ミヤとスザーノが対等でない? だとして、どうなんだろう?〜『アフロシック』などを手掛かりに (1999.9.7)


ああもう書く前から堅苦しい話になりそうだって予感がするなあ。あらかじめ謝っときますんで、読めるとこまでどうぞ。

で、今回は、日本のミュージシャンが海外、主に旧第三世界に出掛けていって音楽を共同製作することについて、というか、その成果をどう聴くか、つうか、その、自分が聴いているかって話をするんですが…あ、もうわかりにくいですか?

ではきっかけから話そう。それは、東琢磨が『ユリイカ』のオーネット・コールマン特集に寄せて書いていた一文だった。本筋はオーネットの言う「音響民主主義」、端折って言えば、奏者同士の対等なインタープレイの中に現れるような音楽的豊かさについてなのだが、脇道で宮沢和史とレニーニ&スザーノのコラボレーションについて触れて、こんなことを書いていた。

パーカッショニストのマルコス・スザーノとのデュオでは、対等な力関係でのインタープレイによるノン・ジャンルな音楽を聴かせたその(レニーニの)ライヴ・パフォーマンスが、宮沢和史ら日本のミュージシャンたちも参加してのものとなると、一気に凡庸なロック/ファンク風サウンドへと失速していったのが私には興味深かった。(中略)それは、世界に通用する「スター」としてプレゼンテーションされる宮沢が、まだやはり力が十分でないにもかかわらず強烈に押し出され、他のミュージシャンとの間に何らかのバイアスなりエージェントが介在せざるを得ないからではないかと思う。
(東琢磨「あらゆる空の下で」、『ユリイカ』1998年11月号所収、P. 179)。

一読して、ははんなるほど、そういうこともあるかな、と思ったのだが、本当にそうか?

この議論はある意味、大変に明快である。既に日本という資本主義先進国でスターの座を得ているミュージシャンが、旧第三世界の、評価されているとはいえまだ新進というべきミュージシャンと共演する場合、そこには何らかの形でお金の力によるバイアスが掛からざるを得ず、したがって対等な関係での共演とはなりにくい、ということだ。それはそれで、まっとうな一般論ではあろうと思う。

だが、個別のケースとしてはどうなんだろう。やはり自分の耳で確認してみたくなった。宮沢については、ザ・ブーム名義の『トロピカリズム』(1996)迄しか聴いていなかったし、果たしてこの議論、鵜呑みにしていいものかどうか、と思ったのだ。最近になってようやく彼の『アフロシック』(1998)、そしてレニーニ(ギター、ヴォーカル)とスザーノ(パーカッション)の『魚眼』(1993)を聴いたが、先の議論、言い当てているかどうかもそうだが、結構議論そのものにも落とし穴があるような気がしてならない。

さて、宮沢の『アフロシック』にはスザーノが大部分に参加しているが、本当に東琢磨の言うような「ヒエラルキー/中心」が発生してしまっているのだろうか。

検証にあたって、東の言及した共演ライヴについて二、三、確認しておきたい。

これらの要素をオミットしての東の議論は、既に性急だと思うのだ。

まずドラムセット。これを持ち込めば、パーカッションのスザーノのプレイのポジショニングが変わるのは当然だろう。ドラムスなしの編成であれば、スザーノはパンデイロを巧みに駆使してドラムスに匹敵するベーシックなビートを叩き出す。また、それはやはりパンデイロの音色と奏法とに規定されるので、ドラムセットとはまた違う独特のリズムの揺れ、ダイナミクスのうねりを紡ぎ出していく。東が評価した、レニーニとの「対等なインタープレイ」には、この点が大きく寄与していると思われる。

しかし、ドラムセットが加わったセッションであれば、どちらかがベーシックなリズムをリードするという「主-従」関係は避け難い。ジャズであれば、対等な関係でのインタープレイも有り得るだろうが、ここで目指されていたのそれではなく、あくまでも「歌」なのだから、それを基準に議論するのは無理があろう。

もう一点はヴォーカルの中心についてである。レニーニと宮沢のヴォーカリスト/ソングライターとしての個性が違うのは、これは明瞭だしまた当然のことだ。ヴォーカルの軸が移動したときに音楽性が転換しないとしたら、そのことのほうが妙だと思うのだが。そして、宮沢の音楽性がより「ロック/ファンク風」であっとしても、彼の背景/出自から言ってそれは自然なことだ。スザーノとの共演ということで言えば、例えば彼を大きくフィーチャーしたマリーザ・モンチの『ローズ・アンド・チャコール』(1994)は、どうだろうか。3者それぞれのスザーノとのコラボレーションの質の差のある部分は、結局のところ「歌の中心」の位置/あり方/位相が3者それぞれに違うことに起因しているのではないか。

多分、東の議論には、日本のミュージシャンが何をすべきか、という視点が欠けているのだ。ある音楽の中で奏者同士の対等な関係が実現され、それによるインタープレイがある音の豊かさを紡ぎ出す。それを「リスナー」として俯瞰し、享受する、一方的な音楽の「消費者」の視点。

彼の議論で気になるのは、オーネット・コールマンの提唱する「音響民主主義」なる概念の手放しの称揚だ。確かに、アンサンブルの各メンバーが、互いに中心を成すことなく響き合っている様というのは、よく出来た会話のような愉しさがあり、スリリングでもある。これが理念として価値あるものであることは否定しない。がしかし、だからといってそういう構造を持たない音楽について、全て「南-北」という下部構造を反映してるとして退ける杓子定規は何とかならないもんだろうか。

先に挙げたマリーザ・モンチの例では、スザーノとのコラボの在り方自体はむしろ宮沢のケースに近いと言っていいと思うのだが。ヴォーカリストのリーダープロジェクトでは、ヴォーカルが中心を成してしまうのは、ある意味致し方ないと思う。歌ものの場合多くは、その「音響民主主義」をなすべき対象は楽曲の外、言ってみれば聴取者(リスナー、っつうた方が座りがいいのはどうしたことか>日本語)にあり、そのために歌そのものの体裁は、集団ではなくて一個人を「装う」。それは音楽がパッケージ商品として流通する仕掛けでもあるので、その点を強調しすぎるのはまた微妙な問題を含むのだが、しかしそのように前提された音楽作品/演奏に対して、「音響民主主義」を一方的にぶちかますのは、筋違いというものではないか。

確かに、宮沢プロジェクトの場合、ほぼ間違いなくプロダクション側の資本力が介在しているだろうし---それは円とレアルの通貨価値の格差も含めて---、そのことがプロダクション自体にもたらしているバイアスも懸念されない訳ではない(例えばそれは、吉田美和がハーヴィー・メイスンら米国の名うてのセッションメンを集めて録音したソロ盤のバックトラックが、明らかに「頼まれ仕事」に聞こえてしまうというような)。しかし、そうであるかどうかを判断するだけの耳を持とうじゃないか、我々は。その耳で聴く限り、宮沢の作品「イリュージョン」「愛を見失うほど」「難破船」などには、かなり望ましい形でのコラボレーションの結実を見るのだが。---一方で、ライヴだけはそう上手くは行かなかった、という可能性もあるのだが、それはそれであって、東の議論は踏み込み過ぎということになろう。

宮沢の作品や方法論には、試行錯誤も多いし、本人自身それについて無自覚的な部分も感じられる(自著『音の棲むところ』(ラティーナ刊、1996)で、『島唄』について素朴な愛着を語る部分など。そのうち整理したい)のだが、一方でああいうあがき方をしている日本のミュージシャンは、メジャーに居る人では他に見ないこともあって、私としては批判的な眼は保ちつつ、しかし見守っていたいと思うのだ。でなければ、「音楽やるな」と言っているのと同じことになってしまうではないか。

それからもう1点は、ソング/ソングライティングに対する視点を保ちたいということがある。近年の音楽批評/研究の主潮を成す「サウンド」概念にせよ、東らインパクション周辺の論客による「音響民主主義」にせよ、突き詰めていくとどうしても「歌」のことが指の間からこぼれていく感じがしてしまうのだ。「歌」というパッケージの中身をむりやりサウンド概念や音響民主主義で解剖するのではなく、むしろその歌の消費され再生産されるサイクルの中にこそ、自由な、気持ちいい歌のあり方を考えていきたいと思うのだ。

(end of memorandum)



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