3月に起きた福島原発事故は、被爆者たちにも大きな衝撃、不安、戸惑いなど、複雑な思いをもたらしています。広島、長崎の原爆被害を体験した国で、いったいなぜあのような信じがたい事故が起きてしまったのか。被爆者としてそれをどう受け止め、何を考え、行動していけばよいのか。日本の原発の実情をよく知る原子力防護学者の安斎育郎氏と、日本被団協事務局長の田中煕巳氏に、率直に語り合っていただきました。 |
人類史上かつて経験がない事態
田中 今回の東日本大震災と津波、それに続く原発事故を、多くの被爆者は複雑な思いで見ています。まず、津波の後のあの惨状と、自分たちが体験した原爆被害が重なって驚愕を覚えたという人が多い。一方で、私たちが原爆で受けた被害はものすごかったし、避難もできなかったけれど、いま福島では20キロ、30キロまで避難して、そっちの被害のほうがうんと大きくも見える。いったいどうなんだろうと戸惑うような気持ちもあるんです。
安斎 4月16日に、いわき市から浪江町にわたる放射線量が高い地域に入りました。やや内陸側で、あのすさまじい津波の被害はなく、菜の花が群生し、コブシの花が楚々と咲く美しい風景の中に、人っ子一人いない。ときどき見捨てられた犬が寄ってきて、野に牛が放たれている。津波の被害とはまったく別の、放射能という透明の恐怖を肌身で感じました。
田中 福島では、これからずっと残留放射線の影響に対する心配が続くのでしょうか。
安斎 今回の福島第一原発事故では、使用済みおよび使用中の核燃料が、その内部に蓄積した放射性物質の崩壊熱で溶融して、水素爆発という形で大量の放射性物質が外部に放出されました。人命にかかわる急性放射線障害が発現するような事態は今のところ生じていませんが、その一方で、風と雨、地形による不均等な放射性物質の分布が生じ、これからおそらく数十年にわたって、少しずつだらだら浴びるという放射線被曝のリスクが、非常に広範囲に生じました。
田中 放射線の影響を受けるエリアのものすごい広さと、今後数十年という期間の長さ、そこがたいへん深刻なのですね。
安斎 たとえば30万人都市である福島などでも、そういった放射線と向き合いながらどう生きたらいいかという課題に、真剣に取り組んでいかなければなりません。被曝人口の地理的分布等の点で、チェルノブイリ原発事故とも違う人類史上かつて経験がない事態を生きていかなければなりません。
田中 広島、長崎の原爆の場合、放射性降下物がどれだけ降ったかいまだにわかっていません。そして政府は、それをむしろ無視し、隠蔽してきました。
安斎 原爆症認定集団訴訟でも問題になりましたが、実態がわからないことがいちばんの不安であり、それが原爆被害を一層深刻にしました。
今回の福島では、放射性物質の分布状況などもコンピュータ解析により検討できます。実態をきちんと解明し、隠さずに公開し、今後の被曝のリスクを最小限に抑える社会的手立てを取ることがきわめて重要です。
それから、事故の現場である原発では、危機の本質はまだ去っていないことを忘れてはいけません。いまずっと冷却水を入れ続けていますが、核燃料の中にある放射性物質の発熱量は、水をかけても変わらず、それぞれの半減期に応じて、数百年、数千年、数万年というペースで発熱し続けます。しかも原発事故では現場の状況を見に行くことができず、溶融した核燃料の状態や大規模な余震の危険性などを考えると、再び大量の放射性物質が放出される危険性が完全には排除しきれないのです。
だから私は、今回の事故が発覚した直後から「隠すな、ウソをつくな、意図的に過小評価をするな」と言い続けています。事故現場でいま何がどうなっているのか、今後ともしっかり目を向け続けなければなりません。
長期的な健康管理を
田中 日本被団協は、被災者への被災証明書、健康管理手帳の発行、年1回以上の健康診断など生涯にわたる健康管理を、4月に政府、5月に福島県に要請しました。そういうことならば、私たち被爆者が提案する意味があると考えました。
安斎 相当量の放射性物質の長期的な影響の第一は各種のがんの発症ですが、早期に発見すれば、医学的な対処法も年々進歩していますし、いろいろ打つ手もあります。そうした健康管理態勢の着実な整備と実行が必要です。
田中 国や自治体に何をさせるかを明確にし、早くきちんとやらせていかなければという思いが、私たち被爆者はとても強いんです。
安斎 いま、相当量の放射性物質が降り積もった地域で、子どもたちが遊んだり、スポーツをしたりしている状況があります。私はもう3月からずっと、「汚染した表 層土を削れ!」と言い続けています。
今こそ、将来に向けて有効な手立ては何かと考え、それぞれができることを、できるだけ実行することが大切です。それはこのような事態をくい止められなかった私たちの世代の、次世代に対する責任だと思います。
田中 被爆者たちが原爆症認定集団訴訟をたたかうなかで、残留放射線の影響がかなり明らかになってきました。それが福島の人たちの今後の健康対策とどう関わってくるのだろうかという声が、被爆者の間で上がっています。
安斎 集団訴訟のなかでは、被爆体験から半世紀以上もたつのに、依然として被爆者が自分の病気の原因さえも明らかにできない不安のなかで、社会的にもさまざまな問題を抱えて生きていかなければならないといったことなども、繰り返し問題になりました。
これから10年後、20年後に、あの原発被災地域の人たちががんになったときに、がんと放射線の因果関係を自分で証明しろなどと言われても、個人でそんなことはとてもできません。被災の証明はいましっかりやっておくべきですし、東北地方の人々に今後各種のがんをはじめこれこれの健康問題が生じたら、放射線以外の明らかな理由がない限り、今回の原発事故の影響と見なし、治療その他の支援を講じる仕組みを作っていく必要があります。
田中 私たち被爆者は、これまで国や自治体に要求して、種々の健康対策を勝ち取ってきました。たとえば医療費の窓口払いを撤廃させましたが、福島の人たちの医療費負担を今後なくすというようなことが打ち出せれば、少しは安心につながるのではないか、などと考えたりもしています。健康診断で発見された特定の健康問題にかかわる医療費を無料化するのか。福島の人たちについて、医療費はすべて国で持ちましょうということなのか。それを被団協が要求するのが適当なのか。考えなければならないことはいくつもありますが、これまでの被爆者運動の成果を今回の事態への対応に生かすという意味で、何か具体的な提言ができないだろうかと思っています。
安斎 この事態は否応なく、これから長期間にわたって続きます。放射線による健康被害という体験を強いられた被爆者たちの発言や行動が、今の日本社会のこのような状況に対して役立たないはずはないと思います。
「核の暴力性」を知ろう
田中 あの原発事故以来考えてきたのですが、被爆者は原発のことをあまりよく考えていなかったのかもしれません。造られた背景、管理システム、企業や政府の対応など、もっときちんと勉強し直して、被爆者として何が言えるか、何ができるか、これから議論していかなければならないと最近思っています。
安斎 核兵器と原発は、開発の歴史から見ても別個のものではなく、深い関わりがあります。1954年にソ連が初めて5000キロワットの実用型原発をオプニンスクに造り、それに対抗してアメリカは、原子力軍艦に積む予定だった原子炉を急遽陸揚げして原発に仕立て上げました。核兵器を背景に米ソが世界支配を争うなか、原子力市場争奪のための原発開発が進みました。安全性の確保を最優先し、原子力安全技術について一歩一歩到達点を確認していくという歩みとはまったく異なるもので、人類にとって不幸なことでした。
一方、私たち日本の国は、広島、長崎で甚大な放射線被害を体験しながら、放射線の性質、健康や環境への影響などの知識や情報を、国民のなかに培うことをほとんどやってこなかった。いわば放射線リテラシーの普及を放置してきたツケが、現状のような事態に招いたという一面も否めないと思います。
田中 原爆被害への国家補償を認めず、原爆被害は過小に見せようとするこの国の姿勢。それが、放射線について学ばせない姿勢にまで、全部つながっているのではないでしょうか。だからこそ、被爆者として大きな声を上げて、放射線はこんなに恐ろしいものだ。それが戦争の道具にも使われ、核兵器が今も世界に2万発も蓄えられている。そういうことをもう一度訴えていく必要があると思います。
安斎 原爆は、いわば核の暴力性を、戦争の手段として意図的に利用したものです。原発は、それをなんとかコントロールして利用したのですが、安全審査が権力と金力に汚染されて形骸化し、実質的に機能しえませんでした。
その両方の根底にある、核の暴力性について、あらためて学習し直し、今後に生かす機会に積極的にしていかなければなりません。
田中 今回の原発事故で、非常に広範な人たちに、長く将来にわたる健康被害のリスクをもたらしてしまいました。核の暴力性はもうコントロールできないのではないかと、私は最近思っていますが、これからの日本のために、あらためてみんなで議論して、それを広めていくことが大事ではないかと思います。
(司会・まとめ=吉田みちお)
日本被団協は7月12〜13日代表理事会を開き、定期総会で決定した現行法改正要求「原爆被害者は国に償いを求めます」を実現する運動をすすめるため、国の償い実現推進本部(本部長・岩佐幹三代表委員)を置くことを決め、あわせて「運動要綱」も確認しました。
「要綱」は前文で「核兵器も、戦争もない世界、安心・安全な世界を次世代に残すためにも、原爆被害に対する国の償いを実現しましょう」と呼びかけ、以下の6項目をあげています。
1被爆70年(2015年)までの要求実現をめざします 2運動は広い国民運動としてすすめます。中央・地方において運動をすすめるための体制をつくります 3国会請願署名、地方議会決議、国会議員の賛同署名運動をすすめます 4運動を成功させるための資料を作成します 5政府、政党、国会議員に対する要請運動をすすめます 6マスコミ対策を重視します。
原爆症認定制度の在り方に関する検討会、第4回が6月27日に、第5回が7月15日に厚生労働省内で開かれました。
第4回は、日本被団協推薦の斎藤紀医師と宮原哲朗弁護士が参考人として出席。斎藤医師は「全被爆者の積極救済の視点こそが確立すべき唯一残された視点だ」と強調、宮原弁護士は「認定基準を直ちにこれまでの判決や被爆実態に合致するように改定することを要請する」と述べ、傍聴席を埋めた約50人の被爆者の共感を呼びました。
第5回は、厚労省側からの認定審査の現状と集団訴訟の結果についての説明をもとに、議論が交わされました。
原爆症認定東京第3次訴訟の判決が、東京地方裁判所で7月5日にありました。原告24人のうちすでに認定された8人を除く16人について、12人を国の却下処分を取り消し原爆症と認める原告勝利の判決でした。
判決は「原爆放射線の影響が及んでいると疑われ、それに沿う相応の研究の成果が存在している疾病については」積極的に認定すべきとして、がん、心筋梗塞、肝機能障害はもちろん、集団訴訟の各判決が認めてきた脳梗塞、狭心症、甲状腺機能亢進症、胸部大動脈瘤についても放射線起因性を認めました。
原告団、日本被団協などは連名の声明で「本日の東京地裁の判決は、司法判断を無視し、確認書と内閣官房長官談話をも無視する国・厚生労働省の姿勢を厳しく断罪するものである。国は直ちに審査基準の再度の改訂を行い、さらに援護法の改正を急がなければならない」としています。
結 審
原爆症認定訴訟の大阪第3次訴訟(原告7人内4人が未認定)は、大阪地裁で7月8日結審しました。判決は12月21日の予定。この判決をもって原爆症認定集団訴訟は終結を迎えます。
アメリカ政府は、昨年12月と今年2月、ネバダ核実験場で臨界前核実験を行なったと、6月になって明らかにしました。オバマ政権下では3回目、通算26回目です。
日本被団協は7月21日オバマ大統領あて抗議文を在日米大使館に送付し「臨界前核実験は、核抑止力による威嚇の維持を誇示するものであり、容認できない。核兵器廃絶条約の締結に向けて主導性を示すこと。核兵器の速やかな廃絶を」などと要求しました。
7月12〜13日の日本被団協代表理事会で、定期総会で付託されていた運動方針の「エネルギー政策についての取り組み」の部分の修正文が決まりました。総会で提案された方針に、「放射線による人体被害、環境汚染、事故の危険性が残されたまま進められている原子力発電所の新・増設計画をとり止めること。現存するすべての原発について、安全性の総点検を行い、年次計画を立てて操業停止・廃炉にするよう要求します」などの文章が挿入されました。
これまでも原子力依存のエネルギー政策の転換を求めてきたことをふまえ、地震国であること、それに対応する技術が未熟であること、使用済み燃料および廃棄物の処理の方法が全く定まっていない現状での「原子力の動力への利用」は人類の未来にとって無責任であること、などが議論され、計画的な操業停止・廃炉政策を求めることを決めました。この方針をうけ、日本被団協は政府への申し入れを行なうことにしています。
秋田県被団協はこれまで「非核三原則法制化」の意見書採択を県内全議会(26議会)に陳情し、これまで10市9町3村での意見書採択を得ることができました。しかし県都である秋田市議会では2度にわたり不採択でした。会では6月2日、これまでの陳情内容に加えて東日本大震災での福島第1原発事故が国民を不安に陥れていること、内部被曝の体験も書き入れて陳情。平和委員会などに協力を要請し、各会派議員に陳情の趣旨を訴えました。
6月27日の総務委員会では不採択になりましたが、7月1日の本会議では賛否が逆転し、採択になりました。
これで県内の未採択議会は県、湯沢市、仙北市の3議会のみとなりました。(秋田県被団協)
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非核三原則の法制化を求める地方議会の意見書採択、5月26日から7月22日までの報告分は以下のとおりです。
秋田=秋田市 神奈川=大和市 三重=菰野町 福岡=直方市
4月の一斉地方選挙で入れ替わった地方議会議員一人ひとりに、改めて理解をもとめ、意見書採択をすすめましょう。
時間を忘れて語り合う堀田さん(上)と島村さん(下)=7月6日埼玉県蕨市のしらさぎ会事務所にて
戦争と原爆
堀田さんのお話は小学校3年で夢を持ち看護婦さんになられてから曾孫さんのことに至ります。その中には、結婚の約束後ご主人に一度その取り消しを申し出られて、怒った堀田さんのお姿もありました。私が婚約相手から突然同じ申し出をされたら? 私だって怒ります。堀田さんはまた、陸軍病院で病気が治りかけた軍曹が残飯を食べていたところを引っ叩いて止めたそうです。私は薬剤師ですが患者さんが致死的な薬の使い方をしていたら? なり振り構わず患者さんを怒鳴りつけるでしょう。当時の堀田さんは、今25歳の私と何ら変わらない24歳の反応であり、姿です。
ただ堀田さんの人生には普通ではあり得ないこと、つまりは「戦争」と「原爆」がありました。「8月6日からすべてが始まった」と、強く感じました。しかし人間の生きる道には必ず前後があります。8月5日もあるし8月7日もある。そしてその道は今もなお続いて、並走しているのが平和への祈りであり、核廃絶を求めるたたかいではないかと思います。
平和のために生きる
印象深かったのは、軍国主義の中に生まれ「兵隊にいけないし、女じゃお国のためになれない」「お国のためになれるから看護婦になった」と、菊の紋になぞらえて16枚に折り重ねたナースキャップを頭に乗せることを心から誇りに思っていた堀田さんが、今は胸を張って「戦争はよくない」とおっしゃる方向転換でした。母になられて、授かった息子さん3人を兵隊にとられたら…と思ったそうです。ご自身の人生の中で一度は認めていた軍国主義を、「やっぱり間違っている」と、その後の人生を平和のために注がれています。
その生き方に原爆投下が残した人類への問いかけとその答えが見えました。その思いは「平和ほど尊いものはない」という、平和の中に生まれ育った私へのメッセージにも込められていました。
66年経った今も
じつは、現代とはかけ離れた20歳代を過ごされたのではないかと思っていました。しかし、当時の堀田さんは、若さとパワーが何よりの武器で、こわいもの知らずで、人生の半ばで七転八倒する25歳の私と同じ、24歳の「しーちゃん」でした。
福島の原発問題に関心を寄せられ後世への影響を懸念されるお話もありました。亡くなったご主人が「入市」していたこと、曾孫さんの白血病発症など、決して堀田さんが悪いわけではいのにご自身の被爆と結びついてしまうお話に、66年経った今も大きな傷を負っておられる方がいて、たたかいがまだ終わっていないことを、改めて感じました。(島村香澄)
日本被団協誕生に、こんな人間物語がありました。初代事務局長、藤居平一さん。広島生まれの広島育ち。日本被団協結成に参加し、「原爆医療法」制定に尽力し、生涯「原爆被害者援護法」の実現を求めました。
藤居さんは、8月6日、故郷を離れた東京にいました。帰郷し家業をなげうって「全力で原爆被害者を救わなければ」と決心をさせたのは、焼け跡を茫然自失しながら歩き回った日々、最期を確認できない父と妹のこと、癒すことのできない傷を身体に刻み、追いつめられている被爆者の姿でした。
1955年、「誰もが参加できる」「思想、政治、宗教などのさまざまな立場や意見の違いをのりこえて、原水爆禁止の叫びを世界へ伝えていく」、原水爆禁止世界大会が開かれました。「話をせんにゃあ、原爆のむごさは人には分からんのじゃけえ」と傷ついた身体と心を「まどうてくれ(償ってくれ、元に戻してくれ)」の思いを込め、被爆者が語り始めました。「話す方は奔流のごとく話すでしょう。聞く方は泣きながら聞くでしょう」「それで一遍に広島の空気が変わりました」
翌56年の8月10日、日本被団協が長崎で結成されました。以来、組織の統一を守り、原爆被害への国の償いを求め続けてきました。被爆者の相談に応え、法律の改善を求め、被爆の実相を語り、核兵器廃絶を訴えてきました。
悲願の国の償いと核兵器廃絶は実現していませんが、藤居さんをはじめ、多くの人が被団協運動に尽くされたことに感謝の気持ちでいっぱいです。ぜひ、お読みいただきたい本です。
(木戸季市・日本被団協事務局次長)
長崎被災協結成55周年記念のつどいで組曲「平和の旅へ」をうたう50人の合唱団
長崎被災協は6月25日長崎市茂里町リアンにて結成55周年記念のつどいを開催、150人が参加しました。
午前11時2分、原爆犠牲者への黙とうを行なった後、日本被団協の田中事務局長、田上長崎市長、各政党、市民団体、平和団体などからあいさつを受けました。
被災協55年の歩みのDVD上映し、被災協結成から今日までの歴史を振り返りました。
浜谷正晴一橋大学名誉教授による記念講演「長崎被災協の被爆者たち‐出会いと群像」で、第1部を締めくくりました。
つづく第2部は、渡辺千恵子さんの生涯をうたった組曲「平和の旅へ」の50人の合唱団による披露で開会しました。会食と懇談の中、友好団体などからあいさつをうけ、最後に被災協の山田拓民事務局長が、核兵器廃絶、国家補償の援護法実現に向けた決意を述べ、さらなる取り組みを誓いました。(長崎被災協)
北海道原爆訴訟支援連絡会は、11年間にわたる裁判闘争の結果原告9人全員勝訴を勝ち取った集団訴訟を記念して、6月11日、札幌市すみれホテルにて勝利を記念するつどいを開きました。
原告、弁護団、支援者の多数が参加し、原告を励まし、弁護団の労をねぎらい、今後とも被爆者支援、核兵器廃絶運動を進めることを誓い合いました。(北海道被爆者協会)
ホワイトハウス前のコンセプションさんから日本被団協に、援助(386号既報)へのお礼の手紙と写真が届きました。 |
2011年3月末の被爆者手帳所持者数が、厚労省から発表され、全国で21万9410人、前年度と比べ8155人の減でした。平均年齢は77・44歳で、同じく0・71歳上昇。手当受給数は健康管理手当が18万7474人、医療特別手当が7197人など。葬祭料支給は8816件でした。 |
品川竹夫さん 大正15年4月生まれ、千葉県香取郡多古町出身。
品川さんは、現役兵として昭和20年4月24日に広島船舶通信補充隊に入営しました。兵舎は比治山のそばにありました。5月から6月にかけ約1カ月間、病気で広島陸軍病院に入院しましたが、逓信講習所電信課での教育を終え、転属が決まりました。
8月6日朝、転属する10数名の一員として、営庭の中央部に引率され行進中のところ、被爆。爆風と熱線をうけて地面にころがり、這って営庭内の壕に入りました。その後上級兵に引率され比治山の壕で夜を過ごしました。顔と右手首に火傷を負っていたため、歩いて20〜30分程のところにあった小学校(軍歴証明では仁保野戦病院)で、一般の負傷者とともに寝起きしました。8月22日頃に、瀬戸内海の島のお寺に入り、除隊となる9月10日まで過ごしました。
連絡先(本人)=千葉県香取郡多古町島2361 Tel0479‐76‐4685