3月11日の大震災とそれに続く原発事故は、広島・長崎の被爆者を震撼させました。大津波で消えた街は否応なくあの日を想い起こさせました。原発事故は、多くの人々を放射能被害の脅威に直面させています。
政府、電力会社、関係機関には、震災被災者、原発事故被害者の救援、健康保持に万全の対策をとり、あらゆる知恵を集めて原発事故の終息にあたるよう強く求めたいと思います。
死者・行方不明者が2万人を超す大災害を前に、日本社会の明と暗が私たちの前に明らかになりました。
大震災の最中、住民の安全を守るため命を賭して立ちはだかった人々がいました。被災者は困難な日々のなか力を合わせて復興に向かっています。震災直後から無数のボランティアが救援に駆けつけました。日本社会の底力を見る思いで胸が熱くなります。
一方で、被災を金もうけの場にするような上からの“復興計画”や、原発事故への不誠実な対応に終始する政府、電力会社に、多くの人が日本社会の根幹を揺るがす危うさを感じ取り、憤りを強めています。
“原発は安全でクリーンなエネルギー”は神話だったことが事実で明るみに出ました。政府、電力会社をはじめとする原発推進勢力に加え、その一翼を担った巨大メディアの責任が厳しく問われます。
“ふたたび被爆者をつくるな”と訴えて来た私たちは今年の総会で原発撤退を求める方針を決めました。各地で広がる共同の動きに呼応して被爆者としての力を発揮したいものです。
厚生労働省の「原爆症認定制度の在り方に関する検討会」は、昨年12月9日の第1回から今年7月15日までに5回開かれました。現在の到達点について、委員の一人である田中熙巳日本被団協事務局長に聞きました。
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[問] |
検討会は何を審議し、検討するのですか。 |
[答] |
委員の間でも二つの考え方があるのではないでしょうか。現行の原爆症認定制度の存続を前提とする考え方と、現行制度の廃止、法律の改正も含めた抜本的検討をするという考え方です。 私は現行の認定制度の廃止も含めて検討されるべきだと思います。 検討会は直接的には菅直人前総理大臣が昨年8月、原爆症認定制度の在り方を見直す有識者会議の設置を指示して始まりました。しかしその前に原爆症認定集団訴訟終結に関する2009年8月の「確認書」に基づき昨年1月に行なわれた、日本被団協などと厚労大臣との協議で、長妻昭厚労大臣(当時)が「認定制度の改定は法律改正で」という発言をしました。こうした成果を踏まえると、現行の認定制度の廃止、現行法改正も含む抜本的検討が検討会の任務と考えていいでしょう。 |
[問] |
第3回検討会にあたり田中さんが検討会の運営について森座長宛に手紙を出し、全委員にも公開されたそうですが、どんな内容ですか。 |
[答] |
第3回に招致する参考人の選び方をめぐって、厚労省の官主導についての批判、検討会の民主的運営についての要望と提言をしたものです。 すなわち、次回の討議内容については前の委員会で確認する、あるいは検討内容の日程をあらかじめ確認しておきましょうということです。病気で第3回を欠席された座長は、委員に手紙で考えを披露しました。検討を3つの段階(知る、考える、作る)ですすめ、期間は1年半位を一応の目標に、というものです。 現在はまだ「知る」段階で、考える段階には達していません。 |
[問] |
この間の検討会で何が明らかになったと考えますか。 |
[答] |
認定基準の根拠とするものが被爆者と厚労省とでまったく違うということです。 第3回検討会で、厚労省推薦の参考人として、丹羽太貫(放医研副所長)、谷口英樹(医療分科会会長)、岩井俊(元東京高裁判事)の3氏が意見を述べました。その主張は、原爆症の認定基準は科学的知見に基づくものではなく政治的判断でつくられ、被爆者に対する援護は極めて優遇したものであり、これ以上の援護措置は必要ないというものです。 被団協推薦の参考人として、第2回で岩佐幹三事務局次長(当時)、木戸季市事務局次長、伊藤直子相談所理事が、第4回で宮原哲朗弁護士と斎藤紀医師が意見を述べました。被爆者が求めているのは原爆被害への償いである、現行の認定制度は積み木細工のようなもので矛盾だらけ、被爆者の実態に応えるものではないという主張です。 |
[問] |
検討会は今後どのように進むでしょうか。 |
[答] |
「考える」段階に入ります。第4回検討会で宮原弁護士と斎藤医師は認定制度の問題に明快な回答を出しているのですが、厚労省側は納得していません。第5回検討会で厚労省が原爆症認定審査の現状と司法判断の状況について詳しい説明をしましたが、それは裁判での政府側の主張の焼き直しでした。 これから厳しい議論、せめぎ合いが予想されます。日本被団協が今年の総会で決定した「現行法改正要求」に基づき、議論に参加したいと思っています。 |
日本記者クラブで会見
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いま、空襲被害者の運動は、東京大空襲訴訟控訴審の勝利と「空襲被害者援護法」(仮称)の立法化を車の両輪として一体に進めています。
東京大空襲訴訟は2007年3月提訴から4年5カ月、東京高裁控訴から1年9カ月が経ちました。今年11月28日に控訴審が結審し、来春には判決を迎えようとしています。空襲によって一夜にして10万人以上も虐殺した残酷な事実を、国は66年間調査もなく追悼碑もなく、ましてや救済・援護・補償もなく放置したままです。こんなことが許されるのか…私たち原告は、事実、判例、法理論で追及しています。
高裁の判決では、「受忍論」にとどめを刺し、空襲被害について立法不作為の責任を明確にさせて、国民が特別な犠牲を強いられない権利の確立を勝ち取りたいと思っています。
立法化は、6月15日に超党派の国会議員連盟が結成され、来年1月の議員立法の上程に向けて、法案の原案検討に入っています。法案は、国の責任で補償する、国籍を問わない、ということを前提とし、死亡した者の遺族、障害の状態になった者、両親等を失った者など、救済の対象と内容を詰めている段階です。(全国空襲被害者連絡協議会事務局長 足立史郎)
原爆症認定集団訴訟の記録集ができました。A5判2巻セット。第1巻は「報告集」で、この運動の意味と成果、各地のたたかいとそのあゆみなどが報告されています。第2巻は「資料集」で、訴状や意見書等を収録。90分の映像DVD付きです。
頒価15000円。申し込みは集団訴訟全国支援ネット=FAX03‐3431‐2113
中山高光さん(上)と藤森俊希さん(下)=8月8日長崎被災協事務所で
長崎被爆66周年前日の8月8日、長崎市の長崎被災協事務所で、中山高光さん(82)=熊本県原爆被害者団体協議会事務局長=に、話を聞きました。日本被団協結成当時から被爆者運動に携わり、海外での被爆証言も豊富です。1歳4カ月広島被爆のわたしにとって、核兵器廃絶への道を示す教訓に満ちた話でした。(藤森俊希=長野県原爆被害者の会会長)
中山さんは1929年南米ペルー生まれ。満州事変によって排日気運の高まる35年末、農園を放棄し一家で日本に引き揚げました。6歳でした。
中国侵略から真珠湾攻撃で太平洋戦争となり工業学校を45年3月卒業、三菱長崎造船所に就職し設計を担当しました。
8月9日11時2分、ビル5階設計室にいると、窓の向こうに小型の太陽のような火が輝き、その後ドンと爆風が襲い、窓ガラスは粉々になり破片を全身に浴びた同僚は血だらけになって倒れていました。浦上の方に立ち上る黒煙がキラキラとしていました。夕刻に浦上寮に帰りましたが丸焼けで同僚らと野宿し着物も寝る所もなく長崎を出て列車で熊本の実家に着いたのは14日午後でした。
翌日終戦。「ほんとうにホッとした」。その後のどが腫れ、高熱を出し下痢が続きました。2カ月して造船所に戻ったものの体調が悪く翌年12月退職しました。
原水爆禁止世界大会は第1回から参加。日本被団協結成2年後、熊本被団協結成時の1人です。
20年前、米国で被爆証言の機会がありました。話の後“パールハーバーをどう思うか”と質問が出ました。日本が始めた戦争責任にふれず被爆体験を話しても説得力を欠く、肝に銘じました。
2度目の米国での証言では最初に日本が始めた戦争と真珠湾攻撃を謝罪しました。“父はウラン開発研究者で誇りだった、いまの話を聞いて考えを変えた”という女性がいました。
年2回公開される核実験場アラモゴードで“被爆者に会えただけでも来たかいがあった。被爆者からパールハーバーを謝罪されるとは”男性から握手を求められました。
「日本が始めた戦争の結果としての原爆投下です。国の戦争責任を明確にし、すべての戦争被害を国が償うこと、人道に反し国際法に違反する原爆を投下した米国の責任を明確にしてこそ核兵器廃絶の道は開ける。2つの責任を問う壮大な運動が必要」と話す中山さん。しっかり受けとめたいと思いました。
ベトナムの若者を前に連帯を呼びかける中村さん(右)
ピースボート福島子どもプロジェクトに日本被団協を代表して参加しました。私は7月19日横浜から乗船、招待された南相馬市の中学生49人とは26日にベトナム・ダナンで合流し、8月4日に共に帰国しました。
主な行事として26日ダナンでの若者との交流、28日シンガポール上陸、30日全乗客対象の証言活動、31日中学生への出前証言活動、8月1日洋上大運動会、2日スリランカ上陸、3日スリランカ大統領面会、スマトラ沖津波被害者との交流会がありました。それぞれの証言活動と交流は、大きな経験となりました。
南相馬市の中学生
船内で若者6人による中学生たちのサポート隊が結成されました。このお兄さんお姉さんと共に色々な活動をし作り上げることで凄く元気を出せるようになったと中学生たちが話していました。私の証言や放射線被曝の話も真剣に聞いてくれました。
ダナンで会ったときから成田でお別れするときの笑顔の量が何倍にも増えていた事が最高の喜びとして心に残りました。
ベトナム・ダナンで
枯葉剤被害は広島長崎を上回る被害だと知りました。戦争する側の論理「なんでもあり」程怖いものはないとつくづく思いました。原爆使用、ナチスの残虐行為も同じです。枯葉剤の被害者と被爆者は同じ土壌で活動ができると思いました。
船内乗客と交流
日本被団協の原発への方針、放射線内部被曝の怖さの説明、被爆者からの伝言を使った証言、昨年NYでの高校生とのやり取りを紹介。終わりに「非戦の平和憲法」の大切さを訴えました。
「被爆66周年平和のつどい」(くらしと年金懇話会主催)が埼玉県和光市中央公民館で8月13日に開かれ、110人が参加しました。埼玉県原爆被爆者協議会の副島健義副会長が「被爆者の立場から原発事故を考える」をテーマに講演。長年にわたって被爆者を苦しめてきた、アメリカと日本政府による被ばくの影響隠しや過小に評価する内容を具体的に示し、次のように話しました。
「放射線の影響、とりわけ内部被ばくの影響は何年後、何十年後にその影響が出てくるもので決して軽視できない。いま私たちが重視しなければならないのは、一人ひとりが何らかの放射線の影響を受けているという自覚をもって、いのち・健康・くらしを最優先にするとりくみを継続的に進めることではないか」。
参加者からは「いままでどこか被ばくについて他人事であったことを反省する」などの感想が寄せられました。「原爆と人間展」も併せて開かれました。(埼玉)
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日本被団協が原発問題について「エネルギー政策の転換をすすめ、すべての原子炉を廃炉に」と運動方針で打ち出したことについて広島原爆の日(8・6)、いくつかの新聞が社説で取り上げました。 |
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全国紙では毎日新聞が〈(日本被団協が)結成以来初めて全原発の順次停止・廃炉を求める「脱原発」を…決めた〉と紹介。中国新聞は〈日本被団協は「脱原発」の運動を始める。ノーモア・ヒバクシャを、ヒロシマとフクシマを結ぶ言葉にしよう〉と訴え。 |
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また、北海道新聞、岩手日報、熊本日日なども、6日社説で被団協への期待を示しました。 |
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米主要紙のワシントン・ポスト、ニューヨーク・タイムスも被団協の「脱原発」方針を報道、被爆者の声を紹介しています。(朝日8・10) |
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【答】被爆者対策にある介護手当には、介護者に費用を払って介護を受ける場合の介護手当と、家族が行なう介護に対する家族介護手当があります。
第59回平和美術展が8月7〜17日、横浜赤レンガ倉庫1号館で開かれ約3千人が来場しました。
第7回平和美術展(1959年)から取り組まれている原爆死没者肖像画は、今年は7点が制作され展示されました。
生き生きとした表情の肖像画は、傍らに添えられた遺族からの言葉とともに、それぞれの人生を来場者に語りかけているようでした。何気なく来場した横浜の観光客も、足を止めて見入っていました。
肖像画は、都道府県被団協を通じて遺族らに贈られます。
なお、美術展の小品売上の中から5万円が被団協に寄付されました。