被団協新聞

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「被団協」新聞2011年 1月号(384号)

2011年1月号 主な内容
2面 年頭所感
“原爆による人間被害を明らかにせよ”/厚労省が認定制度在り方検討会開く
青森県被団協が全議会に要請/非核三原則法制化意見書採択求め
3面 「基本懇」答申30年シンポジウム開く/日本被団協
被爆者運動キーワードひとくち解説
4-5面 「戦争被害」私たちは受忍しない/「基本懇」答申30年シンポジウム
受忍論をふきとばし、被爆国日本を非核国に―会場発言から―
7面 国連原爆展を国内で初展示/東友会
多彩な事業を営々と/大阪府被団協
「基本懇」シンポジウムから/「大きく声をあげる時」
ヒロシマ・ナガサキをつたえる(1)
8面 相談のまど
声のひろば

年頭所感

国家補償への第一歩を/日本被団協代表委員 谷口 稜嘩

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 今年は、臨戦態勢と見まごうような「防衛計画の大綱」の破棄と非核三原則の法制化を政府に求めるとともに、国家補償の被爆者援護法の内容について、私たちの要求をまとめる年です。さらに国民の皆さんの中に私たちの思いを広げ、政府・国会に対しては、一日も早いその実現を求める第一歩を踏み出す年です。
 かって私たちは、国民の皆さんと一体となって国家補償の被爆者援護法を求める運動をすすめ、1000万を超える署名を国会へ提出。衆議院でも参議院でも3分の2を超える議員の賛同を得たのでした。残念ながら、念願の国家補償の被爆者援護法に結びつけることはできませんでしたが。
 私たちはお互いに心を引き締め、1990年代をしのぐ大運動を展開しましょう。
 「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意」し、「主権が国民にあることを宣言」して、日本国憲法を確定した私たちです。高齢化した身体をいたわりながらも、「ふたたび被爆者をつくるな」の旗を高く掲げ、がんばろうではありませんか。

“原爆による人間被害を明らかにせよ”/厚労省が認定制度在り方検討会開く

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在り方委員会(12月9日) 上段左が田中事務局長、左から3人目が坪井代表委員、下段左から2人目が細川厚労大臣

 厚生労働大臣が主催する「原爆症認定制度の在り方に関する検討会」第1回会合が、12月9日開かれ、被爆者と支援者45人が傍聴しました。
 この検討会は、09年12月成立の集団訴訟解決基金法附則での規定と、10年8月の内閣総理大臣の発言を踏まえて設置されたもので、日本被団協の坪井直代表委員と田中熙巳事務局長が委員として参加しています(別項に委員一覧)。
 田中事務局長は議論の中で次のように述べました。(以下、発言抜粋)
 原爆の被害と人間の苦しみは「その時」にとどまらず、被爆者の一生、次々世代にわたってつづいています。私たちは、その被害に対して国が補償すべきものと考えています。原爆症認定制度の在り方を検討するにあたっては、あらためて、原爆の被害は何だったのか、とりわけ、原爆は人間に何をなしたのかを問いただしながら、原爆被害に対する、国の対策の在り方の一環として検討されるよう求めます。
 検討会が被爆者の実情や思いを尊重し、自主的かつ民主的に運営されることを願っています。

検討会委員
 「原爆症認定制度の在り方に関する検討会」の委員は、以下の14人です。
 荒井史男(弁護士) 石弘光(放送大学学長) 草間朋子(大分県立看護科大学学長) 潮谷義子(長崎国際大学学長) 神野直彦(東京大学名誉教授) 高橋滋(一橋大学大学院法学研究科教授) 高橋進(株式会社日本総合研究所副理事長) 田中熙巳(日本被団協事務局長) 智多正信(長崎市副市長) 坪井直(日本被団協代表委員) 長瀧重信(財・放射線影響研究所元理事長) 三宅吉彦(広島市副市長) 森亘・座長(東京大学名誉教授) 山崎泰彦(神奈川県立保健福祉大学保健福祉学部教授)〈50音順・敬称略〉

青森県被団協が全議会に要請/非核三原則法制化意見書採択求め

 青森県被団協は、12月議会にむけて県下の全議会(県および40市町村)に対し、非核三原則法制化を求める意見書採択の要請を行ないました。
 10月の日本被団協全国代表者会議に出席した白取豊一県被団協会長が、非核三原則法制化を求める運動に関する討論の中で「今まで取り組んでいなかったが、大事な運動だとわかった。すぐに始める」と発言。その後自ら陳情書を作って10月28日付で各議会事務局に郵送しました。直接届けるようにというところもあり、岩手県境の町まで足を運びました。
 12月13日現在、3町村から採択の報告が届いています。そのうち東通村議会では、総務企画常任委員会審査報告書に「百八十九ヶ国が参加した今年の核不拡散条約再検討会議で『最終文書』を全会一致で採択しており、今こそ日本は、核兵器をおとされた唯一の国として、核兵器の廃絶に向けて主導的役割を果たすべきです。そのためにも、「非核三原則」の早期法制化を図ることにより、国際的な世論のリーダー役としての明確な意見を示すことができるとの観点から、本陳情書は採択すべきものと決した」と述べられています。

「基本懇」答申30年シンポジウム開く/日本被団協

戦争被害「受忍論」を厳しく批判

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「基本懇」答申30年シンポジウム(12月9日)

 日本被団協の2010年行動を締めくくる催し「『基本懇』答申30年 シンポジウム」が、12月12日、東京・四ツ谷の主婦会館プラザエフで、約130人の参加を得て開かれました。  「原爆被爆者対策基本問題懇談会(基本懇)」が1980年12月11日、「国民は戦争被害を受忍せよ」と、国家補償の被爆者援護法要求を拒否する意見書を発表してから30年。議事録が公開されたこともあり、あらためて「基本懇」では何が議論されたのか、打ち破るべき「受忍論」とは何かを考え、これからの被爆者運動の課題を明らかにしたい、という目的でこのシンポジウムは開かれました。
 前半は4人のパネリストが報告しました。テーマは、浜谷正晴一橋大学名誉教授が「『基本懇』意見は何だったのかー議事録から読み解く」、田中煕巳被団協事務局長が「基本懇答申を被爆者の一人としてどう受け止めたか」、内藤雅義弁護士が「日本の戦後補償は世界の非常識」、直野章子九州大学大学院准教授が「政治論としての国民受忍論‐その思想と系譜」でした。(発言要旨は4〜5面に掲載)
 後半の冒頭、30年前の同日、同じ主婦会館で開かれた日本被団協緊急決起集会で発言した被爆者(桧垣益人氏、山口仙二氏)の怒りの声の録音が会場に流され、参加者は思いを新たにしました。
 質疑・討論は、二つの柱(1)基本懇意見とは何だったのか、(2)基本懇意見をのりこえるために、を中心に討論されました。限られた時間でしたが、会場からの発言とパネリストとの内容豊富なやりとりがあり、参加者に展望を与えるシンポジウムになりました。

被爆者運動キーワードひとくち解説

被爆者運動の中で「基本懇」という言葉がよく出てきます。「基本懇」とそれに関連する事柄を説明しておきましょう。

基本懇/被爆者政策の土台
 「原爆被爆者対策基本問題懇談会」の略称です。1979年6月、厚生大臣(当時橋本龍太郎)の私的諮問機関として設置。座長の茅誠司・元東大学長ら委員7人。
 その頃、国家補償の被爆者援護法を求める国民的な運動が広がり、政府は被爆者政策の基本的検討を迫られていました。
 基本懇は翌80年12月11日、「原爆被爆者対策の基本理念及び基本的在り方について」と題した「意見」(答申)を厚生大臣(当時園田直)に提出しました。
 その内容は、原爆被害への国家補償を拒否し、原爆被害も含めて国民に戦争被害の「受忍」を強いるものでした。
 日本被団協はただちに声明と詳細な「見解」を発表して、基本懇の「原爆批判の欠落」と「国の戦争責任の回避」をきびしく抗議しました。

「受忍」/戦争被害がまんを
 基本懇はこう言います。「およそ戦争という国の存亡をかけての非常事態のもとにおいては(国民の戦争犠牲は)すべての国民がひとしく受忍しなければならない」
 国の戦争責任は認めない。一般国民の戦争被害への国家補償は原爆被害も含めて認めない、と。
 基本懇は、広島・長崎の原爆被害は「人間の想像を絶した地獄を現出した」といいながら、その「原爆地獄」さえ「受忍」せよ、というのです。
 そして「原爆放射線による晩発障害」だけを「特殊性を持った被害」として「措置対策を講ずる」ことを提起しています。
 戦争を放棄した憲法のもとで「受忍」論がまかり通っていいわけはありません。  「受忍」政策打破は現在、未来の戦争にもかかわる問題なのです。

基本要求/被爆者をつくるな
 日本被団協はただちに「受忍」論打破に取り組みました。原爆被害者調査、一千万人署名、国民法廷運動などを進め、それを基礎に84年11月、「原爆被害者の基本要求」を策定しました。
 核戦争被害は「人間として“受忍”できない」として、「ふたたび被爆者をつくらない」ために「核兵器廃絶」と「原爆被害への国家補償」の2大要求が不可分の関係にあることを定式化しました。
 国家補償の被爆者援護法は「国が原爆被害への補償を行うことによって、核戦争被害を“受忍”させない制度を築き、国民の“核戦争を拒否する権利”をうち立てるもの」と規定しています。

「改正」/国は被害の償いを
 現在の「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」(94年12月9日成立)は、それまでの原爆医療法と原爆特別措置法を一本化した法律です。
 日本被団協は声明を発表、「被爆者と広範な人々の力によるもの」だが、「原爆被害への国の償いとしての被爆者援護法ではない」「すべての戦争犠牲についての『受忍』を国民に強いる立場に立っている」と指摘しました。
 日本被団協はいま、現行法「改正」の課題に取り組んでいます。国が戦争責任を認め、戦争被害の「受忍」政策をやめて、国家補償の法律に抜本的に変えることです。

「戦争被害」私たちは受忍しない/「基本懇」答申30年シンポジウム

 日本被団協が12月12日に開催した「『基本懇』答申30年シンポジウム」(3面と7面に関連記事)でのパネリストの発言要旨を紹介します。

被爆の実態直視せず/濱谷正晴 一橋大学名誉教授
基本懇意見は何だったのか

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 30年前「基本懇」意見が答申された日の午後、被団協「見解」を発表しました。前夜から徹夜でこの執筆に携わった一人として、最近公開された議事録をもとに、読み解いてみたいと思います。

「国家補償」に歯止め
 基本懇は、国家補償の被爆者援護法を求める世論の高揚と「原爆医療法には、…特殊の戦争被害について戦争主体であった国が自らの責任によりその救済をはかる」という点で、制度の根底に「国家補償的配慮がある」とした孫振斗訴訟の最高裁判決(78年3月)を受け、厚相の私的諮問機関として設置されました。
 目的は、被爆者問題についての「基本理念を明らかにする」「制度の基本的なあり方について検討すること」。1年半の間に被爆者団体や関連自治体、専門家への意見聴取をはさみ14回の会合が開かれていますが、大まかなスタンスは第3回までに固まっていました。
 その特徴は、被爆者対策の「基本理念」について、それまでの「特別の社会保障」という曖昧な位置づけから、「広い意味における国家補償」へと読み替える。ただし、「国家補償」が独り歩きしないよう歯止めをかけ、死没者補償、被爆地域の拡大、一般戦災、沖縄戦など他の戦争被害者に波及しないよう腐心する、という点にありました。

受忍論は議論さえなく
 被爆者の批判が最も集中した「受忍」論については、驚くべきことにたった1度、報告に盛り込むべき事項として登場。「原爆放射能による健康上の被害は国民がひとしく受忍しなければならない戦争による「一般の犠牲」を超えた「特別の犠牲」であって、国の責任…において救済すべき」という箇所については何の議論もされず、在外資産に関する最高裁判決(「受忍」せざるを得なかった過去の事実の指摘)との違いに気づいてさえいません。彼らはしごく当然の、所与のことと受け止めていたのです。

波及おそれ真実を見ず
 基本懇にとって「一番大きな問題」は、都市空襲等による一般戦災者と被爆者とをどう区別するか。したがって、被爆者だけに「国家補償」を行う論拠としての「特別の犠牲」は、いま生きている人たちの、放射線による健康障害へと限定されていきました。彼らの「歯止めをかけなければ」というスタンスが真実から目を逸らさせ、被爆者の「苦しみ」、原爆被害の全体像を直視しようとさせなかったのでしょう。  その結果、答申の重点は「厚生省がこれまでとってきた対策をジャスティファイすること」におかれ、「広い意味における国家補償」にもとづく「相当の補償」に対応する施策すら、何も打ち出せなかったわけです。

「受忍」は当然ではない/内藤正義 弁護士
日本の戦後補償は世界の非常識

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欧米の戦争被害補償
 原爆・空襲被害など国民の戦争被害について、国はアメリカに対しては賠償請求権を放棄し、国内では民間人の被害は受忍(我慢)してもらうしかないとしました。
 欧米では、戦争被害の放置は当たり前、ではありません。民間人戦争被害補償は、すでに第一次世界大戦後から確立しています。独、仏、英、伊などです。戦争の様相が民間人も巻き込む総力戦となってきたことの反映で、国際法の進展と相互に関係しています。

日本ではまた同じ誤り
 日本では戦時中、戦時災害保護法で一定の救済をはかっていましたが、発想は受忍論と同じものでした。戦後、軍人・軍属中心の戦傷病者戦没者遺族等保護法で戦後補償が出発しましたが、準軍属の拡大、沖縄の「戦闘協力者」など、矛盾と歪みをはらんでいます。
 また、国民保護法では受忍論の新たな同じ誤りが進行しています。
 日本国憲法から見ると「戦争被害受忍は当たり前」ではありません。欧米各国の戦争被害補償は民主主義と基本的人権の反映です。日本国憲法はさらに、平和主義と平和的生存権をうたっています。前文では「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」しています。戦闘員、非戦闘員を問わず戦争の被害が生じないようにすることの誓いです。

一般戦災者との共闘を
 基本懇における受忍論の問題点は、一般戦災者の切り捨てを前提にしていること。これは、被爆者と空襲との共闘ができていなかったという運動の側の問題の反映でもあると思います。また、戦後補償についての外国の状況が紹介されていなかったということもあると思います。
 今後、空襲被害者が進めている国家補償立法提案運動との共闘を期待します。

「国のためなら命も…」/直野章子 九州大学大学院準教授
政治論としての国民受忍論

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「受忍」の規範論
 基本懇答申の国民受忍論は、戦争被害は本来耐え忍ぶべきもの、という規範論です。  受忍論の先行判例としては在外財産補償要求訴訟最高裁判決(1968年)がありますが、基本懇答申の特徴は「受忍しなければならない」と現在形で記述されていて、これが最も規範的なものになっていることです。
 受忍論は、戦後補償否定の根拠の一つとして機能しています。

受忍論の不平等性
 受忍論は国民の不平等負担などの点でも問題です。生命、財産の「多少の」犠牲を同列視していて、被害が甚大な者ほど受忍の度合いが高まることになります。軍人、軍協力者などは補償の対象となるが非戦闘員はより受忍させられる。旧植民地出身者は援護体系から排除しながら当時「日本国民」だったという理由で受忍論が適用される。受忍論で「受忍すべき被害」を創出し、不平等に配分されているのです。

憲法の精神を実現する
 受忍論の前提は国家のためなら国民が命を犠牲にして当然という「国家優先思想」です。主権在民、基本的人権の尊重、平和主義という日本国憲法の精神に反します。
 基本懇議事録には、被爆者を特別扱いすべきではないという考えが前面に押し出されています。他の戦争被害者に補償責任が拡大することを何より恐れ、戦争の傷痕に苦しみ続ける被害者を直視することもありません。
 受忍論を打破しようとする被爆者運動は、過去の戦争被害だけでなく、未来にも起こりうる被害を受忍させない制度要求です。「戦争被害は補償せず」という日本の「非常識」も、「補償はするが戦争もする」という欧米の「常識」も越える思想、日本国憲法の精神を実現する運動なのです。

国家補償の制定を/田中熙巳 日本被団協事務局長
一人の被爆者としての基本懇

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「あの日」の私
 1945年8月9日、長崎の爆心地から3・2キロの自宅2階で被爆。中学2年、13歳。爆発音の後、閃光に包まれ、階下に駆け下りてその場に伏せたが、後は記憶がない。爆風で飛んできた格子戸とガラス戸の下敷きになったが、けがもなく命拾いをしました。母と2人の妹も無事でした。
 しかし、爆心地近くに疎開していた祖父、叔父、2人の伯母、従姉の子、5人の身内の命が一挙に奪われました。3日間生きた伯母の遺体は私が荼毘に付しました。原爆地獄のあり様は、今でもありありと浮かびます。
 原爆は私にとっては貧乏神。どうにか高校を卒業したあと、働きに出ました。5年後に大学進学の後も自活。どんな労働にも耐えました。

基本懇のころの私
 基本懇の1980年は48歳。東北大学の教員でしたが、宮城県の被爆者の会の役員になり、76年に国連要請代表団に加わるなど、公私共に忙しくなっていました。
 基本懇には期待と不安を持っていましたが、答申に衝撃を受け、憤りと悔しさが一気に噴出しました。「受忍」だなんて、冗談じゃない。今は主権者は国民だ。みんな怒った。「受忍論」に無知だったことの悔しさ。
 「受忍論」打破へ、被団協はたかいに取り組み、「要求骨子」から「基本要求」へ、新たな理論構築に入りました。

受忍論撤回のために
 受忍論を撤回させるにはどうすればいいのか。私の今の到達点は、次のとおりです。
 (1)行政や司法が自ら撤回はしないだろう。
 (2)政治を動かす主権者国民の力を結集しるしかない。つまるところ、市民の戦争被害に対する国家補償法を制定するほかはないだろう。
 (3)東京空襲被害者訴訟のように違憲訴訟を起こし、最高裁で受忍論違憲の判決を下させること。

受忍論をふきとばし、被爆国日本を非核国に―会場発言から―

 浦田賢治(早稲田大学名誉教授)‐国が雇った者のみに行なう古い国家補償の考え方が79年からかわっていく。広い意味での国家補償が基本懇の中で認められていった。
 山田拓民(被爆者)―受忍論はジワーっと感じていた。57年の医療法も受忍論に毒されている。今の法律もその残渣を抱えている。新しい法律をつくる必要がある。生半可なことではないがやらないわけにはいかない。
 増田善信(気象学者)―「黒い雨」調査をした者として、基本懇委員の「地域拡大につながらないように」という発言に驚いた。科学的問題でさえ、受忍論に邪魔されている。受忍論をふきとばす運動をしなければ。
 吉田一人(被爆者)―30年前、被爆者は怒りを力に変えて受忍論反撃に取り組み、被爆者調査、2千万人署名、国民法廷運動などを広げ、84年に「基本要求」をつくりあげた。被爆国日本を非核国に。過去への謝罪なしに未来への保証はない。
 櫻下美紀(広島相談員の会)‐広島では被爆者であることを言えない状況がある。社会福祉の問題との連動も必要では。
 池田眞規(弁護士)―原点であるアメリカを追求しなければならない。敵を忘れるな。
 岩佐幹三(被爆者)―国家補償の追求は、国に「ふたたび被爆者をつくるな」ということを求めるたたかいである。日本政府を変えなくて、アメリカをかえられるのか。
 原田敬三(弁護士)―東京空襲訴訟弁護団に入っている。人間の尊厳に基づく人権回復のたたかいとしてやっている。

投稿募集
 『被団協』新聞は2月号から、「国家補償法へ‐私が求める国の償い」のテーマで、新連載を始めます。被爆者として、国民として、国に対し、どんな被害をどうやって償ってほしいのか‐。それぞれの思いを寄せてください。500〜600字にまとめて日本被団協までお送りください。

国連原爆展を国内で初展示/東友会

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5日間で8000人が来場
都庁展望室で「東京原爆展」


 東京都原爆被害者団体協議会(東友会)は11月27日〜12月1日、東京都庁45階南展望室で「伝えようヒロシマ・ナガサキ 東京原爆 展」を開きました。「原爆と人間展」パネルなどのほか、今年5月にニューヨークの国連本部ギャラリーで日本被団協が行なった原爆展パネルを、国内で初めて展示しました(写真)。
 5日間の入場者は約8000人。多い日は1日で2500人もの人が訪れました。日本各地や海外からの観光客も多数訪れ、子どもからお年寄りまで、原爆被害の実態と被爆者の願いに見入っていました。
 子どもに詳しく説明する母親や、欧米人の男性が泣きながら英文の説明を読んでいる姿が印象的でした。カナダのトロントから来たという家族連れは、もっと大勢の人に見てもらいたいと感想を述べていました。

多彩な事業を営々と/大阪府被団協

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 大阪被団協は地域ごとの60の会がまとまり1974年5月に社団法人として発足。80年からの被爆地墓参に85人が参加。87年から継続の相談事業は年に数回研修会を行ない(写真)450人の相談員が活動しています。
 節目の年に式典と記念誌刊行、大阪城公園内に植樹と記念碑設置、証言集も82年と91年に発行しました。節目の年の開催だった慰霊式は、94年以降原爆展(独自のパネル130点展示)と並行して毎年開催しています。
 03年から大阪府が希望者に交付している2世手帳所持者は4800人になりました。

「基本懇」シンポジウムから/「大きく声をあげる時」

 ▼私にとって特に特に勉強になったことは「受忍論」です。大変深く大切な問題であることを改めて認識しました。(80歳・男)
 ▼受忍論は私たちにも言われていることですから、一人でも多くの人にアピールしていきたいです。(30歳・女)
 ▼大正生まれの私としては若い皆さんのお話を希望をもって拝聴しました。この受忍論を乗り越えて、法律で国家補償を確立するよう、若い人、頑張ってください。(84歳・男)
 ▼ますます被爆者が声を大きくあげる時だと実感しました。現行法の枠内の議論にとどまってはならないと思いました。(66歳・男)
 ▼基本懇への怒りと基本要求とは、被爆者運動だけでなくすべての「人間」の原点だと、改めて感じました。(51歳・女)

ヒロシマ・ナガサキをつたえる(1)

証言先に事前学習を依頼
原 明範さん(埼玉)


 3歳のとき、広島の船入川口町(爆心地から2キロ)で被爆しました。近所の床屋の前で友達の中森君と遊んでいて、私は呼ばれて店内に入って助かり、友達は瀕死の重傷を負いました。数年前から、私が話さなければ、中森君が生きていたことが忘れられてしまうと思うようになり、しらさぎ会(埼玉県原爆被害者協議会)に参加して証言活動に取り組んでいます。
 証言する時は、事前にパネル展示や映画上映をしてもらったり、広島の地図で説明したり、目に見える要素を取り入れるようにしています。自分の記憶はわずかなので、母から聞いた話や、生前にお会いできた床屋の主人、親戚らから聞いた話などを活用していますが、何度やってもこれでいいのだろうかと不安で、そのつど悩みながら話しています。
 被爆者運動や核廃絶をめぐる世界の動向などについても少しでもふれるようにしています。また、私たち被爆者がこうして話せる時間は残り少ない、今度はみなさんが私たちに代わって語り手になってほしいと伝えます。「子どもができたら伝えます」などと頼もしい感想が返ってきたときは、本当にうれしく感じ、もっともっと勉強して伝え方を工夫しなければと思いを新たにしています。

相談のまど

◇原爆症認定被爆者
・所得税の特別障害者控除はいつからうけられますか?


 【問】 2009年11月に原爆症の認定申請をして、10年11月に認定の通知が届きました。
 認定申請と同時に医療特別手当の申請もしていたので、09年12月にさかのぼって医療特別手当が支給されるとの連絡も受けました。
 原爆症認定被爆者は、所得税の特別障害者控除がうけられるとのことですが、これは認定された10年からになるのでしょうか。それとも、医療特別手当と同様に09年分にさかのぼることができるのでしょうか。
  *  *  *
 【答】 医療特別手当は、原爆症認定申請と同時に申請をして認定された場合、申請月の翌月にさかのぼって支給されます。これは、原爆症認定の申請をしてから結論が出るまでに時間がかかるためにとられている措置です。
 原爆症認定被爆者は、所得税法上の特別障害者として、所得税40万円と地方税30万円の基礎控除があります(所得税法第79条、同令10条)。
 この所得税の特別障害者控除については「厚生労働大臣が認定した時」からということになっています。したがって申請した年にさかのぼることはできず、控除がうけられるのは10年からになります。

声のひろば

 ◆4歳の時に長崎で被爆しました。昨年は10月に入院して大手術を受けて、本当に大変な年でした。山口仙二さんの長崎新聞文化章受章が、いちばん嬉しいですね。(福岡・69歳・男)
 ◆12月8日は、太平洋戦争勃発の日。毎年この日には、祖父が真珠湾攻撃のことを話していました。祖父が亡くなって57年になります。原爆を風化させてはなりません。(広島・68歳・女)
 ◆2010年5月、NPT再検討会議で被爆者の方をサポートして、今も交流が続いています。この新聞のことも教えていただき、購読しています。被爆者の方々の願いが早く叶うよう、核兵器のない世界が一日も早くおとずれますように。(大阪・40歳・女)
 ◆この新聞を読むと、各地の活動の様子がわかり、生活の励みになります。(東京・70歳・男)
 ◆私は広島の被服支廠で、妹は通学途中に電車を待っていて被爆しました。妹は原爆症の認定申請をしていますが、なかなか審査が進まず心配です。そして、あの被服支廠のレンガの倉庫が今後も保存されるかどうか、気になっています。(福岡・女)
 ◆5歳の時に長崎で被爆しました。被爆者ということを隠して結婚し、金婚式を迎える2年前に主人と長男を相次いで亡くしました。現在は嫁と孫2人と一緒に頑張って生きています。少しボランティア活動もしています。(兵庫・女)