聴いた、観た、買った ---淡々と音喰らう日々。
2001.09
★は借りた新着、☆は新規購入。
今回集中的に論評したディスクなど:
Ivan Lins: Quem Sou Eu? / 槇原敬之: Self Portrait / 高野寛: Ring /
引き続きアカペラバカ(YES: 90125/Todd Rundgren: A Cappella)/ あの大事件 /
ポータブル・ポップ / チャランゴ / あの大事件(2) (3) / 放送禁止曲リストって... /
あるジレンマ
◆思い付き次第思い付いただけ更新しています。
◆日付はその日付のコメント自身への、CDタイトル前などのマーク(◆)はそのレビュー項目自身へのダイレクトリンクになっています。
◆文中のCDタイトルのリンクは、以前のコメントへ遡れるようにしてるつもりですが、かなり気まぐれです。
9/24 そう。そのジレンマ。
ずっと心に引っ掛かっていて、でもうまく言葉にはできなかったこと。K.T.さんにはいつもこうやって触発されてばかりだなあ。
私がかつてみほさんの「つぶやき」(既に停止)に中途半端に参加しながら思っていたことが、ここにある。この掲示板で行われていた議論の重要性・必要性、本質を突く鋭さ、それは疑いようもなく刺激的だった。議論を積極的に支えた参加者各位には心から敬意を表したいと思う。だがしかし、そのスピードと情報量について行けるのは、結局のところ学術研究者、文筆業を主な仕事とする人、そして学生がほとんどだったと思う。つまり、議論が仕事に直結しているか、自由に使える時間がたっぷりある立場でないとムリだということ。
私に根気が足りないだけだろうか? いや、そればっかりでもないと思うのだ。与えられた時間は誰でも1日24時間、1週間は7日。その中でやることの優先順位と言ったら、
仕事 ≒ 家事育児 > 趣味a(音楽) ≒ 交遊 > 趣味b(音楽以外) ≒ 各種社会的コミットメント(含ネット上でのそうした活動)
となる。というか、ならざるを得ないでしょう、夫婦で働いてたら。この「趣味a」のところが読書なら、まだ議論について行けるのかも知れないけれど、別に趣味が何であろうと各自の勝手なので「その時間を読書に使えば云々」という忠告を聞く気はない。個人的な交遊は、これがないとちょっと生きて行けないし。
でも、そんな私みたいな生活をしてる連中こそ、政治問題や国際紛争やポストコロニアリズムやジェンダー問題や差別やその他諸々の社会的関心事について考えるべきだし(特に、ジェンダーや労働の問題を避けてたら、私には満足な人生は送れない気がする)、コアな人たちの議論をただ眺めてるのでなく、議論を共有すべきだと思うのだ。だが掲示板上の議論においてはスピードと発言量が全てだ。私のように、そこまでの時間と情報量のない人たちは、私同様その場所から身を引くだろう。これは、本当にいいことなのか。
山形浩生は多分こうしたことへの問題意識からか、そうした隔たりを埋める役目を果たしたいという抱負を語ったことがある、らしい(以前ここにあったんだけど...記事復活希望!)。しかしかく言う山形氏自身、今や知のスターであって、自前の思考で生きようと必死でもがいてるそこいらの人々との距離は、皮肉にも開く一方であるように思える。
別に山形氏がその隙間を埋める役割を負わなくてもいいとは思う(彼には他にやってほしいことがいくらもある)。だが、そうした存在=「ボランチ」の不在はいかんともしがたい。それは人材の不在などではない。多分やり方の問題なのだ。あるいは「流儀」と言ってもいい。スピードと物量が優劣の基準であるかのように見える場を、最も重要な場であると見なす、そういう流儀こそが問題にされるべきだ。
Webスタイルが好きなのは、そこに文書を「置きっぱなし」にして、必要な人が必要なときに参照すればいいようになっているからだ。「みちりん」にしても、今回訳したTamim Ansaryのエッセイにしても、そういう形でなら誰かの役に立てるかもしれない、という考えでやったことだ。使いたい人はどんどん参照してくれればいい。自分は、自分のスピードで考え続けていく。たとえ軟弱で退行的に見えたとしても、これが自分にできる精一杯のことだ。そして、それぞれが自分にできる精一杯をすれば、多少は何かが変わるんじゃないか。そういう希望を、私は持っている。
話は変わるが朗報: 斉藤美奈子『紅一点論』がちくまから文庫で出ました。一家に一冊モノですので皆さん書店へGO!
9/22 いや、大して考えている訳でもないか。タイムズスクエアで反戦集会があったというニュース。小ブッシュのはしゃぎ過ぎに醒めたってのもあるんだろうが、アメリカはまだまだ大丈夫なのかも知れない。それにしてもパウエル頑張ってる。ここまで徹底したリアリストとは知らなんだ。
しっかしこうなってくると日本政府の動きってホントに間抜け。まあ大体、「何が出来るかを考える」ってのの意味が、「今しなければならないことのうち何が出来るか」ではなくて、所詮「この機に乗じて何が(海外派兵法制化とかそういうことが)出来るか」ばかり考えてるんだから、世界の笑い者でしょうこれは。早く爆弾を沢山落としたい(そんで軍需産業にイイコイイコされたい)だけの小ブッシュ君といい勝負。ようやくTamim Ansaryのエッセイの日本語訳ができた。これは事故後かなり早い時期に書かれたものなので、一時パキスタン政府が米国への協力を表明した時点ではちょっと古くなったようにも思ったのだが、パキスタン国民の反米デモもかなり盛り上がって来ているし、この懸念は常に念頭に置くべきなのかも知れない。
◆ところで、米国某放送局の放送禁止曲リストがちょっと話題になってるんだけど、これねえ...。必ずこういうことするヤツは出てくるけど、リスナーが誰かということを常に念頭に置いてればこんなもん要らないでしょ? だから、こういうことするのって純粋に権力を誇示したいだけの自己満足なんだよねえ。大体、禁止理由がよくわかんない曲とか多いし---'New York, New York'なんてライザ・ミネリがさっき熱唱してましたぜ(笑)---、全然網羅性がないし。この基準で行けばThe Style CouncilとかKate Bushなんか相当引っ掛かるはずなんだけど、このリスト作ったヤツはそもそも知らないらしい。すごい恥さらしだと思うんだけど、一生気付くチャンスなんてないんだろうなあ、こういう手合いは。
9/21 結局、考え続けている。私が考えたくらいでどうなるものでもないとはいえ、でも何もしないよりずっとましだろう。もちろん、あの大事件のことだ。
とりあえず、最近少し話題になってきているらしいTamim Ansaryというアフガン系アメリカ人作家のエッセイを全文掲載してみた。必読。メールでどんどん転送されてるのだが、一応原文らしいと確認できたので掲載に踏み切った。和訳も試みていて、今は下訳まで完了したところ。なるべく早く発表したい。
その他の小ネタとしては、ブッシュお坊ちゃまのカウボーイ気取りも度が過ぎて(原文)、さすがに米国内からも多数の批判が、という話。実務的にはチェイニーとパウエルが大統領を抑えてるらしいが、これを機にメディアも"America at War"一色からもう少し冷静なトーンに変わりつつあるかも。
あと、重要な関連コメントはK.T.さんのリンク集を。いつもながらさすがです。組合せが見事。
それからうさみ氏、9/13の記事について的確な補足を有難う(9/16付)。
9/18 チャランゴ・レポートまたお題の前に1つ。米国の動きもここ数日でかなり明確化したので、備忘録的に書いておこう。9/14か15にブッシュがCamp Davidで記者団に対して語っていたコトバなんだが、そのまんまのtranscriptionが見つからないので記憶を頼りに記す。"Those who think they can escape from the attacks of the United States and its allies are sorely mistaken." 日本の報道機関は随分とお上品に訳してたけど、これぞブッシュの本領ではないだろうか。まさに西部劇のインディアン虐殺カウボーイ。「逃げられると思ったら大間違いだ。」さすが軍需産業と石油メジャーに首根っこ押さえられた大統領、すぐにでも爆撃したいって根性が見え見え。この困ったお坊ちゃんの気のはやりように比べると、湾岸戦争時にコワモテで名をあげたパウエルのほうがまだ手続論を重視した冷静なスタンスに見えるくらいだ。まあ、シンボルとしての大統領/実務担当の国務長官という役割分担には適ってるんだろうが、しかしなあ。
この爆撃野郎に諸手をあげて協力の意思表示を(国民に諮りもせず)繰り返す小泉も何とかならんか。テロやってくれと言ってるようなもんだぞ現状では。しかも、全国紙・全国ネットレベルでこれをきちんと言うマスコミがないのは怖くないか。この点、きっちりと批判してるのって結局田中康夫だけじゃないのか? あと、エジプト大統領が憂慮を表明してるけど、こういう真っ当な国がもっとあってもいいよなあ。何か大変にやばいことになりつつある気がする。が、そんな中、昨日はチャランゴを弾かせてもらったのだった。とはいえ実は練習が不十分なので、本番は勘弁頂いたのだが。
◆ではホンモノのチャランゴはどうであったか。
(1) 調弦はウクレレ以上に不思議。G-C-E-A-Eと聞いていたので、これは低い順かと思い込んでいたのだが、実際はG4-C5-E4-A4-E5という感じ。上がって下がってまた上がる。しかも、各コース2本取りで一部はオクターブ調弦なので、5コースの音が妙に密集して聞こえる。だが、この調弦が掻き鳴らし奏法に実にマッチして美しい。ちょっと欲しくなった(<またかよ)。
(2) 抱えてみるとネックが重い。胴が小さいわりにネックが太い(2本×5コースだからだろう)ので、ウクレレあるいはマリアッチのギターよろしく胸元に抱えるのだが、楽器の重さは左手だけで支えるに近い状態。従って、ポジションチェンジがやりにくい(私には)。
(3) 弦高が意外とある。その上2本取りなので、指を寝かせて全ての弦を押さえるという押さえ方が効かない。面倒でも指4本立てるしかない。ギターとの一番の違いはここで、この部分で難儀するのを見て、定年退職の先輩は本番を免除して下さったようだ。恥をかかすまいという気配りに深謝。珍しい楽器をさわらせて下さったことにも大感謝である。
9/15 ポータブル・ポップ。お題の前に1つ。なべぞうさんが訳出して下さったIvan Linsのインタビューが秀逸。Quincy Jonesってやっぱりそーゆーヤツだったのね、ってのが何とも。USA for Africaのプロジェクトとか"Back On The Block"への違和感がこんなカタチで裏付けられてしまうと、ついつい「音楽は人なり」なんて思ってしまう。必ずしもそうではないハズなんだけど。
◆「鍵盤ハーモニカ」を買った。あのピアニカ前田以来、すっかりソロ楽器としても脚光を浴びるようになったこの楽器だが、ジャズメンの間ではハーモニカで有名なHohnerの製品(商標名はMelodica)が、以前から結構ポピュラーに用いられて来ていたらしい。
ただ、HohnerのMelodica Piano 36は値が張る上、音量コントロールが難しいという話もあり、一方ヤマハのピアニカではいかにもオモチャ楽器の音しかしないということで、間を取って国産唯一の「プロ仕様」である鈴木楽器のMelodion Pro37 V2という機種にした。吹いてみると、実はリードの音自体は何てことない、ピアニカのリード音である。だが筐体の鳴りが全然違う。よく響き、音量も大きい。ブレスの強弱によく反応して、豊かな表情がつけられそうだ。Pat Metheny GroupのMelodicaソロを吹いてみたり、Tootsおじさんがハーモニカで吹くブラジルものを真似てみたりしたところ、なかなかいい雰囲気。そもそも何で鍵盤ハーモニカを買ったのかと言えば、やっぱり音楽は持ち歩けてなんぼって部分があるなあ、と思ったからだ。気軽に、いつでもどこでも、気の合った相手と気の向いた時に演奏したい。贅沢なようだけど、時と場所を選んで用意周到に準備して演奏する音楽とは違った、呼吸するような、散歩するような楽しみがそこにはある。
だが、手に一番馴染んだ楽器であるピアノが全然携帯できないのはもちろん、その次に弾ける楽器のベース(というかコントラバス)にしたって、一応運べるとはいえ、携帯性があるとは言い難い。それから、電気楽器は場所と機材を選ぶし荷物がかさばるので、エレキベースや電子鍵盤楽器には及第点を上げられない。
そこで鍵盤ハーモニカである。ピアノと違ってコードプレイにはあまり向かないが、ソロ楽器として十分な機能を持っていることは前述のとおり。これがあって、ギターかウクレレかカバキーニョがあって、それでパーカッションの2、3種類もあれば、かなりのことが出来ると思う。そうだ、アカペラコーラスにこだわる一番の理由も、それが究極のポータブル・ポップだということに他ならない。おお、そうだそうだ! 今度の月曜に定年を迎える方がサンポーニャを吹いて下さるので、弾けもしないのにチャランゴでの伴奏を買って出たのだった。ギターをチャランゴの調弦に似せて、アンチョコ見ながら練習せねば。間に合うんかいな。
9/13 明日は明日で、また音楽の話をするんだろう。でも。方々で9/11の大規模テロのことを書いている。映画みたいだった、というのは確かにそうだ。だが私の場合はそれで終わってはいない。それが映画ではない、とハッキリわかったときのショックは、言葉では上手く表せない。でも、表せないなりに努力してみようと思う。
脆い、と思ったのだ。建物が、ではない。我々の住む世界が。
あんなことをするヤツはよもや居るまい、という前提でこの世界は作られ、運営されている。だが現にああいうことが起こった。
狂信的な連中は撲滅すればいい、とか、そこまでやろうと思わせる米帝のやり方もどうか、とか、まあ言えるんだろう。だがそんな個別の問題とは別に、やっぱり今の世界は、そうした微妙な信頼のバランスを前提に成り立っているのだ、ということをまず心に刻みたい。
で、考えてしまうのだ。そんなこともあり得るという前提で社会基盤を整備しておくべきなのか。それとも、社会基盤自体は現状のままで十分で、そんなことが起こらぬよう、より緻密な信頼を積み上げていけばいいのか。どっちの方が、人間にとって負担が少なくて済むのか。あるいは、どっちの方が幸福なのか?
個人的には後者を採りたい、と思う。信頼を積み上げたほうが幸福だ、という観点もないではないが、社会基盤に過度の保険を組み込むことはコスト的に到底不可能だということが大きい。ここまで、こうして精緻な社会を作ってしまって、その上に多くの人が暮らしているのだから、相互に保障しあって行こうよ、ということ。
だがさて、そのバランスを崩さずに維持するための努力を、社会経済を担う多くの行為主体(agent)、つまり国家やあらゆる組織や私企業などが十分行っているかと考えると、どうにも心許ないのだ。
手近なところでは、こんな時だと言うのにバカシャロンがパレスチナ暫定自治区へ侵攻してるらしい。たとえ米国が冷静な対処のポーズを作ったところで、これでは「欧米はイスラエルの機に乗じたやりたい放題を黙認している」などとアラブ諸国からは見えるだろう。
信頼というのは、そういうところをゆるがせにしないことによって築かれるものだろう。だから、テロは許さないというのはもっともだが、だからと言ってアメリカが常に正しかったという訳ではない、と言明できる、そういう緻密さを、アメリカもそうだし、他の国家もそう、そして非政府組織や私企業なども、どこまで持ちこたえられるか。
きれいごとでユートピア論かも知れないけど、それしかないんじゃないか。そう思う。
ついでに。「腰抜け国家でいいじゃないか」という議論が面白かったので一言。確かにそうだと思うんだけど、現状では不十分。もう一歩進め、「徹底的に腰抜けになろうじゃないか」と主張したい。
関わらなければ巻き込まれない、と言うけれど、では日本は「関わって」いないのかと言えばそうではない、と思う。いわゆる経済進出においても、軍事力ほど急ではないにせよ相互作用は必ずあり、相互摩擦がある。暴力や圧力を使っていなくたってルサンチマンは溜まる。こうした相互作用はそれだけで独立しているわけでなく、あくまで政治的な力のもとにあり、米国においてはこれと軍事力とが切り離せない関係にある。だから、日本だって単に軍事面で関わらないと決め込めばそれで安全、というわけではない。
ではどうするか。いっそのこと、徹底的に腰抜けになれはしまいか。つまり、経済進出においても欲を捨て、つましく、仲良く、経済活動のパートナーの幸せと発展を願ってやって行こうという姿勢を徹底する。それではじめて、「ウチはテロの標的になるようなことは一切ありません」と胸張って言えるんじゃないだろうか。
もっとも、この実現には強靱な思想と射程の長いビジョンが必要だろう。私たちはそれを生み出せるだろうか?
9/9 中秋の名台風カアッと陽が射したかと思えば激しい天気雨。やはり台風接近中の天気はこうでなくちゃ。直撃さえしなければ。...しかしどのみち、このまま2日くらい台風の雨が続くらしい。さすがにイヤになりそう。そうそう、先日楽器屋に注文しておいたスズキの「メロディオンPro V2」、つまり鍵盤ハーモニカ、というかヤマハの商標名のピアニカの方が有名ですが、これ取りに行くのも台風が行ってからだろうな。いきなり雨曝しはヤだし。
というわけで今日の外出は近所のお好み焼き屋で昼飯(ちなみに「そばめし」は未実施。当たり前か)、帰りの途中にケーキ屋でソフトクリーム。以上。雨はまだ大したことなかったけど、街はこころなしか人もまばらで何となくまったり。アカペラコーラスの意地と希望、もとい、夢と野望は、基礎であるボイストレーニングはどうするって話をそっちのけに、新ネタ探しに熱中する日々。かつて好きだったアカペラ・ナンバーを引っ張り出しては聴くが、実用性としてはどうも...。って実用って何だ。
◆YES: "90125" (Atco/Atlantic/Warner, 1983)
アナログ盤だが、今プレーヤーがないのでテープで。B-2 'Leave It'も大当たりした'Owner of a Lonely Heart'同様Trevor Horn絡みのナンバーだが、こいつの最初1分強くらいが良く出来たロック・アカペラなのだ。あ、でも6人必要では? それにバンド鳴り出してから後のアレンジどうする? むむ。それ以前の問題としてJon Andersonの声をどうするよ?◆Todd Rundgren: "A Cappella" (Warner, 1985)
これもアナログ盤なのでテープで。一人アカペラと言ってもこれはボコーダー、サンプリングを駆使しての機械アカペラが大半で、そいつらはとても真似しようがないのだが、中に'Pretending to Care', 'Hodja'などオーソドックスなアカペラものもあり、また良い曲なんだなあこれらが。あ、でもこれも6人必要では? それもTodd×6ってどうするよ?その他にも、StardustとかClose to YouとかCorcovadoとかやってみたいんだけどお手本はどこ? などと悶々とする日々。ご存知の方、お暇ならネタご提供下さい。こちらまで。謝礼は出ませんが、出来上がったコーラス譜のコピーくらいは(非公式に)差し上げたいと思います。
9/5 ケータイ発見電いえ電報でなくハガキが来ました。随分遠くの警察署から。やはりタクシーの中で落としてました。という訳でトコトコ地下鉄乗り継いで晴れた秋の日の遠足気分で。警察なので「気を付けて下さいよ」とお小言の一つも言われるかと思って行ったのたが、そんな訳ないよね。極めて事務的に迅速に受領。
電池は切れかかってたけどメモリはセーフ。いやー何が嬉しかったって、苦労して打ち込んだ着メロが生きてたことほど嬉しいことはあるまい。って何か間違ってないか。ともかく、今後はちゃんとクリップ付きのストラップを付けておくことを固く心に誓ったのだった。そしてもう一つの教訓:
「要不要にかかわらず、タクシーの領収書は貰っておこう。」
これさえあれば、タクシー会社に電話して速攻取り戻せていたはずなのだ。おマヌケ。ところで「そば飯」、オリジナルな表記は「そばめし」であるらしいです。だからどうした。生協の冷凍品はまずまずだったのですが、この辺に書いてあるのを見ると鉄板で強火で炒めたご本家を食べてみたくなります。おコゲ美味しそう。そろそろ東京のお好み焼き/もんじゃ屋でも出すようになるか?
でまた何の脈絡もなくレビュー。聴いたのは全部先月です。
◆イヴァン・リンス『僕は誰?』 Ivan Lins: "Quem Sou Eu?" (Philips, 1972/2001)☆
30年近い年月を超えて何故か日本でよみがえる(その点は偉いぞ日本人!)、若きIvanの航跡。実際、Elis Reginaに'Madalena'を提供(1970か?)してから、1974年に初めて詩人Vitor Martinsと組んで'Abre Alas'を発表するまでの間のことは、ファンにさえあまり知られていなかったらしい。その間に彼はマスメディアの求めるままに軽佻浮薄なポップスターを演じてしまい、軍事政権に対してギリギリの闘いを続けていた他のアーティストからの多くの批判に晒されたらしいのだが、その丁度真ん中あたりに発表されたこの盤では、自ら寄せたコメントにも、作品にも、この時期に彼と彼を取り巻くアーティストたちとの間でおそらく交わされたであろう多くの議論、言葉、そして彼自身の真摯な思考の痕跡が感じられる。あくまでも「痕跡」だけだが。
だからなのか、Ivanのこの後の作品に感じられる、充溢する生命力、突き抜けた強靱さとはやや異なり、ここには「青さ」や「痛み」がハッキリとある。その後のIvanのメロディメーカーとしての発展を明確に予見する出来でありながら、このひたむきさゆえ、深夜に一人で聴いたりしてると何だかせつなくなる。Lo Borgesなど「青モノ」路線には惹かれがちな私ではあるけれど、それにしてもこの痛さの源は何? ちゃーんと音楽的に説明できないのが情けないですが。続いて3枚500円シリーズから2点。
◆槇原敬之: "Self Portrait" (ワーナー、1993)☆
マッキーと言えば「No. 1」だなーと思いつつ持ってはいなかったので。シングル1枚より全然安く買ったので文句は言えないが、他の曲がかなりダレてるなあ。「彼女の恋人」とかは好きですが。あと、マッキーと言えば歌詞問題。聴いてて腰砕けするようなフレーズ散見は「No. 1」にしても同じで、どうにもなあ、と。
でも、「No. 1」のようなサビが書ければ人間、他になんにも要らないと思う。あーまた歌モノに甘い点をつけてしまうのだが。◆高野寛: "Ring" (東芝EMI、1989)☆
「いつのまにか晴れ」の原曲確認のために。というか多分どこかで聴いてるはずなんだけど、聴いてみるとまるで記憶なし。1枚通してまず思うのは、あれれ、この時代ってこんな音作りでフツーだったっけ、ということ。一人多重録音的なプロダクションが多いとはいえ、あまりにもペラペラなのだが。
それを差し引いても、彼のソングライティングの良さが出ているとはちょっと思えない出来。辛うじてラスト数トラック(「五十歩百歩」「7つ目のサイクル、5つ目のベクトル」「Blue Period」)が最初期の「虹の都へ」「ベステン・ダンク」を思わせる感じで。
というわけで皆さん、「いつのまにか晴れ」は矢野版を是非ご一聴下さい。
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