ゴミ箱を空にしますか?
遊休CD合否判定会

Trash Can Image (c) by ugyoh.


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CDラックを設置し整理しているうちに、しばらく聴いていないCDや、それだけでなく今後も多分聴かないだろうというCDをいくらか発掘したので、少しずつ聴き進めて、放出するかどうか判断することにしました。「ゴミ箱」という言い方はキツイような気もしますが、別にホントに捨てるのではなくリサイクルする訳なので、CDにとってもそれが幸せというものでしょう。

順次登録していきます。「判定」欄に×印のものは放出決定、△は処分保留、○は復活、です。×印のものについて「何がそんなにアカンのんか一遍聴いてみたい」という方、メール下さい。気分によっては差し上げるかも知れません。ってゴミを人に押しつけてどうする。あ、だからゴミじゃなくてリサイクルなんだってば。
(2000.1.15)


2000.11.12登録分

アーチスト/タイトル

判定

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Owsley
(Giant, 1999)

×

逡巡したが、放出に決定。ポップソングとしての評価を以前Matthew Sweet: "Altered Beast"と比較した時の印象は結局変わらずじまい。只、今回は以前聴いたときほどの否定的な印象は持たなかった。好きな人は必ずいると思う、このタイプの音楽。何故そう確信するかと言えば、どこか自分の青かったところ(で、それは今もどこかに痕跡を残している)を疼かせる何かがあるからだ。敢えて放出するのは、それを切りたいということ。ビートルズが最高だと言い続けるオッサンになんてなるもんか。今を生きよう。

2000.5.22登録分

アーチスト/タイトル

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ハイポジ『ハウス』
(Kitty, 1997)

×

やっぱり放出に決定(以前の印象は変わらず)。そうそう悪いものではないんだけれど、ハイポジの取り柄をこういう「超豪華ゲスト参加のイマっぽい音作りでもイケてしまう個性派」なんて凡庸なものとは認めたくない身としては不要品扱い。「ムーン・リバー」の意表を突いたコラージュとか(タネ明かしになってしまうので詳細は書かないが)結構いいので惜しいって言えば惜しいが。

2000.2.18登録分

アーチスト/タイトル

判定

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ハロー
(Alfa, 1990)

×

元Pinkの福岡ユタカと矢壁アツノブによるユニットの1st。レンタル屋の放出品。これを買う前、音楽好きの友人と、日本の男性ボーカルで面白いのって誰だろう、などと話していて、福岡ユタカとこのユニットの名が挙がったのだった。福岡については板倉文らのKilling Timeへの客演で好印象があったので買ったのだが...何というか、Pinkそのままなのだな。中にはアフリカ(のどの地方とまでは同定できないけど)のリズムに取材したものなんかもあるのだが、曲作りの歌謡曲度にひきずられて完敗してる。Pink的な音作りという点では、プレ・デジタルロック的なテクスチャも所々あって興味深くはあるのだけれど、個人的にそういう音が好みじゃないこともあり、これは他の人が持ってくれたほうがいい盤と結論。

追記(2000.3.28) 気になっていたので調べたが、テレ朝「ニュースステーション」の新テーマ曲はやはり福岡ユタカであった。"Halo"の時に何故これができなかったか、と思うほど自身のボーカルの"癖"を活かした佳品だと思う。

2000.1.15登録分

アーチスト/タイトル

判定

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シヴーカ
(1973)

×

ジャズ/フュージョンの世界でも名の知れた、ブラジルのマルチミュージシャンの初リーダー作。自作のほかに、エルメート・パスコアール、エドゥ・ロボらMPB作品、またR&Bの名曲「エイント・ノー・サンシャイン」をセルジオ・メンデス風ロック・ボサ・アレンジで採り上げたりしている。
...が、ワタクシ的にはそれだけの盤なのだなあ、と改めて確認。米国で活躍したせいもあるのか、MPBのジャズ/フュージョン的解釈がどうも興をそぐ。これも、ジャズからボサノヴァへの「勘違いに満ちた片思い」の延長上にあるのだろうか。

セミソニック
『フィーリング・ストレンジリー・ファイン』
(1998)

これは、何だか捨て難いのである。端的に言って、70年代以降連綿と続く米国中西部的なポップ・ロックの一典型で、メロディセンスがいい分、ちょっと聴いたところは相当な甘口なのだが、これ放出するかとなると思いとどまってしまう。
この感覚は、何故自分はマーク・ノップラー/ダイアー・ストレイツを積極的に聴かないか、というのに似ている気がする。ノップラーも買ってないから持ってないけど、買ってたら放出はしてないだろう。リスペクト、なのかも。

くじら
『島の娘』
(1989)

×

この1つ前のアルバム、というか正確にはマキシ・シングル3連作(『花』『カラス』『ネオン』)は傑作だったと思う。で、勢いで買ったのだが、当初からもうあまり聴かなくなっていた。いや、音は面白かったりする。それまでのロックトリオ編成のくじらと比べれば、ギターが一本増えた分、ギターポップとしての表情がずっと多様に、かつファンキーになったと思わせるナンバーもある。
だが、タイトル曲がそれを覆って余りある全体のトーンを象徴している。「島の娘」。「島の」娘、などという表現をするのは島の外から来た者だけである。歌詞はまさしくそのとおりに、南の島に来た若い(?)男が島の娘との一夜の逢瀬をリリカルに語る、という、観光コロニアリズム満載の内容。詞だけではなく、曲も歩調を合わせて腑抜けた南国趣味と自意識のないフォークの垂れ流しだったりする。これは東南アジア買春ツアーオヤジの音楽か? それまでの抽象的でタイトな音楽性と歌詞世界を持っていたくじらとは、えらい違いである。20代前半の私がイヤだったくらいだから、今の私にはもっとイヤだ(笑)。というわけで惜しげもなく放出に決定。

コーネリアス
『ファースト・クエスチョン・アワード』
(1994)

×

かの小山田圭吾の初ソロ・フルアルバムなので放出はどうかと思ったが、これはやっぱだめだわ。のっけからスタカン「シャウト・トゥ・ザ・トップ」まんまの「太陽は僕の敵」。「タイトゥン・アップ」のベースラインに腑抜けたボーカルって変だよねえとしか聴けない「パーフェクト・レインボウ」。ロジャー・ニコルズの「ドント・テイク・ユア・タイム」がやりたかったのはよくわかるが遠く及ばない「ラブ・パレード」。真似だからどうこうじゃなく、聴いてて「何やりたいの?」感が拭えないのはやっぱり、焦点が定まっていない作りだからだと思う。
中で1つだけ当初から面白かったトラックが「バックドア・トゥ・ヘブン」なのだが、これはほとんどインストで打ち込み中心、コラージュされた様々な音源が小山田君の編集感覚の鋭さを証明していたし、リズムブレイクでの肩透かし的なポヘポヘクラクションなど、3の線スレスレとも思えるユーモアが曲に生気を与えていた。考えてみると、これだけが後の彼の「コンセプチュアル・ワークを縦横無尽な編集テクニックを通して構築する」「声は楽器と同等に音素材として扱う」という路線につながっているのだなあ。逆に言えば、だからこの盤はこのトラック以外は「捨て」なのだ。
しかし不思議だ、この1stとそれ以降の落差。もはや「習作」をものするようなキャリアじゃなかったろうに。何故。



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