婆さん、退院。.... 渋谷塔一

(05/1/1-05/1/17)


1月17日

MAHLER
Lieder
Thomas Quasthoff(Bar), Violeta Urmana(Sop),
Anne Sofie von Otter(MS)
Pierre Boulez/
Wiener Philharmoniker
DG/477 5329
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1226(国内盤 2月23日発売予定)
20世紀後半には「尖った現代音楽家」として名を馳せたピエール・ブーレーズ。最近は、いつの間にか「大指揮者」として呼ばれることの方が多くなってきました。そんな彼ですが、今年の3月に80歳の誕生日を迎えます。それを記念して始動したのが、「ブーレーズ2005」のプロジェクトです。続々と新録音の発売が予定されていて、このマーラーの歌曲集が第1弾のアルバムになるのです。
ブーレーズのマーラーと言えば、曲によってクリーブランド響とウィーン・フィルを振り分けているようでして、最近の録音でも、透明な響きが欲しい4番はクリーブランド、3番はウィーンと、そのセンスの良さには、思わず目から鱗とでも言うのでしょうか。確かに4番での軽すぎる響きは賛否両論がありましたが、余分な響きをすべて排除した潔い音は、それまでには決してなかったもので、それまでのマーラーのイメージを覆す衝撃的な音、と私の中で強く印象に残っています。その後に発売された、ウィーン・フィルとの「大地の歌」も衝撃的でした。このオーケストラの饒舌ともいえる響きを上手くコントロールした演奏は、テノールのシャーデの美しい声を含め、やはりこの曲の持つ「死」のイメージをきれいに取り払うもの。こういう演奏もあるのか・・・と夜中に絶句した記憶があります。
今回のアルバムは3つの歌曲集に、それぞれ現代最高の歌手を迎えた豪華なものです。「さすらう若人の歌」にはクヴァストホフ、「リュッケルトの5つの歌」には、先ほどの「大地の歌」でソロを歌ったウルマーナ、そして「亡き子」にはフォン=オッターという、これ以上は望むべくもないほど素晴らしい歌手たち。そして、今回もウィーン・フィルの精緻かつ雄弁な音色を存分に楽しめます。
まず「若人」です。以前はクヴァストホフがどうしても苦手だった私ですが、先日のバッハですっかりファンになってしまいました。今回も良いですね。決して一本調子になることもなく、テンポを微妙に動かして若者の不安定な心理を歌いあげるのです。この曲と、交響曲第1番とはメロディの点でも密接な関連がありますが、殊に第2曲、交響曲では第1楽章と同じモティーフによる部分での喜ばしさと弦のパートの芳醇な歌は、全く言葉に尽くせないものです。最後「Nein! Nein!」と呼びかけるクヴァストホフの優しい声に呼応して少しずつ消えていく音色は黄昏の色。こういう細かいところがたっぷりあって、一時として耳を離せません。
その次の「リュッケルト」がまた絶品!「大地の歌」でのウルマーナは、正直あまり感激しませんでしたが、今回の歌は本当に素晴らしいものです。この曲集の白眉ともいえる、「私はこの世に忘れられ」と「真夜中に」。この2曲こそ、静かな場所でしみじみ聴いて欲しいもの。前奏が始まった時点で涙が溢れてくること請け合いでして、この曲にいかにたくさんの想いを載せることが可能かを実感できるはずです。特に「私はこの世に忘れられ」の甘やかなコクのあるホルンの音色が絶品。
そして、オッターの歌う高潔な「亡き子を偲ぶ歌」。上手いなどという次元を超えた名唱だと思います。みっともなく泣き喚くのではなく、ぐっと堪えて一粒の涙をこぼす。そんな控えめで清潔な歌・・・・これは本当にステキです。
全曲と通して「まろやか」な音楽。昔のブーレーズとは芸風が変わったと言う人もいるようですが、老境に達した芸術家はこういう世界を望むのかと考えるのも、これはこれで楽しいものかもしれませんね。のどかな畑仕事とか(それは「農協」)。

1月16日

MOZART
Piano Concertos Nos.10 & 24(arr. by Hummel)
白神典子(Pf)
BIS/CD-1237
今回は白神典子(しらが ふみこと読みますが、白髪ではありません)さんのモーツァルト「ピアノ協奏曲」です。実はこのアルバムは彼女にとって2枚目のモーツァルトになります。と、いってもタダの協奏曲ではなく、フンメルが編曲した室内楽ヴァージョンによる協奏曲です。前作では20番と25番で、こちらもなかなか面白かった記憶がありますが、今回は24番と10番というカップリング。いろいろな意味で興味深いものです。この作品はモーツァルトのピアノ協奏曲を、ピアノ、フルート、ヴァイオリン、チェロの四重奏で演奏できるように編曲したものです。
そう。フンメルと言えば、ベートーヴェンと同世代。ショパンが若い頃、彼の作品に影響を受けたことが知られていますが、実はウィーンでモーツァルトの家に2年間住み込み、そこでピアノを学んだ人でもありました。三省堂の音楽辞典では「作風は古典的・・・・」とありますが、このCDを聴く限り、かなりロマン派に足を突っ込んだ人のように思われます。とにかく、まず最初の10番の出だしを聴いただけで驚いてしまうでしょう。
本来は2台のピアノのための協奏曲である第10番。これが全く違う曲に聴こえるほど、不思議な感覚で始まります。もちろん、普通の演奏のようにホール一杯に広がる音色ではありません。私の目の前で、小さなアンサンブルが演奏してくれる、そんな手作りの味わいがあるのです。しかしながら、音色の面では通常の協奏曲に比べ何の遜色もありません。むしろ、たった4人の演奏から紡ぎだされる多彩な音色は原曲を越えた色彩感があります。これはフンメルの編曲に拠るところも大きいでしょう。本来はかなり単純な書法で書かれているモーツァルトのオケ・パートにたくさんの装飾を加え、小さなメロディを付け加えたもの。各々の楽器は一時たりとも休む暇がありません。本来なら前奏の時はお休みをしているピアノもしっかり駆り出され、曲の冒頭から楽しげに音を奏でます。2台のピアノで演奏されるべきところを一人で演奏するのも、かなり大変なことのはず。ま、後年のリストやゴドフスキみたいな難関を要求しているわけでもないですが、それにしても、少し無理があるな・・・と思う瞬間も見え隠れします。ピアノパートに、本来ない装飾を加えたのはフンメルでしょうか?それとも白神さんでしょうか?
迷う暇もなく第24番です。この曲を奏でている4人の楽しそうなこと。緊張感と、気のおけない仲間たちの会話が程よくMIXされた音楽です。出てきた濃厚な音楽にはただただ驚くばかり。ですから、演奏している人は少ないのにもかかわらず、原曲の持つスマートさは彼方へ消え去り、かなり肥大した音楽となっています。特に第2楽章。こちらは私の知っているこの曲とはまるで違う、「リニューアルされた」音楽です。すごいなぁと思ったものの、やはり耳は「いつもの」24番を求めていたのが本心でした。
これは、時々カッコつけてレストランなんかで気取った食事をしても、なんだか食べた気がしなくて、家に戻ってついついお茶漬けをかきこむ。そんな貧しい食生活さえ省みてしまう、恐ろしいアルバムと言えましょうか。ちなみに、白神さんは、ここではイタリアのファッツィオーリというピアノを弾いています。

1月14日

ORFF
Carmina Burana
Sally Matthews(Sop)
Lawrence Brownlee(Ten)
Christian Gerhaher(Bar)
Simon Rattle/
Rundfunkchor Berlin
Berliner Philharmoniker
EMI/557888 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55700(国内盤 1月19日発売予定)
毎年大晦日には、BSで、ベルリン・フィルのジルヴェスター・コンサートが生中継されているのは、ご存じのことでしょう。今回はラトルの指揮でオルフの「軽めのブラな」(それは、ものぐさなオトコの戯言)ではなく、「カルミナ・ブラーナ」というプログラムだったのですが、その模様が即座にCDになって発売されることが、大きな話題になっていました。そして、実際にその現物がCD店の店頭に並んだのがおととい、12日のことでした。すごいものですね。一応「ライブ録音」とはなっていますが、例によってリハーサルともう1回(!)の本番の模様も録音されていて、適宜差し替えて「より良い」製品とするための編集作業も含めて、たった12日でCDが出来上がるだけでなく、それが日本まで届いてしまうのですから。もちろん、ブックレットなどは前もって印刷しておかなければ間に合いませんから、演奏時間などは入ってはいません。
演奏については、すでにBSでのものを聴いているわけですから、もはやさまざまな感想がネットなどで飛び交っていることでしょう。まず、最初の曲、合唱とオーケストラが大見得を切ったあと、合唱が3拍子、オケが2拍子という、オルフお得意のポリリズムでお経のようなものが始まります。最初は薄いオケでつぶやくように繰り返されるものが、弦楽器にメロディーが移って一段と盛り上がる瞬間に、いきなりテンポが上がるのにまず驚かされます。そのあまりに見事なギアチェンジに、ラトルの卓越したコントロールぶりを再確認するとともに、ここでテンポを変えるというアイディアに驚かされます。つまり、今までこういうことをやった演奏は聴いたことがなかったからです。しかし、気になって楽譜を見てみたところ、ここでテンポを変えるというのは、作曲者自身の指示だったことが分かりました。「120-132」から、突然「144」に変わることが、はっきりスコアに記されていたのですよ。そこで、手元にあった15種類ほどの演奏をすべてチェックしてみたところ、ここではっきりテンポを変えているものは、小澤盤以外には全くなかったのです(その小澤盤でもこの楽譜の指示ほどの極端な変化ではありませんでした)。こんなことを、今までの指揮者が、なぜ実行していなかったのかという素朴な疑問はさておき、ここでラトルがきちんと「楽譜通り」演奏したものがCDになったということで、おそらくこれからこの曲を演奏しようとする人は、何らかの「変節」を余儀なくさせられることでしょう。
と、とんだことに紙面を割いてしまいましたが、この演奏では声楽陣の素晴らしさが光っています。特にバリトンのゲルハーエルの、彼の持つすべての芸風をさらけ出したのではないかと思わせられるほどの、曲による表現の使い分けは見事としか言いようがありません。「酒場にて」のあたりの、殆ど音程すらも犠牲にするほどの熱演は、今までのこの曲でのバリトンの次元をはるかに超えるものです。たった1曲だけの出番のブラウンリーのハイテノールも、とてつもない存在感を持って迫ってきます。そして合唱。決してきれいにまとめようとしないスケールの大きさが素敵です。一寸卑猥な内容の男声アンサンブルのいやらしいこと。これで、ソプラノのマシューズにもっと清楚な趣があったなら、何も言うことはないのですが。

1月12日

WAGNER
Das Rheingold
Lothar Zagrosek/
Staatsorchester Stuttgart
TDK/TDBA-0054(DVD)
先に「ヴァルキューレ」をご紹介してしまいましたが、シュトゥットガルト州立劇場による「指環」ツィクルスの1曲目、「ラインの黄金」です。このプロダクションでは4部作の演出がそれぞれ別の人だというのはすでに書きましたが、この「序夜」では、なんと振り付け師であったヨアヒム・シュレーマーという、オペラの演出には全く経験の無かった人が起用されています。同じように、かつてバイロイトでも1976年に、演劇では実績があったものの、オペラに関しては門外漢のパトリス・シェローが「指環」を演出したことがありましたね。彼が用いた、神話の世界を現代に置き換えるという斬新なアイディアは、30年近く経った今では、殆ど「指環」上演のスタンダードと言っても過言ではないほどのプランになってしまっているように、異なった分野からの人材を幅広く受け入れて、作品自体もどんどんその世界が広がっていけるというところに、「指環」の奥深さというものがあるのでしょう。
このシュレーマーの演出も、もちろん舞台は現代です。前奏曲が始まって幕が開くと、なんとエルダを除く出演者全員が舞台に勢揃いしているという、一寸あり得ない状況。登場人物は普通のスーツやジャージ姿、その時点では、服装から彼らが神なのか小人なのか巨人なのかを知ることは全く出来ません。中央に大きな噴水があるメインのステージの後には、バルコニーのようなサブステージ、その間はエレベーター(どこかで見たようなアイディア?)で行き来できるようになっています。もちろん、それぞれのキャラクターは後に判明するのですが、ファゾルトとそのバルコニーに一緒に並んでいるのがローゲだったり、アルベリッヒが髪の乱れを直す鏡のそばにはファフナーが座ってズボンのチャックを開けていたり(それは「ファスナー」)という不思議な光景を見るだけでこの演出がただならないものであることが分かります。そう、このようにすべての部族を一旦同じ扱いにするというのが、シュレーマーの演出の出発点なのかもしれません。そこからは、ヴォータンの一見壮大な、その実見栄を張っただけの野望も、ファフナーの現実的で腹黒い欲望も、そしてアルベリッヒの一途ですらある情欲も、すべて人間が本来持っている感情に置き換えられるのでは、という冷ややかな目を感じることは出来ないでしょうか。
そんな、慣習にとらわれないこの演出家のアプローチによって、ドラマから思っても見なかったリアリティが導き出されているという場面も。第4場で巨人の人質のフライアの背丈に合わせて金塊を積み上げるというシーンで、フリッカがフライアを見て「なんと屈辱的な姿」と言うところがあるのですが、ここでフライアは着ているものを1枚1枚脱ぎ捨てるという、非常に分かり易い「屈辱的」なことをやってくれているのです。そのような、観念的な表現を極力廃した、見るものを納得させるような演出、一歩間違えば底の浅いものになってしまいますが、そのギリギリの線で踏みとどまっているあたりが、なかなかの魅力となっています。
ツァグロセクの音楽は、相変わらず薄め。しかし、妙にこの人間くさい演出にマッチしているのが、面白いところです。歌手は全く知らない人ばかり、しかし、きっちりとこのプロダクションのために訓練を受けてきたということがはっきり分かる卓越した演技。中でも個人的に最も感心したのはミーメ役のエバーハルト・フランチェスコ・ローレンツという人の機敏な動きと、どんな無理な体勢でも崩れることのない、卓越した歌唱力です。

1月11日

SCHUBERT
An den Mond
Dietrich Henschel(Bar)
Helmut Deutsch(Pf)
HARMONIA MUNDI/HMC 901822
若い頃はシューベルトに対して、あまり魅力を感じることがありませんでした。小学生の頃は、お決まりの伝記を読まされ「ふ〜ん」と思い、もう少し年を重ねてからは、彼の自堕落ともいえる生活に嫌悪感を感じたり。その作品はベートーヴェンほどの重厚さもなく、ピアノ・ソナタはただ長いだけ。代表作とも言える歌曲については、あまりにも数が多すぎて歯がたたず。その素朴な曲調にも、「なんだかつまらないなぁ」としか思えなかったのです。「シューベルトの作品には死のにおいがする」と語るピアニストも多かったのですが、どうしてもしっくり来ません。同じ“死のにおい”なら、もっとあからさまに描いたマーラーの煌びやかな音楽に惹かれました。
それが年を重ね、いつしか人生の折り返し地点にさしかかった頃、本当に大切なものは何か?と考える機会があり、自分なりに出した答えは「不必要なものを持たないこと」・・・これは真の答えにはなっていないかもしれませんが、少ない言葉で多くを語ることもできるのだと理解した一瞬もあったりしたのです。その時初めて、ふと、シューベルトの音楽の中に忍び寄る孤独の影を感じ、それ以来、少しだけ彼の音楽も理解できたように思います。
今回のヘンシェルのアルバムは、シューベルトのたくさんの歌曲の中から「夜」をモティーフにしたものをへんしぇう(編集)した1枚です。タイトルの「月に寄せて」。実は、シューベルトにはこのタイトルの曲が2曲(D193D259)あるのですが、このアルバムには2曲とも収録されてはいません。一番近いのはD614の「秋の夜の月に寄せて」でしょうか。ですから、タイトルはあくまでもこのアルバムの雰囲気を表現したものだと思います。
ヘンシェルの歌についてですが、いつも書くとおり私はバリトン好き。それもヘンシェルやゲルネ、クヴァストホフでこの声域に目覚めたといっても過言ではないので、(ディースカウの偉大さは認めるけど、やはりちょっと・・・)このアルバムも文句なく、しっくり耳に馴染むのです。夜の持つ孤独感と、寂しさ、そして夜が更けるにつれ浮かび上がる妙な昂揚感、(これは夜に手紙を書いて次の日の朝に読み返す恥ずかしさを想像してください)これらが、丁寧に歌いこまれた極上の1枚です。とりわけ美しかったのが、「水の上で歌う」D774。夕暮れの(恐らく)湖の上、黄昏の光を反映する水のざわめき。そして移ろい行く時に重ね合わせた心象風景。ピアノの奏でる漣にあわせ、長調と短調が交差するシューベルトらしいメロディ。ここでの、ドイチュのピアノも見事で、まさに目の前にその光景が浮かぶかのようです。寄せては返す波に翻弄される小舟のような感情を、それでも控えめに歌い継ぐヘンシェルには、思わず心の中で拍手を送ってしまいました。

1月9日

BEETHOVEN
Complete Overtures
David Zinman/
Tonhalle Orchestra Zurich
ARTE NOVA/82876 57831 2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCE-35085-86(国内盤)
97年頃に「ベーレンライター版のベートーヴェン交響曲全集」で華々しくブレイクしたジンマンとチューリッヒ・トーンハレ管の最新盤は、そのベートーヴェンの「序曲全集」です。その「交響曲」、このサイトの常連さんでしたら先刻ご承知のことですが、「ベーレンライター版を用いた世界初録音」と謳われていたのは全くのデタラメ、実体はジンマンによる勝手気ままな校訂作業の産物だったのです。しかし、そんな「些細」なことよりも、今までのベートーヴェンの演奏ではちょっと見られなかったようなイマジネーション溢れる活き活きとした音楽に人は魅了され、空前のベストセラーとなったのは、まだ記憶に新しいところです。
そのジンマン先生、今回の序曲集では、楽譜については特にこだわってはいないようです。なにしろ「Kalmus」などという怪しげな楽譜を使っていることを堂々と公表しているぐらいですから、交響曲の時に見せたような「原典版」指向は、もはや彼の中ではどこかへ行ってしまったのでしょうか。そもそも交響曲の時にも、たまたまデル・マーによる新しい楽譜が注目されている時だったので、その尻馬に乗ったのだという方が、正しい見方なのかもしれません。もともと彼は「原典版」などというものには興味がなく、あくまで自分の解釈を正当化させるためだけの方便であったというのであれば、あの「交響曲」の時の大騒ぎは、いったい何だったのでしょうか。
それはともかく、この序曲集では、期待に違わぬジンマンのとてもユニークな演奏を聴くことが出来ます。例えば「エグモント」。序奏のフェルマータに続いて出てくる二分音符のFmEbAbGCmという本来は勇壮なはずのアコードの連続で、ジンマンは殆ど八分音符程度の長さにしか伸ばさない鋭角的な表現をしています。確かに楽譜を見るとその二分音符にはスタッカートが付けられていますから、短くするのは間違ったことではないのですが、常識的にはこういう長い音符に付けられたスタッカートは「まくり上げる」(それはスカート)ではなく「音と音の間に隙間を空ける」という意味ですから、これはかなり「変わった」演奏方法ということが出来ます。なによりも、ここで聞こえて来て欲しい堂々としたイメージは、きれいさっぱりなくなってしまっています。もちろん、それは演奏上の表現ですから、別に非難されるものではありません。しかし、これだけの尖った表現をここでとるからには、最後までその方針を維持することが期待されてくるものです。ところが、冒頭でそのようにきっぱりと見得を切ったのとは裏腹に、主部に入るとなんとも生ぬるい音楽に変わってしまうのがジンマンのユニークなところ。それは、先へ突き進もうとする力がまるで感じられない、なよなよとした音楽なのですから。
「命名祝日」などという、なかなか耳にすることのないような珍しいものまで収録した全集ではあるのですが、一貫性を持って聴いてもらおうという意志のまるで感じられないこの演奏からは、ベートーヴェンの退屈極まりない素顔しか見えてこないのは、なんとも残念です。

1月7日

ZEMLINSKY
Une Tragédie Florentine
Iris Vermillion(MS)
Viktor Lutsiuk(Ten)
Albert Dohmen(Bar)
Armin Jordan/
Orchestre Philharmonique de Radio France
NAIVE/V 4987
モーツァルトやベートーヴェンが創り上げた秩序を、シューマンやブラームスが熟成させ、ブルックナーやマーラーが巨大化。そして、R・シュトラウスやスクリャビンが極限まで肥大化させ、シェーンベルクやベルクが崩壊に導き、現代に至る。これが、古典派以降の大雑把な流れ(かなり乱暴ですが)と言えますね。
もともとR・シュトラウスやマーラーが好きな人はいわゆる「頽廃音楽」にも興味があることが多いようです。もちろん私もその一人。1890年頃から1930年頃の音楽には、独特の魅力を感じるのです。どんな物でも爛熟すれば、あとは崩壊するのみでして、その過程をつぶさに観察できるのが、その当時の音楽なのです。果物でも牛肉でも「腐る一歩手前が一番オイシイ」という言葉通り、行き場を失った情念や憤怒がたっぷり詰め込まれた、少々鬱陶しい音。今回のツェムリンスキーも、まさにそんな音楽です。
近年、ツェムリンスキーは密かなブームを呼んでいます。やはり応援団の制服が好きな人は多いのでしょう(それは「詰め襟好き」)。2002年のザルツブルクでは、未完の「カンダウレス王」が上演され話題になりましたし、日本でも、演奏会形式の「王女様の誕生日」を初め、この「フィレンツェの悲劇」も、相次いで上演(これからの予定もあり)されているようです。このオペラ、原作はオスカー・ワイルドでして、ツェムリンスキーは本来、サロメに曲をつけたかったようですが、シュトラウスに先を越されたため、こちらにしたとの話もあります。ワイルドの存在自体すでに充分退廃的ですので、内容も容易に想像できるというものです。いわゆる「三角関係もの」ですが、ちょっと内容ははちゃめちゃというか、「ありえないぞ」というか。内容については、詳しく解説しているサイトなどもありますので、日本語訳がなくても充分に楽しめます。
このCD、指揮がアルマン・ジョルダン、フランス国立放送フィルの演奏です。登場する歌い手は3人のみ。(確かに三角関係ですから・・・・)グイド役は、ヴィクトル・ルチウク。そしてビアンカにはイリス・フェルミリオン、シモーヌはアルベルト・ドーメンが担当しています。実は、フェルミリオンとドーメンは、以前リリースされたシャイー/コンセルトヘボウの演奏でも同じ役を歌っていまして、興味のある方は、聴き比べも面白いことでしょう。録音は、今回のジョルダン盤の方がリアルですが、演奏は甲乙つけがたいものです。シャイーは、いつもの通りねっとりと歌い上げる方向。そしてジョルダンは、先へ先へを突き進むような激しいもの。どちらにも「確かに・・・・」と思える部分がありまして、こういう時に、「聞き比べ」の楽しさを実感するのです。
で、先ほどもちょっと触れたオペラの内容ですが、亭主の留守中に、間男を引き込んだ女房の話。怒ったダンナが間男を殺してしまう・・・と、ここまでは良くある話。しかしこのオペラ、ここからが面白いところで、「次はお前を殺す」と興奮しているダンナを見て、「あなたってこんなにステキな人だったのね」と女房が惚れ直し、とりあえずHappyend
これを額面通りに受け取れば、何だか間の抜けた話だな、と思うほかないのですが、果たしてワイルドほどの人がそんな話を書くものでしょうか?サロメの人物像についても、「少女の残酷趣味」だとか、「いやいや、すごく狡猾な女の物語だ」とか諸説がありますが、このビアンカも、単なる単純な「強いオトコ」好きの女としては描かれていないはずです。自分の立場が危うくなった場合、どうすれば一番手っ取り早く難を逃れるか、それを瞬時に判断できるのが「オンナ」という生き物であることをワイルドは知り尽くしていたのではないでしょうか。どんなに怒り狂っていても、「あなたってステキな人ね」といわれようものなら、「そうかい?えへへ」と相好を崩すのがオトコ。そして、陰でこっそり「してやったり」と舌を出すのがオンナ。怖いですねぇ。そんな微妙な力関係を描いた、極めて現代的なオペラである、と読み込むのは、私自身が女性不信なせいなのかもしれませんが・・・。

1月5日

Dvorak
The 9 Symphonies
Ivan Anguélov/
Slovak Radio Symphony Orchestra
OEHMS/OC 376
さて、2005年も本格的に動き出した感があります。すでに、すっかり普通の生活をしている私ではありますが、知り合いが「今年はモーツァルト生誕250年だよね」と言っているのを訊き、「しまった、まだ正月ぼけしてる〜」と大慌て。結局、彼の勘違いだったのですが(実際は来年)、やはり“メモリアル・イヤー”というのは、なんとなく気になるものです。
で、昨年没後100年であったドボルジャークです。各地の演奏会のプログラムでも、彼の作品が多く取り上げられました。もちろん、ニューフィルの素晴らしいチェロ協奏曲や交響曲第7番も忘れられません。とは言え、CDの発売に限っていえば、それほど多くの新譜が出たわけでもない・・・というのが正直な感想です。11月に突然、スプラフォンからヴラディミール・ヴァーレク指揮、プラハ放送交響楽団 の新録で交響曲全集(SU3802)がリリースされたのにはびっくりしましたが、聴いてみたら、それほど強烈なインパクトがあったわけでもなく、7番と8番と9番だけ楽しんでほったらかしです。すみません。
そんな中、リリースこそ年明けにずれこみましたが、この交響曲全集はとても面白かったので、去り行くドボルジャークイヤーへの餞といたしましょうか。指揮のアンゲロフは、往年の怪獣ではありません(それはアンギラス)。ヨーロッパの劇場で、文字通り叩き上げの経歴を持つ人で、私の好きなARTE NOVAレーベルにもたくさんの録音があります。どのCDも値段は安くとも、なかなか味のある音が詰まっていて、下手なレギュラー盤よりも楽しめることは間違いなしいえましょう。以前、ブラティスラヴァとのドヴォルザークの第6番を耳にした時、(この演奏は、今回の全集には含まれておりません。)曲の持つ明るい曲想とも相俟って、「なんて美しい響きなんだろう」と感動したのは、まるで昨日のことのようにはっきりと記憶に焼きついていますし。
で、今回の全集です。2001年から2004年にかけての録音。第8番だけはライヴと書かれています。とにかく、全体がごつごつしていて歯ごたえのある音楽です。まず大好きな8番から聴いてみましたが、お世辞にも滑らかな音とは申せません。ドヴォルジャークを表現する時、良く言われる「土臭い音」そのものです。あちこちはみ出していますし、金管は吠えるし、みんな勝手な歌を歌っています。例えば、例の終楽章のフルートのソロの部分。「おや?」と思えるような不思議なメロディが聴こえてきたり・・・・。またこれが実に楽しそうなんですね。その次の、「コガネムシ」のところも一癖ある音楽。とにかく耳がひきつけられてしまいます。この盤のはじめに置かれた第4番も素晴らしいくらいのダサさ。(これはもちろん誉め言葉です)7番、9番も個性的な演奏ですし、6番もブラティスラヴァの時より一層「先祖返り」したかのような、ユニークなもの。美しいというより、体中を揺さぶられるようなぐゎしぐゎし感に満ちています。(とにかく、びっくりするところが一杯あるのです)普段あまり聴く機会のない1番から5番までも一気に聴き通してしまいました。録音も、とてもリアル。少なめの残響が却って心地よいのです。
最近、スマートなドヴォルジャークに慣れていたのかもしれない、と心の底からしみじみ思える、まるで「かりんとう」のような無骨で、しかしそこはかとなく懐かしく味わい深い音楽がありました。
(1月11日追記)
ここで取り上げたドヴォルジャークの交響曲全集の中の「第6番」に関しては、以前ARTE NOVAからリリースされたものと同じ音源であることが判明しました。このドヴォルジャークに関しては、私自身「もしかして同じ?」と思ったにも拘わらず、「違う演奏」と言うメーカーサイドの言葉を信じてしまいました。本来ならば、ARTE NOVA盤を用意して、ノイズやタイミングをきっちりと確認するべきでしたが、生憎この盤は、年末の大掃除で中古CD屋さんに売りに出したばかり。記憶のみで書いてしまったのでした。しかし、改めてARTE NOVA盤を入手して聴いてみると確かに音質は違います。もちろんティンパ二の音色も。これは単なるリマスターの違いなのだと思いますが、すっかり騙されてしまったのは本当にお恥ずかしい限りです。この6番だけでなく、同時に収録されたチェコ組曲もOEHMS盤に移行されています。ここで気が付くべきでした。

1月3日

BEETHOVEN
Piano Sonatas
Anne Øland(Pf)
DOCUMENT/220865
さて、年が変わった最初の新聞の厚いこと。そうは言っても、内容は毎年大して変わり映えもしないので、適当にさっと目を通します。そして、広告も厚い!不景気なんてどこ吹く風、たくさんのデパートが「ウチで買い物して〜ん」と主張しています。
今年もさまざまな福袋が発売されるようで、びっくりしたのが、2005万円の福袋!中身は建売住宅とのことですが、こういうのも売れちゃうんですよね。他には280万円分入った100万円の福袋とか(買う人いるの?)5万円分の洋服の入った1万円の福袋とか(これくらいならいいかな)1万円分の下着の入った3000円の福袋・・・・。人々の購入意欲に火がつくのも当たり前ですね。
そんな中、私にとっての福袋は、このベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集。10枚組1990円。BRILLIANT全盛の安売り合戦の中でも、異色の安さです。(そばには、ピアソラBOX10枚組1490円なんてのもありました!)こんなに安いと、中身が少々不安ではありますが、いつものお兄さんに「これ、なぜこんなに安いのですか?もしかして使い捨て?」と訊いたところ笑われました。ブルセラじゃないって。「本来は、2年ほど前にCLASSICOレーベルから発売されていたものです。その時はレギュラー価格で、しかももっと大きな箱でした。そのうち、レーベル自体の値崩れというか売却というかが起こり、この全集も他のレーベルから安価・・・と言っても7000円くらいで出てたのです。それが今回一気にここまで下がってしまったのですよ。ですから中身については何の問題もありません」と力強く断言してくれました。では購入しましょう。
と、いうことで聴いてみました。ベートーヴェンのピアノ・ソナタというのは、確かにスゴイ作品だとは思うのですが、正直なところ、全てが完璧な出来だとはどうしても思えません。全32曲の中には「悲愴」「月光」「熱情」などの有名作品もあれば、お稽古に使われるような作品や、どう聞いてもつまらない作品も混じってます。まさに玉石混交。このBOXを購入する時も、「きっと全部は聞かないな」と一瞬考えてしまったのでした。しかし、最初の1枚を聞いたらなんだか弾みがついてしまって、結局3日で全部聴き倒したのでした。
このエランドの演奏は、タッチがちょっと硬めで、表現も割合素っ気無いもの。1995年から2001年までの7年をかけて全集にしたとのことですが、別にその演奏スタイルに齟齬があるわけでもありません。徹頭徹尾、硬質な表現に終始しています。それが却って聴きやすかったのかもしれません。例えば、最近マイブームの31番。あのグルダなんかと比べるとその違いがよくわかります。少し物足りないくらいに節度のある演奏ですが、その潔さがお腹にもたれないのです。恐らくグルダの演奏で全集を聴くとなったら、一日にせいぜい2曲か3曲が限度でしょう。これは恐ろしいほどに聴き手に集中力を要求するからに他ならないのですが、裏返していれば、「楽しんで聴く」というわけにはいかないのです。その点、このエランドの演奏は、ベートーヴェンの音楽自体を楽しむことができるのです。
それでも、月光の第1楽章やテレーゼなどでは、はっとするほと美しい瞬間もあるのです。何より、今まで気にも留めなかったソナタたちが、こんなに親しげな表情を見せてくれたのには驚きでした。これは、やっぱりいい買い物をした、と一人にやにやする私でした。

1月1日

BERNSTEIN
Mass
Jerry Hadley(Ten)
Kent Nagano/
Deutsches Symphonie-Orchester Berlin
HARMONIA MUNDI/HMC 901840.41
(輸入盤)
キングレコード
/KKCC-518(国内盤)

ADAMS
On the Transmigration of Souls
Lorin Maazel/
New York Philharmonic
NONESUCH/7559-79816-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11797(国内盤)
新しい年が始まりました。未来へ向かって羽ばたくこの時に、レナード・バーンスタインの「Mass」などは。「マス」と言っても、シューベルトではありません(それは「」)。もちろん、「Missa」の英語表記なわけですが、この「ミサ曲」は、「Missa」などという単語で連想される宗教的な典礼とはまるでかけ離れたところにあるものでした。クラシックの範疇には収まりきらないファンキーなロックやゴスペルの語法を積極的に取り入れて時代の先端を行くものを作り上げようとした作曲者の気概は、当然のことながら賛否両論の渦の中に巻き込まれてしまうことになるのです。
ただ、注意深く、その「非クラシック」のパーツを検証してみると、この曲の中にありありと窺える「サイケデリック」というファッションは、その数年前に一世を風靡したもので、この作品が世に問われた1971年当時には、すでに時代遅れのコンセプトとなっていたものであることは、指摘しておかなければならないでしょう。ムーブメントのさなかに身を置くのではなく、ある程度時間を経てきちんと評価が固まった時点で、さも自分は新しいものを知っているのだということをひけらかすという、典型的な「えせ文化人」としての用心深さが、ここには見て取れるのではないでしょうか。
したがって、作られた当時ですらすでにリアリティを失っていたそのメッセージは、30年以上経った現在では、もはやなんの意味も持たなくなっていることは明白です。もちろん録音は、長い間作曲家自身によるものしか存在しておらず、とっくの昔に歴史のふるいにかけられてしまったと思っていた矢先、2000年のポリス・プロットのDVDに続いて、今回のケント・ナガノ盤です。彼は果たして、この作品の中に、時代を超えて訴えかける「何か」を見出すことが出来たのでしょうか。一つ考えられるのは、例の「9・11」からの流れの世界的な混迷。ヴェトナム戦争の泥沼と「対テロ」に名を借りた大国のエゴとの間に何らかの類似性を見出すのは、それほど難しいことではないのかもしれません。
ただ、このCDに聴かれるなんの脈絡もなく並べられただけの雑然とした素材、オーケストラによる深い「瞑想」の間に混在する脳天気なブラスバンドや陳腐なゴスペルの中からは、残念ながら未来へ向かって通用するようなメッセージを探し出すことは困難でした。
同じように、まさに、この「9・11」での「Missing...」といった落書きの文字や、犠牲者の名前をそれこそ「脈絡なく」オーケストラとシンクロさせたものが、ジョン・アダムスの「魂の転生」です。しかし、手法的には似ているものの、そこから広がる世界には全く別のものがあります。25分という短い時間(「ミサ」は2時間近くかかります)に凝縮されているメッセージは、静かな感動となって伝わってきます。このスリムさこそが、現代、そして未来に於いて求められるであろう方法論、いたずらに思いのたけをてんこ盛りにするというバーンスタインのそれは、もはやうざったいものでしかありません。

きのうのおやぢに会える、か。


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