被団協新聞

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「被団協」新聞2016年 1月号(444号)

2016年1月号 主な内容
1面 日本被団協結成60周年
2面 年頭所感
中央相談所講習会
1000人を超える来場者 東京原爆展開催
核兵器禁止条約の作業部会設置 国連総会も決議
投稿 胎内被爆者が講演
3面 被爆者運動60年(1) 高らかに「世界への挨拶」
日印原子力協定の合意に断固反対
非核水夫の海上通信137
4-5面 戦争で死んだ人たちはもっと語りたい 井上麻矢さん(こまつ座代表取締役社長)
映画 「母と暮せば」
7面 被爆70年のつどい(10月17日)リレートーク発言要旨
相談のまど 介護保険サービス利用時の費用の自己負担…被爆者は?

 

日本被団協結成60周年

自らを救い体験をとおして人類の危機を救う ―― 「世界への挨拶」結成宣言より

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被爆70年のつどい
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リレートーク参加のみなさん=2015.10.17
日比谷公会堂〈写真=亀井正樹〉
 日本被団協は、今年の8月10日、結成60周年を迎えます。
 被爆後11年目に被爆者が日本被団協を結成した際の宣言に「自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意を誓い合った」という一節があります。
 最も救援が必要だった時期、政府から見捨てられ、いわれなき差別にあい、苦難の日々を余儀なくされた被爆者が、やむにやまれず立ち上がったときの気概あふれる決意です。
 ことあるごとに先人の決意を読み返し、胸にこみあげてくるものを感じながら自らを奮い立たせてきました。
 自らを救い、人類の危機を救う2つの決意は、結成から60年たった現在もいささかも揺らいでいません。
 戦争被害は受忍せよという政府の非道な仕打ちと真正面からたたかい、被爆者対策を前進させてきました。
 ヒロシマ・ナガサキの生き地獄の再現を許すなと世界に訴え続け、70年間、核兵器使用は阻止されてきました。
 道はなお半ばです。先人の決意は生き続けます。


年頭所感

めでたさも中位なりおらが春

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  坪井直さん
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  谷口稜曄さん
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  岩佐幹三さん

 小林一茶の句は、慈愛に満ち、生への強い確信を感じさせます。
 一茶の時代から百余年後、人類は、自ら生を全否定する核兵器をつくりました。2発の原爆は、広島、長崎を一瞬にして生き地獄に変え、生き延びた被爆者は、今なお後障害に苦しんでいます。
 被爆者が日本被団協を結成して今年で60年。数々の核兵器使用の危機を乗り越えてきたものの、1万6千発の核弾頭がなお存在しています。すべてを廃棄し、すべての人が心から“おらが春”と言える地球づくりは、これからが正念場です。真正面から堂々、被爆者の道を貫き通しましょう。

 日本被団協代表委員 坪井直 谷口稜曄 岩佐幹三


中央相談所講習会

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九州
 12月5日〜6日、長崎市のホテル清風で開かれ被爆者や二世、支援者220人が参加しました。
 長崎県知事代理で長崎県原対課長の林洋一氏、長崎市長の田上富久氏が挨拶しました。
 一日目は、中村桂子長崎大学核兵器廃絶研究センター准教授の「核兵器の禁止と廃絶へ-世界の動きと日本の課題」、田中熙巳日本被団協事務局長の「日本被団協の運動について」、伊藤直子中央相談所委員の「被爆者の相談活動」の3つの講演がありました。
 二日目は、井口三恵子出口病院看護師長の「認知症になっても私らしい生き方、逝き方」の講演のあと、被爆二世による故山口仙二氏被爆体験の群読、若年被爆者・小峰秀孝さんの証言が行なわれました。小峰さんは、厳しく優しかった母親が103歳まで生きたことに触れ、「もう80歳ではなく、まだ80歳です。被爆の実相を語り伝えましょう」と力強く訴え、参加者の心を打ちました。
 質疑応答の後、各県報告、二世交流会報告がありました。
 参加者からは、「生き続けることが反原爆、と感じられる集会だった」「非情な境遇から立ち上がり団結して紡ぎあげてきた被爆者運動の原点を確かめ合い、さらに障害を乗り越え、前進を勝ち取る決意が感じ取れた」などの感想が寄せられました。


1000人を超える来場者 東京原爆展開催

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 東友会は11月23日から28日「被爆70年東京原爆展〜つたえようヒロシマ・ナガサキ」を開催し、国連原爆展のパネル50枚すべてを展示しました。
 会場は今年5月に開庁したばかりの豊島区役所内。豊島区共催で、区総務課のスタッフが設営時から撤収の時まで全面的に協力。初日に区長、副区長、区議会議長が、また開催期間中に各会派の区議が会場を訪れ、熱心に展示を見ていました。都からも都議や担当課長他職員が来場しました。
 区役所近隣の人をはじめ、都内外から被爆者、支援者も来場。1回では全部見きれないと何度も足を運ぶ人もいて、来場者はのべ1000人を超えました。
 小学生を含む120人以上から、「もうこんなことおきてほしくない。かわいそう。こわい」「はじめて見た。二度とこの様なことが起こらない様伝えたい」など感想が寄せられました。


核兵器禁止条約の作業部会設置 国連総会も決議

 国連総会は、核兵器禁止条約を検討する作業部会設置を盛り込んだ「多国間核軍縮交渉を前進させる」決議を12月7日の本会議で138カ国の賛成多数で決議しました。決議は、本紙前号既報の国連総会第1委員会が11月5日、135カ国の賛成で決議していたもので、本会議では賛成が3カ国増えました。
 米ロなど核保有5カ国を含む12カ国(前回と同数)が反対し、日本など34カ国(前回から1カ国増)が棄権しました。
 決議により、作業部会は2016年、スイスのジュネーブで開きます。作業日は2月中または下旬に4日間、5月上〜中旬に8日間、8月中旬に3日間の合計15日間で検討しています。
 決議は、核兵器禁止条約の検討にあたって国際機関やNGO(非政府組織)の参加や貢献を呼び掛けており、被爆者の発言機会も予想されます。


投稿 胎内被爆者が講演

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「被爆者証言の世界化ネットワーク」代表 長谷邦彦
 日本被団協代表理事の松浦秀人さん(愛媛・70)が11月27日、京都外大(京都市)で被爆体験を語りました(写真)。
 松浦さんを招いたのは同大学に事務局を置く「被爆者証言の世界化ネットワーク(NET-GTAS)」の活動を支える学生サポーター会議(代表・阿比留高広君)。被爆者の生の声を学生・市民に伝える場を作っています。
 胎内被爆者である松浦さんは、結婚や子どもの出産を前にしての不安を振り返り、「被爆者の中で最年少世代。戦争体験のない若いみなさんへの橋渡し役を続けていく」と学生らに語りかけました。被爆者の証言を多言語に翻訳することの意義にも触れながら、現代の国際情勢について「報復の連鎖を断ち切らないと大変なことになる」と訴えました。


被爆者運動60年(1) 高らかに「世界への挨拶」

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日本被団協結成大会(1956年8月10日)

隠された原爆被害
 太平洋戦争最末期の1945年8月、米軍は開発したばかりの原子爆弾を6日広島(ウラニウム型「リトルボーイ」)、9日長崎(プルトニウム型「ファットマン」)に投下しました。熱線・爆風・放射線による死者広島約14万人、長崎約7万人。2つの街は瞬時に“死の街”と化しました。
 当時、日本はすでに敗北必至の状態で、原爆という絶滅兵器を使う必要はありませんでした。戦後の対ソ優位を狙った戦略によるもので、広島・長崎はその見せしめに供されたのです。
 終戦直後、日本を占領した米軍は原爆被害の報道を禁止し、また、日米両国とも被爆者への救援を怠りました。被害は隠され、被爆者の苦しみは拡大し続けました。

ビキニの衝撃から
 米軍占領下でも「原子兵器禁止」のストックホルム・アピール署名運動などが広がりました。
対日講和条約の発効(52年4月)で『アサヒグラフ』の原爆特集、映画『原爆の子』などが登場、広島・長崎の実相が知らされました。
 1954年3月、アメリカのビキニ水爆実験で漁船第五福竜丸が被爆。原水爆禁止の世論と運動が一気に広がり、3000万を超える署名は、55年8月、広島での原水爆禁止世界大会へ発展しました。大会では広島と長崎の被爆者が初めて大舞台に立って、被爆の苦しみと原水爆禁止への決意を語ったのです。
 この運動の高まりが被爆者を奮起させました。翌56年8月、第2回世界大会(長崎)のなかで日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成されたのです。

日本被団協結成
 1956年8月10日、第2回世界大会2日目、長崎国際文化会館の「原水爆被害者全国大会」に集まった被爆者たちは目を輝かせていました。外国代表を含む諸団体の代表たちに見守られて被爆者が結集し、全国組織を生み出すのです。
 壇上に掲げられた垂れ幕は、「原水爆禁止運動の促進」「原水爆犠牲者の国家補償」「被害者の治療・自立更生」など5本。
 「原水爆被害者全国大会」と「日本原水爆被害者団体協議会」連名での大会決議と日本被団協規約を採択し、初代役員を選出しました。
 代表委員=藤居平一、森瀧市郎、鈴川貫一(以上広島)、杉本亀吉、小佐々八郎(以上長崎)
 事務局長=藤居平一

「世界への挨拶」
 結成大会は大会宣言として「世界への挨拶」を採択しました。
 「私たちがこのような立ち上がりの勇気を得ましたのは、全く昨年八月の世界大会のたまものであります。…私たちは自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意を誓い合ったのであります」
 日本被団協は、産声で被爆者運動の原点を高らかに歌い、世界に向けての発信したのです。日本被団協は60年、この道を歩き続けてきました。

 * * *

 「被爆者運動60年」は今年1年間連載します。


日印原子力協定の合意に断固反対

日本被団協が声明
 インドを訪問した安倍首相は12月12日、インドのモディ首相と原子力発電所の輸出を可能にする原子力協定の原則合意を取り付けたことを明らかにしました。
 日本被団協は、同月18日付で、「安倍首相の日印原子力協定の原則合意に断固反対する」との声明を発表しました。インドは核兵器不拡散条約(NPT)に加盟せず、包括的核実験禁止条約(CTBT)の署名、批准もしていない核兵器保有国です。声明は「唯一の戦争被爆国日本が、NPTに同意しない核保有国に原発を輸出することは核兵器廃絶を求める世界の世論に反する行為であり断じて許すことはできない」など、日印原子力協定の原則合意に抗議し、厳しく批判しています。


戦争で死んだ人たちはもっと語りたい 大切な人から受け継ぐ魂のリレー

井上麻矢さん 戦後命の三部作
「父と暮せば」「木の上の軍隊」「母と暮せば」を語る
父が残した種を育て、今の人たちに届けるのが仕事 井上ひさしの魂の継承です。

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井上ひさしさん(撮影:落合高仁 提供:井上麻矢)
 父・井上ひさし(2010年没)は生前、戯曲「父と暮せば」で広島の原爆を描きました。その後、沖縄と長崎を書かなければいけない、と「木の上の軍隊」、「母と暮せば」というタイトルを決めていました。沖縄戦を描く「木の上の軍隊」は、演出家、出演俳優なども決まっていました。「母と暮せば」は長崎の原爆を描くもので、「父と暮せば」と対になる物語だと言っていました。

 * * *

沖縄戦を描く
 「木の上の軍隊」は、2013年に上演することができました。書いてくださった蓬莱竜太さんはまだ30代で、はじめは体験していない戦争を描くことを躊躇されましたが、いずれ体験者がいなくなることをふまえて私たち戦争を知らない世代が自分の子どもたちの世代にどう伝えるのかを考えてほしい、と伝えると「それならできるかもしれない」と引き受けてくれたのです。そして「沖縄戦はまだ終わっていない」という強いメッセージを持った作品になりました。この芝居は作ること自体に意味があったと思っています。私たち日本人の「継承」として。

長崎原爆を描く
 「母と暮せば」は、山田洋次監督によって映画となり、戦後70年の2015年12月に公開されました。この映画化は、山田監督とお話したときに私の口からほろりと出たことから始まりました。
 私たちは芝居として実現したいと思っていたので、先に映画になることに少しだけ抵抗感を感じながら、それでも必死に話をしました。山田監督がどんどんイメージを膨らませて語るのを近くできいて、私がその映画を観たくなってしまったんです。戦争の時代を生きてきた人として、監督が持たれた使命感が強く伝わってきました。「つねに井上ひさしさんと話をして決めているよ。『父と暮せば』を読み返している。被爆者の証言集を読み、被爆者の方たちの声なき声をさぐるようにしてセリフをつくっている」との監督の言葉に、これ以上ない方に父のバトンを渡せたと思いました。

作品を育てる
 父は「戦後の“戦争”を書かなければいけない。巻き込まれた人のひとつひとつのエピソードを書かなければ」と言っていました。そして「父と暮せば」を残してくれました。父が世の中に対して戦争を継承するための種まきをしてくれたのだと思います。これがなければ、「木の上の軍隊」も「母と暮せば」もできませんでした。父が残した種を、ていねいに育て、新しいものにして今の人たちに届けるのが私の仕事だと思っています。井上ひさしの魂の継承です。
 父はよく、作品を人間に置き換えて語っていました。残されたたくさんの作品を父の子どもとすれば、それは私のきょうだいたちです。子どもをケアするつもりで、それぞれの個性を見きわめて大事に育て、たくさんの人に観てもらえるようにしたい。
 「母と暮せば」は、生みの親(井上ひさし)の顔は見ていないけれど、育ての親の山田監督をはじめとするみなさんが手塩にかけて育ててくださったので、世に出ることができたし、みんなに愛される作品になると思います。

広島・長崎・沖縄
 山田監督から、「父と暮せば」「木の上の軍隊」「母と暮せば」の3つの作品で三部作とするならなんと名付けるかと問われ、私は「命の三部作」と答えたのですが、監督が「“戦後”をつけて“戦後命の三部作”にしましょう」とおっしゃって。これからはそう呼ぶことにしました。
 実は、「母と暮せば」をお芝居にする企画がスタートしています。「木の上の軍隊」も今年11月に再演します。
 広島、長崎、沖縄は、父が生涯かけて取り組もうとした土地でありテーマです。忘れ去られることのない歴史がつみ重なったところ-まだまだ勉強しなければならないと思っています。

被爆・戦後70年をこえて
 2015年は被爆70年、戦後70年という節目の年。大切な人に何を残して死にたいのか、大切な人から何を受け取りたいのか、をテーマにしてきました。誰もが、大切な人から大事なものをもらってつないでいく、魂のリレーをみんなやっている、それをもう一回ちゃんと考えてみよう、と。
 「父と暮せば」の上演に合わせた講演で、全国を回りました。ある会場で被爆者の方が「今、みんなが“心の被爆者”になるべき時」と言いました。この国に住む者の心構えとして、被爆者の心に歩み寄ることは有意義なことです。つねに“心の被爆者”でいよう、そういう気持ちで生きていきたいと思っています。

憲法
 父から、「戦争で死んだ人たちはもっともっと語りたいんだ。今は聞こえないが、聞こえないからといってその声を無視することはできない。その声をまとめたものが憲法なんだ。憲法を、命とひきかえにかちとってきた人たちがいた。その声が聞こえないからといって、勝手に解釈を変えてはいけない」と言われて育ちました。
 今の政治の流れを、被爆者のみなさんはどう思われているでしょうか。
 2016年の夏、私たちもしっかりやっていかなければ--そんな思いで、広島の原爆を描いたもう一つの作品「紙屋町さくらホテル」を上演します。

 * * *

 いのうえ まや=井上ひさしに関係する作品のみを専門に上演する「こまつ座」の代表取締役社長。千葉県市川市で育つ。2009年7月よりこまつ座支配人、同年11月現職に就任。2014年市川市民芸術文化奨励賞受賞。2015年11月『夜中の電話-父・井上ひさし最後の言葉』(集英社インターナショナル)、12月『小説・母と暮せば』(山田洋次との共著・集英社)を上梓。
 こまつ座は2012年に第37回菊田一夫演劇賞特別賞、第47回紀伊國屋演劇賞団体賞、フランコ・エンリケツ賞(イタリア)を受賞。


映画 「母と暮せば」

監督・脚本 山田洋次
 映画にもなった舞台作品「父と暮せば」(1994年初演)で広島の原爆を描いた井上ひさしさんが、生前、強く書きたいと考えていた長崎の物語、「母と暮せば」。山田洋次監督の手によって映画となり、被爆・戦後70年の2015年12月12日に封切られ、全国公開中です。
 「父と暮せば」は原爆後の広島を舞台に、原爆で死んだ父親と被爆しながらも生き残った娘の話です。それと対になる作品にと、「母と暮せば」は原爆から3年後の長崎を舞台に、原爆で死んだ息子と残された母親の物語になりました。
 7月には長崎ロケが行なわれ、多くの長崎市民がエキストラとして参加しました。映画の最後に流れる合唱も、200人の市民によるものです。
 山田監督は、この映画への思いを、「泉下の井上さんと語り合うような思いで脚本を書きました。生涯で一番大事な作品をつくろうという思いでこの映画の製作にのぞみます」「この映画は母と息子の愛情の物語だけど、この映画を通して戦争について平和について考えるようになってくれればいいなと思います」と語っています。

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 物語=1948年8月9日、長崎。助産婦をして暮らす伸子の前に、3年前に原爆で亡くしたはずの息子・浩二がひょっこり現れる。その日から、浩二は時々伸子の前に現れるようになった。二人はたくさんの話をするが、一番の関心は、医学生だった浩二の恋人・町子のことだった……。

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 母親・伸子役に吉永小百合、息子・浩二役に二宮和也、浩二の恋人・町子役に黒木華、ほかに浅野忠信、加藤健一、広岡由里子、本田望結、小林稔侍、萬長、橋爪功が出演。共同脚本・平松恵美子、音楽・坂本龍一。


過去を学び被爆者の思い語り継ぐ 被爆70年のつどい(10月17日)
リレートーク発言要旨

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若林一輝さん(東京高校生平和ゼミナール)
 高校生平和ゼミナールは、平和や憲法、現在の社会問題などを学び交流しているサークルです。
今年、私も広島平和学習旅行に参加しました。当時数えきれない程の人々が亡くなったという事実を、その土地で実感しました。被爆者の体験談は、信じられないような衝撃的なお話ばかりでした。丸焦げになった人の写真なども見せてもらいましたが、自分の家族や友人がこんな形でいなくなるのは嫌です。
 日本は核兵器廃絶、戦争を無くすため率先して行動していくべき国だと思うようになりました。しかし、憲法の解釈を変えて、集団的自衛権の行使を国民の意思を聞かずに認めた政府の姿勢は、戦争を反省した適切な行動なのでしょうか。海外に兵隊を出すことが積極的平和主義だとは思いません。憲法9条を壊すのではなくて、世界に広げていくことが「積極的平和主義」だと思います。
 二度と戦争をしてはいけない、核兵器が使われてはいけない、そんな平和への思いを被爆者の方からしっかりと受け取りました。この思いを語り継いでいくのは私たちの責任だと思います。
 18歳選挙権が始まり、高校生がより政治や社会に意見を持たなければいけない、社会についてもっと学べるようにしなければいけないと思っています。
 これからもたくさんの高校生と学び交流していきたいと思います。


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村上正晃さん(広島平和公園ガイド)
 今年の春大学を卒業した22歳です。在学中から平和公園でガイドを始めたのですが、卒業後も続けたいと、現在は昼にボランティアガイド、夜アルバイトをしています。
 英語の勉強がしたくてガイドを始めた1年前まで、自分にとって戦争は「終わったこと、別に知らなくてもいいこと」でした。原爆についての関心も知識もありませんでした。ガイドを始めてから知ったことを言い出したらきりがありません。
 新しいことを知ったり被爆者の方と話したりするうちに、少しずつ自分の中で考えが変化していきました。戦争は自分にとって「まだ続いている、知らなくてはいけないこと」になりました。
 知らない、忘れるということは、そこにいた人やそこであったことをなかったことにすることだと思います。いろんなことを知った時、これをなかったことにしたくないと思いました。
 今は戦前の空気に似ていると、被爆者の多くの方が言われます。しかし少しだけ違うところは、戦前は平和について考える機会が少なかった、ということです。今の日本人は平和ボケしているとよく聞きますが、平和と感じるのは少しだけでも過去の戦争や現在の世界の状況について知っているからだと思います。ただ、表面的なことだけで中身を知らないので、今もこれからもずっと平和だと勘違いしてしまうのだと思います。
 私は戦争について考えることで今の平和をより感じることが出来たし、今が平和でないことにも気付きました。
 今を戦前にしないために、今戦争をしないために、しっかり過去を学ぶことが必要なのだと思います。


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富田彩友美さん(広島市立基町高校出身、東京藝術大学3年)
 私の母校・基町高校では、証言者と描く原爆の絵、という活動を行なっています。美術部員数名が証言者の方と共に1つの場面を油絵などで描き上げるものです。下描きから完成まで様々なお話をお聞きしながら描き上げていきます。私は高校2年生の終わりから3年生の時にこの活動に参加し、約半年かけて絵を完成させました。
 被爆者・兒玉光雄さんの体験を描きました。その鮮烈な記憶を描くために、何度も構図や表情を変えました。何時間も絵と向き合って描いているとき、私は様々な思いを巡らしました。絵の中に感情が移ることもありました。考えれば考えるほど胸が締め付けられる思いでした。
 「想像を絶する」とよく言いますが、想像は誰にでもできるのです。その先が難しいのだと思います。想像をすることを絶ってはいけません。他人と全く同じことを考えることや感じること、見ることは不可能です。それぞれの人が今まで生きてきた中で培われた価値観などが付加されるからです。事実から想像し、その想像をどのように伝え共有するか、この方法を考えるうえで絵画という形は注目すべき方法だと思います。
 絵画は見る人に想像し考えてもらうことが前提の表現方法です。描き手も絵と向き合い、筆を入れている時間、考え続けることで想像を形にします。絵の中には、絵の具の物理的な層のほかに、感情など見えない層が時間軸と共に存在します。事実と、作者の想像力と鑑賞者の想像力が合わさる-絵画で伝えるという方法は、決して事実を薄める行為ではなく、様々な人を経由し伝わっていくことで層が増え、重く厚くなっていくのです。
 過去の事実と同じ体験をすることや見ることができない今を生きる私たち全員が、私たちにしかできない伝え方を考えていくべきなのではないでしょうか。


相談のまど 介護保険サービス利用時の費用の自己負担…被爆者は?

 【問】私は現在介護保険の要介護3の認定を受け「看護小規模多機能型居宅介護」を利用していますが、費用の1割の自己負担をしています。
 こうした介護サービスでは、被爆者手帳が適応されないのでしょうか。

 * * *

 【答】「看護小規模多機能型居宅介護」は、平成24年からスタートしたサービスです。医療系サービスですから、被爆者健康手帳が使えます。
 自己負担しているとのことですが、利用している施設が被爆者健康手帳の使える「一般疾病医療機関」でないことが考えられます。ケアマネージャーに確認し、その場合は施設から県に、一般疾病医療機関になる申請をしてもらいましょう。
 これまでに支払った分は請求できます。窓口は保健所です。

 * * *

 認知症や寝たきりなど要介護高齢者の増加が予想され、その高齢者の多くは、自宅や住み慣れた地域で継続して生活をすることを望むことから、地域密着型介護サービスが誕生しました。
 24時間体制でサービスを提供する夜間対応型訪問介護、認知症対応型共同生活介護・通所介護、特定施設入居者生活介護、介護老人福祉施設入所者生活介護などです。
 ケアマネージャーと相談して状況に応じたサービスを利用することができます。ただし、このサービスは要介護者のみで、要支援者は対象にはなりません。