NPT(核兵器不拡散条約)再検討会議で渡米した被爆者の話に聞き入る若者たち―2010年5月ニューヨーク
写真=亀井正樹
戦争、原爆の体験者から直接話を聞くことができる時間はもうあまりないのだと、若者たちは訴えます。
彼らからの思いがけない問いかけに、伝える側も、受けとめる側とともに考えなければならないことの多さにきづきます。
日本で、そしてさまざまな国や地域で、初めて触れる被爆者の証言に、真剣なまなざしの若者たち。その瞳に応える被爆者。
核のない世界を、ともにみつめます。
1956.8.10被団協結成総会(写真・「日本被団協50年史」より=連合通信)
【要求1】「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」前文を改正し、原爆被害に対する国家補償を趣旨とし、あわせて核兵器の廃絶の決意を明記すること。
[理由] 原爆は人類がかって経験したことのない熱線、爆風、放射線によって、被爆者のからだ・くらし・こころに想像を絶する被害をもたらしました。これらの被害はもとはといえば国が開始遂行した戦争によって生じたものです。
そうであれば、その被害に対して国の責任を明らかにして償うことは「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意する」(日本国憲法前文)と誓った憲法のもとでは当たり前のことです。
しかし、国は市民の戦争犠牲は「生命、身体、財産」といえども受忍すべきとの政策をとりつづけています。この政策をあらため、「ふたたび被爆者をつくらない」という被爆者の願いを実現するため「核兵器のすみやかな廃絶」への国の決意を示すことを求めています。
【要求2】 原爆死没者の遺族に対して弔慰金、あるいは特別給付金を支給すること。
[理由] 原爆による最大の被害者は命を奪われた「死没者」です。受忍を強いることはできません。
死没者補償は一般的には遺族に対する補償として行われます。「基本要求」では遺族年金を要求していますが、死没後60余年を経た今日、遺族に対する年金より現実性のある弔慰金、あるいは特別給付金を求めます。
国は国立原爆死没者追悼祈念館建設や原爆の日の死没者追悼・慰霊式典での弔意の表明などを行っていますが、死没者一人ひとりに対する償いを行っていません。死没者一人ひとりに対する償いを求めます。
また、現行法が制定されたとき2年間の時限立法で支給された、特別葬祭給付金は生存被爆者対策でしたので、被爆者でない遺族に対しては支給されませんでした。
【要求3】 被爆者全員に被爆者手当を支給すること。
[理由] すべての被爆者が、からだ・くらし・こころに被害を受けており、科学的に未解明の原爆放射線被害や「心の傷」など、死ぬまでこれらの後障害を受けつづけ苦悩を負った生活を強いられています。
「基本要求」ではすべての被爆者に年金を支給し、医療費を全額国が負担することを要求していますが、本要求では制度的に複雑でなく、これまでの施策で諸手当の受給者が9割を超えていることから、被爆者全員に被爆者手当の支給を求めています。
また、医療費については、従来どおり国民皆保険制度のもとでの、健康保険医療費自己負担分の国の負担を求めます。
【要求4】 厚生労働大臣は、被爆者が、政令で定める負傷又は疾病に罹患した場合は、その負傷又は疾病に対して医療を給付し、手当を加算すること。
1973.11厚生省前座り込み(写真・「日本被団協50年史」より=森下一徹)
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この要求(案)と討議資料が手元にほしい方には、印刷代と送料実費でお分けします。被団協までお申し込みください。核不拡散条約(NPT)再検討会議に合わせて訪米した日本被団協代表団はいくつもの学校で被爆体験を語り、対話をしました。その中から、5月5日、ドルトンスクールで開かれた中山高光さん(長崎被爆・80歳・熊本)、中村紘さん(広島被爆・67歳・千葉)の対話の内容を紹介します。同校の10年生(日本の高校1年生相当)は、原爆問題について事前学習をして質問を集めるなど、被爆者を迎えるため綿密な準備を重ねました。集まった40近い質問のうち8問が2人に渡されました。そのうち7問について、時間があればこう答えた、という補足を含め紹介します。
中村絋さん 千葉県八千代市被爆者の会会長。広島で、2歳のとき被爆。海外での証言活動は今回が初めて。
中山高光さん 熊本県被団協事務局長。長崎で、16歳のとき被爆。海外での証言活動は、欧米、アジアなど十数回。
原爆を受けたときのあなたの状況は
中山高光 私は爆心地から3キロ離れた長崎造船所の設計ビル5階で写図をしていました。突然、目の前がパッと明るくなりました。おどろいて顔をあげると、窓の向こうに太陽のような閃光が輝き、7、8秒して、ものすごい爆発音と爆風が襲い、ビルが崩れんばかりに大揺れして窓ガラスが吹き飛び、窓際の人は粉々になったガラスでザクロのように切り裂かれ、血だらけになって倒れました。私も床にたたきつけられました。図面も書類も書棚も吹き飛ばされて部屋はメチャメチャ。屋上に駆け上がると浦上(爆心地)の方に黒煙が立ち上り、七色に輝きながら白雲に変わり、さらに黒い雲になって流れていました。
夕方、爆心地の近くにあった寮に帰りましたが途中、町が燃えていて通れず、山手のほうを回りました。すべての家が横倒し。人々の顔はラグビーボール、手はグローブのようになり、皮膚が腫れ、夏の陽に照らされて痛むので顔をなでるために皮膚がはげてあごや手に垂れ下がり、幽霊のようにゾロゾロと逃れてくる人の群れ。さらに爆心地に近づくと一面が燃え尽き、黒焦げの死体が至る所に倒れていました。その夜は畑の中に野宿しました。
中村紘 私は3歳の時の広島被爆で、閃光しか覚えていません。その時のことは母から聞いただけですが、母が悲惨な状況を話すことはありませんでした。
あの時の熱線、爆風は口に出せるようなものではなかったからだと思います。
被爆の後の健康状態は――
中山 被爆から10日ほどしてのどが腫れ、発熱、下痢などが続いて寝込みました。医者に診てもらっても「原因不明」といわれ、2カ月ほど休みました。その後も胃潰瘍、十二指腸潰瘍、胆石症、高血圧症、変形制脊椎症や甲状腺機能低下症などで治療しています。
中村 私自身は高血圧症と心臓の若干の異常があるくらいですが、高校生ぐらいまでは恐怖を背負っていました。同じ年ごろの人たちが原爆の影響で亡くなっていくからです。死刑囚のように次は自分ではないかと、毎日不安を抱いていました。この不安は心の問題なので、だれにも相談することができませんでした。
被爆体験はその後、家族関係や他の人間関係にどう影響しましたか
中山 ふたたび戦争してはならない、という思いで平和運動にかかわるようになりました。家を留守にすることが多く、家族に負担をかけていますが、できるだけ家族ぐるみの平和運動をめざしています。
中村 私の家族内では特に問題はありません。被爆を経験したことで、これからの残された時間を核兵器廃絶にかかわる覚悟がもてたことは、私には大きな出来事です。
被爆者のみなさんは、どんな思いでアメリカに来られ、私たちに話をしてくださるのですか
中山 原爆被害は、日本政府が戦争を仕かけ、最後にアメリカ政府が原爆を使ったことで生じた戦争被害です。日本政府が始めた戦争はアジア・太平洋全域を戦場にし2千万人もの犠牲を出しました。その責任は大きい。日本人として真珠湾をはじめこの戦争での犠牲者に心から謝罪したいと思います。同時にアメリカのみなさんが、原爆被害を知り、核兵器のない世界をつくるためにがんばってほしいと思います。
中村 被爆者はみな「憎しみ」を超えて、核兵器と戦争のない世界の実現を願ってアメリカに来ています。なぜ、日本人は「憎しみ」を乗りこえることができるのか。それは日本民族が争うことが嫌いな民族だからです。アメリカのみなさんも競い比べることをやめれば「憎しみ」のばかばかしさが分かると思います。
われわれアメリカ人は原爆を使ったという事実をどのように記憶にとどめることができるでしょうか
中山 第二次世界大戦は日・独・伊のファシズム連合に対して、米・英など反ファシズム連合の勝利で終結しました。そして、今日の国際連合がつくられました。このためにアメリカが果たした役割は大きいものだったと思います。しかし、最後に人道に反する原爆投下を行ったことは大きな誤りであり、汚点だったと思います。アメリカがふたたび反戦平和の先頭に立って、核兵器のない、軍事費の要らない、貧困のない地球の実現のために奮闘されることを、私たちは心から願っています。
中村 核兵器を使うことのばかばかしさを記憶にとどめ、使わない、持たないほうが賢い方法であることへ切り替えるために、その記憶を使ってほしいと思います。
今では、多くのアメリカ人が「戦争を終結するために原爆投下は不必要だった、と考えている」ということをどう思いますか
中山 嬉しく思います。アメリカでは「原爆投下は戦争を早く終わらせ、犠牲を少なくした」というトルーマン大統領発言を支持する声が多いように聞いていました。そうでないと聞き、感動しています。みなさんがこのような勉強をしていることに感激しました。
中村 私はアメリカの人たちは逆の考えが大半だと思っていました。この「不必要であった」という考えに接したことは、被爆者として非常に嬉しく、心強く感じています。アメリカの若い人たちの考えが必ず核兵器廃絶の大きな力になると思います。このことは、ことあるごとに話したいと思っています。
世界から核兵器をなくす一番いい方法は――
中山 核兵器が65年たった今も被爆者を苦しめ、遺伝的影響もふくめて人類を不幸にすることを、もっと世界の多くの人々に伝え、核兵器使用禁止と核兵器を使用した国はその被害に完全な補償義務を負うことを定めた国際条約をつくる必要があると思います。
中村 エゴをなくすことです。「競争はしない」「比べない」ことを、国単位で実施することだと思います。そのために私たちは「被爆体験の語り継ぎ」「署名」「デモ」など地道な運動を続けなければならないと思います。
学校での証言
訪米代表団の証言活動は、5月3〜5日に集中して行なわれました。そのうち、学校での証言は23カ所。代表団帰国後も、残留した代表が数カ所訪問しています。
高校生の勉強ぶりに感動/中山さん、中村さんの感想
中山高光 ドルトンスクールでは、原爆について事前学習をして質問を集めるという綿密な準備がされていました。質問のひとつ「今では多くのアメリカ人が“原爆投下は不必要であった”と考えているが…」との質問には驚きました。アメリカの高校生たちの勉強ぶりには感激しました。これまで、原爆投下を肯定する声が多かっただけに、被爆者が世界に遊説活動を続けてきた努力の積み重ねが、この変化をつくりあげていると思うと涙が出ました。
中村紘 自分が感じたことを素直にぶつけてもらったことに感謝しています。言葉は違っても、ハートでぶつかればそれなりの反応があることが分かりました。被爆者が世界の若者に核兵器廃絶を発信し続けることが大事と、ニューヨークでの経験で思いました。
判決前入廷行進・長崎
非核三原則の法制化を求める地方議会の意見書採択、6月24日以降7月20日までの報告分です。
北海道=石狩市
福島=伊達市 磐梯町 西会津町 桑折町 鏡石町 飯館村 玉川村 大玉村 湯川村
埼玉=八潮市
2010年3月末の被爆者手帳所持者数が、厚労省から発表され、全国で22万7565人、前年度と比べ8004人の減でした。平均年齢は76.73歳で、同じく0.81歳上昇。手当受給数は健康管理手当が19万5963人、医療特別手当が6351人など。葬祭料支給は8386件でした。
==> 被爆者手帳所持者数の表(2010年3月末 厚生労働省調べ)【PDF:1.4MB】
馬場 正己さん 昭和4年12月生まれ、鹿児島県錦江町出身。
馬場さんは、昭和19年5月、志願兵として針生海兵団に入団しました。20年4月7日第22聯合航空隊司令部付、同12日第2鹿屋航空隊司令部付となり、7月12日に佐世保海兵団に配属。8月2日に第124号海防艦への乗り組みを命ぜられました。同海防艦は触雷して修理のため長崎港に係留されており、乗員は旭町の高台にある造船所の2階建ての家を宿舎にしていました。
8月9日、海防艦の20ミリ機銃の解体作業を終え、宿舎に帰り洗顔しようとした時被爆。屋根が落ちて下敷きになりました。12日、1班10人で爆心地に派遣されました。焼野にただひとつ残った三菱兵器製作所の鉄筋の建物を救護所として、被災者の救護や死体処理に従事しました。
15日午後に帰隊し、27日に帰郷しました。
連絡先(本人)=鹿児島県鹿屋市上谷町19-18 電話:0994-44-6365