助手は、理不尽。.... 佐久間學

(09/6/17-09/7/6)


7月6日

SAINT-SAËNS/Symphony No.3
BARBER/Toccata Festiva
POULENC/Organ Concerto
Olivier Latry(Org)
Christoph Eschenbach
The Philadelphia Orchestra
ONDINE/ODE 1094-5(hybrid SACD)


以前マーラーの交響曲第2番をこのメンバーで聴いたときに、オルガンの音があまりに素晴らしかったことに感激したことがありました。そこで、少し前の録音ですがそのオルガンの音を満喫できるはずのこんなアルバムも聴いてみようと思ったのです。
ジャケットにも写っているのが、このオーケストラの新しい本拠地となった「ヴェリゾン・ホール」のオルガンです。エッシェンバッハがこのレーベルに録音を始めた時からブックレットに掲載されていたこのホールでの「集合写真」には、しっかりこのオルガンがステージの上にそびえていた姿が確認されていたものですから、ホールが出来たのと同時にオルガンも設置されていたのだと、ずっと思っていました。しかし、今回、このアルバムのライナーを読んでみると、これは「2006年に行われたオルガンのお披露目のコンサート」だと言うではありませんか。このホールが出来たのは2001年、確かにその時にオルガンの「ファサード」、つまり、オルガンの外身だけはくっつけたものの、内側のパイプや、コンソール(演奏台)は、まだ出来てはいなかったのですね。お金が足らなかったので、とりあえず張りぼてみたいなファサードだけをつけておいて、さらに5年間寄付を募ったのでしょうか(間違ってたらごねん)。確かに、同じ集合写真でも、最初の頃のものにはファサードのすぐ下にあるはずのメカニカル・アクションのコンソールが見あたりませんね。



なんか、最近のこのオーケストラの凋落ぶりを象徴するような、ちょっと情けない現実のように思えますが、本当は、出来たばかりのホールというのはしばらくは建物自体が収縮を続けますから、すぐオルガンを設置するのはまずいのだ、という主張を律儀に守った結果なのかもしれません。そう思いたいものです。
そんな、オルガンに恵まれない状況というのは、昔からこのオーケストラにつきまとっていたようでした。このホールが出来るまでの彼らの本拠地は、19世紀の末に建てられた「アカデミー・オブ・ミュージック」という本来はオペラのための劇場でした。そこにはオルガンはなく、1960年になって、やっと待望のオルガンが、パトロンからの寄付によって設置されたのです。その時のお披露目のためにパトロンがサミュエル・バーバーに委嘱した曲が、今回も演奏され、アルバムの最初に入っている「トッカータ・フェステイヴァ」です。いかにもオルガンの機能を見せつけるような、内容には乏しいものの華やかな見せ場満載の、盛り上がる作品です。
ちなみに、この昔のオルガンは、ホールに恒久的に設置されたものではなく、使うときだけステージ上に組み立てられるという、「可動式」のオルガンでした。その、ちょっと珍しい画像が、このオルガンのメーカーであるエオリアン・スキナーのサイトで、やっと見つかりました。

しかし、この楽器も1991年には同じフィラデルフィアにあるリネープ・ヴァレー長老教会に売却されてしまい、現在はこの教会の礼拝堂で「第2の人生」を送っています。ファサードの一部に、ホール時代の面影がありますね。

そんなわけで、このオーケストラの本拠地にオルガンがない状態はまたしばらく続くことになり、2006年のこの日に晴れてホール備え付けのオルガンが手に入ることになったのです。そんなオーケストラや聴衆の喜びが伝わってくるようなこのアルバム、最も聴き応えのあったのは、あいにくお目当てのサン・サーンスではなく(いや、演奏そのものは腰の据わった格調高いものですが、肝心のオルガンの音がイマイチ)、プーランクのオルガン協奏曲でした。ラトリーとの相性もあったのでしょうか、110ものストップを持つこの巨大オルガンの性能を最大限に引き出して、この曲からバッハのような荘厳さから、プーランクならではの洒脱さまでを見事に描き出しています。

SACD Artwork © Ondine Inc., Helsinki

7月4日

「マエストロ、それはムリですよ…」
〜飯森範親と山形交響楽団の挑戦〜
松井信幸取材・構成
飯森範親監修
ヤマハミュージックメディア刊
ISBN978-4-636-84653-9

だいぶ前のことですが、人気番組「トリビアの泉」にクラシックのオーケストラが出演したことがありました。その時のトリビアは「クラシック音楽には楽譜に『指揮者が倒れる』という指示が書かれた曲がある」というものです。その映像にあらわれたのが、飯森範親さんが指揮をした山形交響楽団でした。それは、カーゲルの「フィナーレ」という曲。確かに演奏の途中でオーケストラを指揮していた飯森さんは胸をかきむしってもだえ始めたかと思うと、譜面台をひっくり返して指揮台から倒れ落ちる、というパフォーマンスを演じていました。そのまま動かなくなってしまったので、担架に乗せられて運ばれていくという「オチ」まで付いていましたね。「現代音楽」ではこのぐらいの「演出」は別に珍しいものではありませんが、山形という、はっきり言って「田舎」にあるオーケストラがこんな曲を取り上げたということと、その映像が全国ネットの高視聴率番組によって放送されたという二点で、大きな衝撃を受けたものでした。
それ以来、この飯森/山響というコンビは何かと気になる存在になっていました。いつの間にか外国のメジャー・オーケストラのような、それこそロンドン響のレーベル「LSO LIVE」を意識したかのような「YSO LIVE」という独自レーベルまで持つようになってもいましたしね。
この本は、うだつの上がらなかった弱小地方オケが、飯森さんを常任指揮者(後に音楽監督)に迎えることによって、劇的に変貌していく様子をつぶさに綴ったものです。ライターとしてクレジットされているのが松井信幸さんという、普段はテレビドラマの脚本を執筆されている方です。この方は、学生時代には実際にオーケストラで打楽器を演奏していた経験もあると言いますから、その視点には経験者ならではの確かなものがあります。自ずと、そのドラマティックなレポートは現実味を帯びることになりました。
そんな「ドラマ」の始まりにあたる部分、オーケストラの事務局長が、常任指揮者の就任をお願いするために東京の飯森さんを訪問するシーンが、決定的に印象深いものとなっているのも、当然のことでしょう。新しい常任指揮者を選ぶにあたって、以前に演奏会を指揮してもらって山響の新しい可能性を開いてくれた飯森さんを推す団員は多かったものの、すでに多くのポストを持っていた多忙な指揮者が引き受けてくれるはずはないと、「ダメモト」でお願いしに「上京」したときの描写から、すでに「ツカミ」には余念がありません。その時の事務局長の卑屈な態度は、まさにそれまでの山響の消極的な姿勢そのものだったのですからね。そして、まさかの就任への快諾、その時の条件として提示されたマニフェスト実現に至るまでの経過は、まさに輝かしいラストシーンへ向けての入念な「伏線」のようにすら思えてきます。タイトルは、そんな多くのマニフェストに対して事務局側が発した言葉です。飯森さんはごく当たり前のように提案したことが、当時の山響にとってはとても実現不可能なことだったのでしょうね。女性に優しくするのが苦手だったのかも(それは「フェミニスト」)。
中には、いかにも「脚色」が過ぎると感じられる部分もなくはありませんが、全巻を読み終えての爽快感はなかなかのものがあります。なによりも自らの仕事を「サービス業」と割り切って、お客さんに喜んでもらえるために全力を尽くそうとする飯森さんの基本的な姿勢には、芸術のしもべ面をしてお高くとまっている似非「マエストロ」にはない魅力を感じることが出来ることでしょう。もちろん、彼の影響で意識を変えていった山響の団員たちも、確かに「キャスト」として輝いて見えます。

Book Artwork © Yamaha Music Media Corporation

7月1日

GRAUN
Große Passion
Veronika Winter(Sop), Hilke Andersen(MS)
Markus Schäfer(Ten), Ekkehard Abele(Bas)
Hermann Max/
Rheinische Kantorei
Das Kleine Konzert
CPO/777 452-2


1704年頃に生まれて1759年に亡くなったカール・ハインリヒ・グラウンは、あのフリードリヒ大王の宮廷に兄のヨハン・ゴットリープとともに仕えていました。もちろん作曲家として、道化ではありません(それは「クラウン」)。グラウンが大王のために作ったフルートのためのソナタや協奏曲は、今でもフルーティストのレパートリーとなっています。
しかし、彼の作曲家としてのメインのフィールドは、イタリア・オペラ(もちろん、「オペラ・セリア」)でした。彼は、同じくドイツ人でありながら多くの「イタリア・オペラ」を作ったあのアドルフ・ハッセと並び称されるほどのオペラ作曲家としての名声を誇っていたのです。そして、そのオペラの語法を縦横に駆使した「受難曲」を、5曲ほど作っています。

今回のアイテムは、その中で最も有名でCDも数種類ある(例えばクイケン盤↑HYPERION/CDA67446)「イエスの死」ではなく、「その他」の4曲のうちの、歌い出しが「Kommt her und schaut(こちらへ来て、よく見て下さい)」という「大受難曲」です。ちなみに、2006年にはクリストフ・ヘンツェルによって「グラウン兄弟」の主題付き作品目録「Graun-Werkeverzeichnis(Graun WV):Verzeichnis der Werke der Brüder Johann Gottlirb und Carl Heinrich Graun/Ortus」が出版されました。ここでは、兄の作品は「A」、弟の作品は「B」、いずれとも決めがたい(筆跡がよく似ているそうです)作品は「C」とカテゴライズされています(完全な偽作は「D」)が、この作品には「B:VII:5」という品番が与えられています。
レシタティーヴォ、アリア、コラールなど全部で67曲、演奏時間は2時間を超える大作、しかもテーマは「受難」ですから、聞き終えるにはさぞや忍耐が必要なのでは、という先入観は、しかし、ほんの数分で終わってしまうその小さな曲たちを聴き進んでいくうちに、全く消え去っていました。それらは、なんと愛らしい、聴くものの心を開いてくれる魅力を持ったものなのでしょう。ここでは合唱の出番はあまり多くなく、ソリストによるきら星のようなアリアがメインを占めているのですが、そのどれを聴いても惹きつけられるものがあるのですよ。何よりも、イントロからしてキャッチー、ファゴット2本によるメロディアスな前奏などは、この楽器がいよいよ低音専属から解放される時代を感じさせてくれます。かと思うと、ちょっと前の、まるでバッハのような細かい音符満載のヴァイオリンのオブリガートも健在ですし。そんなオブリガートも、歌手たちと対位法的に競い合うのではなく、同時に「ハモり」になっているあたりが、次の時代の様式を確かに感じさせてくれます。歌詞の内容を暗示しているのでしょうか、ヴァイオリンによるトレモロなどで、まず「震え上がる」感情を先取りさせる、というのは、ちょっと古い様式でしたっけ?
でも、オケにはフルートもオーボエも3本ずつ入っているのに、活躍しているのはもっぱらオーボエだけ、フルートといえばほとんどコラールのユニゾンしか仕事がなく、唯一アリアで登場するのも単純な上向アルペジオだけ、というのはもったいないような気がしますが。
ソロを歌っている4人が、本当に素敵です。伸びやかこの上ないヴィンター、深い響きが魅力的なアンデルセン、ちょっと茶目っ気もあるシェーファー、そして、つややかな声のアベレと、それぞれの持ち味を発揮している上に、デュエットなどのアンサンブルも見事です。
最後の方に「マタイ」でお馴染みの受難のコラールが出てきますが、その和声がバッハの数種類のものと又さらに異なっているのも聴きどころでしょう。それを歌っている合唱が、ソリストほどの完成度を示していないのと、CDのトラック表示にミスがある(2枚目の1曲目とされているコラールは、1枚目の最後に入っていました)あたりが、ほんの些細な欠点でしょうか。メーカーのインフォでのバスの人の名前の「エイブル」という誤記などは、さらに小さな疵にすぎません。

CD Artwork © Classic Produktion Osnabrück

6月29日

Rock Legends Reborn
〜acoustic cafe〜
山本恭司
AVEX/AVCD-23731

ギブソンの「レス・ポール」の殻を割ったら、中から出てきたのはマーティンあたりのアコースティック・ギター・・・みたいなジャケットが素敵ですね。そんな、かつて大ヒットを放ったハード・ロックの名曲を、アコースティックな味わいで「再生」した、というのがこのアルバムのコンセプトなのでしょう。
いまどきのCDには珍しい、トータルの収録時間が3347秒というのは、同じレーベルのフォーレのレクイエム1曲だけ3702秒という今までの最短記録(いや、あくまで当サイトでの話ですが)を塗り替えるものです。まあ、そのあたりはここに収録されていた曲が本来刻まれていたヴァイナル盤を意識したもの、と解釈させて頂きましょう。確かに、昔のロックのアルバムに比べたら、今のCDの収ロック(録)時間は長すぎます。
それこそ「伝説的」なロックバンド「BOW WOW」のギタリスト、山本恭司がプロデュースした、そんなおしゃれに変身した「ロック・クラシックス」のラインナップは、ジャーニーの「Don't Stop Believin'」、キッスの「I Was Made for Lovin' You」、スティックスの「The Best of Times」、ヨーロッパの「The Final Countdown」、サバイバーの「Eye of the Tiger」、エアロスミスの「Walk the Way」そしてナイト・レンジャーの「Sister Christian」です。いずれのタイトルも、クラシック・ファンであっても、どこかで一度は聴いたことがあるはずの超名曲ばかりですね。
さまざまなボーカリストやプレイヤーをゲストに迎えて繰り広げられるセッションですが、一番このコンセプトに合致している、というか、最も聴き応えがあったのは、キッスの「I Was Made for Lovin' You」でした。なんと、アレンジがボサノバ仕立てなのには驚かされますし、後半にはさらにアップテンポのサンバになって盛り上がります。ボーカルのゲストがMonday満ちる、ご存じジャズ・ピアニストの穐吉敏子の娘さんですね。実は、穐吉さんと懇意になさっているという方が知り合いにいるのですが、だいぶ前にその方から「娘さんはフルートを勉強なさっている」と聞いたことがありました。それが今では、こんなスケールの大きなミュージシャン、というよりはアーティストになっていたのですね。ここではちょっとけだるいボーカルと、それをおしゃれに彩るコーラスで、とても「キッス」とは思えないような洗練された世界を作り上げてくれました。そして、ちょっと遠慮がちにオフで入っているフルートのセンスの良いこと。「ソロ」というには慎ましすぎるフィルですが、見事な彩りです。
そして、もう一人のゲストがギターの渡辺香津美です。クレジットには「ガット・ギター」とありますが、曲の後半になっておもむろに入ってくるソロは、いつもながらの素晴らしさでした。ガット・ギターならではの、低音を多用したレジスターと、まるで神業のようなコード・チェンジには感服してしまいます。さらに、終盤には、今までおとなしくリズムを刻んでいた山本恭司が、そのトラックはそのままにして、新たにソロとして渡辺香津美とバトルを繰り広げてくれますよ。とてもエキサイティングなソロの応酬、もう「キッス」なんてどこかへ行ってしまっています。
ただ、その他の曲がなかなかそこまで思い切って「脱皮」し切れていないのがちょっと残念。ボーカルがロックそのもののシャウト唱法の人だったりすると、いくらアレンジをおとなしくしてみてもしょせん「アンプラグド」(そういえば、この言葉、最近あまり耳にしませんが、どうなってしまったのでしょう)程度の変わり様しかなく(いや、「アコースティック」といいながら、ギンギンのエレキギターが入っているのもかなりありますし)、そこは相変わらず荒くれ男の「酒場」の世界、大人の女が似合うしっとりとした「カフェ」からはほど遠いものがあります。

CD Artwork © Avex Entertainment Inc.

6月27日

Männerchöre der Romantik
Geistliche Männerchöre der Romantik

Klaus Breuninger/
Die Meistersinger
HÄNSSLER/CD 98.572, 98.590


「マイスタージンガー」という名前の男声合唱団のアルバムです。そういえば、昔日本にも「東京マイスタージンガー」という男声合唱団がありましたね。1960年代に「うたのメリーゴーラウンド」というテレビ番組にレギュラー出演していた合唱団、その後はアニメの主題歌などを歌っていたそうです。余談ですが、こんな風にグループ名に「東京」という文字が入ると、とたんにダサく見えてくるから不思議です。例えば「東京ビートルズ」なんて、情けなくなるほどしょぼい響きがしませんか?

「マイスタージンガー」、でしたね。ワーグナーのオペラのタイトル「ニュルンベルクのマイスタージンガー」ではありませんが、これは「シュトゥットガルトのマイスタージンガー」とも言うべき、シュトゥットガルトにある名門合唱団「ゲヒンガー・カントライ」の男声メンバーが集まって作られた合唱団です。母体はちょっと品のない(下品ガー)ネーミングですが、もちろん、あの「シュトゥットガルト・バッハ・アカデミー」の総帥、ヘルムート・リリンクの指揮で史上初のバッハのカンタータの全曲録音を成し遂げた合唱団ですね。指揮をしているブロイニンガーも、リリンクのもとで研鑽を積んだ人です。
創立されたのは1998年、その年に録音されたのが「ロマンティック」(上)の方のアルバム、それからきっちり10年後の2008年に「宗教曲」(下)が録音されて、なぜか2アイテムまとめてリリースされました。母体の「ゲヒンガー」と同様、メンバーは適宜入れ替わっているようで、20人ほどのメンバーの中で10年前から在籍していた人は4人しかいませんでした。そんな、メンバーの違いも踏まえつつ、この2枚のアルバムを比べながら聴いてみるのも、一興でしょう。
まず1枚目は、まさに男声合唱のルーツとも言うべき、ドイツ・ロマン派(モーツァルトなども入ってはいますが)の作品たちです。その中でも「ローレライ」でお馴染みのフリードリッヒ・ジルヒャーの曲が、いかにも伸びやかな屈託のなさを聴かせてくれています。シューベルトの「菩提樹」も、ジルヒャー名義で扱われているのも、何かアバウト、と思ったら、確かにこれはシューベルトのオリジナルとはかなり様子が変わっています。シューベルトは3番まであるミューラーの歌詞のそれぞれに、テキストの内容に合わせて短調に変えたり全く異なるメロディ・ラインを持ってきたりと工夫を凝らしているのに、ジルヒャーはすべて全く同じメロディ(もちろんハーモニーも)で3回繰り返すだけなのですからね。シューベルトの「歌曲」と、ジルヒャーの「男声合唱曲」とは全く別物なのでした。
その点、ベートーヴェンの「夜への賛歌」という曲は、やはり「元ネタ」があるものの、ジルヒャーの様な単調さは見られないのはさすが。初めて聴いた曲なのですが、これがピアノソナタ第23番「熱情」の第2楽章のパラフレーズであることに気が付くまでには、ちょっと時間がかかりましたから。
この曲に出てくるソリも含めて、この合唱団はとても若々しい爽やかさを存分に振りまいてくれていました。決して重々しくならないのも、少人数ならではのフットワークの良さなのでしょう。
それから10年経っての録音でも、そのあたりの特質はかなり維持されてはいるのですが、何か切れ味が悪くなっていると感じられるのはなぜなのでしょう。特に、フォルテシモで見境もなく声を張り上げる(叫ぶとも言う)歌い方は、10年前の洗練さからは明らかに後退しているのではないでしょうか。歌っているのが「宗教曲」なだけに、その無神経さはちょっと辛いものがあります。
ベートーヴェンの「自然に於ける神の栄光」の無伴奏男声バージョンでは、それが最も悪い形で現れています。

CD Artwork © hänssler CLASSIC im SCM-Verlag GmbH & Co. KG

6月25日

世界のオーケストラ名鑑387
音楽之友社刊(音友ムック)
ISBN978-4-276-96188-3

クラシック音楽をこよなく愛している人たちには是非とも座右に置いて欲しい最新の「オーケストラ事典」の登場です。なんたって、サブタイトルが「An Encyclopedia of the Orchestra」ですからね。いや、誇張ではなくこれはまさに待望のもの、これの前身である「指揮者とオーケストラ2002」が刊行されたのが文字通り2002年だったのですが、そこに掲載されていたデータの大部分がすでに役に立たなくなっているほど、昨今のオーケストラの指揮者人事のスパンは短くなっているのですからね。

2002」に比べて大きく進歩したのは、その収録団体の数でしょう。前は150だったものが、387と、なんと倍以上に増えているのですから。知る限りでは、おそらくこれだけの数のオーケストラの最新情報が1冊にまとまったものなど、他にはないはずです。インターネットで個々の情報を集めることはいとも容易になっていますが、残念ながらこのように集約した情報を得ることが意外に難しいのが、webの世界なのではないでしょうか。
こんなに多くの団体が集まったのは、「オーケストラ」という概念がそれだけ広がってきていることに他なりません。ここでは、いわゆる「室内オーケストラ」も紹介されていますし、さらには、今まではなんとも居心地の悪かったオリジナル楽器による団体も、しっかり「オーケストラ」と認知されるようになっています。さらに、注目すべきは、ラテン・アメリカやアジア、さらにはアフリカなど、今まではまずこういったものでは紹介されることのなかった地域のオーケストラも、しっかり集められていることです。韓国には6つのオーケストラ、中国には、台湾を含めると10ものオーケストラ(もちろん、「クラシック音楽」を演奏する団体)があったことを知るだけでなく、それぞれのプロフィールが得られるなんて、これはちょっとした驚きです。
前作から7年、その間に、オーケストラのランキングが微妙に変化していることも、良く分かります。双方の「トップ10」を比較してみると、共通しているのはウィーン・フィル、シカゴ響、パリ管、ベルリン・フィル、コンセルトヘボウ、ロンドン響の6つだけ、クリーヴランド管、ニューヨーク・フィル、ボストン響などのアメリカの名門オケが外れたのが目を惹きます(もう一つはサンクト・ペテルブルク・フィル)。それに代わってランクインしたのが、順当なドレスデン・シュターツカペレとバイエルン放送響に混じって、ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンと、ミラノ・スカラ座フィルという、今まではおよそこんなランキングにはかすりもしなかったような団体なのですから、ちょっとびっくり。特に、ドイツ・カンマーフィルは選定者の身びいきがかなり強いという印象は避けられませんが、これが若さの勢いというものでしょうか。あるいは力わざ(それは「カンフーフィル」)。
音楽監督の最新情報とともに、オーケストラそのものの変化も、もちろん知ることが出来ます。スクロヴァチェフスキとのコンビで大活躍していたザールブリュッケン放送響は、いつの間にかカイザースラウテルン南西ドイツ放送管と「合併」していたのですね。
もう一つ、「付録」待遇の「消滅したオーケストラ&録音専門のオーケストラ」という珠玉のようなコラムが秀逸です。ここで初めて知ったのが、今まで漠然とロス・アンジェルス・フィルの団員を中心にした臨時編成のオケだと思っていた「(西海岸の)コロムビア交響楽団」や、「ハリウッド・ボウル交響楽団」が、実はロス・フィルとは全く関係のないフリーランスの演奏家の集まりである「グレンデール交響楽団」だった、ということです。
執筆者も、前作からは名前だけの「長老」がだいぶ抜けていて、より客観的なデータが得られるような気がします。

Book Artwork © Ongaku No Tomo Sha Corp

6月23日

MALEC
Epistola, Arc-en-cello
Ilia Laporev(Vc)
Vocal Soloists(SATB)
Emanuel Krivine/
Choer Philharmonique Tchèque, Brno
Orchestre Philharmonique du Luxembourg
TIMPANI/1C1153


フランスで活躍している(いた)珍しい作曲家をどんどん紹介してくれるTIMPANIレーベル、またまたツボにハマる人の登場です。それは、1925年生まれといいますから、もうすぐ85歳になろうというクロアチア生まれの作曲家、イヴォ・マレクです。このアルバムには、2003年に作られた、「アル・カン・チェロ」というタイトルのチェロとオーケストラのための協奏曲と、ラテン語で「手紙」という意味を持つ2006年に出来たばかりの「エピストラ」というタイトルの、大規模な「カンタータ」の2曲が入っています。大きな曲ですから、オーケストラには正規の団員以外のメンバーも入っているのでしょう(それは「エキストラ」)。もちろん、2曲ともこれが世界初録音になります。
Arc-en-cello」というフランス語のタイトルが、「Arc-en-ciel(虹)」をもじったものであることには、なんか「同類」のような親近感をおぼえてしまいます。ただ、文字通り「チェロによって演奏された虹のような曲」みたいな先入観で聴き始めると、その骨太のサウンドにはちょっとひるんでしまうかもしれません。そう、このマレクという作曲家の作風は、そんな甘ったるいものではなく、もっと硬質で挑戦的な、ちょうどあのクセナキスのような外観を持つものでした。独奏チェロのグリッサンドや、バックで派手にかき鳴らされる打楽器群を聞くだけで、そんな「音の雲」を自在に駆使した懐かしいサウンドが呼び起こされます。一瞬たりとも予想された「解決」には向かうことのないその荒々しい音楽は、すっかり軟弱になってしまった「現代音楽」の中で、ちょっと忘れられがちな根元的なものを思い起こさせてくれるものでした。
ただ、マレクがクセナキスと異なるのは、そのような手法を使いつつ、極めて「平静」な情景をも同時に描き出す技を備えている、という点です。聴くものを昂揚させるだけでなく、それを鎮めて安らかな境地までも表現できる彼の手法、これは、深く心に突き刺さってくるものです。
もう一つの作品「手紙」(アンジェラ・アキではありません)では、オーケストラに声楽が加わって、さらに振幅の大きい世界が繰り広げられています。テキストとして用いられているのは、16世紀のクロアチアの詩人マルコ・マルリッチが時のローマ法王ハドリアヌス6世にあてて出したラテン語の手紙。トルコの侵略に抵抗するための力を貸して欲しいと懇願するその内容が、同じ国が20世紀後半に遭遇した体験に重ね合わされて、作曲家の創造意欲をかき立てたのでしょう。
もちろん、彼の作風では、そこには美しい「アリア」などが出現することはあり得ません。ほとんどカオスの中からしか聞こえてこないテキストの断片、しかし、それは圧倒的な力を持って迫ってきます。こういう時の合唱の特別の表現、「歌う」のではなく、「語る」、あるいは「囁く」といったものが、とても大きな力を発揮することが、ここで改めて思い知らされます。そして、中間部で聞こえてくるのは、チェロ独奏だけをバックに歌われるアルトのシンプルなソロです。これこそが、この作曲家の「平静」モード。マリアンナ・リポブシェクの深い声は、それまでのハイテンションのカタストロフィーの後だからこそ、際立って聞こえます。
これは、2006年の世界初演の時のライブ録音、「Arc-」も2008年のやはりライブ録音ですが、その録音がとびきり素晴らしいのは感動的です。なによりも、クラシックにはあるまじきすさまじい音圧。そして、炸裂するたくさんの打楽器や、叫びまくる合唱の粒立ちといったら、どうでしょう。さらに、独奏チェロの生々しさ、演奏者の気迫までもがしっかりととらえられている録音だからこそ、作品の素晴らしさがストレートに伝わってきたに違いありません。

CD Artwork © Timpani

6月21日

SCHÜTZ
Lukas-Passion
Johan Linderoth(Ten)
Jakob Bloch Jespersen(Bas)
Paul Hillier/
Ars Novaa Copenhagen
DACAPO/8.226019


サブタイトルが「聖ルカの福音書による、われらが主であり救い主であるイエス・キリストの受難と死の物語」と言うだけあって、この曲はまさに「物語」。メインのパートはエヴァンゲリストが聖書のテキストにほんの軽い抑揚をつけて歌うだけの、殆ど「朗読劇」といった趣の作品です。もちろん、楽器による伴奏はありません。そんな「単旋律」の間に、群衆や僧侶、兵士といった大人数の言葉がコーラスとして挿入されるという、これは何世紀も昔から受け継がれている「応唱受難曲」の形式を踏襲したスタイルをとっています。日本の将棋には関係がありませんが(それは「王将」)。作られたのは「ヨハネ」、「マタイ」といった他の「受難曲」と同じく、シュッツの晩年1666年とされています。まさに、年老いてたどり着いた渋〜く地味〜な境地がもたらした曲、というイメージが色濃く宿っている作品、「音楽」というよりは「お説教」を聴かされているような感じ、というのが、今まで聴いてきたシュライアーのエヴァンゲリスト、マウエルスベルガー指揮のドレスデン・クロイツ・コールによる1965年録音のBERLIN盤によって植えつけられていた印象でした。
その同じ曲を、前のアルバムですっかりファンになってしまったヒリアーが指揮するデンマークの合唱団、アルス・ノヴァ・コペンハーゲンが演奏しているというので、さっそくゲットです。合唱の出番は少ないのでどうなのかな、という思いはあったのですが、冒頭、聖書朗読には含まれないさっきのタイトルの部分が合唱で歌われるのを聴いただけで、それは単なる思い過ごしであったことが分かりました。最初のハーモニーが、まるで遠くの風景からズーム・インされるような殆ど無音から始まるクレッシェンドで聞こえてくると、それだけでこの演奏が目指しているものがドラマティックな抑揚に満ちたものであることが分かります。それにしても、この合唱団はなんという明るい響きを持っていることでしょう。その瞬間、今までドレスデンの少年たちの合唱で抱いていた禁欲的なイメージは、きれいさっぱり吹き飛んでしまいました。
エヴァンゲリストのヨハン・リンデロートも、シュライアーのくそまじめな歌い方とはなんという違いなのでしょう。その表情豊かなレシタティーヴォは、ドイツ語が全く分からない人が聴いたとしても、その場の雰囲気が分かるほどの説得力を持っていました。もちろん、少しでもドイツ語の単語が頭に入っている人ならば、そこからはまるで映画のように、細かい情景までが思い浮かべられることでしょう。
そして、そんな中に時折現れる合唱は、確かなアクセントとして、その物語に輝かしい光を与えていました。ある意味単調な単旋律が続く中に聴かれるからこそ際だつ、その無伴奏合唱の美しさ、キリストの受難のお話のはずなのに、これほどワクワクしながら味わうことが出来るなんて、なんて不謹慎な。いや、そもそも「受難曲」というものは、それに続く「復活」の伏線なのですから、それはいっこうに構わないことなのかもしれませんね。
不謹慎ついでに、この演奏から大嫌いだったはずのヒップ・ホップが連想されてしまったのはなぜなのでしょう。福音書の言葉がラップのリリックだ、などと言ったら、怒り出す人もいるかもしれませんね。でも、そのぐらい、ここには言葉の力を信じた躍動感がみなぎっていました。そして、そんなラップに挟まれて、殆どミスマッチと思えるほどキャッチーなコーラスが聴けるのが、最近のヒップ・ホップ、もちろん、そのコーラスがここでの合唱に呼応しています。
このアルバムは、クリスティアン4世の宮廷楽長も務めたデンマークとは縁の深いシュッツの作品をこのレーベルに録音していく彼らのプロジェクトの皮切り、今後のリリースも楽しみです。国内ではあまり出回っていないようですが、音はこちらで聴けますよ。

CD Artwork © Dacapo Records

6月19日

ワーグナー王朝
舞台芸術の天才、その一族の権力と秘密
ハンス=ヨアヒム・バウアー著
吉田真/滝藤早苗共訳
音楽之友社刊
ISBN978-4-276-21530-6

毎年夏に、中部ドイツの辺鄙な街バイロイトで開催されている音楽祭は、星の数ほどもある「音楽祭」の中でも異彩を放つものです。なにしろ、1876年に始まって以来130年以上、その祝祭劇場で上演されるのはその劇場を建設したリヒャルト・ワーグナーの舞台作品だけなのですからね。ある時期、つまり、この作曲家が亡くなってから30年の間は、彼の最後の作品である「パルジファル」はこの劇場以外の場所では上演することが一切禁じられていたというほどの、確かな権威を持った特別な音楽祭なのです。
そんな権威の拠り所は、「始祖」リヒャルトの血縁者によってのみ、代々その管理が行われてきた、という歴史的な背景ではないでしょうか。2度の世界大戦をも乗り越えて、まさに「文化遺産」としてのワーグナーの音楽と彼の建造物を守りきってきたこの一族の使命感には、今さらながら畏敬の念を隠せません。
この本は、そんなワーグナー家の遺産を支えてきた人たちの足跡を克明に綴ったものです。全部で9つの章から成り立っていますが、当然のことながら、最初の3つの章は「王朝」を築き上げるまでのリヒャルトその人の伝記です。続く3つの章では、妻コージマと息子ジークフリート、そしてその妻のヴィニフレートの時代が扱われます。ここで最も関心が惹かれるのは、言うまでもなく一族と「ナチ」との関わりでしょう。しかし、ヒットラーその人の描写も含めて、ヴィニフレートを始めとする家族との関わり合いは、的確な一時資料の引用によっていとも淡々と描かれています。それは、手元にあった「ヴァーグナー家の人々」(清水多吉著/中公新書1980年刊)に見られる史観とはかなりの隔たりを見せる客観的な視点です。これが時代の流れなのでしょうか。

そして、最後の3つの章では、その次の世代、第二次世界大戦後のヴィーラントとヴォルフガングの時代が描かれます。ここでも、著者の冷徹な視点は光ります。何よりも驚かされるのは、「新バイロイト様式」としてワーグナーのみならずこの時代のオペラの演出に大きな衝撃を与えたヴィーラントの業績に関する記述です。殆ど神格化されるほどに当時、そして現在でも高く評価されているヴィーラント本人とその仕事、しかし、その演出の根幹は、彼ではなく彼の妻ゲルトルート・ライシンガーによって作り上げられたものだというのです。今までヴィーラントという「天才」によって産み出されていたと信じられていたあのスタティックで象徴的な舞台は、舞踏家でもあった妻の協力なくしては生まれることはなかったのだ、という事実には、だれしも軽いショックをおぼえることでしょう。
そのような著者の切り口からは、ヴィーラントのスキャンダラスな側面も、容赦なく暴露されることになります。幼なじみの姉さん女房との結婚生活は早い時期から破綻を迎えます。多くの愛人を自宅に連れ込む夫、その情事の現場を押さえられ、妻に「私は性生活について指図を受けるつもりはない。それは結婚に左右されることでもない」と開き直ったというのですからね。そして、あまりにも有名なアニア・シリアとの「三角関係」についても、なんと克明に記述されていることでしょう。
原書は2001年に刊行されたものですから、ヴォルフガング(彼の演出家としての才能を、著者は「兄」をしのぐほどに高く評価しています)の次の世代についてはまだ憶測の域を出るものではありませんでした。しかし、ここでは訳者によってその後の劇的な展開までが補足されています。ヴォルフガングから彼の二人の娘、エーファとカタリーネという異母姉妹の手に引き継がれた「王朝」、その行く末もこれまで同様「世界史」の一端として語られていくことでしょう。

Book Artwork © Ongaku No Tomo Sha Corp

6月17日

BACH
h-Moll-Messe
Gerlinde Sämann(Sop), Petra Noskaiová(alt)
Christoph Genz(Ten), Marcus Niedermeyr(Bas)
Sigiswald Kuijken/
La Petite Bande
CHALLENGE/CC72316(hybrid SACD)


少し前にモンテヴェルディの「晩課」やもっと前にはバッハのモテットを出していたとは言え、このあたりの宗教曲に関してはコープマンの牙城だと思っていたこのレーベルから、クイケンの「ロ短調」が出たのは、ちょっと意外な気がします。
ACCENTなどから出している他のバッハの作品同様、クイケンがここでとっている声楽のスタンスは、1パート1人ずつという「リフキン・プラン」です。色々な機会に作られたものを寄せ集めたこの「ミサ曲」ですから、それぞれの部分では編成が異なっていますが、最大では4声部の二重合唱(「Osanna」)という形なので、8人必要になります。ですから、彼が用意したメンバーも8人。ただ、「kyrie」や「Gloria」では5人しかいらないので、曲によって交代でメンバーが替わっていますね。でも、こういうのは、厳密に言えば「教祖」ジョシュア・リフキンの教えには背くものなのではないのでしょうか。おそらく、用意できる人数に合わせて曲を作るというのが、バッハの基本的なスタンスだったのでしょうから、リフキンの主張を認めるのなら、これはおかしなことにはならないでしょうか。
リフキンが、今から30年近く前に行ったこの曲の録音(NONESUCH)では、そのあたりはどうなっているのか、知りたいと思ってCDを探してみたのですが、あいにく手元にはなく、買おうとしてもすでに廃盤状態。それこそタワー・レコードあたりでオリジナルのジャケットでリイシューしてはくれないものでしょうか。
クイケンの場合、声楽以上に特徴的なのはオーケストラの編成です。もうすっかり彼らの中では市民権を得ている「新しい」楽器、「ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ」を普通のチェロの代わりに使うのはお約束、コントラバスもフレットのついたバス・ヴィオールが使われています。その結果、ヴィオールはともかく、「スパッラ」が用いられている低音パートは、なにか独特の浮遊感を持つものとなりました。確かに低音の声部は重々しさとは無縁の軽やかさを獲得、音楽全体もとても軽やかなものとなっている、という印象が強く与えられます。足の太さは隠せませんが(それは「スパッツ」)。
合唱パートと、もちろんアリアなどのソロを担当しているソリストたちは、カンタータなどの常連、ここではソプラノのゼーマンが、そんな軽いオケにふさわしい伸びやかな声を聴かせてくれています。ソロもなかなか心地よいものですが、そんな彼女の音色に支配された合唱が、大人数をしのぐほどの存在感を出しています。確かに、この曲に出てくるパートソロの部分には、大人数で歌ったのではきちんと揃って歌うのがとても大変そうなパッセージが頻出します。そんなあたりも、リフキンの説を裏付けるものだったのかもしれませんね。確かに、アンサンブルもきちんとこなせるこのクラスのソリストの演奏でそんな「難しい」部分がいとも簡単にクリアされているのを聴くと、四半世紀以上の時を経てリフキンの「奇説」は立派に正当性を主張できるものにまで浸透したことを納得させられてしまいます。
録音会場の豊かなアコースティックスも、「1人」のパートをふくよかなものに仕上げるのに一役買っているに違いありません。演奏中は決してモヤモヤするものではないのですが、最後に長々と続く美しい残響が、それを物語っています。
おそらく、今の時点でもこの曲を演奏するために一生懸命練習をしているアマチュアの合唱団はたくさんあるのではないでしょうか。そんな人たちがこの演奏を聴けば、もしかしたら自分たちのやっていることが虚しく感じられてしまうかもしれませんね。少なくとも、例えば80人を超えるような合唱団がこの曲を演奏することの無意味さぐらいは、少しは伝わることでしょう。

SACD Artwork © Challenge Records International

おとといのおやぢに会える、か。


accesses to "oyaji" since 03/4/25
accesses to "jurassic page" since 98/7/17