聴いた、観た、買った ---淡々と音喰らう日々。

2002.02

>2002.03
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★は借りた新着、☆は新規購入。

今回論評したディスクなど:
川本真琴: Gobbledygook / The Boom: Lovibe / Vox P: A Cappella Vocal Jazz /
Milton Nascimento: Clube Da Esquina 2 / Flavio Venturini: Ao Vivo /
Pat Metheny Group: Speaking Of Now

◆CDタイトル前などのマーク(◆)はそのレビュー項目自身へのダイレクトリンクになっています。
◆CDタイトル等のリンクは、
日記鯖上に初出の即興コメントにリンクさせています。時々気まぐれを起こしてリンクしてないこともあります。


川本真琴: "Gobbledygook" (Antinos/Sony, 2001)☆

敢えて引っかかる点を挙げると「歌唱」の好き嫌いだろうけど、個人的には「そんな小せぇことに囚われてこれを聴かねぇなんざぁ勿体ねぇ」レベルかと。「ピカピカ」の完璧なまでのKate Bush節は、いわば序の口。ソングライティングのみならず音作りでも多彩さを加え、歌詞世界も更に磨きが掛かり、2ndでここまで徹底した個性を開花できれば天晴れでしょう。1stの良さはいわば若書きの良さであって、生かすも殺すも状況次第だと思えただけに、誰が首謀者か知らないが(本人?)このディレクションには喝采を送りたい。

The Boom: "Lovibe" (Speedstar/東芝EMI, 2000)★

同年生まれのせいなのか、宮沢和史のどことなく「踏み込み切れてない」感じというのは、違和感という以前に何だか「わかってしまう」気がするのだ。それは実は彼のどのアルバムにも必ず1つはあって、それぞれ微妙に違う相貌を見せている。例えば、『極東サンバ』では対象にのめり込み同化する「無我」な感じへの違和感がありつつもその「衝動」はわかる気がし、"No Control"では向かおうとする「自身の音楽」の像が曖昧なままであることへの疑問はありつつもその焦燥は理解できるような気がする、といった具合に。で、"Lovibe"はどうかと言えば、その手堅さに不安を感じつつも、リラックスした雰囲気で作ろうという意志には同調を覚える、といった具合か。第一印象でも書いたが、「いつもと違う場所で」の朗読の身振りや、スムーズに過ぎるバックトラックを捨てる潔さのなさに、宮沢の個性は良くも悪くも表れていて、だがそれを「気分」としては理解してしまう私もまた、それを無下に切って捨てることができないでいる。
ためらいながら生きる、というのはある意味「生きる」ことの標準形であるような気がしてはいる。だが、それはこんな感じのためらい方なのかというと、今一つ自信が持てない。戸惑いを的確に戸惑いとして伝えることができたなら、それが音楽を通してなら、どんなにいいだろうと思うのだが。

Vox P "A Cappella Vocal Jazz" (Malaco/Town Crier, 1998)★

デンマークの4人組アカペラグループ。但しCD NOWあたりでもこれ1枚しか挙がってないので、残念ながらそれっきり空中分解なのかも。よくわからないが。この盤は一部多重で5声以上にしていたり、4声でも同じパートを2度重ねて録ったりしてるのでその分割り引く必要はあるが、それでも4声で出来る最大限のことをやっている好サンプルではある。改めて、4声部というのはギリギリ最小規模のユニットだと痛感する。4声で厚みと広がりを出すためのアレンジは、各声部それぞれの自然な横の流れ(旋律的な動き)を犠牲にしないと成り立たない。その結果、4人全員が、自分が全体の中でどこを歌っているのかということを把握する力、つまり感覚的ではなく、論理的な把握力が要求されるということ。これはこれでキレイに決まれば快感だろうとは思うが、でもそれが「歌うヨロコビ」かというと、そうではなさそうな気もする。試しにこれに収録されてる'TUX 66'を練習することにしたので、そのあたり見極めてみたい。

Milton Nascimento: "Clube Da Esquina 2" (EMI, 1978)☆

日記鯖に書いたコメントでほぼ全貌を押さえているので、リンク先にもあるけど以下再録:

題目的には1972年に出たClube Da Esquina(以下1と呼ぶ)の続編になる。事後解釈的には、Miltonとミナスの仲間たちの音楽的コミュニティを具体的に音にしたものと言えるが、実は1の名義がMiltonとLo Borgesであったのに対し2はMiltonのみ、というところにも見えるように、その中心軸のありようはかなり違う。でありつつも求心性のみならず音像の拡がりが見て取れるのは、新たな参加アーチストを含めた幅広い人脈の集結がその理由だろう。Flavio Venturiniの''Nascente''や、Boca Livreの''Misterios''など、後に別バージョンが世に知れることになる曲の初出はそうした好例だし、それらがまた実はMiltonのために書かれたかのように充実して響くのも、コラボの練れ具合を表してのことだ。

Flavio Venturini: "Ao Vivo" (Gala/Som Livre, 1991)☆

日記鯖に書いたコメントでほぼ全貌を押さえているので、以下再録:

極めて大づかみに言うとこの人は「ブラジルのDavid Foster」なのだなあ、という認識を新たにする。ただそれは、あくまでもコンポーサー/アレンジャーとしてのFosterであってプロデューサーとしてのそれでなはい。(Fosterのプロデューサーとしての仕事の遍歴は実は結構掴みどころがなく、個人的にはCheryl Lynnあたりを手掛けた、言ってみれば「西海岸ソウル」時代のもののインパクトが強く、世間一般の彼のイメージからはむしろ離れてしまう。)

話を戻すと、FlavioがFosterに似ているのは、その整然としたディアトニックな和声構造と、キーボードを中心としたサウンドの組み立てにあると言えるだろう。実はブラジルのポピュラー音楽は圧倒的にギター(ヴィオラォン)の人が多い。なので、逆にキーボード系の人の和声感覚の独特さが際立ったりもして、この人もそう。これだけ整然とした和音構成を持ちながら、メロディのたゆたうような軽やかな動きがそれを微妙に異化する。ありそうでない個性。

Pat Metheny Group "Speaking Of Now" (Warner, 2002)☆

マンネリ(良くも悪くも)という評をそこそこ耳にするが、本当にそうか。自分にとっては全く違う。だからこそ、飽きずに半年もヘヴィ回ししたのだと思う。

前作までと大きく異なる点は2つある。一つは音のテクスチャ。これまで一貫して解像度の高い、構築的な音作りを指向していたのが、今回はむしろローファイっぽく聞こえるくらいワイルドな音に仕上がっている。エコーを切り詰めた中にドラムスの音が生っぽく決まり、キーボードの音もホコッと丸っこい響きでまとまっている。そしてもう一点は楽曲そのもの。一聴すると微妙だが、実は前作までに比してずっと複雑なコード構成なのだ。特に、ルート音外し(3度や7度の音をルートに据えるのが顕著)と、3度平行で動く旋律線の多用が顕著。これらがこれ迄になく、ある種「古典派的な」感覚を楽曲にもたらしている。前作までが大雑把に言って「ブラジル/ジャズ/バルトーク」だったとすればそこにこの第4の軸が加わって、より独自の、裏を返せば「無国籍の」音楽を実現しているように思える。

また面白いことに、タイトで室内的な響きなのに、楽曲の構成自体はそこから壮大なスケール感と分厚さにまで至る振れ幅を持つ。ただそれは、前作"Imaginary Day" (1997)のオーケストラルな構築感覚とは違った感触を持っている。その理由は、一つには上で書いたような音のテクスチャの親密な感じ、そしてもう一つはその音作りに支えらた「歌モノ」としての芯の太さだ。ますます磨きのかかった感のあるメセニー節は、より親密さを増した音作りの中で、より直接的に心に働きかける力を持ったようにも思える。相変わらず冴えてるタイトルの付け方と相俟って、お好きな方は泣けること必至の名盤の誕生である。



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