モーツァルト劇場公演『コシ・ファン・トゥッテ』日本語版 (2001.10.13、新国立劇場・中劇場) (2001.10.18)


『フィガロの結婚』と同じダ・ポンテ脚本、モーツァルト作曲になる『コシ・ファン・トゥッテ』(Cosi Fan Tutte, 1790)はいずれ是非観たいと思っていたオペラだ。二人の男が老哲学者から許嫁の貞節に疑義を挟まれていきおい賭けに応じ、老哲学者の指示に従って別人に成りすましてお互い相手の許嫁を24時間以内に口説き落とそうと奔走、落ちなかったら二人の勝ち...という、端折ってしまっては埒もない筋立てなのだが、そんなことで揺らいでしまう恋人同士の心のあやと、そんな心の弱さを受け入れて、安定した関係に安住せず常に相手に働きかけることの大切さを、この他愛もない仕掛けの中で描き切る脚本の妙に魅せられる人が多いのは大いに頷ける話だ。(ネタバレは面白くないので、あらすじについてはこれまで。)

この筋立てだから当然これは喜劇(オペラ・ブッファ)である。喜劇の命は笑いの間であり、これを原語上演・字幕付きで十全に楽しむことは不可能なので、モーツァルト劇場主宰の高橋英郎は、オペラの日本語版上演の中でも特にオペラ・ブッファ、オペラ・コミックに意義を見い出し、力を入れて来ている。昨年の『フィガロ』(行けなかった...ちぃっ)に続き、今年のオペラシティ公演でこれを取り上げたのは自然な流れと言える。

だが残念なことがいくつかあった。まず何より肝腎の日本語が聞き取りづらい箇所がかなりあった。昨年の『フィガロ』(筆者はビデオで観た)に比べても格段に難しく思えるのは、一つにはスコアの書かれ方にある。『フィガロ』が、アリアの部分と語り(レチタティーヴォ)の部分を明瞭に区切り、歌唱とオケとの関係もいわゆる「歌と歌伴」を基本とするのに対し、『コシ』は語りもアリア含めて場面転換が有機的なつながりの中で劇的に展開し、オケもむしろ歌唱や語りの盛り上がりに寄り添うような、一体化した動きを見せる。こうなると、歌唱がオケに埋もれて、歌詞が聞き取りにくくなる場面がどうしても多くはなる。この点まで考慮した訳詞、および演奏解釈、演出があればなお良かったのだが、後述するような諸事情を考えるとそれは無理だったのではないかと思われる。

また、歌手によって聞き取り易さにバラつきがあるのも課題だろう。どうしても声量が今一歩届かなかったり、発音がモゴモゴした感じになるところがあり、言葉を聞かせるという観点から言うと、そこで聴衆に特別な集中力を求めることになる。いきおい、ドラマとしての流れはそがれてしまう。この原因は、歌手のレベルという面もあるかも知れないが、今回の公演に限って言えば十分な準備を行えなかったと思わせる部分が大きい。6人のメインキャストをダブルで組み、かつ常設でないオケとゲネプロまでこなすのは、相当な負担ではないかと想像する。

実際、モーツァルト劇場のプロダクションは軒並み持ち出しであると聞く。助成も協賛・後援のクレジットも非常に少ない。海外の著名歌手や著名劇場による来日公演(もちろん原語)にスポンサーが鈴なりになっているのとは好対照だ。日本におけるオペラの受容は、劇と音楽による総合芸術なんぞではなく、まず何よりも「歌」であり「音楽」なのだ。確かに歌も音楽も結構だが、しかしそれ「だけ」ではオペラの楽しみは半分かそれ以下ではないだろうか。その両方がリアルタイムで共鳴しあって、ぞくぞくするような盛り上がりやあっと驚く展開を生み出すことに音楽劇の醍醐味があるならば、日本語版オペラ上演の意義はもっと語られ、注目されてもいいと思う。特に間合いとテンポが重要なオペラ・ブッファについてはなおさらだろう。そのためには必ずしも超のつく名歌手でなくてもいい。歌の実力もそこそこありつつ、加えて巧みな演技力と明瞭な発音、さらに願わくば「華」のある存在感をバランス良く兼ね備えた「名優」こそが観たいのだ。

今回の公演は残念ながら、様々な要因からそれらが十分に実現されてはいなかったと思う。しかしそれは前述のような「市場環境」の中でやっている以上、限界があるということをも、多分示しているのだ。決して楽ではない環境ではあるけれど、同劇場には引き続き奮闘を期待したいと思う。

なお最後に、今回の公演で特筆すべき点をいくつか挙げておきたい。まずオーケストラ、これは『アンサンブル of トウキョウ』という30人強の小編成のオケだが、このうち専任のメンバーは20名程度らしいので、今回の公演の編成は10名程度のゲストを迎えた、いわばテンポラリーなオケと言える。だが彼らの息の合い方は素晴らしい。各パート内での乱れのなさ、パート間、例えばホルンと木管のアンサンブルの精緻さ、そしてオケ全体としても、テンポチェンジの多い厄介なスコアにもかかわらず一糸乱れず棒に付いて行く一体感。今回の公演では歌手とのズレが時々耳についたのが残念だったが、いずれにせよこのオケを得たことはモーツァルト劇場にとって大きな財産だと思う。

また、今回の演出(中津邦仁)は舞台を現代に移し、導入部ではリアルタイムで舞台を撮した映像をバックスクリーンに流すなど、あっと驚く仕掛けを無理なく随所に導入して聴衆を引き込むのに成功している。またシンプルな舞台装置ながら(予算面の制約もあったかと思うほど、時々貧弱に見えたのが残念だが)、ここに群衆と椅子だけを動かし、廻り舞台を回転させるだけでダイナミックな場面転換を作り出す手腕は高く評価したい。

歌手では、許嫁姉妹の小間使いで、狂言回し的に立ち回るデスピーナの役を演じた高橋薫子が、満場の注目をかっさらう見事な演技を見せた。早口でも明瞭な発音と十分な声量に加え、動きと表情を総動員したサービス精神溢れる演技は、このオペラの喜劇としての性質を十二分に引き出して圧巻であった。

(end of memorandum)



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