちょっとヘンな曲(なにしろ、最後の音が終止していません)として憶えていたものが、湯浅の作品だったなんて。アルバムの構成としては、「幼児向けの歌から、高学年にいたるように」(湯浅)配列されていますが、その最後を飾る全て谷川俊太郎の歌詞による5つの「うた」は、もはや子供のためとは言えないほど、殆ど「歌曲」としての内容を持った立派な曲に仕上がっています。
その立派さは、歌っている平松英子の演奏が非常にしっかりしていることと無関係ではありません。したがって、前半の曲については、およそ子供向きとは言えない重たい仕上がりになってしまうのは、致し方のないことなのでしょう。
1972年のヒット曲、本田路津子が歌った連ドラのテーマ「耳をすましてごらん」は、アルバムのコンセプトにはそぐわないのかもしれませんが、湯浅を語る上では欠かせないもの。ぜひ収録して欲しかったという思いは残ります。

4月6日

Beethoven's Wig 2
Sing Along Symphonies
Richard Perlmutter(Creator)
ROUNDER KIDS/11661-8119-2
以前、「朝ごはん」というCDを紹介しました。とても良く出来たアルバムで、今でも私の愛聴盤の一つです。ただ、あまりにも歌詞がおげれつ。CD店でストアプレイをしていた時も、自称“クラシックを愛する人”から「こういう曲を店頭で掛けるのは、いかがなものかと・・・」とクレームがつき、即刻中止せざるを得なかったとか。
そこへ行くと、今回のCDは全く問題なし!でしょう。アメリカで「子供のために」製作されたシリーズの中の1枚だとかで、タイトルは「ベートーヴェンのかつら」。タイトルにも何かひっかけがあるのかと思いましたが、別にそうではないようです。内容は、先ほどの「朝ごはん」と同じく、クラシックの名曲に、歌詞をつけて歌うというもの。もちろん、歌詞は英語ですから、店頭でストアプレイしても、問題ないでしょう。曲は、スッペの「軽騎兵序曲」や、ヴェルディの「女心の歌」など11曲。日本でも音楽の教科書に載るような有名なものばかりです。(まちがってもサロメはありません)
どの曲も、つけられた歌詞がとてもユニーク、かつ示唆的。例えば、ブラームスの「ハンガリー舞曲第5番」の歌詞。先生が音楽の授業で生徒に質問します。「Bで始まる作曲家の名前は?」生徒「ベートーヴェン、バッハ!」そこでナレーターの哀願するような歌が入ります。「お願いだからブラームスも忘れないでね」しかし、どんなに授業が進んでも、ブラームスの名前は出てきません。「ドイツの偉大な作曲家は?」「ベートーヴェン、バッハ・・・」これが繰り返されるばかり。「う〜ん、日本でも三大Bなんていうなぁ」などと、妙に感激してしまいます。(バッハ、ベートーヴェン、ブルックナーでしたっけ)
ドヴォルジャークの「ユモレスク」では、この短い曲で、簡単に彼の一生を紹介。「ドヴォルジャークはチェコに生まれ、アメリカに来て、素晴らしい曲を書きました」うん。簡潔でよろしい。その次に置かれているのは、ショパンのプレリュード第7番。日本では、胃薬のCMソングでおなじみのあれ。「この曲は短いから、日曜の午後にママがピアノを弾くときのレパートリーにどうぞ」みたいな歌詞。確かに。何しろ、子供向けなので歌詞も読みやすい。英語の学習にも最適です。ライナーをよく読んでみると、欄外にもクイズが仕込まれていたりと、なかなかのものです。
こうして、11曲全部楽しんだ後は、これらの曲の元ネタが収録されていました。まさかこのCDのために録音されたのではないだろう?と思い、よく読んでみたらNAXOSの文字が。そうです。NAXOSの音源はこんなところにも使われていたのですね。
しかし、例えばヴェルディの「女心の歌」などは、かなり原曲と違うアレンジ。このために録音したはず・・・と思い、さらに良く見たところ、そこには、いまやNAXOSオペラの第1人者であるラハバリの名前が。やっぱり!「へ〜。こんな仕事もしているのですね」と感心した次第です。

4月4日

GHERARDESCHI
Requiem
Stefano Barandoni/
Coro Polifonico e Orchestra San Nicola
BONGIOVANNI/GB 2350-2
19世紀初頭、イタリアの現在のトスカーナ地方にほんの数年間だけ「エトルリア王国」という国が存在していました。実体はナポレオンによるフランスの傀儡国家であったわけですが、そこの国王のルドヴィーコ1世が、1803年に30歳という若さで世を去ってしまいます。そこで、彼の葬儀がピサのサント・ステファーノ騎士団教会で執り行われることになった時、その教会のオルガニスト兼音楽監督(マエストロ・ディ・カペラ)であったフィリッポ・マリア・ゲラルデスキという人が、式典用の曲を作ることになったのです。このCDに収められている3曲のレスポンソーリ(応唱歌集)と、1曲のレクイエムが、その時に演奏されたものです。そしてこの録音は、件のルドヴィーコ1世の没後200年に当たる2003年5月27日に、葬儀が行われたまさにその場所であるサント・ステファーノ騎士団教会で、葬儀の時と同じ曲を演奏したという、記念すべきイベントのライブ録音なのです。
ゲラルデスキなどという、ひたむきな愛の対象のような(それは、「下痢でも、好きっ!」)作曲家の名前は初めて聞きましたが、名前を聞かされないでこの曲を聴いたならば、おそらくモーツァルトの新しく発見されたもう一つのレクイエムだと思ってしまうかもしれません。そのぐらい、あの天才作曲家が好んで用いたフレーズやハーモニーがぎっしり詰まった魅力的な作品です。本家が持っているある種厳しい陰のある表現すらもかいま見られるというなかなかの仕上がり、その上、レクイエムにはちょっと似つかわしくないような軽やかな屈託のなさでは、もしかしたらこちらの方が数段勝っているかもしれません。それが端的に現れているのが、後半に登場するアルト(ここではカウンター・テナーが歌っています)のアリア「Recordare」です。心の琴線に訴えかける切ないメロディ、ドラマティックな構成は殆どオペラのアリアと言っても差し支えないものです。エンディングには、なんとコロラトゥーラを駆使したカデンツァまで現れるのですから。最後のソプラノのアリア「Oro supplex(例のLacrymosaのテキストが含まれます)」も、感動的なものです。
このような、まるで知られていない作曲家の曲が、あのモーツァルトと遜色ないような素晴らしいものであると言うことは、実はそれほど不思議なことではないのかもしれません。前にご紹介した「反音楽史」ではありませんが、当時の音楽先進国イタリアには、モーツァルト程度の才能の持ち主はいくらでもいたのでしょう。それが、「モーツァルト」というブランドを際立たせるために切り捨てられてしまった歴史の一端を、この曲から窺い知ることはそんなに難しいことではありません。
ただ、非常に残念なのは、録音も含めてこのCDの仕上がりが水準以下であるということです。特に、ソリスト陣の脳天気な歌い方は腹が立つほど、もっと端正な演奏が聴けていれば、おそらくこの作曲家に対する評価が一気に高まったことでしょうに。

4月2日

池辺晋一郎
Orchestral Works
小泉浩(Fl)
下野竜也/
日本フィルハーモニー交響楽団
CAMERATA/CMCD-28033
池辺晋一郎という作曲家、モデル並みの容貌(イケメン晋一郎?)よりは、「N響アワー」での「だじゃれおやぢ」としての方が有名ですね。彼の作品で、私が最も印象に残っているのは、1987年の大河ドラマ「独眼竜政宗」のテーマ音楽です。オンド・マルトノをフィーチャーしたイントロに続いて出てくる勇壮なフレーズ、それにかぶさる別の調になった金管のオカズが、なんともカッコいいものでした。彼はそのような魅力あふれるキャッチーな「実用」音楽の仕事だけでも充分後世に名を残せることでしょうが、やはり、この世代の作曲家としては、「真面目な」作品によってこそ評価されたいという強い願望は避けがたいものがあるようです。
CAMERATAから体系的にリリースされてきた池辺の作品集、ここに収録されている交響曲第2番を録音したことによって、7つある交響曲が全て録音されたことになるそうです。日本のクラシック音楽のよりどころとなったドイツ古典派にその源を発した交響曲というジャンルにこだわって、創作の核として位置づけたいとしている姿勢は、現代に於いてはもしかしたら殆ど意味のないことなのかもしれません。しかし、そのかたくなな態度からは、何としてもこの国のアカデミズムの基幹であるものを守り通そうとする、テレビで見られる柔和な顔からは想像しにくい一徹なものを感じないわけにはいきません。ヘンツェやペンデレツキのように、いまだに堂々たる「交響曲」を書き続けている同志が存在するのは、なにも日本に限ったことではありませんし。
その、1979年に作られた交響曲第2番、しかし、古典的な交響曲とは全く異なったイディオムで構成されているのはいうまでもありません。基本的にはアカデミズムの延長ではあるのですが、おそらくこの作曲家の天性の好奇心によるものでしょうか、あの当時盛んに行われていた数々の技法がてんこ盛りになっている様は、ある意味壮観です。その、雑然とした技法の羅列は、今聴くと確かなエネルギーとなって、迫ってきます。
その点、最新作であるフルート協奏曲になると、そのあたりの技法をきちんと整理した形で操作できる技量が身に付いて来たように感じられます。前半のセリエルな情景は、ソリストがアルト・フルートに持ち替えたあたりから俄に親しみやすい響きに変貌して、見晴らしの良い風景が広がります。ここで、ソリストの小泉浩に、技術的な破綻は微塵もありません。それにもかかわらず、「音」が「力」たり得ていないのは、彼のこれまでの同時代音楽における偉大な業績を知るものとしては、少し寂しいものがあります。
指揮の下野竜也は、前作の大栗裕の時にも見せた冷徹な目で、これらの作品の本質的な面を白日の下にさらしています。いたずらに熱くならないその演奏からは、この作曲家が「真面目な」音楽の分野でなぜ一流にはなり得ないのかを、残酷なまでに窺い知ることができるのです。

3月31日

BRAHMS
Die schöne Magelone
Roman Trekel(Bar)
Bruno Ganz(Nar)
Oliver Pohl(Pf)
OEHMS/OC331
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCO-38032(国内盤)
今回はバリトン歌手ローマン・トレーケルです。彼は、輸入盤ユーザーには、すでにおなじみの存在。NAXOSに「冬の旅」を入れていたり、CPOにはジークフリート・ワーグナーのアリア集があったりします。何より、ARTE NOVAからの何枚かのブラームスの歌曲集!これがとても秀逸で、私の密かなお気に入りでした。そうそうヴォルフもステキでした。決して親しみ易いとは言い難い渋い歌曲を、彼は色彩豊かに歌いこなし、私自身、あまり聴かなかったヴォルフの歌曲の美しさに目を開かせてくれた人でもありました。しかし、日本での知名度がイマイチな理由は、何と言っても国内盤のCDが出ていなかったことの一言に尽きるでしょう。
今回、新国立劇場の「神々の黄昏」でグンター(「ハーゲン」ではありません)を歌うために来日した彼。BMGが大急ぎで設えた国内盤第1弾は、ブラームス、シューベルト、マルタンと言うもの。(前述のブラームスのみの方が良かったな、と思ったのは私だけかもしれません。)そちらは、とりあえず顔見せという感の強い1枚で、なんと言っても今回の「マゲローネ」で彼の真価を味わいたいと思うのです。この曲は、ティークの「美しきマゲローネ」によるロマンスで、ブラームスが自由に詩を選んで曲をつけたため、筋をして成立たせるために、ブラームスが曲をつけなかった部分を朗読で補うことが一般的。このCDでは、「ベルリン・天使の詩」の名演でおなじみ、スイスの名優ブルーノ・ガンツが朗読を担当。ここだけでも聴き応えたっぷりです。
実は、このCDの発売を記念して、某CD店で彼のイヴェントがありました。新国の公演の合間を縫って、オフの日に来てくれたということです。本来、歌手がこういうイヴェントで歌うのはとても珍しいとのこと。にも関わらず、ファンの前で素晴らしい歌声を披露してくれた彼。太っ腹なのか、歌うことが本当に好きなのか。何しろ、イヴェントの始まる2分前まで、CD売り場を楽しそうに見て歩き、「そろそろ準備してください」と促されたとかで、何とも好奇心一杯のステキなおぢさま。そんな彼が、一言声を発しただけで、フロア中が水を打ったような静けさに包まれたのはまさに感動ものでした。その時歌ったのは水車小屋から3曲。これがまた絶品でした。これは帰国してすぐCDの録音が待っているそうで、その発売が本当に楽しみです。そして、最後に歌ってくれたのが、マゲローネから「お休み、可愛い恋人よ」。このブラームスの子守歌を彼は何と味わい深く歌ったことでしょう。まるで、心がトロケルよう・・・。
今、CDでその曲を聴き返しています。確かに素晴らしいのですが、「やはりこんな音盤には、声や音の全ては入りきらないのだな。」と、ちょっとだけ悲しくなったのも事実です。搾りたての牛乳と瓶詰めの牛乳。この違いと言えば良いのでしょうか・・・・。

3月29日

BRUCKNER
Symphony No.4
Ion Marin/
BBC Scottish Symphony Orchestra
BBC MUSIC MAGAZINE/BBCMM238
今の世の中、クラシックの世界でもどんどん国際化というか、グローバリゼーション(変態ではありません。・・・それは・・・「綱縛りローション」?)が進行して、各国のオーケストラの個性というものがどんどん目立たなくなってきています。しかし、そんな中でも、ブルックナーの作品だけはかたくなにドイツの風土に根ざした演奏が、脈々と伝えられているように見えます。現に、交響曲第4番の録音リストを見てみると、殆どがドイツ系の指揮者とオーケストラで占められています。これは、ある意味、かなり特殊な感じがしてしまいます。指揮者でラテン系の人は、イタリア人のアバド、ムーティ、シャイーぐらいのもの、しかし、演奏しているのはドイツやオランダのオーケストラです。そして、フランス人の指揮者は見事に誰もいません。そのような、殆ど純粋培養の様相を呈しているブルックナー業界では、演奏のスタイルもほぼ決まった「型」の中で固まってしまっているかに見えます。そこで重要なのはあくまで節度をわきまえた気むずかしさ、これは日本人が古来から美徳としていたものとも見事に合致しますから、朝比奈翁の演奏が名演と褒めそやされるのも、不思議ではありません。
そんな風に、ブルックナーの交響曲を味わうには、ある種の息苦しさが伴って当然と思っていたら、こんな、ちょっと型破りの演奏に出会えて、すっかり嬉しくなってしまいました。指揮者のマリンはルーマニアの生まれ、殆どオペラのフィールドで活躍していた人です。おそらく、彼の中には常に「オペラティック」とか「ドラマティック」という、ブルックナーとは相容れない世界があふれているのでしょう。これは、まさに従来の伝統の中からは生まれ得ない、画期的な演奏です。
そのユニークさは、曲が始まるなり現れます。冒頭のホルン・ソロを支える弦楽器のトレモロは、楽譜には何の指示も書かれてはいません。ひたすら目立たないようにつぶやいているのが正統的な「型」。しかし、マリンは、その弦楽器に、ホルンに合わせて思い切り情感豊かなクレッシェンドとディミヌエンドをさせているのです。他人が歌っているのを聴いて、思わず「俺にも歌わせろ!」としゃしゃり出てくるノリ、絶対にドイツ人には出来ない発想です。それからは、どのパートもカンタービレと大見得のオンパレード、ブルックナーにこんな官能的な面や芝居っ気があったなんてと、ひたすら戸惑うばかり、しかし、それは何と心地よい経験であることでしょう。
これはライブ録音、おそらく演奏者もノリにノッていたことでしょう。要所要所で「キメ」がことごとく決まる様は、まさに壮観です。そして、第2楽章のまるで消え入るようなエンディングの美しいこと。第3楽章のスケルツォが、そのままアタッカで第4楽章になだれ込むのも、この上なくスリリングです。決して正統的ではないものの、というか、それだからこそ味わえる破天荒なブルックナー、思いがけない掘り出し物でした。残念なことに、このCDは音楽雑誌の付録、おそらく入手は不可能でしょう。

おとといのおやぢに会える、か。


accesses to "oyaji" since 03/4/25
accesses to "jurassic page" since 98/7/17