聴いた、観た、買った ---淡々と音喰らう日々。

2001.03

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★は借りた新着、☆は新規購入。

今回集中的に論評したディスクなど:
ピアノのこと(矢野顕子: Super Folk Song / Piano Nightly) /
Ivan Lins @ブルーノート東京(詳報) / Ivan Lins: A Cor do Por-do-Sol /
Nana Caymmi: Especial / 矢野顕子: Home Girl Journey /
Pat Metheny: Trio -> Live / Roxy Music: For Your Pleasure


◆思い付き次第思い付いただけ更新しています。
◆日付はその日付のコメント自身への、CDタイトル前のマーク(◆)はそのCDのレビュー自身へのダイレクトリンクになっています。
◆文中のCDタイトルのリンクは、以前のコメントへ遡れるようにしてるつもりですが、かなり気まぐれです。


3/31 年度末在庫一掃フェア2001

というわけでもないけど、CDレビューのバックログ解消にいそしんでみる。

矢野顕子: "Home Girl Journey" (Epic, 2000)☆
ちょっと予告に書いたとおりで、過去2作の弾き語りソロに較べると選曲の方向性も演奏も随分と雰囲気が違う。激しいです。で、田島貴男とか槇原敬之などを初めて取り上げている中で、実はベストトラックはSMAPの「しようよ」だったりする。冗談抜きで素晴らしいです。こんないい歌詞だったんだとしみじみ。いや、SMAPの青い感じもわるくないんだけど。
この人、「言葉はじゃまくさい」と明言するだけあって、逆に歌詞の内容に厳しい選曲をしてるように思う。特に今回はテーマ的にも絞り込まれ、奥田民夫「さすらい」を中心に、しがらみを断ち切って思いのままに疾走することの肯定、みたいな内容が多い。その極端なケースが谷川俊太郎の作詞になる「赤いクーペ」か。「ほほえみに疲れた君だけをのせて/このいのちが終わるまで」。どうにも止めようのない宿命の暴走。
というわけでコトバ的にも結構すさまじいのだけど、演奏がまた。より叩きつけるような表現が多くなっているのは選曲のせいもあるけど、矢野のピアニズムの変質でもあるように思う。分厚い和音の連打は"Piano Nightly"(1995)迄はむしろ極力回避されていた奏法だったはずで、この転換はその後のスタジオ録音盤で音楽的にフォーク・イディオムへの接近を進めていったのと軌を一にしているように見える。

Pat Metheny: "Trio -> Live" (Warner, 2000)☆
若手のベーシストとドラマーとのトリオによるスタジオ盤"99->00"(1999)を受けてのツアーのライブ。スタジオ盤は聴いてないので比較できないが、トリオとしての音の厚みの限界をカバーするためか、ギターへのエフェクト、ギターシンセの多用などにより、いわゆるトリオの音からはずれる部分が大きくて不思議な感じ。それはいい面もあるのだが、一方でただでさえMethenyの独壇場に近い3人のバランスをよりMetheny寄りに傾けてしまっているきらいもあり。トリオとして聴くと完全な破綻に近いが、逸脱好みの人には面白いと思う。私は結構楽しんでいるクチ。

Roxy Music: "For Your Pleasure" (E'G, 1973)☆
ロキシーの2nd。昨年末くらいに聴いていたのだがずっと寝かせていた。Brian Enoの参加はこの盤までということで聴いたのだが、今から見るともう脱退寸前としか思えない影の薄さで、すでにFerryのワンマンバンド化がかなり進行していると思える音。その少し歪んだ楽曲作りなどはまあ面白くはあるのだが、でもRoxyてこんなものだったの、という感は否定できないな。


3/25 文体評議会(The Style Council)

一端の家庭人であるので(...って、冷静に考えるとどういう意味だかよくわかんないな)、休日は散歩がてら家族で買物に出たりするのである。もちろん洗濯大臣としての任務も忘れてはいない。しかし今日は案外天気がもたなくて、風呂場とベランダの間を生乾きの洗濯物を抱えて右往左往する羽目に。おぉ、大臣手ずからこのような...などとねぎらいの声を掛ける者はない。何せ当家は1部署1名(しかも兼務あり)の小さな政府なのである。小さすぎて部屋の片付け要員が確保できないのが最大の懸案である。
...はい、お察しのとおり只のぐうたらです。お見逃しを。

K.T.さん、おっしゃることは大体つかめて来たと思います。ただし文体は内在的に湧き出るものではどのみちなくて、借り物のパッチワークを使い倒した(コジャレた言葉で言えば「エラボレート」した)結果、それぞれの独自性が作られていくものでしょう。K.T.さんと中学生氏が居るのはその途上だと思うんです(翻って私はそんなに真剣に文体を考えてないので何の途上でもないです)。ある文体に「回収」しようとする圧力がそんなに支配的なものとは思わないです。
それから、15歳と36歳の文体が偶々似ていても別に構わないような気が。年齢、あるいは生年という属性がある一定のデモグラフィックな指標を成すことに異存はありませんが、今どきそんなに決定的な要素でもないんじゃないか、と。あらゆる情報は年齢別に細分化されることなくアクセス可能で、過去の情報も最新の情報も等価なものとして同じ場所に並置され...(特にネット上なんかその典型でしょう)。ま、私自身何となく年齢不詳でいたいという希望を持っているので、特にそう思うのかも知れませんが。

で私の暫定結論: 「正しい中年男性」とは、年齢不詳・性別微妙オトコのことである。サウイフモノニ ワタシハナリタイ。

Nana Caymmi: Especial (Parrot, 1993)☆
ブラジルのアーチスト別コンピものシリーズ中の1枚。ナナ・カイミはDorival の娘でDoriとDaniloの姉。しかしこの国ってそこそこモノになってる一族ミュージシャンって多いなあ。でも特にCaymmiファミリーは別格という気がする。Doriの深く沈潜した音世界はもちろんだが、このNanaもシンガーとして40年代生まれくらいのMPB第1、第2世代から絶大な信頼を得ているらしい。実際彼女のこの声、よく中性的なんて言われるがむしろ「無性的」とでも言うべき独特の、ややしゃがれた声、そしてニュアンス豊かにたゆたうような歌唱はちょっと他にない。ただ、このコンピでも古い録音のものについては歌い方も若いし、曲としても割とありきたりなものがあって、時代ってあるなあと本筋と関係のない感慨を持つのだった。
この盤では、作者のMilton Nascimento自ら客演する'Ponta de Areia'、父Dorivalの'So Louco'、そして作風で異彩を放つIvan Lins70年代中葉の作品'Tens (Calmaria)'あたりが、個人的には聴きどころだと思う。


3/22 勝手に交換Web日記2001

というわけでK.T.さん、ご賛同どうもです。そして「留意すべき点」についてですが、私は以前誰かから「君は梶井の『檸檬』が気に入ると思う」と、どういう根拠でか薦められて読んだ挙げ句に「そうでっか、ええご身分でんな」とうっちゃった記憶があるので、彼が「憂鬱を感じ」ようが何しようが割とひとごとって感じなのです。少なくとも、ウェブ日記文体がそんな「実存的不安」を呼び覚ます何かではないと思う。譬え話ですが、英語を押しつけられたある地域の住民がそれを単純に「コンテンツを浸食する不快な形式」と思っているかどうか。ある部分そうであろうとは思うのだけれど、それは与件であり、改造可能なツールでもある(という訳でかどうでか、各種ピジン英語というのが各地で発達している)。ウェブ文体の表現様式に共通性があるとすれば、それは手始めとしてある一群の文体を参照した結果に過ぎないし、逆にその共通性がウェブ上での「コンテンツに依存しない流通性」を保証すらしているように、私には思えます。いわば共通通貨。国際決済をドル建てで行えばたしかにドルという固有の通貨の信用を補強はするのでしょうが、そのことによって固有の取引内容が浸食されることはない、みたいな。これまたとても強引な譬えですが。
もっとも、こんなのんきなことを言うのも、私がひどく読書をしない人間で、それゆえ文体のはらむ問題に鈍感だということかも知れません。乞うご指導。

ちょっと連休報告。3/18は久々のスタジオセッション。ベースは練習してないせいで弦の押さえが今一つだったり、ピアノは指が回らずしどろもどろだったりで、合わせたというより個人練習の延長をさせて頂いたような塩梅。3/19に髪をカットし、3/20に友人の新居祝いに押し掛ける。大人7人お子様4人が集まってワイワイと、そしてのんびりと。「ひょみさん最近、矢野サンよく聴いてるっていうから」と友人が矢野顕子:"Home Girl Journey" (Epic, 2000)を引っ張り出して掛けてくれる。あれ、出てたんだ新譜...何かそういう話はあったのでCD屋の棚も見てたのに完全見落とし。もはやライフワークとなった「歌い継いでいきたい曲を掘り起こしてはピアノで弾き語り」第3弾だが、これ何だか選曲もかっ飛んでるし演奏は激しいし、気になる気になる。速攻買います。

で、相変わらず矢野ばかり聴く毎日ですが、その間隙を縫って新着のCDもぼつぼつと聴いています。それはまた改めて。


3/18 不甲斐ない人々を後目に連休入り

やや暗めの記事(3/5付↓)のまま放っておくのはちょっと気が引けたのだが、まあ色々あって更新どころではなかったので仕方がない。で明るくなりましたでしょうか私? って自分ではよくわからないので判断は人任せにしてしまうのである。確実に一つ明るい話題といえば、飛び石連休谷間にあたる明日の月曜は久々に休暇のための休暇、つまり風邪とか園の行事(役行者(えんのぎょうじゃ)にあらず)とかではない、単純に休みたくて休む日なのだ。ふーう疲れたぞこの3ヶ月。リフレッシュしてフレッシュマンになってやる(ってそんな無茶な)。

K.T.さん、掲示板とかないんでここから話しかけちゃうんですが、別にK.T.さんの文体が若いとか中学生氏の文体が年齢離れしてるとかいうことではないような。どうでしょう、こんな風にウェブ日記的なものを綴っている時って、自分の社会的属性に縛られた文体が鬱陶しくなって、そこから逃げたくなったりしないですか? 私はそうなんですが。というか、会社文体とか社会人文体とかって、形骸的で馬鹿馬鹿しい部分がありすぎて、日頃から出来れば使いたくないと思ってきたので。だから、個人サイト系の文章でそこから離れようとする傾向はごく当然のことであって、K.T.さんも中学生氏もそうだと私には見えるんです。で、この年齢不詳文体の源泉は多分、昨今のコラムニスト文体、特にナンシー関とか堀井憲一郎とか、あるいはえのきどいちろうとか? にあるんではなかろうか、と私の限られた知識からは思っているのですが。(この辺はどなたか、もっと詳しい方に...)

Ivan Linsのライブに行ってから随分日が経ってしまったのですが、少し詳しいレビューをアップしました。それからCDレビューを以下に:

Ivan Lins: "A Cor do Por-do-Sol" (Abirl, 2000)☆
この5年振りのスタジオ録音新譜と、Miles Davisが発案したという豪華なトリビュート盤のリリースを引っ提げての来日だった訳だが、この新譜、「円熟」という言葉が本当に相応しい、と思う。円熟の「円」の字は丸くなるってイメージがあり、エキセントリックな魅力を放っていたものが丸くなるのはむしろ「枯れていく」ようで今一つ寂しいというのが相場だろうに、Ivanのこの盤は以前より親しみやすいメロディラインを散りばめ、非常に練れた耳当たりの良い、コンテンポラリーなアレンジで処理しているにもかかわらず、非常に挑発力があるのだ。喜ばしいものはより喜ばしく、遠いものはより遠く、そして激しい非難はより激しい口調で、といった具合に。
...あ、全然音楽的な評になってないのだが、そんな訳でIvan Linsを初めて聴いてみようという方には是非この1枚をお薦めしたい。彼の魅力全ての見事なインデックスとして機能すると思う。


3/5 不遇? いや、これを「すばらしい日々」((c)奥田民生)と呼んだりもするのだろう、多分。

別に不覚を恥じて長いこと書かなかったのではなく、単に忙しかったのである。本当はこんなに仕事に人生捧げたくはないんだが(家のこともあるし)、他にやる人がいないんではしょうがない。いや、私のパートナーの女性は有能この上ないのだが、私以上に家庭に掛けなきゃいけない時間が多いので安易に背負わせる訳にはいかないのだ。そんな訳で、多分私がテコ入れしないと職場自体がガタガタのボロボロに(今でさえそうなのに、更に)なっていくのである。ったくもう。

という状況において何故、日々矢野顕子ばかり聴いているのか。それは話せば長くなるのだが話す。職場の同い年の同僚と飲みに行ったのだが、それはまああれやこれやで行き詰まっていたのでまあ愚痴を聞いてもらおう的なノリであった。「竹を割ったようにサッパリした」とよく言われる、と自嘲気味に言う、ちょっと男前な彼女はそこで開口一番(だったか二番だったか)、「泣かなきゃダメだよ」と言ったのである。涙が出ないのは強がって自分の弱さをさらけ出せないからだ、と。いや確かに私は「ええかっこうしぃ」であって、人前でいかにも問題ないように振る舞おうとしがちだけど、でも泣けないというのはそれとは関係ない。一人でいても涙など出ないのだから。

子供の頃は泣き虫だったのだ。いじめっ子にからかわれちゃ泣いてた。ろくにケンカもできなかった。それが泣けなくなったのはいつのことだったか。「男は泣くもんじゃない」というプレッシャーはあったがそんなの構わず泣き喚いていたから、そのせいだとは思えない。何があったんだろう。それは今もよくわからない。

で、とりあえず一つ、泣く代わりにできることを思い出したのだ。
ピアノが1台、ほしいと思う。
さすがにその一緒に飲んだ彼女も、この答えには突っ込みようがなくて呆然としていたが、でもそれは本当だ。一人ピアノに向かって---上手くもないので聴かされる方は迷惑この上ないが---、その場で思いついた曲を、音を思い出しながら拾って鍵盤に並べていく。時々休んで余韻の中にいる。あるいはたまに、激しく叩きつけてみたり。就職して家を出る以前は時々そうしてたっけ。

ひょっとすると、その代償行為として矢野の弾き語りを聴いているのかも知れない、と思うのだ。4〜5枚持ち歩く中に必ず、弾き語りソロ2タイトルが入っている。言葉と声とピアノが、以前聴いたとき以上に深く心に染み込んでくる。

"Super Folk Song" (Sony, 1992)から:
'SOMEDAY'(佐野元春)
'How Can I Be Sure' (Felix Cavalier)
「それだけでうれしい」(矢野顕子/宮沢和史)

"Piano Nightly" (Sony, 1995)から:
「虹がでたなら」(宮沢和史)
「いつのまにか晴れ」(高野寛)

たった2枚でこれだけ「絶唱」と言うべき録音があるのも驚異。
ところで前者には録音現場のドキュメンタリー映像(『Super Folk Song〜ピアノが愛した女』)がある。実は私は聴くことで満足してしまって暫く観ないでいたのだが、これが鳥肌モノなので是非お薦めしたい。マスダさん推薦文参照



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