被団協新聞

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「被団協」新聞2010年 8月号(379号)

2010年8月号 主な内容
1面 まなざし―――みつめる瞳、ヒロシマを、ナガサキを そして未来を
2-3面 原爆被害への国家補償を/まき起こそう現行法改正論議を
非核水夫の海上通信72
4-5面 「原爆投下は必要なかった」それが多くのアメリカ人の考えです
ニューヨークの高校生が被爆者と対話

本の紹介――この夏発行される原爆関連の本から――
7面 原爆症認定集団訴訟
意見書採択
8面 被爆者手帳所持者22万人台に/平均年齢は76.73歳(2009年度末)
被爆者手帳取得の証人さがし

まなざし―――
みつめる瞳、ヒロシマを、ナガサキを そして未来を

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NPT(核兵器不拡散条約)再検討会議で渡米した被爆者の話に聞き入る若者たち―2010年5月ニューヨーク
写真=亀井正樹

 戦争、原爆の体験者から直接話を聞くことができる時間はもうあまりないのだと、若者たちは訴えます。
 彼らからの思いがけない問いかけに、伝える側も、受けとめる側とともに考えなければならないことの多さにきづきます。
 日本で、そしてさまざまな国や地域で、初めて触れる被爆者の証言に、真剣なまなざしの若者たち。その瞳に応える被爆者。
 核のない世界を、ともにみつめます。

原爆被害への国家補償を/まき起こそう現行法改正論議を

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1956.8.10被団協結成総会(写真・「日本被団協50年史」より=連合通信)

 日本被団協では、4月に現行法改正要求(案)を発表し、全国討議を呼びかけました。6月の定期総会では、現行法改正案について議論を深め、10月の代表者会議で改正案を決定するとの確認をしました。
 以下に「現行法改正要求(案)と提案理由」を掲載します。質問や、疑問、意見などを、各都道府県被団協または日本被団協まで、文書(はがき、手紙、FAX)にてお寄せください。(日本被団協現行法改正検討委員会)

【要求1】「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」前文を改正し、原爆被害に対する国家補償を趣旨とし、あわせて核兵器の廃絶の決意を明記すること。

[理由] 原爆は人類がかって経験したことのない熱線、爆風、放射線によって、被爆者のからだ・くらし・こころに想像を絶する被害をもたらしました。これらの被害はもとはといえば国が開始遂行した戦争によって生じたものです。
 そうであれば、その被害に対して国の責任を明らかにして償うことは「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意する」(日本国憲法前文)と誓った憲法のもとでは当たり前のことです。
 しかし、国は市民の戦争犠牲は「生命、身体、財産」といえども受忍すべきとの政策をとりつづけています。この政策をあらため、「ふたたび被爆者をつくらない」という被爆者の願いを実現するため「核兵器のすみやかな廃絶」への国の決意を示すことを求めています。

【要求2】 原爆死没者の遺族に対して弔慰金、あるいは特別給付金を支給すること。

[理由] 原爆による最大の被害者は命を奪われた「死没者」です。受忍を強いることはできません。
 死没者補償は一般的には遺族に対する補償として行われます。「基本要求」では遺族年金を要求していますが、死没後60余年を経た今日、遺族に対する年金より現実性のある弔慰金、あるいは特別給付金を求めます。
 国は国立原爆死没者追悼祈念館建設や原爆の日の死没者追悼・慰霊式典での弔意の表明などを行っていますが、死没者一人ひとりに対する償いを行っていません。死没者一人ひとりに対する償いを求めます。
 また、現行法が制定されたとき2年間の時限立法で支給された、特別葬祭給付金は生存被爆者対策でしたので、被爆者でない遺族に対しては支給されませんでした。

【要求3】 被爆者全員に被爆者手当を支給すること。

[理由] すべての被爆者が、からだ・くらし・こころに被害を受けており、科学的に未解明の原爆放射線被害や「心の傷」など、死ぬまでこれらの後障害を受けつづけ苦悩を負った生活を強いられています。
 「基本要求」ではすべての被爆者に年金を支給し、医療費を全額国が負担することを要求していますが、本要求では制度的に複雑でなく、これまでの施策で諸手当の受給者が9割を超えていることから、被爆者全員に被爆者手当の支給を求めています。
 また、医療費については、従来どおり国民皆保険制度のもとでの、健康保険医療費自己負担分の国の負担を求めます。

【要求4】 厚生労働大臣は、被爆者が、政令で定める負傷又は疾病に罹患した場合は、その負傷又は疾病に対して医療を給付し、手当を加算すること。

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1973.11厚生省前座り込み(写真・「日本被団協50年史」より=森下一徹)

[理由] 現行法の原爆症認定制度では医療の給付(医療費が10割国庫負担)が行われています。このことが国家補償的配慮といわれる対策ですが、認定対象になる疾病の放射線起因性が限られているため審査が厳しくなっています。
 そこで、対象疾病の拡大と認定審査の簡素化のため、認定の対象となる傷害を政令で定めることを求めます。
 政令で定める原爆傷害は、被爆者団体の推薦者を含む委員による被爆者援護審議会の議を経て定めるものとします。傷害又は疾病の原因が原子爆弾の傷害作用の影響によらないことが明らかな場合は除きます。
 原爆障害が認定された被爆者には被爆者手当に加算します。加算額は傷害の度合いに応じていくつかの段階を設けます。認定原爆傷害が治癒したものは、手当の加算分の一部を減額します。

【要求5】 被爆者が、上記の政令で定めのない原爆傷害で、原子爆弾の傷害作用による負傷又は疾病に罹患した場合には、被爆者援護審議会の議を経て、厚生労働大臣が認定することができるものとする。

[理由] 政令で定めのない負傷又は疾病に対する医療の給付の認定に当たっては、原爆による傷害になお未解明な部分が多いこと、法の趣旨が国家補償の援護を趣旨としていることに留意し、原爆傷害の影響を否定できない場合には認定することを求めます。

【要求6】 被爆二世・三世に関する実態調査をし、希望する者には二世・三世手帳を発行し、健康診断・がん検診を実施すること、および政令で定める疾病に対して医療費を支給すること。

[理由] 原爆放射線が被爆者の遺伝情報に影響を与えることは明らかになっていますが、その影響の内容、度合いはほとんど未解明であるために、被爆二世・三世に少なからぬ不安を与えています。
 国の責任においてすみやかに実態調査を行い、希望する二世および三世に健康手帳の交付、定期健診、政令で定める疾病に対する医療費の支給を求めます。

【要求7】 在外被爆者に対しても、その国情に応じて法の完全適用を行うこと。
 
[理由] 在外被爆者に対する援護対策は多くの裁判をとおして国の違法行政が明らかとなり、漸次改善されてきました。また、2008年の現行法改正により被爆者健康手帳および原爆症認定申請が居住国で行えるようになりました。
 しかし、医療費の支給は国により健康保険制度が異なるため、最高限度額を設定した助成制度になっています。医療の給付、医療費の支給も国内での医療費に相当する国庫負担を行うことを求めます。

【要求8】被爆者健康手帳の交付要件を見直すこと。

[理由] 原爆症認定集団訴訟をとおして、残留放射性物質が広範囲に降下し、それを体内に吸引、摂取した広範囲な住民にも放射線傷害を与えたことが明らかにされました。
 長崎の「被爆体験者」は広範囲に降下した放射性物質の影響を受けた可能性を否定できません。同様な状況は広島でも再調査が行われています。被爆者健康手帳の交付要件の見直しを求めます。
(注)「被爆体験者」
 原爆投下時、長崎の原爆中心地から約12キロメートル内の地域に居住し、被爆者健康手帳の交付要件を満たさない住民で、現在PTSDが認められ、第2種健康診断受診証を交付されている者。

* * *

 この要求(案)と討議資料が手元にほしい方には、印刷代と送料実費でお分けします。被団協までお申し込みください。

「原爆投下は必要なかった」それが多くのアメリカ人の考えです
ニューヨークの高校生が被爆者と対話

 核不拡散条約(NPT)再検討会議に合わせて訪米した日本被団協代表団はいくつもの学校で被爆体験を語り、対話をしました。その中から、5月5日、ドルトンスクールで開かれた中山高光さん(長崎被爆・80歳・熊本)、中村紘さん(広島被爆・67歳・千葉)の対話の内容を紹介します。同校の10年生(日本の高校1年生相当)は、原爆問題について事前学習をして質問を集めるなど、被爆者を迎えるため綿密な準備を重ねました。集まった40近い質問のうち8問が2人に渡されました。そのうち7問について、時間があればこう答えた、という補足を含め紹介します。

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中村絋さん 千葉県八千代市被爆者の会会長。広島で、2歳のとき被爆。海外での証言活動は今回が初めて。

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中山高光さん 熊本県被団協事務局長。長崎で、16歳のとき被爆。海外での証言活動は、欧米、アジアなど十数回。

原爆を受けたときのあなたの状況は
中山高光 私は爆心地から3キロ離れた長崎造船所の設計ビル5階で写図をしていました。突然、目の前がパッと明るくなりました。おどろいて顔をあげると、窓の向こうに太陽のような閃光が輝き、7、8秒して、ものすごい爆発音と爆風が襲い、ビルが崩れんばかりに大揺れして窓ガラスが吹き飛び、窓際の人は粉々になったガラスでザクロのように切り裂かれ、血だらけになって倒れました。私も床にたたきつけられました。図面も書類も書棚も吹き飛ばされて部屋はメチャメチャ。屋上に駆け上がると浦上(爆心地)の方に黒煙が立ち上り、七色に輝きながら白雲に変わり、さらに黒い雲になって流れていました。
 夕方、爆心地の近くにあった寮に帰りましたが途中、町が燃えていて通れず、山手のほうを回りました。すべての家が横倒し。人々の顔はラグビーボール、手はグローブのようになり、皮膚が腫れ、夏の陽に照らされて痛むので顔をなでるために皮膚がはげてあごや手に垂れ下がり、幽霊のようにゾロゾロと逃れてくる人の群れ。さらに爆心地に近づくと一面が燃え尽き、黒焦げの死体が至る所に倒れていました。その夜は畑の中に野宿しました。
中村紘 私は3歳の時の広島被爆で、閃光しか覚えていません。その時のことは母から聞いただけですが、母が悲惨な状況を話すことはありませんでした。
 あの時の熱線、爆風は口に出せるようなものではなかったからだと思います。

被爆の後の健康状態は――
中山 被爆から10日ほどしてのどが腫れ、発熱、下痢などが続いて寝込みました。医者に診てもらっても「原因不明」といわれ、2カ月ほど休みました。その後も胃潰瘍、十二指腸潰瘍、胆石症、高血圧症、変形制脊椎症や甲状腺機能低下症などで治療しています。
中村 私自身は高血圧症と心臓の若干の異常があるくらいですが、高校生ぐらいまでは恐怖を背負っていました。同じ年ごろの人たちが原爆の影響で亡くなっていくからです。死刑囚のように次は自分ではないかと、毎日不安を抱いていました。この不安は心の問題なので、だれにも相談することができませんでした。

被爆体験はその後、家族関係や他の人間関係にどう影響しましたか
中山 ふたたび戦争してはならない、という思いで平和運動にかかわるようになりました。家を留守にすることが多く、家族に負担をかけていますが、できるだけ家族ぐるみの平和運動をめざしています。
中村 私の家族内では特に問題はありません。被爆を経験したことで、これからの残された時間を核兵器廃絶にかかわる覚悟がもてたことは、私には大きな出来事です。

被爆者のみなさんは、どんな思いでアメリカに来られ、私たちに話をしてくださるのですか
中山 原爆被害は、日本政府が戦争を仕かけ、最後にアメリカ政府が原爆を使ったことで生じた戦争被害です。日本政府が始めた戦争はアジア・太平洋全域を戦場にし2千万人もの犠牲を出しました。その責任は大きい。日本人として真珠湾をはじめこの戦争での犠牲者に心から謝罪したいと思います。同時にアメリカのみなさんが、原爆被害を知り、核兵器のない世界をつくるためにがんばってほしいと思います。
中村 被爆者はみな「憎しみ」を超えて、核兵器と戦争のない世界の実現を願ってアメリカに来ています。なぜ、日本人は「憎しみ」を乗りこえることができるのか。それは日本民族が争うことが嫌いな民族だからです。アメリカのみなさんも競い比べることをやめれば「憎しみ」のばかばかしさが分かると思います。

われわれアメリカ人は原爆を使ったという事実をどのように記憶にとどめることができるでしょうか
中山 第二次世界大戦は日・独・伊のファシズム連合に対して、米・英など反ファシズム連合の勝利で終結しました。そして、今日の国際連合がつくられました。このためにアメリカが果たした役割は大きいものだったと思います。しかし、最後に人道に反する原爆投下を行ったことは大きな誤りであり、汚点だったと思います。アメリカがふたたび反戦平和の先頭に立って、核兵器のない、軍事費の要らない、貧困のない地球の実現のために奮闘されることを、私たちは心から願っています。
中村 核兵器を使うことのばかばかしさを記憶にとどめ、使わない、持たないほうが賢い方法であることへ切り替えるために、その記憶を使ってほしいと思います。

今では、多くのアメリカ人が「戦争を終結するために原爆投下は不必要だった、と考えている」ということをどう思いますか
中山 嬉しく思います。アメリカでは「原爆投下は戦争を早く終わらせ、犠牲を少なくした」というトルーマン大統領発言を支持する声が多いように聞いていました。そうでないと聞き、感動しています。みなさんがこのような勉強をしていることに感激しました。
中村 私はアメリカの人たちは逆の考えが大半だと思っていました。この「不必要であった」という考えに接したことは、被爆者として非常に嬉しく、心強く感じています。アメリカの若い人たちの考えが必ず核兵器廃絶の大きな力になると思います。このことは、ことあるごとに話したいと思っています。

世界から核兵器をなくす一番いい方法は――
中山 核兵器が65年たった今も被爆者を苦しめ、遺伝的影響もふくめて人類を不幸にすることを、もっと世界の多くの人々に伝え、核兵器使用禁止と核兵器を使用した国はその被害に完全な補償義務を負うことを定めた国際条約をつくる必要があると思います。
中村 エゴをなくすことです。「競争はしない」「比べない」ことを、国単位で実施することだと思います。そのために私たちは「被爆体験の語り継ぎ」「署名」「デモ」など地道な運動を続けなければならないと思います。

学校での証言
 訪米代表団の証言活動は、5月3〜5日に集中して行なわれました。そのうち、学校での証言は23カ所。代表団帰国後も、残留した代表が数カ所訪問しています。

高校生の勉強ぶりに感動/中山さん、中村さんの感想
中山高光 ドルトンスクールでは、原爆について事前学習をして質問を集めるという綿密な準備がされていました。質問のひとつ「今では多くのアメリカ人が“原爆投下は不必要であった”と考えているが…」との質問には驚きました。アメリカの高校生たちの勉強ぶりには感激しました。これまで、原爆投下を肯定する声が多かっただけに、被爆者が世界に遊説活動を続けてきた努力の積み重ねが、この変化をつくりあげていると思うと涙が出ました。
中村紘 自分が感じたことを素直にぶつけてもらったことに感謝しています。言葉は違っても、ハートでぶつかればそれなりの反応があることが分かりました。被爆者が世界の若者に核兵器廃絶を発信し続けることが大事と、ニューヨークでの経験で思いました。

本の紹介――この夏発行される原爆関連の本から――

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『もう一つの人生-被爆者として、人として』
張本勲著

 プロ野球日本最多安打3085本という大記録を打ち立てた張本勲。数年前から、さまざまなメディアで被爆体験を語っています。
 5歳の時広島で被爆した張本さんは、あるとき「8月6日は大嫌い。5日の次は7日にしてほしいぐらい」と発言しました。その記事を読んだ少女から「私のように原爆の恐ろしさを知らない人は大勢います。真実を伝えるためにも8月6日を忘れないでください」という手紙をもらいます。--こんなエピソードを織り交ぜながら、人生を語る張本さん。真っすぐな人柄がまっすぐに伝わります。(新日本出版社・1400円+税)
 
『「被爆二世」を生きる』
中村尚樹著
 元NHK記者であるフリージャーナリストが、大勢の被爆二世を訪ね歩き、原爆被害を次世代に伝承していく新たな可能性を探った意欲作。さまざまな生き方をしている7人の被爆二世のルポから書き起こし、被爆二世をめぐる問題点の歴史的な変遷、在韓被爆者と二世の現状、近年の高校生一万人署名運動、広島とセミパラチンスクの交流など、多角的なアプローチを展開し、心地よい読みごたえが感じられる新書判260ページです。(中公新書ラクレ・760円+税)
 
『原爆と検閲』
繁沢敦子著
 副題「アメリカ人記者たちが見た広島・長崎」。
 終戦直後、広島・長崎に入った連合国側の記者たちが見た原爆の惨状は、そのまま伝えられることはありませんでした。原爆投下を正当化するために、被害の実情を隠したのです。著者は資料を掘り起こして“原爆隠し”の経過を追っています。米占領軍は日本国内でもきびしく原爆報道を統制しました。原爆被害の実態はこうして隠され、被爆者は放置されたのです。(中公新書・760円+税)
 
『原爆の子』(ワイド版岩波文庫)
長田新編
 絵本や映画にも翻案され、現在13カ国語で読みつがれている手記集『原爆の子-広島の少年少女のうったえ』(1951年岩波書店)。初版時はGHQによるプレスコード下で、手記を集め編集した長田新(日本子どもを守る会初代会長)も、当時「世界」編集長だった吉野源三郎も、弾圧覚悟で出版に踏み切ったものでした。
 90年に文庫版(上下)が発行されていましたが、このたびワイド版で復刻します。ワイド版は、文庫版をそのままA5判に拡大印刷しています。8月19日発行予定。(岩波文庫ワイド版・上下で2500円+税)

原爆症認定集団訴訟/長崎訴訟第2陣 2人が勝訴

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判決前入廷行進・長崎

 集団訴訟長崎第2陣訴訟の判決が、長崎地裁で7月20日にありました。原告18人のうちすでに認定された12人をのぞく6人について、2人を原爆症と認め、4人は認められませんでした。
 判決について全国弁護団などは「声明」で、「旧審査の方針に対して厳しく批判しており…」と評価する一方、熱傷瘢痕と4・8キロのがんについて起因性を否定し、被爆の事実について被爆者の証言を軽視する判断がされている点をあげて、「被爆者救済へ向けての大きな潮流に逆行するものであり、かつ被爆の実相を理解していないものと言わざるを得ず、甚だ遺憾である」としています。



意見書採択

 非核三原則の法制化を求める地方議会の意見書採択、6月24日以降7月20日までの報告分です。
北海道=石狩市
福島=伊達市 磐梯町 西会津町 桑折町 鏡石町 飯館村 玉川村 大玉村 湯川村
埼玉=八潮市

被爆者手帳所持者22万人台に/平均年齢は76.73歳(2009年度末)

 2010年3月末の被爆者手帳所持者数が、厚労省から発表され、全国で22万7565人、前年度と比べ8004人の減でした。平均年齢は76.73歳で、同じく0.81歳上昇。手当受給数は健康管理手当が19万5963人、医療特別手当が6351人など。葬祭料支給は8386件でした。
==> 被爆者手帳所持者数の表(2010年3月末 厚生労働省調べ)【PDF:1.4MB】

被爆者手帳取得の証人さがし

馬場 正己さん 昭和4年12月生まれ、鹿児島県錦江町出身。
 馬場さんは、昭和19年5月、志願兵として針生海兵団に入団しました。20年4月7日第22聯合航空隊司令部付、同12日第2鹿屋航空隊司令部付となり、7月12日に佐世保海兵団に配属。8月2日に第124号海防艦への乗り組みを命ぜられました。同海防艦は触雷して修理のため長崎港に係留されており、乗員は旭町の高台にある造船所の2階建ての家を宿舎にしていました。
 8月9日、海防艦の20ミリ機銃の解体作業を終え、宿舎に帰り洗顔しようとした時被爆。屋根が落ちて下敷きになりました。12日、1班10人で爆心地に派遣されました。焼野にただひとつ残った三菱兵器製作所の鉄筋の建物を救護所として、被災者の救護や死体処理に従事しました。
 15日午後に帰隊し、27日に帰郷しました。
連絡先(本人)=鹿児島県鹿屋市上谷町19-18 電話:0994-44-6365