被団協新聞

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「被団協」新聞2020年1月号(492号)

2020年1月号 主な内容
1面 平和への熱い思い 平和百人一首 手づくりのカルタに込め
2面 日本被団協 木戸季市事務局長に聞く
 被団協運動の灯は消さない

非核水夫の海上通信 185
3面 ローマ教皇のスピーチ
4-5面 日本国憲法は国民の誇り
 敗戦後新憲法に希望を見出した人々

 9条は世界への不戦の誓い
7面 枯葉剤被害者と交流
都民のつどい 署名東京連絡会
元安橋で行動 署名広島連絡会
青年も参加 署名千葉連絡会
8面 相談のまど
 被爆者手帳、保険証、お薬手帳の3点セット。いつも持参を

 

平和への熱い思い
平和百人一首 手づくりのカルタに込め

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星野せいさん(1943年撮影)

新憲法普及のための百人一首

 1947年施行の日本国憲法。国民主権、戦争放棄、基本的人権をうたった新憲法を、日本中の多くの人々が喜びをもって受け止めました。
 東京の星野せいさん(1885年~1962年)もその一人です。
 新憲法普及事業のひとつとして、平和の鐘楼建立会が「平和百人一首」を公募。全国から2万3720首が寄せられ、百首が選ばれました。英文対訳つきの小冊子で発刊され、日本橋三越で発表展(1948年9月)も行なわれました。

手づくりの千枚の札

 外つ国の人も愛づらむ咲きたりて
 日傘に舞ひ散るさくら吹雪は
 
 百首に選ばれた星野さんの歌です。星野さんはこの「平和百人一首」でカルタを手作りし、5人の子どもたちに1組ずつ伝えました。読み札と取り札で1組200枚、全部で千枚です。写真の台帳などの硬い紙を使い、すべて毛筆の手書きです。お正月に集まった孫たちは、このカルタを取り終えるまで家に帰れなかったそうです。
 
 幾千万のいのちやすらぎおほらかに
 新憲法は史をかぎるなり
    千葉・角田博子
 
 広島の焼野にたちし棟長屋
 ゆうべ点く灯のあたたかく見ゆ
    広島・加藤賚作
 
 (4~5面に特集)


日本被団協 木戸季市事務局長に聞く
被団協運動の灯は消さない

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 被爆75年を迎えました。昨年を振り返るとともに、今年の日本被団協運動について、木戸季市事務局長に聞きました。

木戸 2019年を振り返って印象に残ったことが3つあります。ローマ教皇の来日、核兵器禁止条約の署名批准が進んでいること、これからの被団協運動について代表者会議をはじめ全国で広く真剣な討議が行なわれたことです。

核兵器廃絶は全宗教者の願い

 11月、ローマ教皇の被爆地広島・長崎から世界に向けた「核兵器の使用も保有も許さない」メッセージは私たちに希望と勇気を与えました。
 また同じ11月に京都の知恩院でお会いした浄土宗の門主伊藤唯真師も「すべての人の命を守るため、核兵器をなくすのは全宗教者の思い」と述べました。
 こうした宗教者の動きにたいへん励まされる思いです。

核兵器廃絶は世界の大勢

 核兵器の禁止・廃絶を求める声は、いまや世界の大勢になっています。核兵器禁止条約への批准等は34カ国・地域になっており、今年中に50カ国となって条約が発効し、後戻りすることはないと期待しています。

核兵器禁止条約に反対の日本政府

 日本政府は禁止条約にそっぽを向いています。 「核兵器保有国と非核国の橋渡しをする」と言って、保有国が反対し加入しない条約は非現実的と反対しています。
 「橋渡し」というのなら、原爆被害者と核保有国の橋渡しをし、戦争も核兵器もなくすことに努めるのが、被爆国日本政府のとるべき態度ではないでしょうか。

政府の被爆者対策

 政府が援護施策の対象としている被爆者は、1957年の原爆医療法制定後の被爆者健康手帳所持者のみです。最大の被害者である「あの日」とその後の死者に対し、敬う気持ちも、弔う気持ちもありません。
 国の被爆者対策は、被爆者が切望してきた国家補償ではなく、戦争犠牲を国民にがまんさせる反憲法的法律にもとづいて行なわれています。被爆者と国民の命と暮らしを守るために、原爆被害への国家補償、戦争被害への国家補償の実現は喫緊の課題です。

運動の灯は消さない

 10月の全国都道府県代表者会議で、これからの被団協運動について討論しました。そこから、全国組織としての日本被団協の姿が、改めて見えてきました。被団協運動の灯を絶対消さない、という声が相次ぎました。
 「自分の県では被爆者が1人でも残っているかぎり頑張る」という声も聞かれました。各地の運動では、すでに被爆者だけの運動ではなく、二世や家族、支援者が一体となっている現状が報告されました。被爆者運動の将来の方向がそこにあると感じました。

戦争起こすな、核兵器なくせ

 被団協運動を振り返って見ると、「ふたたび被爆者をつくるな」という願いは1945年8月6日、9日のあの日から始まっている気がします。いままで想像できなかった、信じられないことが起こった、こんなことは2度と起こしてはいけないという思いです。
 被団協は「核戦争起こすな、核兵器なくせ」、「原爆被害への国家補償」を要求してきました。突き詰めれば「戦争起こすな、核兵器なくせ」ということです。
 私たち日本人は、日本国憲法で戦争を起こさない大きな仕組みを持っています。日本国憲法9条です。原爆被害への国家補償法は、9条にもとづく法律になります。戦争被害に対するきちんとした補償が、戦争を起こさない保証となるのです。

被団協運動を受け継ぎ課題と向き合う人びと

 私たちの課題は、結成宣言の「自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意」です。
 今、運動を担う新しい人々の活き活きとした働きが生まれています。各地の被団協運動を一緒にやっている人びと、継承する会で被団協運動を学んでいる学生、ヒバクシャ国際署名運動に結集している人々…明日を切り開く方々だと思います。大いに期待しています。


ローマ教皇のスピーチ

2019年11月24日 広島平和記念公園

 「わたしはいおう、わたしの兄弟、友のために。『あなたのうちに平和があるように』」(詩編122・8)。
 あわれみの神、歴史の主よ、この場所から、わたしたちはあなたに目を向けます。死といのち、崩壊と再生、苦しみといつくしみの交差するこの場所から。
 ここで、大勢の人が、その夢と希望が、一瞬の閃光と炎によって跡形もなく消され、影と沈黙だけが残りました。一瞬のうちに、すべてが破壊と死というブラックホールに飲み込まれました。その沈黙の淵から、亡き人々のすさまじい叫び声が、今なお聞こえてきます。さまざまな場所から集まり、それぞれの名をもち、なかには、異なる言語を話す人たちもいました。そのすべての人が、同じ運命によって、このおぞましい一瞬で結ばれたのです。その瞬間は、この国の歴史だけでなく、人類の顔に永遠に刻まれました。
 この場所のすべての犠牲者を記憶にとどめます。また、あの時を生き延びた方々を前に、その強さと誇りに、深く敬意を表します。その後の長きにわたり、身体の激しい苦痛と、心の中の生きる力をむしばんでいく死の兆しを忍んでこられたからです。
 わたしは平和の巡礼者として、この場所を訪れなければならないと感じていました。激しい暴力の犠牲となった罪のない人々を思い出し、現代社会の人々の願いと望みを胸にしつつ、じっと祈るためです。とくに、平和を望み、平和のために働き、平和のために自らを犠牲にする若者たちの願いと望みです。わたしは記憶と未来にあふれるこの場所に、貧しい人たちの叫びも携えて参りました。貧しい人々はいつの時代も、憎しみと対立の無防備な犠牲者だからです。
 わたしはつつしんで、声を発しても耳を貸してもらえない人々の声になりたいと思います。現代社会が直面する増大した緊張状態を、不安と苦悩を抱えて見つめる人々の声です。それは、人類の共生を脅かす受け入れがたい不平等と不正義、わたしたちの共通の家を世話する能力の著しい欠如、また、あたかもそれで未来の平和が保障されるかのように行われる、継続的あるいは突発的な武力行使などに対する声です。
 確信をもって、あらためて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代において、犯罪以外の何ものでもありません。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反します。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています。それは、わたしがすでに2年前に述べたとおりです。これについて、わたしたちは裁きを受けることになります。次の世代の人々が、わたしたちの失態を裁く裁判官として立ち上がるでしょう。平和について話すだけで、国と国の間で何の行動も起こさなかったと。戦争のための最新鋭で強力な兵器を製造しながら、平和について話すことなどどうしてできるでしょうか。差別と憎悪のスピーチで、あのだれもが知る偽りの行為を正当化しておきながら、どうして平和について話せるでしょうか。
 平和は、それが真理を基盤とし、正義に従って実現し、愛によって息づき完成され、自由において形成されないのであれば、単なる「発せられることば」に過ぎなくなると確信しています。(聖ヨハネ23世回勅『パーチェム・イン・テリス――地上の平和』37〔邦訳20〕参照)。
 真理と正義をもって平和を築くとは、「人間の間には、知識、徳、才能、物質的資力などの差がしばしば著しく存在する」(同上87〔同49〕)のを認めることです。ですから、自分だけの利益を求めるため、他者に何かを強いることが正当化されてよいはずはありません。その逆に、差の存在を認めることは、いっそうの責任と敬意の源となるのです。同じく政治共同体は、文化や経済成長といった面ではそれぞれ正当に差を有していても、「相互の進歩に対して」(同88〔同49〕)、すべての人の善益のために働く責務へと招かれています。
 実際、より正義にかなう安全な社会を築きたいと真に望むならば、武器を手放さなければなりません。「武器を手にしたまま、愛することはできません」(聖パウロ6世「国連でのスピーチ(1965年10月4日)」10)。武力の論理に屈して対話から遠ざかってしまえば、いっそうの犠牲者と廃墟を生み出すことが分かっていながら、武力が悪夢をもたらすことを忘れてしまうのです。武力は「膨大な出費を要し、連帯を推し進める企画や有益な作業計画が滞り、民の心理を台なしにします」(同)。紛争の正当な解決策として、核戦争の脅威による威嚇をちらつかせながら、どうして平和を提案できるでしょうか。この底知れぬ苦しみが、決して越えてはならない一線を自覚させてくれますように。真の平和とは、非武装の平和以外にありえません。それに、「平和は単に戦争がないことでもな〔く〕、……たえず建設されるべきもの」(第二バチカン公会議『現代世界憲章』78)です。それは正義の結果であり、発展の結果、連帯の結果であり、わたしたちの共通の家の世話の結果、共通善を促進した結果生まれるものなのです。わたしたちは歴史から学ばなければなりません。
 思い出し、ともに歩み、守ること。この三つは、倫理的命令です。これらは、まさにここ広島において、よりいっそう強く、より普遍的な意味をもちます。この三つには、平和となる道を切り開く力があります。したがって、現在と将来の世代が、ここで起きた出来事を忘れるようなことがあってはなりません。記憶は、より正義にかない、いっそう兄弟愛にあふれる将来を築くための、保証であり起爆剤なのです。すべての人の良心を目覚めさせられる、広がる力のある記憶です。わけても国々の運命に対し、今、特別な役割を負っているかたがたの良心に訴えるはずです。これからの世代に向かって、言い続ける助けとなる記憶です。二度と繰り返しません、と。
 だからこそわたしたちは、ともに歩むよう求められているのです。理解とゆるしのまなざしで、希望の地平を切り開き、現代の空を覆うおびただしい黒雲の中に、一条の光をもたらすのです。希望に心を開きましょう。和解と平和の道具となりましょう。それは、わたしたちが互いを大切にし、運命共同体で結ばれていると知るなら、いつでも実現可能です。現代世界は、グローバル化で結ばれているだけでなく、共通の大地によっても、いつも相互に結ばれています。共通の未来を確実に安全なものとするために、責任をもって闘う偉大な人となるよう、それぞれのグループや集団が排他的利益を後回しにすることが、かつてないほど求められています。
 神に向かい、すべての善意の人に向かい、一つの願いとして、原爆と核実験とあらゆる紛争のすべての犠牲者の名によって、心から声を合わせて叫びましょう。戦争はもういらない! 兵器の轟音はもういらない! こんな苦しみはもういらない! と。わたしたちの時代に、わたしたちのいるこの世界に、平和が来ますように。神よ、あなたは約束してくださいました。「いつくしみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます」(詩編85・11―12)。
 主よ、急いで来てください。破壊があふれた場所に、今とは違う歴史を描き実現する希望があふれますように。平和の君である主よ、来てください。わたしたちをあなたの平和の道具、あなたの平和を響かせるものとしてください!
 「わたしはいおう、わたしの兄弟、友のために。『あなたのうちに平和があるように』」(詩編122・8)。 (カトリック中央協議会ホームページ)


日本国憲法は国民の誇り

敗戦後新憲法に希望を見出した人々

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「百のうた千の想い」(上)を
編集した大竹桂子さん(下)
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青年団誌「稲城」創刊号(上・復刊
された合本から)と巻頭言(下)

新憲法が生まれたころ

 日本国憲法は1946年に公布され、1947年に施行されました。施行後、間もなくして文部省は「あたらしい憲法のはなし」など発行し、憲法の普及に努めました。敗戦から間もないこの時期、苦しい生活が続くなかで、人々は、新憲法をどのように受け止め、行動に移していったのでしょうか。1948年に懸賞募集でまとめられた「平和百人一首」や青年団など若者の活動などから人々の様々な思いを見ることが出来ます。

平和百人一首

 新憲法普及事業の一つとして「平和の鐘楼建立会」が1947年に公募し、2万3720首から百首が選ばれました。
 星野せいさんが手作りした「平和百人一首」カルタを保存している、東京・武蔵野市の大竹桂子さん。夫の隆一さん(故人、星野さんの孫)が母親とき子さんから伝えられたもので、大竹さんの子どもたち(星野さんのひ孫)もこのカルタを覚えて遊んだそうです。

甦った平和の歌

 大竹夫妻は2007年に、この百人一首を広く次世代にも伝えるため、絵を添えて絵本にすることを思い立ち、08年5月3日に、日本画家稲田善樹さんの百の絵を添えた「百のうた 千の思い~甦る平和百人一首」を刊行。歌の募集から60年目の憲法記念日に甦ったのです。
 同年5月1日~6日、新宿でB4判の大きさに歌と絵がおさめられた原画展を開催。その後各地で展示される中で、百人の作者の思いをまとめた「平和の歌」という冊子が1949年に出されていると判明。選ばれた百人の一人である小神野籐花さんが一人ひとりに手紙を送り、歌に込められた思いを原稿として集めて作ったものでした。
 「幾千万のいのちやすらぎおほらかに新憲法は史をかぎるなり」を詠んだ角田博子さんは、「…希望と喜びに深い感動を覚えます。平和を愛する叫びは日ごとに高まり、…新日本建設の努力が力強く生まれつつあります。新憲法はこの道を全世界に示しました。…ただひたむきに課せられた重い使命に向かって再建への道を果たさねばならないと信じるのです」と記しています。

よろこびの歌

 選挙権を得、新しい国への期待や農地解放で自分の土地を持てた喜びを詠んだ歌もあります。

 われ選ぶ人のをさむる新しき国輝けと一票を投ず
    東京・小川登子
 
 いく年の苦難の道はひらけたりわが田となりし土に鍬ふる
    東京・戸田武二

戦争を繰り返さない思い

 もう二度と戦争は起こさない、との思いを詠んだ歌もあります。

 さむざむと舗道に孤児の佇つ見ればふたたびかかるいくさなからしめ
    新潟・南雲末子

 東に美し国あり矛はすて海に漁り土にいそしむ
    東京・伊賀良一

原爆の歌

 広島の焼野にたちし棟長屋ゆうべ点く灯のあたたかく見ゆ
    広島・加藤賚作

 広島で詠まれたこの歌の作者が大分県佐伯市の人であることがわかり、佐伯市でも原画展を開きました。作者の娘さんの話で「長男と次男が中国で戦死。被爆したばかりの広島高等師範で学ぶ三男を訪ねて詠んだもの」とわかりました。「父は戦争の話はしなかった。60年たって父の平和を願う気持がわかった気がする」と話しました。

魂のごちそう

 大竹桂子さんは、「平和百人一首は私たちへの魂のごちそう」と言います。「戦後の混乱期に二万数千人の応募があったことを考えると、かぎりなく多くの人たちの思いが、この百首に凝縮されていると思う。現代は、物がありながら、心がすさんでいるかにみえる。だからこそ、この魂の喜びのうたを味わい、感じて欲しい」

青年団誌から

 東京都南多摩郡稲城村(現稲城市)で出された青年団機関誌『稲城』。1947年から75年まで39号を発行。A5版のガリ版刷り、表紙は2色で美しいものです。
 創刊号の巻頭には、次のような文章が掲げられています。
 「民主日本建設の平和の鐘は鳴りひびき、新憲法は発布された。建設へ建設へ我等は足並みを揃へスクラムを組んで!! 若き熱と意気と力を持った、我等でなくて誰がそれを成し遂げよう。春、春。大地に我等の心は満ち満てり、うらゝかな春、そして平和への、自由への、解放への春。我等の希望は何か。名誉か、地位か、金銭か。否!否!理想的社会、多くの人達の幸福な社会、目醒めた個性、知性豊かな個人の完成。これこそ我等の希望なのだ。こゝに『稲城』第1号を送る。諸君の愛読を祈るや切なり」

 「平和百人一首」や「青年団誌」は敗戦直後、新憲法のもと人々が何を求め、どのようなことを大切にしていたのかを教えてくれます。
 つつましい生活の中にも、平和をもとめ、希望を持って、自分たちの力で、いきいきと新しい時代を生き進む姿がみてとれます。戦後75年をむかえ、改めてわたしたちに生きる勇気と力と指針を与えてくれているように思われます。(濱住治郎・工藤雅子)


9条は世界への不戦の誓い

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カナリア諸島グラン・カナリア島
テルデ市にある9条の碑

 1979年6月30日の日本被団協専門委員会では、同年6月8日の「基本懇」発足を受け、基本懇への働きかけについて議論しました。行宗一(ゆきむねはじめ)代表委員(当時)が「原爆は世界初めてのもの。被爆者援護法は日本が初めて考えねばならない法律だ。援護法と核兵器廃絶は裏腹の関係にある。新しい憲法の条文にもとづいて、新しい理念を入れての法律にしなければならない。これから生存する上で、日本の国家が平和理念をもたなければ、存在の意義がなくなるだろう」と発言しています。
 被爆者は、日本国憲法と9条をどう受け止めてきたのでしょうか。日本被団協機関紙編集委員会とノーモア・ヒバクシャ9条の会が昨年9月~10月に行なったアンケートから、声を紹介します。

9条は日本の誇り

 ◆戦争放棄、戦力不保持、交戦権否認に守られて、日本は74年間戦争をしなかった。核兵器のない平和を愛する世界の人びとに賞賛、期待されている憲法9条は日本国民の誇りであり希望です。(長野・女・79歳)

戦争を開始し核兵器被害を受けた国の責任

 ◆日本は、アジア・太平洋戦争開戦の責任があり、国民を巻きこんで多くの犠牲者を生んだ。核兵器被害を受けた国であるとともに、戦争開始の契機を作った国でもある。このような国家として、日本国憲法を通して自らの意志の一端を示したものである。(福島・男・91歳)

不戦の誓い

 ◆完膚なきまで傷みつけられた終戦を経験した日本が、その反省の上に二度と戦争はしないと作った9条だったはず。この74年戦争に加わらずに済んだのは9条のおかげだ。(兵庫・男・75歳)
 ◆戦後平和主義に徹し、誰も傷つけず、傷つけられずこれたのは9条があったればこそ。9条は、日本は戦争をしないという世界への約束である。(福岡・女・75歳)

「戦争しない」よろこび

 ◆新しい憲法ができた時、ああもう戦争が起きることはないと思った時の感激、嬉しさ。忘れません。(京都・女・93歳)

70余年、育ててきた

 ◆アメリカは、日本に再び戦争させない為に第9条を作りました。70余年、日本人が自分達の物として実践し、育てて来た…もう根っこが深くあります。(埼玉・女・74歳)

人類の歩みが培った叡智

 ◆日本国憲法は、それまでの戦争の反省や民主主義の進歩など、人類の長年の歩みの中で培われた叡智が集約されたものです。9条はもとより「個人の尊厳」を基軸とした各条文に示されています。平和なくして国民のしあわせはないことを示したのが日本の憲法です。同時に74年間日本が戦争にまきこまれなかったのは、平和を願う国民の運動があったからです。(千葉・男・73歳)

被爆者の宝物

 ◆満州事変の年に生まれ、何の迷いもなく終戦まで軍国少年として育ちました。戦後の教育によって、平和、民主主義を知り目からうろこの思いでした。後になって戦争否定の憲法が、原爆の惨禍から生まれたことも知ったときは、被爆者として、平和憲法への愛着が深まりました。9条は私にとって宝物です。(神奈川・男・88歳)

世界の宝物

 ◆1999年のオランダ・ハーグ“世界市民平和会議”に参加した時、会議のまとめとして「公正な世界秩序の10原則」の第1が「各国政府は日本国の平和憲法に見習って不戦決議をしよう」でした。空気か水のように当り前の感覚でいたことがすごいことだったんだと、大変な驚きでした。(石川・女・78歳)
 ◆アメリカの高校生に体験を話した時、日本には9条という立派な憲法がある、誇りに思って下さいと言われ、感激した。絶対、憲法9条は守っていくべきである。二度と戦争のない国を守って行くために。(静岡・男・79歳)

政府をしばる抑止力

 ◆8月7日以来死体焼却の火の番をしていた時に聞いた敗戦のニュースは物凄く嬉しかった。社会人になって参加した講座で学力の乏しい私にも理解できる話だった。国民が主人公であり憲法は国の最高法規、政府が守らなければいけないもの。永久に戦を放棄する―政府にこれを守らすのは有権者だと自覚した。(広島・女・88歳)

核時代の生きる道

 ◆核時代の戦争は、核戦争になる危険が大きい。戦争放棄の日本国憲法こそ、今日の核戦争時代に諸国民が守る「平和の道」である。憲法9条を世界の道としてすすめるべきである。(熊本・男・90歳)

 アンケートは9月に「被団協」新聞に同封、ノーモア・ヒバクシャ9条の会賛同者に郵送。10月末までに36都道府県212通の有効回答を得ました。38歳~99歳、被爆者は156人でした。


枯葉剤被害者と交流

ベトナムを訪問 石川・西本多美子
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ハノイ大学で証言する西本さん 戦争証跡博物館で開いたパネル展

 11月17~24日、日本原水協の代表とともに日本被団協の被爆者として、枯葉剤被害者・被爆者支援交流ベトナム訪問に参加してきました。
 ベトナム戦争でアメリカが空中からまいた枯葉剤の被害者は、推定3百数十万人にのぼり、4世代目の今も被害は続いているそうです。
 国立ハノイ大学で「原爆と人間」展を行ない、160人の学生たちに被爆証言をしました。枯葉剤被害者の女性は、背中に大きな腫瘤を持つ体で訴えをしました。差別やいじめにあいながら学校に通い、今は枯葉剤被害者の会職員として働いているそうです。
 ホーチミン市のトン・ドゥック・タン大学では600人の学生たちに証言しました。枯葉剤被害者の女性は、両足の膝から下と片腕の肘から下がない体で訴えました。ここでも「原爆と人間」展を行ない、両大学にはパネルを贈呈しました。
 戦争証跡博物館での原爆パネルと枯葉剤被害者写真の展示には、たくさんの人が訪れました。結合双生児として生まれ、日本で分離手術をしたグエン・ドクさんにも会えました。枯葉剤被害者センターでは、入院患者のみなさんに、友人が持たせてくれたパタパタ鶴を手渡し交流しました。
 長い苦しいたたかいでアメリカに勝利したベトナムの人々の平和への思いはとても強く、核兵器禁止条約に批准しています。ヒバクシャ国際署名がもっともっと広がり、核兵器禁止条約が発効することを願っています。


都民のつどい

署名東京連絡会
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 ヒバクシャ国際署名をすすめる東京連絡会は、11月22日に「都民のつどい2019」を東京都生協連会議室で開き、76人が参加しました。
 「つどい」では幼稚園児のとき広島で被爆した仲伏幸子さんが、大火傷をした母を看取った体験ほかを証言しました。
 ヒバクシャ国際署名キャンペーンリーダーの林田光弘さんは、明快な語り口で署名運動の成果と国際情勢、被爆者の体験を伝え残す重要性を強調しました。
 生協パルシステム東京と東京保健生協、練馬区の地域連絡会がそれぞれの活動を報告しました。
 最後に「おりづる」を全員で合唱。帰り際に参加者は「希望を感じた」「もう少し署名を広げなくちゃ」などと話していました。(村田未知子)


元安橋で行動

署名広島連絡会
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 ローマ教皇が広島に来られて4日目の11月28日、広島では核兵器廃絶のためのヒバクシャ国際署名活動をしました。
 東京から川崎哲さんも来られて午前中平和公園近くの元安橋で実施、30分間でしたが230筆を超える盛況でした。外国人がかわいい子供さんを連れてこられて親子で署名に応じてくださいました。ノー・ニュークリヤー・ウェポンズを語りながら署名にご協力くださったアメリカの男性もおられました。午後はYMCAの集会室で川崎さんの講演会を開き150人の人たちが参加してくださいました。来年こそ核兵器禁止条約が発効するといいねと参加者は異口同音に語っておられました。(箕牧智之)


青年も参加

署名千葉連絡会
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 千葉県署名推進連絡会は11月16日13時30分から1時間、JR市川駅北口でヒバクシャ国際署名行動を行ないました。8団体と個人参加を含め41人(内被爆者8人)が参加。リレートークと歌、青年にはシールアンケートを呼びかけました。署名140筆、シールアンケートには20人が応え、核兵器反対19人、わからないが1人でした。
 パネルを見ていた小学校4年生女の子が妹の手を引き「私も署名できますか」と話しかけてきて署名し、「妹はまだ字が書けないので」と妹の分も署名していきました。
 行動に初めて参加した青年6人から被爆体験を聞きたいとの申し出があり、約束して解散しました。次回は2月29日柏駅東口です。(児玉三智子)


相談のまど
被爆者手帳、保険証、お薬手帳の3点セット。いつも持参を

 【問】先日、フランシスコ教皇さまのミサに参加したいと思い長崎まで出かけました。天候も悪かったためか途中で具合が悪くなり、近くにある病院で受診して、無事ミサには参加できました。
 この時、健康保険証はコピーを持っていたのですが被爆者健康手帳を持っていませんでした。病院での支払い時に、はじめは「自費扱い」と言われましたが何とか保険証はコピーを認めてもらって一割負担をしました。
 被爆者健康手帳を受診した病院に届けないと、自己負担分は戻りませんでしょうか。(福岡・被爆者)

*  *  *

【答】フランシスコ教皇のミサに無事参加できてよかったですね。被爆者健康手帳を持参しなくて自己負担分が請求されたとのことですが、受診した病院まで行かなくても償還払いの手続きをすれば戻ります。居住地の保健所に「一般疾病医療費支給申請書」がありますので、必要事項を記入、捺印し、領収書を添付して申請してください。少し時間がかかりますが支給されます。
 高齢になると出先で急に具合が悪くなることもよくあります。外出する際には被爆者健康手帳と健康保険証、それにお薬手帳を忘れずに携帯するようにしましょう。
 健康保険証も以前とは違って一人に一枚ずつカード化されているので、コピーでなく実物を持つようにしましょう。
 お薬手帳には、処方されている薬が記載されているので、初めて受診する病院でもどんな薬を飲んでいるか確認してもらうことができ、診断にも役立ちます。また、重複して処方しないような配慮もしてもらえます。
 いつも持ち歩いているカバンに「被爆者健康手帳」、「健康保険証」と「お薬手帳」をまとめて入れておくようにすることが大切です。