日本被団協 福島県知事に要請
福島県庁で要請書を手渡す被団協・田中事務局長(右)と受けとる福島県健康増進課・菅野課長(左)
日本被団協は、福島第一原子力発電所の事故に関し、被害者の健康管理などの対策を早急に実現するよう、福島県知事に要請しました。
5月27日、田中熙巳事務局長は、福島県原爆被害者協議会の山田舜会長とともに福島県庁を訪問し、応対に出た福島県健康増進課の菅野仁一課長に要望書を手渡しました。
要望書では、今回の事故の責任は国と東京電力にあるが、特に急がれる対策については、県としてすぐにも実施してほしい、としています。具体的には、(1)被災者に対する罹災または被災証明書の発行 (2)原発事故被害者にすぐに健康管理手帳を発行すること の2点です。(1)は建物被害の証明ではなく「人」の被災証明であること、(2)は年1回以上の健康診断など生涯にわたる健康管理を行なうことが前提です。
菅野課長は、「何をやるにもお金が必要だ、それをどうやって政府に出させるかが問題だ」などと、予算化の大変さを強調しました。
被災各県被団協から寄せられた状況
東日本大震災の被災地で、被爆者はどんな状況なのでしょうか。
日本被団協役員が被災各県の被団協を訪問したときに聞いたこと、その後寄せられた見舞金へのお礼状の記述などから、被災各県の被団協がつかんでいる状況をまとめてみました。
宮城
震災発生直後から、地元の放送局に協力を要請し、県の被爆者担当部署と連携して県内被爆者の安否確認を行なってきました。その結果、205人の手帳所持者のうち、5月25日現在、9人の被爆者の安否確認ができていません。そのうち7人が会員です。死亡届などが出されていないため、どこかに避難していると望みをつないでいます。
福島
海沿いの浜通りと呼ばれる相馬地区・双葉地区・いわき市に約30人の被爆者が住み、津波被害地域にはその約半数の被爆者が居住していました。幸い、発表された死亡者の中に被爆者の名前は見られません。会員については、各市町村の支援センターを通じ全員の無事が確認できました。被爆者全体の状況は、地元市町村さえ住民の動向を把握しかねている中、いまだ把握できていません。
岩手
5月12日から、沿岸部の被災被爆者7人を、会の役員が順次訪問しています。避難先、老人介護施設、自宅などで見舞金を手渡し、話を聞いて激励しています。
青森
震災による被爆者の死亡者は確認されていません。会員の被害状況についても、家屋の状況など詳細はまだ明らかになっていません。
茨城
地域の会の役員が情報を集め、県の担当部署にも問い合わせました。会員の死亡や家屋の全・半壊はないようです。
千葉
旭地域などの沿岸部に津波被害があり、浦安・習志野・佐原地域に液状化現象の被害がありました。しかし、会員に死傷者がなかったことは不幸中の幸いでした。
3月発表の「現行法改正要求‐第2次案‐原爆被害者は国に償いを求めます」への意見・感想が全国の被爆者組織と個人から、日本被団協に寄せられました。
日本被団協ではこれを受けて、5月10〜11日の代表理事会で検討し最終案をまとめました。この最終案は同13日に、第56回定期総会議案の一つとして各都道府県被団協に送付され、最終討議に入っています。
議案には「現行法改正要求(最終案)の提案にあたって」の文書が添えられ、2009年の第54回定期総会での提起から2年間にわたる討議の経過と、寄せられた意見をどのように要求案に活かしたのか、などが報告されています。
最終案は6月7〜8日の第56回定期総会で提案され、討議・修正を経て決定し、正式に発表される予定です。
5月号につづいて、第2次案に対して寄せられた声(要点)をご紹介します。
追悼祈念館を活用
岐阜 梅岡昭生
「具体的要求」の【死没者名を碑に刻む】現在広島と長崎にある国立原爆死没者追悼祈念館をもっと広く活用すべきだと考えます。原爆死没者の名前だけでもすべてここに記録し、永劫に追悼供養する。生前の住所、死没年齢など判別できるものはすべて記録に残す。
【すべての被爆者に被爆者手当の支給】特別手当を3段階ぐらいに。医療特別手当(13万円余)と特別手当(5万円余)の間に医療手当(8〜9万円)を新設し、何らかのガンに罹患した者はすべて症状に応じて3段階に当てはめてはいかが。審査も早くなるし、比較的に公平を期することになるのでは。
【原爆孤児】当時国民学校4〜6年生は疎開していて原爆孤児となり、野良犬以下の悲惨な生活を送りました。現在70代半ばとなります。この被爆孤児には被爆者と同様な手当の支給実現を望みたい。
すべての被爆者に
大阪 武田武俊
「具体的要求」のすべての項目に感銘し、共感を覚えました。特に自分の体験と重ねて2項目についてのべます。
【原爆死没者への償いを】あの人たちはなぜ殺されたのか。まさに戦争の恐ろしさ、核戦争の惨さを見せられました。国はこのまま知らぬ顔ですか。原爆が投下されて実に6年8カ月、講和条約・日米安保条約が発効して原爆報道が解除されるまでに、幾多の人々が亡くなったことでしょう。第2次案の通りに償いを果たしてこそ残酷に命を断たれた方々にお詫びの真の心になるでしょう。
【すべて被爆者に償いを】私が長崎に入市したのは原爆の6日後。爆心地周辺などに計96時間いました。大量残留放射能のどまん中にです。2007年12月、肝臓ガンにかかりました。手術を繰り返しました。原爆症認定は却下され、大阪地裁で公判継続中です。
原爆被害は他の戦争被害と違うというのなら、すべての被爆者に償いをすべきです。
齋藤政一(岩手)
66年間叫び続けてきた
広島・長崎の原爆の生物破壊の脅威を/そして/今、福島原発放射能!
罪の無い福島住民の突然の避難/着のみ着たまま隣の町へ強制疎開/犬猫馬牛羊は置き去りにされ/帰宅許されず
子供達は放射能うつるからといやがられ/まるでぼくが66年前/高度580m上空から直接肌身を灼かれ/放射能 後遺症に苦しんできた日々
ぶり返すのか!/うつるから近寄るなと言われ/知らない土地をさ迷い歩いた日々は昨今のようだ
傷症は自費で治せと/政府は十二年間も突き放し/無知の医者からは偽病人扱いをうけ/伝染するから近寄るな/遺伝するから恋愛 結婚はだめ/就職拒否
世間からの阻害/病身と貧困/被爆者はまさに生き地獄にさらされ/苦痛と苦闘に耐え切れず/有為の若い人材が/次々と自殺に追い込まれた
ぼくは被爆して66年/現在88歳/お願いします/無知な言葉で傷つけないで/福島原発は全国ひとりひとりの問題です/昔に帰り考えようよ
福島のみなさん/生きてください!/生きてください!〈投稿〉
=板井 優(弁護士)=
3月11日午後2時46分東日本大震災は突如として起こり歴史的事実となった。マグニチュード9の地震の後、高さ数十メートルに及ぶ津波が東北のリアス式海岸の奥深くを舐めるように襲い、3万人にもなろうという死者や行方不明者が出た。
そして、この未曽有の天災とともに福島第一原子力発電所の人災は起こった。
核爆発こそないものの、行政は数十キロに及ぶ住民の避難を行なっている。十数万に及ぶ住民たちが避難せざるを得ないという歴史的事実の前に、わが国の原発の安全性に関する立証責任は完全に逆転した。中部電力浜岡原発の停止はあまりにも当然である。
ところで、東電の清水正孝社長は東電に対する賠償支援法案の今国会での成立を求めている。
この法律の制定とは、国民の貴重な税金が一私企業のために使われるということである。去った戦争で「一億総ざんげ」という言葉で、戦争は日本国民全体の責任であるかのように言われた。
水俣でも、チッソは、最終的に分社化を認める水俣病特別措置法に逃げ込み、水俣病における加害責任をあいまいにしようとしている。
5月中旬になってマスコミは、福島第一原発で炉心溶融(メルトダウン)が起こっていたことを伝えた。デマに踊らされるなという大キャンペーンの中で、実は最大のデマ宣伝を東電は行なっていた。
そもそも地震大国、津波の危険が一番指摘されている三陸地方に原発を建設することがいかに危険なことかは、まさに立地上の問題として指摘されていた。しかも、東電は一切の電源が断たれ非常用炉心冷却装置が機能しなくなり、「海水注入による廃炉化」しかないのに、原発存続を求めてこれに抵抗したという。
こうした企業を税金で存続させる必要はない。
責任問題はさておき、放射線被害の事実をきっちり調査する必要がある。水俣病や原爆症認定問題が現在まで解決しなかったのは、発生当初以降十分な被害調査がなされなかったからである。
今後、放射線影響研究所(放影研)等は15万人を30年間にわたり調査するという。だが、対照地区に対する汚染地区(被害地域)が放影研のいう範囲に限られるのかという深刻な問題がある。なぜなら、事故の全貌はまだ明らかにされてないし、原発から遠く離れた神奈川でも放射線汚染が指摘されているからだ。
公害は被害に始まり被害に終わるというが、放射線汚染でも徹底した被害調査が必要にして不可欠である。
(原爆症集団訴訟熊本弁護団長、水俣病訴訟弁護団事務局長)〈投稿〉
自分を語ること
神田斉宜(愛媛)
被爆者である父のもと、私は長崎で生まれ育ちました。現在は松山大学の生協職員として、元気な学生たちとともに、平和の活動に取り組んでいます。
先頃、愛媛県原爆被害者の会が発行する記念誌に、被爆二世として初めて文章をまとめ寄稿しました。これまで幾人かの被爆者の方々の貴重な体験を拝見する機会を得ましたが、今回、人生の負の体験や思いを形にすることの難しさを痛感しました。まして被爆者の皆さんが、手記を手掛けることがどれほど重く苦しいことか。それを押してでも伝えなければならないという強い想いを改めて感じます。
私はこれまで、自分が被爆二世だと話すことを躊躇することもありました。被爆二世だから核兵器廃絶や平和の活動に取り組んでいるのだと思われるのは残念ですし、平和については、本来あらゆる人々が考え、取り組むべきことだと理解されたかったからです。
しかしこの度の寄稿に際し「自分を語る」ことと向き合ったことで、父をはじめとする被爆者の方々のバトンを受け継いでいる自分の役割に気付いたように感じています。「被爆二世だからできること」がある、「被爆二世だからできる生き方」がある。そんな想いを新たにしています。
非核三原則の法制化を求める地方議会の意見書採択、3月26日から4月25日までの報告分は以下のとおりです。
青森=六戸町 埼玉=行田市 大分=臼杵市
4月に行なわれた一斉地方選挙で、地方議会議員の入れ替わりがあったと思われます。新人議員一人ひとりに改めて訴えを行ない、次の議会に向けてさらに運動を強めましょう。
ボランティアの人たちと一年ぶりの再会も
児玉三智子・木戸季市両事務局次長が訪米
証言のあとで子どもたちに囲まれた児玉さん(前列右)と木戸さん(同右から3人目)=5月19日、MS54中学
アメリカ・ニューヨークで5月16〜24日、日本被団協の代表が証言活動を行ないました。昨年5月に日本被団協の代表団が訪問した学校や現地ボランティアからの要請をうけ、児玉三智子・木戸季市両事務局次長が訪米しました。
昨年の代表団訪米の際にお世話になったニューヨーク在住日本人ボランティアの人たちが、今回も多数関わって、訪問先と時間の設定や通訳などを、詳細に計画してくれました。
昨年の代表団の一員でもあった児玉さんと木戸さんは、ボランティアの人たちとの再会を果たすとともに、新たに活動に加わった人たちとの出会いを喜んでいました。
12カ所で証言
被爆証言をしたのは、中学校、高校、大学、教会など12カ所。子どもから大人まで、様々な人たちと交流できました。本紙5月号4面「声のひろば」欄でも紹介しましたが、福島原発事故にたいする広島・長崎の被爆者としての思いをつづった投稿が、相次いで寄せられています。今月も2人の方の投稿をご紹介します。
後手後手の対応にいら立ち
油野はつ枝(広島)
未曾有の自然災害に追いうちをかける原発の人災事故から2か月が過ぎた。復旧の目途もつかない。地震・津波に続いて原子炉から発煙した時点で、これはただごとではないと感じたが、原子力安全・保安院の会見も官房長官の会見も楽観的。うさん臭さを感じていたら、「直ちに影響なし」から「退避」、そしてついに村ごと「警戒区域」に。
放射性物質で汚染されると、どうなるのか。その食物を摂ったらどうなるのか。20年、30年先が深刻な内部被曝。対応対策が後手後手のように思え、いら立つ。
広島原爆資料館の入館者が記す対話ノートに、「ヒロシマ・ナガサキの歴史がある日本にすら原発があったとは」と、オーストラリア人の驚きの文がつづられてあったとのこと。
24時間営業の店、一晩中番組を流すテレビ、立ち並ぶ自動販売機等々。20年前に立ち返って普通の生活をしたら、原子炉一基分位の節電は可能ではないか。どこかの知事の「天罰だ」という発言に反発をおぼえつつ、皆で考えるきっかけになればとも思う。
国は放射線被害を認めよ
箕牧智之(広島)
広島長崎に落とされた原子爆弾は、強烈な熱線と放射線、爆風の三つの複合作用で大きな被害をもたらしました。大量破壊大量殺戮が瞬時に、一般市民に対して無差別になされ、放射線の被害がその後も永年にわたり人々を苦しめています。放射能の怖さを知る知恵もなく、人々はどれだけの放射線を浴びたことか。戦後10年の間、どれほどの犠牲者が出たことか。
昭和29年3月のビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験で「死の灰」を浴びた第五福竜丸の久保山さんが亡くなったことで、核の恐ろしさ、怖さが証明されました。当時魚が食べられなくなったことは、今の福島原発事故による海水汚染、農地汚染で、県民、日本国民、海外の人までが警戒のなかで暮らさざるを得ない状態と重なります。
今現場で原発事故処理にかかわられている人たちは、測定器を持参し防護服などをつけて作業しておられます。将来、放射線に関する病に侵された場合、因果関係が認められないとか、前代未聞の事故だから受忍すべきとかいうことにならないよう。また福島県民も高い放射線を浴びてしまう人がおられるはず。それを現在の被爆者行政のように、因果関係が認められないとか、受忍せよとか、役人に絶対に言わせないことが大事です。
役人、政治家の方々自らが福島原発の一番近いところまで行って体験してみてほしいとさえ思います。そうすれば私たち被爆者の立場が理解されるのではと思うほど、私は歯がゆさを感じます。
被爆者は「核廃絶、恒久平和」、そして「再び被爆者をつくるな」と訴えてきました。
でも福島原発の事故で「再び被曝者をつくった」のではありませんか。
若者のトーク、子どもらの合唱も=埼玉=
「核兵器のない世界を子供たちのために〜吉永小百合原爆詩の朗読と映画のつどい」が、5月21日川口市で開催されました。埼玉県原爆被害者協議会(しらさぎ会)ほか5団体の共催で、1800人余が参加しました。
はじめに、川越女子高校と熊谷高校の4人の生徒が、女優の斎藤とも子さん、田中熙巳しらさぎ会会長とトーク。若い世代がいきいきと語り継ぐ姿に希望を感じ頼もしく思いました。
吉永小百合さんは「川口は私の出発の地」と語り、「核廃絶」と「原発事故の早期解決」を願うと同時に「脱原発を考えなければ」と述べ、「人間を返せ」「慟哭」など原爆詩数編を朗読。静かな語りの中、凛とした意思が聞く人のこころに沁み入り、平和の大切さを一人一人が胸に誓ったひとときとなりました。
川口少年少女合唱団による歌のあと、吉永小百合さんと一緒に「折り鶴」を会場全員で合唱しました。
最後に、映画「夏少女」を鑑賞しました。
松葉杖のレンタル料 被爆者手帳は使えないのですか?
【問】私は家の中で転んで足を骨折しました。1週間入院して、リハビリも終え、松葉杖で何とか歩行できるようになり退院しました。今後は、松葉杖を病院から1日50円でレンタルすることになりましたが、このレンタル料は個人負担だと言われました。被爆者健康手帳も使えないのでしょうか。(女・82歳)
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【答】治療に必要なコルセット、ギプス、義手・義足、松葉杖などは、レンタルではなく、医師の処方箋に基づいて購入した場合に、健康保険の規約に基づいて保険が適用されます。つまり、購入の場合には、被爆者健康手帳が使えて、原則的に費用を負担することはありません。ただし、立て替え払いをして、あとから還付を受けることになります。
松葉杖のレンタルに関しては、「健康保険の細則」では、料金の規定がありません。病院によって無償のところもあり、有償のところもあるというのが実状のようです。入院中も含めて無償で使用できるというのは、病院の善意ということになります。
今後どのくらいの期間松葉杖が必要かということにもよりますが、長くなるようであれば、医師に相談して購入を検討してください。
吉田光子さん・和子さん(いずれも旧姓)当時12歳と8歳、広島県吉坂村出身。
光子さん、和子さん姉妹は、当時、広島県山県郡吉坂村今吉田1733番地の自宅に、家族と住んでいました。農家で、父親の音一さんは家の隣にあった農協に勤めていました。
昭和20年8月8日、大島さんという家族(当時の住所は広島市空鞘町94番地)が吉田家に避難してきました。大島さんは6日に市内で被爆。両親と子ども合わせて5〜6人の家族で、女の子の一人はきんちゃんと呼ばれ、母親はアサノさんでした。当初元気そうだったアサノさんは次第に体調を崩し、24日に41歳で亡くなり、葬儀も行ないました。その後大島さんは吉田家を離れ、行方はわかりません。
光子さんと和子さんは自宅で大島さんの家族に毎日接し、看病その他の手伝いをしていました。大島さんご家族、または大島さんをご存じの方を探しています。
連絡先・小笠原(旧姓吉田)和子さん=広島県廿日市市山陽園3‐6 Tel0829‐31‐3302
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才木 忠孝さん 大正15年7月生まれ、長崎市出身。