厚労省「原爆症認定制度の在り方に関する検討会」で被爆者が体験陳述
厚生労働大臣が主催する「原爆症認定制度の在り方に関する検討会」第2回会合が1月27日開かれ、関係者からのヒアリングが行なわれました。
日本被団協が推薦した岩佐幹三、木戸季市両事務局次長と、伊藤直子中央相談所理事が、体験に基づく被爆の実相と、これまでの原爆症認定行政の実態について、それぞれ陳述しました。
以下に陳述の要旨を紹介します。1面に岩佐氏と木戸氏の、2面に伊藤氏の陳述です。
木戸季一さん
岩佐幹三さん
伊藤直子さんさん
たくさんの被爆者に対し、弔慰を
被爆者を差別しない制度を
石田忠さん(日本被団協専門委員、一橋大学名誉教授)が1月25日、老衰のため死去。94歳。
一橋大学で社会調査室を創設。1977年のNGO主催国際シンポで被爆者調査を担当。長崎被爆者の生活史調査を継続実施、日本被団協の諸調査の企画分析を手がけ、日本被団協専門委員として「基本懇」批判活動、「原爆被害者の基本要求」制定に尽力しました。
著書『反原爆‐長崎被爆者の生活史』正・続、『原爆体験の思想化‐反原爆論集1』『原爆被害者援護法‐反原爆論集2』(共に未来社)など。
次は石田さんが執筆した「原爆を裁く国民法廷・長崎」(1978年8月8日)審判文の一節。
審判「原爆を裁く国民法廷・長崎法廷」(抄)
原爆は人間とその文化を否定しました。「ふたたび被爆者をつくらせない」というのは、そのような原爆を否定しかえそうとするものであります。それが人間というものであります。それが生きるということです。
………
反原爆の立場と「国の戦争責任」を確立することは、被爆者のみならず、広く国民一般にとって、さらには人類にとって、大きな意義があります。
…世界唯一の被爆国の立場に立って、即ち被爆者の原爆体験を民族体験にたかめることによって、核兵器の廃絶、「核兵器のない世界」の実現のために努力することこそわが国の人類史的義務であるというべきであります。
そして、核兵器の廃絶、被爆者援護法〔国家補償〕の制定、これだけが原爆によってもたらされた残虐な死と生に意味を与えるすべてであります。原爆の犠牲を人間の歴史の上に位置づけるすべはこのほかには絶対にありえないからであります。
そのような日がくるまで、いつまでも被爆者たちは問いつづけるでありましょう。
非核三原則の法制化を求める地方議会の意見書採択、2月25日までの報告分です。
大分=宇佐市
非核宣言都市の議会でまだ採択を行なっていないところに働きかけて、採択をすすめましょう。
新潟県原爆被害者の会(新友会)が、新潟県弁護士会の「人権賞」を受賞しました。同賞は「新潟県内において基本的人権の侵害に対する救済活動や人権思想の確立のための研究・啓発活動等に地道に取り組み、優れた功績をあげた個人や団体を対象として毎年選考」しているもので、今回の授賞理由を「原爆被害の体験談等を通じ、戦争の悲惨さを伝える活動は、人権保障の大前提となる平和実現に向けられたものであり、正に人権賞の選考基準に合致する」としています。
2月25日の授賞式を前に、新友会事務局長の山内悦子さんは「びっくりしましたが、うれしいことです。ふたたびあんな被害を誰も受けることがないようにと願って、みんなで活動してきたことが認められたのだと思います」と話しています。
日本被団協は『2010年NPT再検討会議ニューヨーク行動 日本被団協代表団 報告集』を発行しました。(A4版グラビア16ページ+本文78ページ)
冒頭のグラビアでは、代表団の活躍がカラー写真で紹介されています。本文では、09年の定期総会決定の「行動要綱」、国連事務総長ほかに提出した要請書、代表団の行動日程や取り組みのまとめ等を収録。代表団一人ひとりの感想と、現地ボランティア代表の感想は50ページにわたっています。巻末に、国連原爆展パネルのタイトルと内容の一覧、5月28日採択の会議最終文書も収録。
希望者に1部700円(送料別)でお送りします。被団協事務局までお申し込みください。
届いた物資を手にしたピショットさん(ホワイトハウス前)
アメリカ・ワシントンのホワイトハウス前の公園に簡易テントをたて、29年間休むことなく「核兵器廃絶」を訴えつづけているコンセプション・ピショットさんに、2月初め、日本被団協が支援物資を送りました。
スペインの外交官だったピショットさんは、平和活動家ウィリアム・トーマスさんの取り組みに共鳴して一緒に訴えるようになり、一昨年トーマスさんが死去してからも一人で続けています。
日本被団協の代表がワシントンを訪れると、ワシントン・ヒロシマ・ナガサキ平和委員会のメンバーが必ず案内し、交流してきました。
昨年12月、ピショットさんの体調が思わしくないと、現地の支援者から日本被団協に連絡が入りました。事務局では緊急に、近年被団協代表としてワシントンを訪問した人を中心に協力をお願いしてカンパを集め、カイロ300個とスキーウエアや下着などを購入。協力者の名前と「被爆者はいつもあなたと共にいます」のメッセージを添えた色紙も同封して送りました。
今後も支援をつづけますので、協力いただける場合は、日本被団協事務局までご連絡ください。
『ヒロシマ 希望の未来──核兵器のない世界のために』澤野重男
広島の元高校教師が中高生のために書いた原爆・平和学習の入門書。長年の経験を踏まえ「核兵器のない世界は若者によって実現される」と語りかける言葉はあたたかく、説得力があります。 最近の核問題動向や、広島・長崎の若者らの実践なども豊富に紹介されています。1680円。平和文化=03‐3812‐8618
『平和のアート(彫刻)戦争の記憶‐写真集‐核のない未来へ』藤田観龍
北海道根室から沖縄波照間島までを歩き撮った記念碑や彫像など620点が網羅された写真集。過去の戦争の記憶だけでなく、今おきている戦争や、戦争が準備されるなかで被害を忘れまいとするものも。未来に遺したい美しい自然とともに、核のない未来への希望を思わせる記録です。8000円。本の泉社=03‐5800‐8494
『ポケットのなかの平和──わたしの語りつぎ部宣言』いちだまり
平和博物館を創る会に参画しつつ都立第五福竜丸展示館で学芸員をつとめる筆者初ののエッセイ集。「語る人がいて、受けつぐ者がいて、語りあう場があれば、記憶を継承していくことは可能です」という言葉に励まされます。筆者は「被団協」新聞編集委員でもあります。その人柄を映すような温かいイラストの装丁は和田誠氏。1260円。平和文化=03‐3812‐8618
今も続く「不安」を話す
千葉孝子さん(兵庫)
広島で3歳の時に被爆した私は、被爆当時のことはほとんど記憶にありません。母や兄が詳細な体験記録を残してくれているので、それを組み立てて話しています。
核で傷つけられたDNAをもつ私は、「結婚してはいけない、子どもを産んではならない」と自分に言い聞かせていたこと、「共に重荷を背負おう」と言ってくれる男性に巡り会ったものの10年間子どもに恵まれなかったこと、やっと3人の息子の母親になっても体調を崩すたびに自分を責め、孫の出産にも不安を抱いたことなど、いつまでも核の影響から逃れられない恐ろしさを訴えています。
証言を聞く人の身にひきつけて考えてもらえるように、芦屋市で話すときには、芦屋市の地図に同心円を書いて貼り、被害の様子を想像してもらいます。子どもには歳を聞いて「私の兄はあなたと同じ歳ごろだったよ」などと語りかけます。
あの日、紙一重の差で生き残り、今もなお生きていられるのは、「あの日」と「その後の惨状」、そして「未来への不安」という被爆者の思いを、証言活動ができない方の分も合わせて、一人でも多くの人に伝え、核廃絶へのエネルギーとするために生かされているからなのだと思っています。
4月から被爆者関連の手当てが減額される?
【問】 今年の4月から健康管理手当などの被爆者関連の手当が下がると聞きましたが本当ですか。そうだとすれば、どのような理由からですか。
* * *
【答】 現在国会審議中の平成23年度予算案が成立すると、4月から、被爆者に支給されている健康管理手当などの手当が左の表の通りに下がります。これは、年金にある「物価スライド」という制度のためです。もともとは物価の上昇によって年金額が目減りしないように作られた仕組みで、物価の上昇にあわせ年金額も上げる、というものでした。この制度がスタートした時から、国民年金、厚生年金などとともに、被爆者の健康管理手当なども同様の措置がとられてきました。
今年の4月からは、2005年の物価水準との比較で、10年の平均物価指数が0・7%下がったので、年金や手当を0・4%下げるというものです。
関千枝子(東京)
姉・黒川万千代(横浜市在住)が死亡いたしました。長く反核の運動をやっておりますのでご存知の方も多いと思います。最近はアンネ・フランクの研究調査の方が忙しかったようですが、最後の仕事として、昨年10月原爆展会場で被爆証言できたのは、本人も満足だったと思います。ただ、死ぬまで残念がっていましたのは、昨年1月病気発症のときに「原爆症認定」の申請をしているのにいつまでも審査が始まらないことでした。姉は3キロ被爆者ですが8月10日に爆心地に入っており、医師2人も原爆の疑い濃厚と診断しています。いつまでたっても審査が下りないので問い合わせたところ、申請が6000人もあるので審査まで2年はかかるとのこと。これでは生きているうちに間に合わないと怒っておりました。本人は「金がほしいのではない。原爆のためということをはっきり認めてほしいのだ。放射能が65年たっても仇をする恐ろしいものだということを認めてほしいのだ」といっておりました。最後はほとんど意識のない状態でしたが、2週間がんばりました。『認定』のおりない悔しさががんばらせたのではないかとまで思います。
最近、大分県在住の作家・中山士朗さんから手紙をいただきました。彼は15歳のとき爆心から1・6キロの地で全身火傷、原爆のことのみ書き続けている作家です。心臓も悪くペースメーカーを入れています。中山さんも3年前に原爆症認定を申請、2年半後に却下、異議申し立てしておられるそうですが、決裁まで2年かかるそうです。「私も怒っています。それまで当方の命が持つかどうか」と書かれていました。中山さんの作品は、実に静かに原爆の惨禍を語っています。「怒っています」というような言葉を使われたのをはじめて見ました。被爆者の死を待っているような認定の審査の状況、本当に腹立たしく思います。
高橋亀さん 大正14年4月生まれ、静岡県静岡市出身。
高橋さんは当時、久留米陸軍病院所属の衛生兵でした。長崎に原爆が投下された昭和20年8月9日、第1次救護隊(軍医中尉淡河浩隊長以下軍医20人、看護婦30人、衛生兵127人)の一員として、午後7時頃、列車で久留米を出発しました。
翌10日午前11時頃、道の尾で下車し、長崎要塞司令部の指揮下に入りました。大村陸軍病院から長崎出身の衛生兵20人が加わり、救護隊は総勢197人になりました。
三菱製鋼所を本部に、稲佐班、金毘羅班に大別し、1箇班20人、さらに5人ずつの小班に分かれて救護活動を行ないました。8月15日まで連日活動し、その日の終列車で久留米に帰院しました。
手帳申請をしていますが、長崎にいた証拠を求められています。同じ救護隊にいて手帳を持っている方を捜しています。
連絡先・静岡県被団協川本司郎=Tel054‐364‐4189