埒外な社会経済

いえ私が埒の外にいるとかそいういうことでは…。


2002.03.16 WTCテロ半年:そして何が変わった?

NYCのWTCテロから半年が過ぎた。その暫く前から気になっていたのだが、テロをどう記憶するかというNYC市民の動きとか、街を再建する話とか がTVであまりに多すぎて、こんなに多いとさすがにどうかと思ってしまうのだ。人の亡くなった数で比べるのは不謹慎に見えるかも知れないが、だが人の命に 軽重はないと考えればそれも一つの比較だろうと思って考えてみる。数千人の死者を出したWTCテロに相当するこうした報道を、他の地で起こっている各種の 戦争や紛争の犠牲者に関して、しているだろうかと。米国は日本にとって、いくら何でもそこまで特別な国なのかと。

米国民、特にNYC市民がこのことについて心の整理をつけ、街の再活性化に心を砕くこと自体には、もちろん異存などない、あろうはずがない。だがし かし、そのことの「日本での」「報道のされ方」については首を傾げざるを得ないのだ。日本にいて持つべき想像力の射程と方向性というものを、メディアは真 剣に考えたことがあるのか? 今回のテロ事件からアフガン攻撃に至る一連の流れはまさにそうしたことの試金石になり得たはずなのに、メディアは結局そこで全く自己の姿勢を省みなかった ということではないのか?

ついでにもう一つ気になるのは、ソルトレークの冬季オリンピックの米国内での報道のされ方だ。実は4年前の長野で独占放映したCBSも同じだったのだが、今回NBCがやった放送もひたすら米国選手の活躍場面のみだったらしい。米国民の多くが海外の事情にかなり疎いのは結構有名な話だが、それを再生産するようなメディアの偏向が続いてるというのは何か暗澹とせざるを得ない。こういうことだから「次はイラクを叩く」なんつうプランが今なら世論の指示を得られると政権が考えたりするんだろうなあ。どうにかならんかUSA。


2001.10.06 子供は募金に立たないで

赤い羽根の季節だ。決して心の冷たい人間ではないと自負する私だが(...あ、笑わないように。)、この時期になると駅前を通り過ぎるのが憂鬱になる。

いたいけな子供たちが声を張り上げるのだ。「赤い羽根のきょーどーぼきんにごきょーりょくをお願いしまーす。」彼らは素直だ。声に彼らの素直さが乗っている。そうでなければ、そそくさと歩き去るのも気まずくないのだが。

本当は、ちょっと彼らをテストしてみたいのだ。募金の趣旨は? 用途は? 配分の基準は? これを訊いて答えられないような募金には、本来なら寄付する価値はないはずだ。何故なら、募金というのはあるまとまった目的のために集められ、寄付する側はその目的のために使われるからこそ納得し、寄付をするというものであるはずだからだ。

だが、多分彼らはそんなところまで教えられていないだろう。訊くのは酷だ。素直な心を傷つけたくない。だから、気まずくてもさっさと通り過ぎるだけだ。

それにしてもこの、「赤い羽根の共同募金」ということ以外、特に何も呼び掛けないでも募金が集まる集金システムというのは何だろう。とりあえずわか るのは、「赤い羽根」は募金の超有名ブランドだということである。だとすると、募金に立つ子供らのさせられていることは、いわば「ブランド商売」、ブラン ドバリューでお金を集めているということだ。そういう活動を子供たちにさせていいのか? むしろマイナスではないか。

成長途上の子供たちだからこそ、募金の意義とシステムをきっちり理解し、それに則った募金活動によりお金を集め、それが目的通り活かされるのを見届 ける。そうあってほしいのだが、大声を張り上げてお金が集まったということの爽快感で終わってしまうのでは、その子たちがかわいそうだ。

もう一つ言えば、様々な目的の募金を中央共同募金会に集約して配分するというやり方も、戦後すぐの発足当初はともかく、今の時代にはそぐわなくなっ ているのではないか、と思う。目的をある程度限定した中で、寄付した側の納得感を担保に活動する、それが本来の姿じゃないだろうか。

だがあちらは超有名ブランド。居心地の悪い日々が当分続く...。

【付記】関連リンクとしてこれを。言ってはナンだが、千葉ならあり得ない話でもない気が...。それにしてもこれはヒドイ。


2000.9.21 日本語をオトナにする。〜インタビューアの不遜について

皆さんは、っていきなり呼びかけるのも珍しいのでさすがに肩に力入りすぎかとも思うのだがそれはともかく。皆さんはあれが不快ではないだろうか。

あれ、ってのはたとえばこう、今やってる五輪の水泳選手が入賞を果たしてインタビュー席に来ると、アナウンサーが開口一番こう言うのである。

「5位でした。」

何と答えればいいというのだ。

「はい。」あるいは、もう少し長く「そうですねー。」いやいや、質問はまだ終わってはいないと思って黙ーってても別に構わないはずだ。

一言目に「おめでとうございます!」とも言わないトンデモナさはさて置く、というか個人の資質がいやしいだけなんで言ってもしょうがない。だがね え、インタビューってのはクエスチョン&アンサーのことではないのかい。少なくとも我々は学校でも家庭でも地域のおじさんおばさんからも、

「5位でした。」

が質問文だとは微塵ほども教わっていない。

だが、正しい言葉遣いをするべきTV局が何とこれを質問と思って投げかけている。

ひどい話だ。

しかも、競泳選手たちはこんな問いかけ(??)にもかかわらず、

「はい、もう少しいけると思って頑張ったんですけど、全力を出し切ったのでこれが私の実力だと思います」

とか、はきはき答えているのである。健気だ。というか、なまぬくい温室育ちのエリートアナなんかよりずっとオトナだよ彼らは。

そう言えばずっと昔、勝利力士って何でインタビューであんなにブスっとしてるんだろう、って思ってたけど、それは当たり前だったんだよな。

「さて見事金星を挙げました北の誉関です。...(関取現る)...関取、金星ですよ。

どう答えろっていうんだ!


2000.4.8 法治国家危うし。って元々なのか、これ?

今年の4月1日はウソ記事の一つも作らずに過ぎてしまった。桜咲く今頃になって「ウチのすぐ横にあるソメイヨシノは樹齢200年の古木(笑)で」 「言い伝えでは古葉某という兄弟が仇討ちを果たして自害した場所に生えたとかで『コバザクラ』と呼ばれている」とか思い付いたがもう遅い。もったいないな あ。せめて人ひとりくらい担ぎたかった。ところで「コバザクラ」というのは、建物の陰から半分だけ顔出して咲いているので、かつて広島カープの古葉監督が ダグアウトから半身だけ姿を見せていたのになぞらえて私達が勝手につけたあだ名です。古い譬えですまんこってす。

そうそう、ウソ作りなどやる気にならなかったのは、ひょっとしたらこういう冗談みたいなことが本気で進んでいるのをニュースで知ったせいかもしれない。詳しくはここにあるけど、そのうちなくなるかも知れないから要約して引用:

沖縄県議会3/30日の本会議で、「沖縄県政を糾す有識者の会・国旗国歌推進沖縄県民会議」が提出していた「県の外郭団体 などあらゆる県の機関から『一坪反戦地主など』を役員から排除するよう求める陳情」を自民、県民の会、新進沖縄の与党の賛成多数で採択した。陳情は県執行 部に送付される。

県議会事務局によると、採択された陳情は法的拘束力はないものの、県議会の意思表示が県の判断に影響を与える可能性はある。一坪反戦地主会の崎原盛秀代表世話人は「憲法によって保障された思想・信条の 自由、基本的人権を踏みにじる暴挙であり、断じて許せない」と声明を発表した。

一坪反戦地主会は1982年、米軍基地への土地提供を拒否する軍用地主を支援する目的で結成。1人1万円を拠出して嘉手納基地や普天間飛行場内の土地を共有する。現在、会員は約2300人で会社員や公務員、国会議員、大学教授など職業はさまざま。

(『沖縄タイムス』2000年3月31日記事(オンライン提供)より一部省略して引用)

ちょっと待て、って思いません? んー、思わないかなあ。でも陳情だから強制力はない、とかいって国旗国歌法みたく暗黙の強制力が働いたりするんだろうなあ。法による強制よりよっぽどたちが悪い。だって「強制してない」って逃げられるんだから。

これが法治国家かと思うと、ホント暗澹としてしまうよ。

法治の基本は行為主義のはずである。要はその人がどんな人かという分類やレッテル貼りはせず、あくまでも行為と結果の認定から法の適用を行うのが、 法の精神だろう。しかしこの「一坪反戦地主は公務から排除」というのは、まだ何かした訳じゃないのに公民権を制限されるってことでしょ。それって何?

これがもし、一坪地主であることを犯罪として確定できるのであれば、公民権の制限もできることになるけど、それは無理でしょう。あるいは、公務についている者がその職務にもとることを職務中に行ったから諭旨免職した、そしたら偶々一坪地主。というのならわかる。

だが、何はともあれ一坪地主を公職に就けるな、ってんだから、これは人種差別や性差別と変わらないでしょう。根拠のなさにおいて。

このことを「法的に疑義あり」と申し立てるには、実際この陳情で地位を脅かされうる人による地位確認か、あるいは実際に採用差別があったと思われた 時点で訴訟を起こすしかないだろう。そういう具体的なケースがあるまで、採択された以上この陳情は有効=尊重される、ってことになる。

こっちの「異議申し立て」の方のフローは、実に厳格に行為主義に基づいている。

何かアンバランスじゃないか?

そもそも、県議会ってとこはミニ立法府として条例などを制定する機能を持っている訳で、そこが法を尊重しないってか、そもそもの法という考え方すら 蹂躙するような決議をすることに関して、それで誰かが実際にひどい目に遭って申し立てをして、裁判で最終的に無効を確定してもらえるまで有効ってのは、何 かおかしくないか。

私は制度のことはまるっきり素人なんでよくわからないが、かつて高校の政治経済の時間にならった断片をつなげると、こういうことになる。と思う。

・まず、立法府を監視する機能は司法府が持っている。これを「立法審査権」と言う。

・立法審査権は、訴訟の審理を通して行使される。(立法行為そのものに横槍を入れられる、という訳ではない)

・なおかつ、訴訟はあくまでも具体的な不利益を蒙ったもののみが行使できる。(これは、判例集にあった「自衛隊違憲訴訟」で言われていたのだと思う。学者や市民運動家が原告となって行った訴訟だが、具体的不利益が生じていないということで門前払いになった。)

ということは。立法府が公民権を制限する方向性を持っていた場合、われわれ名もない市民は踏んだり蹴ったりってことですか?

百歩譲って、不利益を蒙った場合の申し立てや訴訟の結論がさっさと出ればいい。でも、こういうのって大方数年〜十数年でしょう、過去の事例を見ると。

私はやっぱり何か制度自体がおかしいと思うのだが。
どうでしょう、教えて偉い人!


【おまけ】 この陳情を提出した人の論理(破綻)

陳情を提出した「沖縄県政を糾す有識者の会・国旗国歌推進沖縄県民会議」の恵忠久会長つう人の言ってることがめちゃ面白いから是非味わって下さい。(以下「」内は『沖縄タイムス』2000年3月31日記事(オンライン提供)より引用)

「反戦地主たちの目的は、たとえ軍用地にせよ、自分の土地を公共の福祉のために使わせないことだ。」

じゃ、あんたは自分の土地を公共の福祉のために喜んで供出してるんだろうな。してなきゃすぐに誰か強制収用に行かせます(笑)。

「日米安保条約を廃止する歴史観を持つ人が、公共団体の長となることはおかしい。」

何で? 民が選んだならそれでいいじゃん。

「平和祈念資料館の監修委員など、県民を指導すべき立場の人が偏った思想を持つのは前県政のなごり。」

おお、自分が偏ってないとでも。笑止。

なんか、こんなトンチキな陳情が通るって、何なのかねえ。


1999.7.28 均等法と住む自由

先日、会社の同僚と飲んでいて、給与とか諸手当の話になったのである。

ボーナス支給直後なので、その減り具合がどうの、と、もう大変な盛り上がりである。聞いてると、一般職の女性が軒並み大幅減(元々額面的に厳しいのに)なので、不満爆発のようだ。給与体系が一般職に薄く、総合職には手厚く出来ているという現実を、改めて目の当たりにする。

その話の流れで、ある女性がこんなことを言った。

「あたしだって好きで独り暮らししてるんじゃないんだから、独身寮に入れてよね。」

おお、そうだった。どういうわけか、独身寮と言えば男性限定なのである(多分、多くの在京企業ではそうだろう)。いやその、男女混合では風紀が云々なんていう理由ではなく、これは明らかに「一般職女性は親元から通え」と言ってるんだよね、暗に。

ちなみに、総合職女性の場合は、さすがにそういう態度を取る訳にもいかず、社宅1室に2人ずつ住まわせたりしていたようだが。

で、この一般職の彼女は、親の転勤で一人東京に残ることになり、独り暮らしを始めたのだが、会社は独身寮はおろか、借り上げさえしてくれない。で、家賃のおそらく1/4にも満たない、なけなしの家賃補助だけで何とかやっている。

時は今、1999年。改正男女雇用機会均等法元年である。この事例って、まずいんでないかい?

うん、多分まずいのだが、そういうことに気が付かないという企業側の鈍感さはちょっと凄いと思う。これで訴えられたら勝てないと思うぞ>会社

かなり端折ったので、一度整理してみよう。

要は、合理的な理由なく、採用や待遇に格差をつけることは許されない。これが均等法のキモである。

女性だからというだけで、男性同様の安い住居費を享受できない、というのは実質的な賃金格差である。あるいは、彼女らの給与の実額と、東京の異常な 家賃相場を考えれば、それは遠回しに「親元同居しない女性は辞めて下さい」と言っているのと同じであり、これはこれで非合理的な理由による差別と言えるだ ろう。これ、どう見ても改正均等法アウトだと思うが、どうだろう。

話はズレて行くのだが、どうして日本の大企業というのは、何かと社員の居住を縛りたがるんだろうか。色々聞いてみると、メーカーに顕著な傾向で、金 融などサービス業はそれほどでもないらしいが。社宅や寮に住む奴ばかりが経済的にトクをするような制度というのは、ソフトにではあるが居住地の選択を狭め ているわけで、そういうやり方が許されていること自体、どうかと思うのだが。居住の自由、ってのを知らないんだろうか。憲法にまで書いてあるぞ。

私事になるが、私は社宅に住んでいない。家に戻ってまで会社社会なんてまっぴら、というのもあるが、それ以上に、社宅の場所が連れ合いの通勤に著しく不便なのである。だもんで、馬鹿高い家賃を払い、その1/5程度のなけなしの家賃補助を受けている。

社宅に住めば多分、家賃補助と同額程度の持ち出しで、今よりはるかに広い家に住めてしまうのである。これが到底「合理的な格差」と思えなかった私はかつて、組合の集まりでその旨を主張し、家賃補助の増額を検討するよう求めた。

反応は、実にお寒いものだった。それを必要とする人はごく少数なので、優先度が低い、と。

会社と仲良しの組合に、人権感覚などある訳がなかったのだ。私が甘かった。しかし、この問題は本当に「居住の自由」に抵触しないのか。4倍の負担は合理的な格差と言えるのか。2倍超えたら違憲ではないのか。あ、それは一票の格差か。しかしこの件、今でも疑問だ。



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ただおん

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