被団協新聞

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「被団協」新聞2015年 2月号(433号)

2015年2月号 主な内容
1面 原爆症認定 被爆者はもう待てない
わたしとヒロシマ・ナガサキ 俳人・金子兜太さん
NPT行動・国連原爆展成功へ募金にご協力を
2面 寒さに負けず、新春行動
手作りの小物100個ニューヨークへ
伊方原発訴訟 署名97091筆を提出
被爆者が証す原爆の反人間性
白取豊一さん・金子一士さん・明坂尚子さんを悼む
非核水夫の海上通信126
3面 被爆70年の行動予定をお知らせください
4面 相談のまど 原爆症認定 骨髄異形成症候群について

原爆症認定 被爆者はもう待てない

裁判しなくてすむように 厚生労働大臣との定期協議
 塩崎恭久厚生労働大臣と日本被団協・原爆症認定集団訴訟原告団・同全国弁護団連絡会の3団体との4回目の定期協議が1月15日午後3時から約1時間、厚労省省議室で開かれました。1年4カ月ぶりの定期協議に、全国から100人の被爆者、支援者、弁護士が傍聴にかけつけました。

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定期協議にのぞむ塩崎大臣(左)と田中事務局長(右)

 原爆症認定制度の抜本改正など求めた3団体の統一要求に対し、塩崎大臣は、一昨年12月に定めた新しい審査の方針で改善に向かっており、新方針での手続きはまだ1年であることなどを理由に現行のまま認定審査を行なうとして要求を受け入れませんでした。
 塩崎大臣の回答に対し3団体側は、「非常に残念。要求に対しゼロ回答に等しい。到底納得できない」(宮原哲朗弁護団事務局長)、「確認書に従って新しい制度が生まれると誰もが期待した。それから6年、いまだに100人を超す被爆者が裁判をしなければならない。政治家として前向きに解決するよう役人に命じて欲しい」(松浦秀人日本被団協代表理事)と強く求めました。
 塩崎大臣は、「裁判を起こさなくていいようになっていないことは、重く受け止めなければならない。政治決断のご指摘をいただいたが、行政として3年かけて作った方針がどういう物差しとして機能するかやってみる、それについてご意見をたまわり今後どのような物差しが皆様の期待通りの結果を生み出すかを考えたい」とのべました。
 「被爆者の平均年齢はもう80歳、待てないんです。新審査のもとで却下され起こした裁判で、厚労省側は次つぎと負けている。この事実を見ていただきたい」(松浦代表理事)、「大臣は非がん疾患認定が169件増えたと指摘するが、400件近くが認定されていない実態を示している。訴訟できる人は認定されるが、訴訟できない人は認定されない。到底公平な制度ではない。70年前の被爆の事実が今の疾病と関係あるかを認定して振り分けるシステムに無理があるからだ。高齢の被爆者に平等にやって欲しい。そこを踏まえ制度改定に踏み出して欲しい」(安原幸彦弁護団副団長)と強く要請しました。
 塩崎大臣は最後に「定期協議の発言を重く受け止め、高齢化の被爆者の救済を第一に検討を重ね、これからの援護行政に取り組んでまいりたい」と述べました。

  *  *  *
定期協議
 厚生労働大臣との定期協議の、交渉団、要求項目、要求への回答は次の通りです。

【交渉団】日本被団協=岩佐幹三、田中煕巳、藤森俊希、清水弘士、松浦秀人 原告団=山本英典、森内實、竹廣積、細田千鶴子、辰野季子 弁護団=安原幸彦、宮原哲朗、佐々木猛也、中川重徳、藤原精吾
【統一要求項目】
 (1)新しい審査の方針の下で改善されていない非がん疾患の認定を改善すること (2)前記状況の下、被爆者が起こした訴訟は連続勝訴しており厚労省は控訴せず全面解決すること (3)医療特別手当の更新にあたり疾病の治癒や要医療性を画一的・機械的に判断せず、主治医の診断を尊重し判断すること (4)破綻した現行認定制度の廃止を前提とした日本被団協の提言に沿い現行法を抜本改正すること (5)定期協議は原則として概算要求前に開くこと。

【塩崎大臣の回答】
 (1)非がん疾患の認定件数・比率が増え、改善に向かっている (2)判決が新しい審査の方針と矛盾するものは控訴する (3)都道府県の一部に形式的な審査や厳格すぎると思われる事例があった。悪性腫瘍、白血病については認定と異なる部位での再発は継続とすることを周知し改善を図っている (4)新しい審査の方針で手続きが始まって1年余、非がん疾患の認定件数は6・3倍に増えた。現在の制度で審査を行ないたい (5)国会の様子を見ながら適切な時期に次回協議を開催したい。


わたしとヒロシマ・ナガサキ 俳人・金子兜太さん
戦争は絶対やっちゃいかん

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「82歳です」という田中事務局長(右)に
「まだまだこれからですよ」と金子さん(左)

 俳人の金子兜太さんは現在95歳。戦場体験を持ち、俳句や著書のほかメディアのインタビューなどに積極的に応じて「戦争は絶対にいかん」と発信しつづけています。原爆の俳句も詠まれている金子さんを、2015年の新春(1月8日)、日本被団協の田中事務局長が埼玉県熊谷市の自宅に訪ね、お話を聞きました。

* * *


 長崎に3年おりました。昭和33年からです。社宅が爆心部の上の丘にあって、すぐそばに打ち砕かれた教会、浦上天主堂がありました。長崎大学の病院もありました。社宅の庭から骨が出る、といわれておりました。
 行ってすぐ、歩き回った。爆心部はまだ黒焦げで、ぼつぼつ人が住み馴れてきた、という感じでした。人間は強いなあ、と思いましたね、こういうところに生きてる。

彎曲し火傷し爆心地のマラソン
 黒焦げのところを歩き回っているうちに、むこうの山の方からマラソンの一団がドーッと走ってくる映像が浮かんできたんです。マラソンの人たちがタッタカ、タッタカ、タッタカと走りこんでくる。その人たちが爆心部に入ってくると、とたんにみんな、体が曲がったり、目がとび出すような感じになったり、首がおかしくなったり、ゆがんでしまう、そういう映像に変わる。
 そこから「彎曲し火傷し…」という言葉が出てきたんです。
 健康なマラソン集団が爆心部に入るととたんにゆがんでしまう、いのちをゆがめてしまうという事態。

水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る
 昭和19年に海軍主計中尉としてトラック島に赴任しました。アメリカの攻撃で壊滅的な状況になり、日本の艦隊は基地をパラオに移したあとでした。物資が入らず、食料も武器もなくなりました。そこで手榴弾を作り実験することになった。実験は兵隊ではなく、募集や徴用で集められた工員さんがやらされました。「やりたいやつはいるか」と聞くとみんな手を挙げる。そのうちの1人が実験で死にました。右腕が飛び、背中がえぐれて白い運河…すぐには血が出ないんです。どうみても即死。しかし仲間たちが彼を背負って走り出したんです。わっしょいわっしょいと、2キロほど先の病院までね。
 みんないい人たちなんです。こんな人たちが、死んでいく。
 この手榴弾実験は、私が赴任してすぐのことでショックが激しかった。それが体からぬけないところに、更にショックが重なっていくんです。隣にいた人が爆撃で死に、元気だった人が飢え死にしていく…。
 こんなことは許されることじゃない、そう思いました。戦争は絶対にいかんという思いがつのっていきました。
 終戦後、1年3カ月の捕虜生活の後、島からの最後の復員船で島を離れるとき、死んだ人たちのことを思い、この人たちの死に報いなかったら生きている意味がない、と思いました。そのときに生まれたのが「水脈の果て…」の句です。

* * *

 長崎原爆投下のあとトラック島に、無電で長崎がやられた、という報が入った。その前に広島があったから、またやりやがった、と思いました。広島、長崎の原爆は印象的です。こんな痛手を被るようでは、戦争は負けた、と思いました。
 現実に長崎を歩きまわったとき、このあたりは隠れキリシタンがいたところであることを思い、アメリカというのは宗教を通せば友達の土地に原爆を落とすとは何たることだ、と本当に腹が立った。アメリカには罪の意識を持ってもらいたい。
 長崎の地で、戦争は絶対やっちゃいかん、と痛感しました。

* * *

 「集団的自衛権」、ああいう解釈が大手をふって通ったら、当然今の自衛隊では数がたらない、若い人がどんどん徴兵制でかり集められる。
 戦争での死にざまは本当にひどい。戦争はやみくもに、情け容赦なく殺す。今の政治家は戦場をみていない。ああいうところに若者を放り込むことに罪を感じない。体験していない人は美化します。
 やるべきことは、戦場の惨劇を語ること、と決めております。
 戦争で死んでいった人たちは、もったいない犠牲だと思う。戦争なんてもんがなけりゃあ、元気に生活できた人たちですから。いたましい。生きていてくれたらなあ、と思います。
 許しがたい気持ちと、あわれさと。
 とにかく、話していくことが大事。今、自分のやることは語るしかない、と思っています。

* * *


かねこ・とうた=俳人、現代俳句協会名誉会長、「朝日俳壇」選者。1919年生まれ。43年、東京帝国大学を卒業し日本銀行に入行。44年に海軍主計中尉(のち大尉)としてトラック島に赴任、46年に復員し日本銀行に復職する。55年、第1句集『少年』を刊行し、翌年現代俳句協会賞受賞。62年に俳誌『海程』を創刊、主宰。88年に紫綬褒章受章、08年に文化功労者。近著に『私はどうも死ぬ気がしない』(幻冬舎)、『他界』(講談社)。

NPT行動・国連原爆展成功へ募金にご協力を

代表委員・事務局長から訴え

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2010年NPT行動でニューヨークのタイムズスクエアに集結した代表団

 2015年NPT再検討会議の開会が3カ月後に迫り、日本被団協はニューヨーク行動に向けて計画の詰めの作業を進めています。
 ニューヨーク行動として、(1)国連本部メインロビーでの原爆パネル展示と証言 (2)各国の国連代表部への要請 (3)ニューヨーク市とその近郊の学校や住民の集まりでの証言 (4)世界各国から結集した人々との共同行動、などを計画しています。
 展示パネルは、製作・展示費用、日本への送還料などで1千万円近い費用が必要です。行動費としても、NGO共同行動の共通経費、代表団派遣の準備経費と被団協負担分、事務局員の派遣費、現地での文書作成費、各種連絡費などで、1千万円を用意しておかなければなりません。
 2010年は日本生協連の協力募金があり目標の2千万円をほぼ達成できました。ご協力に深く感謝いたします。今回もニューヨーク行動を成功させるには、日ごろご協力頂いている諸団体および各都道府県被団協、「被団協」新聞読者のみなさんの募金へのご協力が欠かせません。重ねてお願いする次第です。

代表委員 坪井 直
代表委員 谷口稜曄
代表委員 岩佐幹三
事務局長 田中熙巳


寒さに負けず、新春行動

各地で街頭宣伝や集会・支援団との懇談も

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東京の街頭行動
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埼玉の街頭行動
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長崎の街頭行動
 被爆70年の新年を迎えて、各地でさまざまな行動が取り組まれました。
 1月6日、東友会は世界大会実行委員会とともに、浅草寺雷門前で街頭行動を行ないました。70人のうち35人の被爆者は署名活動を行ないマスコミの注目を集めました。
 9日、埼玉県原爆被害者協議会は県原水協とともに浦和駅西口で街頭行動。22人のうち被爆者は3人で、「被爆者が実相を語ることが力になった」と感謝されました。
 11日、長崎被災協は県原水協とともに長崎市内で成人の日宣伝行動を行ないました。20人余のうち被爆者が6人でした。
 三重県原爆被災者の会では、平和団体や生協との懇談を行ないました。
 福岡県被団協は16日、集団的自衛権行使に反対する集会に参加。
 鹿児島県原爆被爆者協議会は25日、「ストップ川内原発全国集会」に参加しました。


手作りの小物100個ニューヨークへ

岐阜・藤井俊子さんが作製中

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 岐阜県原爆被爆者の会(岐朋会)の会員、藤井俊子さん(85歳・広島被爆)が、日本被団協のNPT代表団に託そうと、ニューヨーク在住日本人ボランティアの皆さんへのお土産づくりに励んでいます(写真)。
 和柄の布での小物づくりは、教室を開いて教えるほどの腕前。「木戸さん(岐朋会事務局長・日本被団協事務局次長)から、被団協の代表がニューヨークでボランティアの皆さんにお世話になる話を聞きました。軽くて荷物にならない小物を、今年に入ってぼつぼつ作っております。2月22日に岐朋会の相談会があるので100個作って持っていき、木戸さんに渡します」と藤井さん。昨年9月に大腸がんを切除しました。被爆者としての思いをこめた手作りの品を、代表団に託します。


伊方原発訴訟 署名97091筆を提出

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 伊方原発をとめる会は12月24日、「早期に伊方原発の運転差し止め判決を求める署名」9万4千余筆を松山地方裁判所に提出しました。(その後の到着分を追加提出し、累計は9万7091筆となりました。)
 この裁判では住民側が数多くの証拠を提出して原発の危険性を立証し尽くしているにもかかわらず、2011年12月8日の提訴以降3年余りの現在も、四国電力側は本格的な主張・立証を行ないません。このため裁判所に対して、審理を打ち切り早期に判決を下すことを要請する署名に取り組んだ訳です。
 この日、原告など約20人が13時に集合し、各人がそれぞれ4〜5千筆の署名を手に裁判所門前まで行進し署名を提出。テレビ・新聞各社が取材し報道しました。
 署名は、9月20日の伊方原発をとめる会第4回定期総会で呼びかけ、わずか3カ月という短期間に寄せられたもので、原発再稼動への危機感の大きさを物語るものです。四国および大分、山口、広島、岡山など伊方原発周辺の県で積極的に取り組まれたほか、全国各地の被爆者も署名に協力しました。

被爆者が証す原爆の反人間性

英語版を公開
 日本被団協と記憶遺産を継承する会が制作し、昨年7月からインターネットのYou Tubeに日本語版を公開している映像作品の英語版が完成し、公開しました。日本被団協、継承する会のホームページからアクセスできます。


白取豊一さん・金子一士さん・明坂尚子さんを悼む

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白取豊一さん

白取豊一さん
 1月15日、死去。87歳、広島被爆。青森県原爆被害者の会会長。2006年から2年間、日本被団協代表理事でした。
 江田島で特攻隊員として訓練中に原爆投下、直後から市内で救護活動にあたり、その後似の島でも救護にあたりました。
 青森の会で12年間会長をつとめ、非核三原則法制化を求める地方議会意見書採択の促進や、毎年8月の会主催原爆展の継続など、強い決意をもって常に運動の先頭に立ってきました。
 2年前胃がんを発症、直後に肺に転移し闘病生活を続けていました。

金子一士さん
 金子一士さんが亡くなりました。1月4日、89歳。県被団協と同名の、もうひとつの広島県被団協の理事長でした。
 金子さんと私は同い年で、教師時代からよく一緒に話をしていました。組織は違っても仲が良いと言われる間柄でした。
 とても温和だけれど、芯のある方でした。
 被爆70年の節目の年に一つにしようよ、と話すつもりだったのに残念。わたしはまだまだこの世でがんばるから、どうか見守っていてください。冥福を祈ります。無二の親友より。(日本被団協代表委員・広島県被団協理事長・坪井直)

明坂尚子さん
 明坂尚子さんが、1月8日、肺炎で突然亡くなりました。79歳。1956年の長崎被災協結成の呼びかけ人の1人で、57年には日本被団協の事務局におられました。運動の歴史を刻んだ方が、また1人、逝ってしまいました。昨年の原爆青年乙女の会総会の折には、お元気で、被爆当時のお話をしてくださいました。今年発行する記念誌に原稿をお願いしようと思っていましたのに、とても残念です。
 原爆を地球上から一日も早くなくすため精一杯頑張りますから、私たちを見守ってください。(長崎被災協理事・横山照子)

被爆70年の行動予定をお知らせください

 被爆70年の今年、各地でさまざまな行事が計画されています。「被団協」新聞では、全国の行事の情報を、紙面で順次紹介していきます。
 そこで、読者のみなさんにお願いです。お住まいの地域で開かれる行事などの情報をお寄せください。被爆者の会が主催するものはもちろん、市民団体、県市町村など自治体や公民館、あるいは新聞社やテレビ局などが行なうものも含めて、お知らせください。
 場所と日程、主催者や名称など、現時点でわかる範囲で結構ですので、よろしくお願いします。
 はがきかFAXで、下記まで。

 〒105-0012 東京都港区芝大門1-3-5ゲイブルビル9階 日本被団協 FAX03-3431-2113

相談のまど 原爆症認定 骨髄異形成症候群について

 【問】「骨髄異形成症候群(MDS)」と診断されました。これはどのような病気でしょうか。原爆症の認定は受けられますか。

* * *

 【答】骨髄異形成症候群(MDS)は、高齢者に多い血液の病気で、貧血から発見されることがほとんどです。貧血の進行は緩慢で、造血因子(鉄、葉酸、ビタミンなど)の不足でもなく、がんを含め他疾患から二次的に生じたものではないと判断される場合は、MDSと診断されます。
 MDSの本態は骨髄中の血液のもととなる血液幹細胞の異常です。正常な骨髄幹細胞が遺伝子変異をうけて発症すると考えられています。高齢者に多いことと同時に、がんの化学療法や放射線治療後、何年かを経て発症することも知られています。
 幹細胞の異常なので、貧血ばかりでなく、白血球減少や血小板減少などもおこります。軽度の貧血だけの場合から重篤な場合まで幅があり、それによって治療法が異なってきます。急性骨髄性白血病へ進展することもあるといわれています。
 原爆症の認定についてですが、現行の認定基準が求める「要医療性」に関しては、はっきりと診断が確定し、今後も診断や治療が必要ですから、大丈夫だと思います。放射線起因性については、
ア.被爆地点が爆心地より約3・5キロ以内である
イ.原爆投下より約100時間以内に爆心地から約2キロ以内に入市した
ウ.原爆投下より約100時間経過後から、原爆投下より約2週間以内の期間に、爆心地から約2キロ以内の地点に1週間程度以上滞在した
のいずれかに該当していれば、認定される可能性はありますので、ぜひ申請してください。