被団協新聞

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「被団協」新聞2017年 1月号(456号)

2017年1月号 主な内容
1面 戦争も核兵器もない世界へ 沖縄戦被害者と交流 日本被団協結成60周年事業
2面 日本被団協代表委員 年頭所感
日本被団協の「提言」実現を 被爆者の現状から訴え
【四国】中央相談所講習会
非核水夫の海上通信149
3面 「ヒロシマ・ナガサキ、沖縄をめぐるシンポジウム」(12/5〜8)日本被団協沖縄交流ツアー
4面 核兵器のない時代へ― 被爆者運動が切り開いたもの
7面 大塚茂樹著「原爆にも部落差別にも負けなかった人びと―広島、小さな町の戦後史」を読んで(上)
被爆者運動60年(13)『被団協』と出版
8面 相談のまど 特別手当と健康管理手当 併給は認められますか?

 

戦争も核兵器もない世界へ 沖縄戦被害者と交流 日本被団協結成60周年事業

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 日本被団協結成60周年事業として被爆者、支援者35人が12月5日〜8日沖縄を訪問しました。太平洋戦争末期の凄惨な被害の体験を語り合い、沖縄の被爆者、戦争被害者と交流を深めました。日本被団協が団体で訪問するのは初めてです。
 平和の礎、平和祈念資料館をはじめ各種の資料館を見学、普天間、嘉手納米軍基地を遠望し、政府が強行する米軍基地建設を阻止しようと4千6百日を超える座り込みでたたかいを続ける辺野古の人々と交流しました。
 ひめゆり平和祈念資料館では、島袋淑子館長の歓迎挨拶を受け、戦争末期に沖縄陸軍病院に動員された師範学校女子部・高等女学校の教師・生徒240人中227人が亡くなる悲惨な最期の話を聞き、自国の軍隊は住民を守らないという教訓が思い出されました。
 沖縄青年会館でのシンポジウムでは、石原昌家沖縄国際大学名誉教授、木戸季市日本被団協事務局次長、普天間朝佳ひめゆり平和祈念資料館副館長の3氏が発言者を務め、活発に議論しました。
 戦争による生命・身体・財産などの犠牲について、すべての国民がひとしく受忍しなければならないという政府の「戦争被害受忍論」によって、日本がふたたび戦争への道を歩もうとしていることへの怒りをかみしめ、政府が戦争被害を償ってこそ戦争も核兵器もない世界へ進むことができると話し合いました。


日本被団協代表委員 年頭所感

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 過去の歴史は決定的で変えられない。過去を反省し学ぶことが大切だ。人種を問わず、国の大小に関わらず、相手を思いやり、核兵器廃絶に未来志向でネバー・ギブアップ!

坪井 直


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 いよいよ今年は国連で核兵器禁止条約に向けた具体的な論議が始まります。核兵器のない世界の実現のため、皆さんと共に「ヒバクシャ国際署名」で頑張りぬく決意です。

谷口稜曄


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 被爆72年の年頭を迎えて、時代の先行き不透明の中、しっかり腰を据えて「核廃絶」の国際署名を始めた私たちの願いの実現を目指して、頑張っていきましょう。

岩佐幹三


日本被団協の「提言」実現を 被爆者の現状から訴え

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厚生労働大臣との定期協議 第5回
 日本被団協、原爆症認定集団訴訟原告団、同弁護団と塩崎恭久厚生労働大臣との定期協議が12月12日、厚生労働省省議室で開催されました。09年の「原爆症認定集団訴訟の終結に関する基本方針に係わる確認書」に基づいて今回が5回目、約2年振りの開催です。
 日本被団協と原告団、弁護団から交渉団として15人がテーブルにつき、首都圏を中心に全国から100人を超える傍聴がありました。
 日本被団協の田中熙巳事務局長は「政治家の心をもって、具体的な改善につながる回答をいただきたい」とのべ、原告団から森内實さんが「訴訟をおこさずとも、被爆者の救済ができるよう国の対応を望みます」と訴えました。石川県被災者友の会会長の西本多美子さんは、提訴していれば認定されたと思われる人たちが泣き寝入りせざるを得ない現実を語り「被団協の提言をすみやかに受け入れられることを望みます」と訴えました。
 塩崎大臣は交渉団が示した統一要求書について次のように述べました。@平成22年から3年かけて専門家による「あり方検討会」を開き、25年に新方針を出した。非ガン疾病認定は大幅に増え、6か月以内で審査を終える努力をしている A新方針で認定基準を明確化し成果があがっており、判決についてもできるだけ救済している B日本被団協の提言について、仮に改正するとなると法改正が必要。放射線起因性を要件とせずに全員救済となると他の戦争被害者と区別ができない。障害に応じての加算は基準の設定が難しい C定期協議の時期は、今回の開催が2年近くたったことは誠に申し訳ない。次回は1年後を目標に開催したい。
 また大臣は「事務方には確認書の一定の考え方を腹に入れてすすめるよう指示をしていきたい」とのべました。


【四国】中央相談所講習会

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 四国ブロックの相談事業講習会が高知市のホテル高砂で11月16〜17日開かれ、四国3県から24人が参加しました。
 はじめに、これまでに亡くなった被爆者と11月3日に亡くなった中央相談所の伊藤直子さんに黙とうを捧げました。
 初日は、中央相談所の原玲子相談員から「被爆者の老後と介護問題」のテーマで、また日本被団協の田中熙巳事務局長と大下克典次長から「日本被団協結成60年のあゆみと今後の課題」のテーマで講義がありました。
 2日目は「日本被団協60年のあゆみ」のスライド上映のあと、四国ブロック選出の松浦秀人日本被団協代表理事が「これからの四国ブロックの運動を考える」と題して話されました。
 2日間を通して、私たち被爆者および二世は被団協という大きな傘の下に守られている、その力強い存在感を深く胸に刻みました。


「ヒロシマ・ナガサキ、沖縄をめぐるシンポジウム」(12/5〜8)日本被団協沖縄交流ツアー

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一般市民の戦争被害への国の償い
その実現が平和を築く土台

 12月5〜8日、日本被団協結成60周年事業沖縄交流ツアーが実施されました。その一環として6日午後、「ヒロシマ・ナガサキ、沖縄戦をめぐるシンポジウムと交流」が沖縄青年会館(那覇市)で開かれ、同ツアーに参加した被爆者、被爆二世、支援者と沖縄在住の被爆者、沖縄戦の被害者・家族など、約80人が参加しました。
 3人の発言者による報告を踏まえて、広島・長崎の原爆被害、沖縄戦などの体験者が交流しながら、一般市民の戦争被害と国の責任、いかに平和を築いていくかなどについて、活発な議論が交わされました。また、同シンポジウムに先立って、沖縄在住の被爆者10人と、同ツアーに参加した被爆者、被爆二世ら35人の昼食交流会が催されました。

原爆被害、沖縄戦から何を学ぶか
 田中煕巳日本被団協事務局長の主催者挨拶に続いて、最初の報告を務めた石原昌家沖縄国際大学名誉教授は、1945年4〜7月に住民を巻き込んだ凄惨な地上戦が展開された沖縄戦は、当時これに続くと予想されていた「本土決戦」を少しでも日本に有利なものにするための「時間稼ぎ」「捨て石作戦」であったとし、以下のような趣旨を強調しました。
「沖縄戦の教訓は、軍隊は住民を守らない、それどころか、作戦上、自国民を殺害したり、死を強制したりするということ。そして、住民被害者らを『準軍属』『戦闘協力者』と位置づけて遺族年金らを支給することによって、住民被害者を『自ら進んで戦争に協力した者』にすり替え、国は沖縄戦の実態を180度逆転して描き出そうとしている」。
 続いて報告に立った木戸季市日本被団協事務局次長は、広島・長崎で悲惨きわまりない原爆被害を、世界中のどのような人々にも二度と味わわせたくないというのが被爆者の最大の願いであると訴えながら、次のように主張しました。
「『ふたたび被爆者をつくるな』という被爆者の長年の訴えを実現するためには、世界中から核兵器をなくすとともに、国による被害への償いを実現することが不可欠。そのために、沖縄戦被害者、各地の空襲被害者とも手を結んでいきたいし、若い世代の取り組みにも期待したい」。
 休憩を挟んで、普天間朝佳ひめゆり平和祈念資料館副館長は、その活動とこれからについてこのように話しました。
「ひめゆり平和祈念資料館は、ひめゆり学徒生存者らが中心となって、すべて自力と周辺からの支援によって設立・運営されている。観光・修学旅行コースにあり、平和博物館としては来館者が多い。体験者と継承者がともに仕事をし、歩んできたのも特色のひとつ」。

被害の実態や『受忍論』など活発な議論が
 3人の報告に熱心に耳を傾けていた参加者からは、用意されていた時間が足りなくなるほど、活発な発言と討論が続きました。沖縄戦の被害者、「謝罪と損害賠償」を国に求める裁判を提起している原告からは、幼かった自分たちや家族の被害実態、裁判の経過と展望、「国に求めることは二つだけ。謝罪して、賠償せよ」など、切実な発言が相次ぎました。
 被爆者からは、「沖縄戦、広島・長崎の原爆被害、日本全国の都市空襲被害など、先の戦争で一般市民が被った被害について、日本の国は『みんな等しくがまんせよ』という『受忍論』を繰り返し、責任と償いを果たしていない。その実現こそ揺るがぬ平和を築く土台になるし、そうでなければ市民がまた戦争被害に遭うおそれがつねに存在し続ける」などの訴えや意見がありました。
 まとめ発言として石原氏は、「みなさんの議論を聞いていて、国が事あるごとに沖縄戦被害を『集団自決』と言えというのは、『受忍論』の一種だと気がついた」と述べました。また普天間氏は、「学徒生存者が高齢化するなか、戦争体験をもたない説明員や学芸員による展示説明、平和講話への取り組みなど、長く後世に向けて平和を語り続けていけるよう、今後とも工夫を重ねていきたい」と話しました。
 参加者からは、「重い体験」を交流しながら、これから取り組むべき課題について、率直、誠実、具体的に語り合うことができた、実り多いシンポジウムになったなどの感想が数多く聞かれました。


核兵器のない時代へ― 被爆者運動が切り開いたもの

 「核兵器のない時代へ〜被爆者運動が切り開いたもの」について、長年被爆者運動に携わってこられた栗原淑江さん、核兵器廃絶国際署名推進連絡会のキャンペーンリーダー林田光弘さんと日本被団協の藤森俊希事務局次長が話し合いました。

核兵器の現状と背景

国際世論が決議を推進
林田 核兵器そのものは90年代なかなか減らなかった。国連で核兵器禁止条約交渉開始決議に賛成した国の多くは、まず国際法の中で違法化していくことを先にやろう。核を使うとか脅すとかはすでに国際法でも禁止されていることで、核保有国に、そういう立場を示すことで、核兵器禁止へ前進させようという動きだと思う。
栗原 アメリカがこの決議への反対にあそこまで躍起になったのは、それだけ国際世論に追い込まれていることの裏返しだ。核兵器禁止を訴え続けてきた被爆者や日本と世界の平和運動は、確信をもっていいと思う。
林田 日本はアメリカにびくびくしている感じがする。
 オランダは今回、国内の意見を反映させて反対しなかった。そのオランダに対してアメリカが非難しているかというとそうではない。
藤森 この間、核兵器の人道上の影響に関する国際会議を3回、ノルウェー、メキシコ、オーストリアで開いた。核兵器を爆発させないことが人類の利益であり、核兵器を使わないことを保証するには、核兵器を廃絶する以外にあり得ないというのが結論だ。非常に分かり易い論理だ。
 その先端を切ったのはノルウェーだが、当時の首相は、いまNATOの事務総長。ノルウェーは今回の国連決議に反対した。核兵器禁止条約の会議を開いても出ないと言っている。
 禁止条約決議は市民社会の力を強調している。世界の市民社会が連帯し大きな運動を起こしていくことがカギになっている。
日本は主権国家として
林田 核兵器が使われる状況は、国際法上限りなく違法であることがすでに出ている。核兵器を持っている5カ国プラス数カ国は、圧倒的優位な立場に立って、国際法違反の兵器を例外的に保有することを認められている。他の国々が怒るのは当然だ。
 日本は主権国家として圧倒的優位に立つ5カ国の立場はおかしいと主張して欲しい。5カ国から非難されれば、5カ国の方がおかしいという世論が絶対生まれてくる。日本がそっちでリーダーシップを取って欲しい。
栗原 日本は広島、長崎で実際に原爆を投下された国なのだから、被害の実態に即して、国際法違反だと、本来なら言い続けなければならなかった。戦争中1回だけ抗議文を送っているが、戦後は核兵器を禁止する実定法がないから国際法違反とまでは言えないという立場をとっている。原爆を使った国と使われた国が核軍事同盟を結んで今日まで来ている。日本政府が核兵器禁止条約へ向かっていくか、世界中が注目している。それを裏切ってはいけない。

立ち上がった被爆者

原爆は何なのか自ら調査
栗原 被爆者の証言や体験記を読むと、原爆が落とされたとき、ガスタンクに爆弾が落とされたとか、自分の家が焼夷弾でやられたとか、外に出たら街が無くなっていた。はじめは何が起こったのか分からなかった。
 この世の地獄を体験し、そこから長い時間をかけて、原爆が何なのかと自ら調査し、証言活動をしながら明らかにし続けてきた。いまなら放射能とか心の傷とか、ある程度のことは分かっているけれど、被爆者が自分の人生を通じて明らかにしてきた歴史があったからこそ、私たちは原爆が何なのかを知り得たのだと思う。
林田 事務局次長の木戸さん、代表委員の岩佐さんと会う機会が多く、木戸さんが被爆者運動をして初めて被爆者になったと言うのが、ずっと気になっていた。
 岩佐さんも被爆体験とは、8月6日、9日に限定されたものではなくて、その後の人生を含めて被爆体験なのだという。
 講演で8月6日、9日の話をしてくれと言われ、そのあとの話は時間切れで話せないままになることがあるという。それでは71年生きてきた、本当の怖さは伝わらない。2人の話を聞くと、いま栗原さんがおっしゃったことと重なる。

核の絶対悪を世界に告発
栗原 岩佐さんは、目の前でお母さんが焼き殺されるのを助けることができなかった。逆もあって、子どもが焼き殺されて、お母さんが助けることができなかった体験。心の傷は、想像を絶するものがある。そういう中から被爆者は、こんな苦しみは子や孫はもちろん、世界のだれにも味わわせたくないという思いを土台に据えて、運動を作り上げてきた。
 原爆は人間として死ぬことも生きることも許さない、つまりモノのように虫けらのように、人間としての尊厳を奪われた状態で殺されていっただけじゃなく、それを助けられなかった自分をあのとき自分は鬼になった、人間でなかったと苦しみ続ける。そういう被害は反人間的だから、絶対悪の兵器だと言い、人間の存在と相いれないと世界に訴えてきた。
 その訴えが世界に広がり、今のヨーロッパや世界の人たちが核兵器の人道に反するところに着目して核兵器廃絶を進めている動きの底流にあったのだと思う。被爆者が果たした役割の一番大きなベースだろう。
林田 署名は民意を表面化するツール。憲法と同じく「不断の努力」をしてはじめて活きる。半年で集めた50万の署名は、国連で重みをもって受け止められた。
 核兵器のない世界の方が人はより幸せに生きられる。一人一人が個人としてそのことを考え合う場、きっかけにして運動を広げ、政治家や国がその民意をないがしろにできないような状況をつくっていきたいと思う。


大塚茂樹著「原爆にも部落差別にも負けなかった人びと―広島、小さな町の戦後史」を読んで(上)

わたり病院医師・斎藤紀(前福島生協病院院長)
1 ふたつの壁
 重い記録である。本書の副題は「広島・小さな町の戦後史」とある。小さな町とは広島市西部の福島町である。
 広島はかつて軍都として栄え、明治期以降の侵略戦争と軍人の衣食住を支えた歴史をもっている。原爆により広島の街は壊滅し敗戦を契機に日本の歴史は大きく回転した。本書の主人公たちもこの共通する大回転の中にいるのは間違いなかったが、かれらを阻んだふたつの壁―部落差別と原爆被害は、戦後民主主義という脚本のなかで自動的に突破されるものではなかった。本書は生きる意味をめぐる濃密な精神の記録でもある。
2 起点
 本書は六章で構成される。第一章は明治期の福島町の沿革である。日本近代史に対する日清・日露両戦争の影響は大きいが、福島町にも深く作用した。日清日露の磁力は福島町に軍需にかなう食肉(産業)・皮革(産業)・屠場をつよく引き寄せ、農村部から人々を飲み込み、福島町を日本有数の都市部落として登場させた。その急激な興隆は同時に身分制に抵抗する思想をも鋭く発芽させたのであった。
 筆者はその緊張と喧噪の舞台に地元出身でシベリア抑留後に復員する木原清春(1914―1981)と高知出身で広島に移ったキリスト者、益田小(こえん)(1904―1998)を登場させている。本書における、差別に抗する人間の側の起点である。音楽を愛し才豊かな木原は部落解放運動の先頭に立つが、その清澄な心と知性は子ども会活動などを通じ若者の精神に沁み入った。地域からも深く敬愛された彼は、この地域の変革の要となる福島診療所設立(1955)とその後の病院建設にもかかわり、他界する間際まで医療生協理事長を長く務めることになった。
 益田小は高知のプロテスタント女子高を卒業し広島に来るが(1924)、乳幼児死亡率の高かった福島町で正規の助産婦となり、寝食を忘れ報酬を度外視し新しい生命のために生涯をささげた。自らも爆心から2キロで被爆するが八カ月の療養のあと復帰し、なくなるまでに1万人近くのいのちを取り上げたという。貧しさをくぐり抜け、ようやくたどり着いた小さないのち、授かったいのちをこの世につなぎ続けたのだ。信仰にやどる鬼気迫る実践であった。
 ふたりに共通することがある。それは自らの活動を誇示しなかったことである。木原は決して政治信条を押しつけず、益田も聖書の正しさを押しつけなかった。ふたりを知り、ふたりを追った多くの人々に、内奥から律する精神性と友愛があるとすれば、ふたりの存在を抜きに語ることはできないだろう。(つづく)


被爆者運動60年(13)『被団協』と出版

 機関紙『被団協』は1975年5月に創刊。79年6月(6号)から月刊化。原爆被爆者基本問題懇談会(基本懇)の発足に対応して宣伝活動を強める必要があったからです。
 80年11月号から常時4ページ以上建てを断行。81年1月号は原爆被害「受忍」論を打ち出した基本懇答申全文と被団協の全面的批判を8ページ建てで展開、反撃に出ました。
 32号では平山郁夫(81・8)「広島生変図」を画伯のご厚意によりカラー見開きで掲載、話題を呼びました。
 全国討議でつくりあげた「原爆被害者の基本要求」は84年12月号で発表、被爆者運動の基礎となりました。
 『被団協』はこの1月号が456号。500号(ヒロシマ・ナガサキ75年の2020年8月号!)へ前進中。
 日本被団協編著の出版物は、85年原爆被害者調査報告『ヒロシマ・ナガサキ―死と生の証言』(新日本出版社94年)、『あの日…―「ヒロシマ・ナガサキ死と生の証言」より』(新日本出版社95年)、『ふたたび被爆者をつくるな―日本被団協50年史』(全2巻・あけび書房09年)が代表的です。
 紙芝居・ミニ原爆展パネル『被爆者からの伝言』(解説CD付き=あけび書房06年)は今も活躍中です。


相談のまど 特別手当と健康管理手当 併給は認められますか?

 【問】私は特別手当を受給しています。
 先月、膝の痛みが強く歩行も不安定になってきたので受診、その時に主治医から「変形性膝関節症」で治療を続けようといわれました。「変形性膝関節症」は健康管理手当の対象になると思うのですが、私のように特別手当を受給していても健康管理手当がもらえるでしょうか。

* * *

 【答】これまでは特別手当を受給しているけれども、今回受診したら「変形性膝関節症」との診断を受けられたので健康管理手当ももらえないかとの事ですが、特別手当と健康管理手当は併給されません。
 現行の「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」による手当は、医療特別手当、特別手当、健康管理手当、保健手当(加給手当も含む)、小頭症手当がありますが、これらの併給は認められていません。
 このほかに介護手当、家族介護手当があり、これらは先にあげた手当との併給が出来ます。
 あなたの場合は特別手当を受給しながら、介護を要するような状態になったときに介護手当または家族介護手当を申請すれば、二つの手当を受給できるようになります。