聴いた、観た、買った ---淡々と音喰らう日々。

2001.10

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★は借りた新着、☆は新規購入。


◆お知らせ --- Tamim Ansary氏がアフガンの実状とビン・ラディン、タリバンの狙いについて書いたエッセイ非公式日本語訳を公開しています。ですが悲しいかな、普段掲示板への出入りをあまりしていないので、このことを公表する場がありません。もしお読みになって「賛否はともかく、より多くの人の目に触れたほうがいい」とお思いの方がありましたら、どうぞ方々でご紹介下さい。宜しくお願いします。


今回集中的に論評したディスクなど:
飽和の時代と言われても失望なんかしていない。でも彼らは私らに一緒に失望してほしいらしいのだ /
赤い羽根の季節に思うこと / Pat Metheny Group: American Garage / 等身大でテロを考え続けたい /
対タリバン攻撃開始に関して / オペラ『コシ・ファン・トゥッテ』日本語版公演 / 炭疸菌への疑問
宇多田ヒカル: Distance / 高野寛: Timeless Piece - Best of ... / Dreams Come True / Sing Like Talking

◆思い付き次第思い付いただけ更新しています。
◆日付はその日付のコメント自身への、CDタイトル前などのマーク(◆)はそのレビュー項目自身へのダイレクトリンクになっています。
◆文中のCDタイトルのリンクは、以前のコメントへ遡れるようにしてるつもりですが、かなり気まぐれです。


10/31 晴れた空、そよぐ風

本当に午後の仕事をサボって公園で缶ビールと行きたかった。で結局仕事にしばられてた訳だけど、仕事ってそれほどのもんかい。ようわからんです。何か不必要な遠慮をしながら生きているようでもあり。

あーら今回の記事は1回分としては長すぎるかな。まあ、いいや。面倒なら飛ばして。っていい加減ですね。すんません。

高野寛: "Timeless Piece - Best of..." (東芝EMI, 1992)☆
"Ring"のことを書いたら結構それで聴き返してみた方がいらっしゃったようで、引っ込みつかなくなったのでおさらい用に中古をゲット。しかし全体の半分も知らないなあ...これでどうこう語っててはいけないですね。反省。
というわけで改めてこれを通して聴くと、サビのあざといくらいの行き届き具合に比べて、構成とかサビ以外のメロディの定石さ加減が時々不思議にすら思えてしまう。これ、何なのだろう。歌詞に時々感じる、ちょっと危なげなくらいの純粋さに通じるものなのかも知れない。でも「ベステンダンク」「虹の都へ」「夜の海を走って月を見た」なんかは良いなあ。良いんだけれど、何というか、どう説明していいかわからないようなもどかしさもあり。世間的なジャンル概念の間に落っこちたようなポジションにあるポップソングの花束。

それからお約束どおり、ドリカムについてちょっと書きます。

Dreams Come True: "Sing Or Die" (東芝EMI, 1997)★, "The Monster" (東芝EMI, 1999)★
"Sing..."を以前聴いた時には、ようやくメロディラインの見直しに着手したか、と思って安堵したものだ。その直前までのドリカムといったら、吉田のメロディは書き流しになり、中村のほうは相変わらずの無理な作りが耳につくという状況だったので、随分(いい意味で)整ったものだと思っていた。だが"The Monster" (この意味不明なタイトル、何とかならんか)を通して聴いて、"Sing..."がまだ不徹底だったことを思い知らされた。楽曲の練れ具合という点では「飛躍的な」進歩ではない。大きな違いは吉田美和のボーカルスタイルそのものにある。
実は彼女のスタイルの弱点は、以前から思っていた人も結構いると思うのだが、端的に言えば「歌い分け」ができないことだった。メインボーカルだろうがバッキングだろうが、囁くようなバラードだろうが絞り出すようなシャウトだろうが、何を歌っても吉田は吉田だったのだ。それが良いという人ももちろん多い訳だけど、その彼女のボーカルを幾重にも積み重ねたコーラストラックのベタッとした感じを、私同様ちょっと食傷気味に思っていた人もいるのではないか。
ところが"The Monster"では、多分意識的にだと思うのだけど、パートや場面による歌い分けがかなり徹底している。例えば「朝がまた来る」の「ララララ...」とユニゾンで歌う部分と、メインボーカルの対比。'make me your own'での、明白にチャカ・カーンを意識したと思われるソウルフルなコーラストラック(念のため付け加えると、それ迄の吉田のコーラスは、威勢はいいが「ソウルフル」とは言い難かった、と思う。発声、節回し、リズムの取り方の全てにおいて)。「東京ATLAS」ブリッジ部分での福岡ユタカみたいなチャント。「三日月」のような狂おしさを出せるのも新境地かも知れない。"Sing..."ではVirginを介しての世界進出を意識してか、吉田のボーカルに執着し過ぎて平板になってしまった部分が、"The Monster"では解決されている、というふうに見てもいいのかも。

これとの比較で思い出すのがSing Like Talking: "Second Reunion - The Best of..." (ファンハウス, 1998)だ。そのメンバー構成から「男ドリカム」と思われがちだが実際にはかなり違う。確かに、フロントパーソンがほとんどのボーカルトラックを担当するという点は同じだが、実は似ているのはそこだけで、

つまりSLTでは、ボーカルがサウンド面のみをコントロールし、メッセージ性やカリスマ性を担う言葉の側面を完全に外注化しているということ。このことは、吉田美和がある意味私小説的な世界への共感を大きな吸引力にしているのとは対照的に、佐藤竹善をあくまでもサウンドクリエーターとして前面に押し出してくる。このため、竹善が自身のボーカルを扱うやり方はシンガーのそれではなく、楽器ごとにパートを書き分けるアレンジャーのそれとなり、かなり手の込んだ歌い分けをしたコーラストラックを、緻密に重ねていくという方法を指向する。そして、コーラスにそれなりの重みを持たせようとするならば、歌い分けによる対比の強調は不可欠なのだ。
ドリカムの近作を聴いて、全面的にとは言わないまでにもある種納得感を覚えるのは、そうした方向に彼ら自身が収斂し始めたように感じられるからなのだ。初期ドリカムの突飛なメロディラインに衝撃を受けつつも、それに全然ついて行かないバックトラックに脱力感に近い失望を覚えていた身としては、ようやく何とかなったな、という感を禁じ得ないのだった。


10/26 Power Macイカれました報告

そのために更新が空いた訳ではないんですが、でも参りました。何が参ったと言って仮面ライダークウガの超古代文字スクリーンセーバーが救出できな... いや、まあ、それはいいとして。HDDの読み書きがランダムな箇所で遅くなるってのは、やっぱりヘッドアームの駆動部分がヤバかったんでしょう。こういう予兆があっただけでもラッキーでした。2〜3日分のメールが手違いで救えなかったくらいのもので、あとはこのとおり、無事外付けのHDDで生きていますので。ご心配頂きありがとうございました>メール復旧にご協力下さった皆様
ついでに一言: 結局ノートン博士なんて役に立たんぞ!

最近ようやく、宇多田ヒカル: "Distance" (東芝EMI, 2001)☆ を買ってきて、改めてくまなく聴いている。やっぱりこれは途轍もないものかも知れない。詞もそうだが曲もなかなかに。特に今回再認識したのが'Addicted To You'のヘンな展開---これって4段構えになってるのね。歌モノの1サイクルって、通常は多くてもサビ含め3段構成(Verse-Bridge-Chorus)なんだけど、これはVerse-Bridge-Chorus(sub)-Chorus(main)となっていて、この仕掛けが畳み掛けるようにゾクゾクッと盛り上げる効果を出しているんだな。理詰めで作った構成じゃないのかも知れないが見事。

歌詞も改めて隅々まで読むと唸らされる。この、自分の弱さも他者の弱さも等しく受け止めて、肩肘張らずに意地は張るというスタンス、そうそう書けるものじゃないと思うが、それは彼女が非常に論理的に言葉を綴るからこそ可能なのだと思う。「二人でDistance縮めて」「ひとつにはなれない」「いつの日かDistanceも/抱きしめられるようになれるよ」「やっぱり I wanna be with you」('DISTANCE')---位相の異なるフレーズを緻密に組み合わせることで初めて、微細な感情の揺れや襞を、しかも情に流されない強さをもって描き切ることが可能になる。今までこういう歌詞を書いた人って、あまりいないんじゃないか、少なくとも日本語では。
興味深いのは、これを聴いてる若い世代がこうした日本語表現をどう内面化していくか、ということ。だって、これだけ理詰めで感情を語るなんて、日本語教育の中ではもちろん、日常の日本語ですら、あまりないことじゃない? ただでさえロジック軽視なのにそれが年々ひどくなるような教育環境で育った世代が、こんな論理的な言葉で書かれたベストセラーの洗礼を受けることの意味。もっともそれ以前に、そんなに歌詞に入れ込む人なんてごく一部かも知れないけど。

追伸:'Can You Keep A Secret?'をジプキンがカバーしてくれたら、私は買います。


10/18 東京はオペラシティ

【事務連絡】日記鯖からお越しの皆様、ならびに昔からこちらをご覧下さってて、「鯖へ越したの?」とお思いの一部の皆様。
実は引っ越した訳ではありません。ちょっとした思いつきで、指慣らし的に始めてみました。何を書こうというのは特にありませんが、こっち(「聴いた...」)がある意味即物的にならざるを得ないので、そうではないことを色々試そうと思ってます。そんな訳なので、飽きたらやめます。その時はごめんなさい。
一方、こっちは相変わらずのやり方で続いて行きますので、どうぞよしなに。

オペラ『コシ・ファン・トゥッテ』日本語版公演についてのコメントは、長いので別の記事にしました。あの公演だけ観たら「ふうん、この程度ね」なんて高をくくる人も結構いるだろうなあ、と複雑な気持ちになりました。オペラ受容における(ほとんど馬鹿馬鹿しい)ブランド信仰と表裏一体をなすのが彼らの苦境だと、私は考えます。
なお正しくは「オペラ・ブッファ」ですね。「オペラ・コミック」ってと19世紀のパリ界隈でオッフェンバックとかが作ってたあたりを指すんでしょうか。ともかく前の記事は直しておきました。

最近米国を中心に世界を騒がせている炭疽菌、あれは本当にアル=カイダやそれに同調する組織の仕業なんだろうか。タイミングとしては、米英の攻撃開始への報復ってことになるけど、それにしては散発的でインパクトが中途半端すぎないか?
折しも米国の爆撃が対象を(本来の対象より緩い方向へ)拡大している。病院にも打ち込んだらしい。こうした戦局の拡大にあたって世論を誘導するためにCIAが仕掛けたとしても何の不思議もない状況だと思うのだが。ちょっとした粉みたいなものを封書にして送りつける、なんてのは一番足が付きにくい手口なんだから、テロだと簡単に断定できる訳がない。CIAどころか、愉快犯という可能性すらある。にもかかわらず米政府がテロだと断定的にコメントすること自体、この状況が米国の戦略にとって都合のいいものだということを意味してないか?
正直、今の戦況を見てると、パウエルが慎重論をぶってたのも世論を味方につけるためのポーズだったんかい、ああそうかい、と言いたくなる。結局やっぱりパイプライン通して利権山分けしたいだけだな>小ブッシュ。ハッキリ言って空爆には反対だ。


10/13 ふぐとオペラの日々

昨日はふぐ会議(coordinated by もちさん)。ふぐはてっさもてっちりも身がしっかりで実に美味かったのだが、1時間も遅刻したので話のほうは何だか消化不良気味。しかし何でこんなに遅れたかと言えば、パソコン更新の立ち会いがトラブったからなのだった。Win98から2KProにOSを変えたっても、ホスト接続用のエミュレータの設定は丸コピでしょ? 動作がそんなに影響受けるなんて考えにくいんだけど、そこんとこどうよ>某O商会

で、にもかかわらず2次会もそこそこに早々に引き上げたのは、本日マチネのオペラ公演を観に行くためだったのであります。...ん、マチネったって午後でしょ? ハイそうです。が、アナタは一つ、とても大事なことを忘れていますね。そうです、その間息子の世話は誰がするのでしょう? ここで実家の我が母が久々の登場となるのですが、連れ合いから見ればそれは旦那の母、あまり散らかったままでは家に招べない。よって、昼からのお出掛けにもかかわらず平日並みの早起きが要求されるのであります。「観る」一つ取っても大仕事なんであります。

もとい。観に行ったのはモーツァルト劇場『コシ・ファン・トゥッテ』日本語版(10/13&14、第二国立劇場・中劇場)。オペラ・ブッファという、瞬発的笑いを推進力とするオペラを日本語で、ということの意義は十二分に感じつつも、同時にその難題の数々も見えてくるステージだった。詳しいレビューは改めて。

追伸:最近聴いてるCD--- Gary Burton (w/Corea, Metheny, Haynes & Holland): "Like Minds", Pat Metheny: "A Map of the World --- Music From and Inspired by the Motion Picture", そして全然毛色が違ってドリカム"Sing or Die", "The Monster", SLT "Second Reunion --- The Best of SLT"。...いけませんか? そりゃいかん、という方、是非こちらにその旨お知らせ下さい。何でこの辺聴いてるかは近々この場にて丁重にご説明申し上げます。


10/9 (ほんとうの)冬が来る前に

あるいは、厳しい冬ではないことを祈りつつ、あくまで備忘録的に、箇条書き的に。

アンサリーのエッセイにあったような慎重論はその後米国内の議論としても、国際世論としても多く報道され、その結果がこの慎重な言葉選びの攻撃開始テレビ演説となったのだろう。始まってしまった以上、ただ無闇に止めさせることはできないだろうが、米大統領の語ったことは真実か、語った約束を守るのか---見極めるのは難しいけれど、次はそれだろう。

米国はタリバンとまともな交渉をしたのか。しようという意思はあったのか。テロ関与の証拠開示については平行線のままだ。攻撃に踏み切るまでに十分な政治的駆け引きが行われたかは、やや疑問だ。

攻撃目標は限定されている、と言う。ミサイル誘導の主力もGPSらしい。だが、危険地域から移動したくてもできないのは常に弱者だ。傷病人、老人、子供。彼らに被害が出たか出ないかは結局、タリバン側と英米側の謀略宣伝合戦の様相を呈することになるだろう。少なくともそういうものだと思って報道には接したい。

TVが「報復」攻撃として報道することへの大きな疑問。米国ではあの「カウボーイ」発言以降、急速に「報復」論調は影をひそめた。今回のブッシュ演説にも"retaliation"という単語はもちろん、それを思わせる表現は一切ない。「報復」と言って非難するならまだしも、ただ「報復攻撃」と繰り返しながら淡々と報道する、その無神経。
そうではなく、単に「テロ勢力を弱体化させるための」攻撃という定義を受け入れ、いわばブッシュ演説に一定の理解を示すこと。その上で、攻撃決定に至るまでのプロセスに疑義があれば徹底追及し、誤爆など付随的被害の回避が不十分と見れば鋭く指摘し、またイスラム諸国に対する配慮に欠ける政治的声明や行為があった場合は厳しく糾弾し、その是正を迫ること。それが報道の今なすべきチェック機能だろうと思う。そして、そうやってメディアを監視する一市民としての自分たちもまた。

もう一つ。各国政府が英米の攻撃開始を容認するのは流れとして仕方ないとしても、その認め方。中国の大人ぶり(一つには国内にイスラム地域を抱えてるという事情もあるだろうが)、そして小泉の相も変わらぬ馬鹿はしゃぎ。よっぽど日本でテロされてみたいらしい、この考えなしは。


10/6 さて。と。

もう10日以上経ってしまったか。いや忙しかった、っても仕事より私事で忙しかったんだから何をかいわんや。いや、そのうち1件(9/27)は半ば業務だから私のせいではない。何で営業部門でもないのに交際費が余って消化してんだ? でも可笑しかったのは管理職(2名)とヒラ(私含め2名)との認識の差というか。部長の言うには「オレが子供の頃には、欲しいモノがたくさんあった。モノがなかったからな。でも今の子供は全部揃ってるだろ? ケータイもインターネットもある。これからの子供は、どうなるんかな?」ま、それは尤もな設問ではあるんだけれど、私はそれについてはもう答えが出ていて、「そうなると、モノではなくて、かけがえのない体験の比重が上がるんじゃないですか? ウチの息子とか見ててもやっぱり、友達と遊ぶとかケンカするとか、近所の雑木林で虫を見つけたとか捕まえたとか。そういうことのかけがえのなさが、これから先貴重になると思うんですよね。」そこに同僚の女性、一児の母が合いの手、「私ももし子供とだけの暮らしだったら、習い事させようとか子供に集中しちゃったろうと思うんですけど、保育園に行ってることもあって、先生方とか、他の親御さん方とかとのつながりが出来てくるじゃないですか。そういうのが大事になってくると思うんですよ。」ところがね、これに対して部長と課長は、何も反応しなかったんだな。ほとんど黙秘。一体どういう反応を期待してこんな話を振ったんだ? 後から考えて思ったのは、こういう人は例えばこんな反応を期待していたのだ、と考えれば何となく腑に落ちる: 「あーそうですよねー、やっぱこれだけモノ溢れちゃってると、モノとか粗末にするし、友達の話題について行けなくてもアレだから、あまりむげに子供の要求を突っぱねてる訳にもいかないし、難しいですよねー。やっぱ心配ですよねー、これからの子供がどう育つのか。」とか何とか。

あのー、あの辺の世代、って要は団塊の皆々様なんですけど、彼らは仕事とかわりかしいい加減なのに、友達付き合いとか職場の飲みとかとっても大事にするんですよね。でも彼らがそういう場で求めてるのは、刺激的な議論とかではなくって、「あーそうだよねー」っていうあいまいな共感、てか同感なんですよね。ちょっと異論が入ったりするともう興醒めって感じで。私とか同僚チャンとかはそういう時には自分の主張をぶつけてそれで盛り上がるって文化で(多分)生きて来たので、この人たちのあまりに退行的なサマには参るというか、正直異星人でも見るような、狐につままれた感じです。このヘンの感覚の持ち主が会社の中枢にいるようだったら注意すべし。でも国レベルで見てもどうやらヤバイ感じだよね。

赤い羽根、今年も始まったね。毎年疑問に思ってるのが、カブスカウト諸君を中心とした、子供の街頭募金。詳しくはここに。でも同じようなこと言ってる人って、あまりいないみたいで。さみしいす。

何か音楽の話が全然ないじゃんと言われるのもアレですので、最近新たに聴いたものを。とりあえず「聴いてない訳じゃないのよ」的アリバイとして。

Pat Metheny Group: "American Garage" (ECM, 1979)☆
前にどこかに少し書いた気もするんだけど、見つからないので改めて一から書きます。で、これはMethenyのキャリアの中で最大限にカントリー色、ロック色の強いアルバムだと言えるんだけれど、彼らが何故そんなテイストの作品をやったのかは今一つはっきりしない。一つの手掛かりは、ジャケ裏の写真で、バーンを兼ねたガレージとおぼしき場所に所狭しと機材を突っ込んで、しかもデレデレに楽しそうにギグするメンバーたちの図。確かにタイトルとも整合性あるし、クレジットに"Recorded June 1979, Longview Farm, No. Brookfields, MASS."とあるのにも一致する。でもどう考えてもこれ、「写真はイメージです」だろうな。実際はスタジオで録ったに決まってるのだから。
そこから無理やり類推すると、これはいわゆるフュージョンロックのパスティーシュとして初めから意図されていたのではないか、ということだ。実際、タイトルトラックでMethenyは「あ、これってあの曲の引用だな」と思わせるパッセージを連発するし、あまつさえ曲の初めで"One, two, one-two-three!"って叫ぶ声がするし。ベードラ4つ打ちだし。もちろん、Methenyの重要なルーツの一つに米国中西部フォーク(と、そこから遡ることで像を結ぶアイリッシュ・ルーツの音階)はあるのだが、そういうことを独自に消化するのを一旦棚上げにして、いまこの時(但し1979年当時ですが)に消化されているそれらのイディオムを徹底的になぞってみようという、茶目っ気と言うには大胆な試みが実はこの盤なのではないかと思うのだ。実際、今回久々に改めて聴いた感触では、以前のパスティーシュなお祭りだけではなく、そこに連綿と脈打つルーツ意識みたいなものが、構成感や、旋律線の書き方の背後にほの見えるのだ。これは何というか、Dave Grusin/Lee Ritenour的フュージョンを内側から書き換えて見せようという悪戯心の成果物なんじゃないだろうか。そりゃ褒めすぎか。でも、聴けば誰もが「何かヘン」と思う怪盤には違いない。

米国同時多発テロについては、米国の「二正面情報戦」、つまりタリバン壊滅とタリバン分裂画策との両面作戦が着々と進行中で、益々「小泉訪米で『日本は親密』アピール」とか「自衛隊派遣論議」にばかり現を抜かす日本が浮いて見える今日この頃。読み物としてはやはりK.T.さんのリンク集の益々の充実を追う。但し個人的には柄谷のペダンティズムは頂けない。勝手にやっていればよいと思う。私はどんなに至らなくても力及ばなくても、他にすることがいくらもある庶民として生きて、発言していく。発言のポーズの格好良さでマーケティングする言論稼業とは所詮違うのだ。そのために今を諦めるなど、できる訳がないし、したいとも思わない。
もう一つ、あくまで自分の身の丈で逡巡する彼の思索の航跡にも、寄り添いたいと思う。



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