被団協新聞

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「被団協」新聞2010年 4月号(375号)

2010年4月号 主な内容
1面 <NPT会議>各国代表部、市民に普及/被団協代表団 多彩な行動計画
有識者委員会報告「核密約」否定に抗議/日本被団協が声明
2面 意見書採択
新法人設立
一人が逆転認定―名古屋高裁判決
非核水夫の海上通信68
【声明】核密約破棄、非核三原則法制化、「核の傘」からの離脱、核兵器の廃絶を求める
3面 聞く人の心に残る“語り”を
わが街の被爆者の会―島根県被団協
県被団協などの要請で静岡県議会が平和宣言
久保山さんの墓前祭<ビキニ被災56年>
吹雪の中で街頭行動―北海道・札幌
NPT再検討会議―日本生協連代表団結団式
4面 相談のまど―介護手当の申請方法について
被爆者手帳取得の証人さがし
声のひろば

<NPT会議>各国代表部、市民に普及/被団協代表団 多彩な行動計画
“核兵器は人間と共存できない”世界に届け 被爆者の声

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国連総会会議場で訴える田中事務局長(2005年NPT再検討会議)

 「核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議」が開かれるニューヨークで、日本被団協代表団は全国の被爆者から寄せられた「被爆者からのメッセージ(英訳・抜粋版)」を携え、各国政府代表部への要請や原爆展会場などでの証言、各国市民への実相普及活動を行ない、核兵器廃絶へ向けた共同を呼びかけます。  国連や世界の人々に伝える「被爆者からのメッセージ」の概要をご紹介しましょう。(以下、( )内は、被爆地、性別、被爆時年齢)

ふたたび被爆者をつくるな

 原爆を体験した被爆者が何より願うのは、ふたたび被爆者をつくらないこと。そのためにも、まず人間と共存できない核被害の実相を伝えたい。
▼「あの日」原爆地獄のなかで被爆者自身も人間でなくなっていました。私も助けを呼ぶ民の声を聞きながら、見捨てて逃げてしまいました。“原爆をつくったのも人間、それを使ったのも人間、それをなくすのも人間”です。核兵器は人間と共存できない極悪の兵器です。(広島 男 13歳)
▼原爆は被爆した瞬間にすべてが終わるというのではなく、その時からさらに重い苦しみが始まり、死ぬまで生涯続く。最近になって子どもにガンが見つかり、自分の責任ではないかと思う辛い気持ちをわかってもらいたい。(長崎 女 10歳)

アメリカは、まず自国の核兵器をなくせ

 核兵器を使用したアメリカの「道義的責任」について、被爆者は「ことばだけでない、具体的な行動を」求めます。
▼アメリカから、一度でよいから「申しわけないことをした」という言葉が欲しい。(長崎 女 23歳)
▼核兵器を最初に使用した国には、最初に廃絶する義務がある。(広島 男 12歳)
▼「核抑止」の立場をすて、即時核兵器廃絶へ向かって行動を開始してもらいたい。核兵器が絶対悪の兵器であるという立場に立って、日本と近海に配備した核兵器をただちに撤去してほしい。(広島 男 16歳 東京)
▼「廃絶への先頭に立ってほしい」それが被爆者への反省と謝罪になるし、保有国に対する廃絶への説得力も大きい。(長崎 男 6歳)

日本は「核の傘」から出て、被爆国の責任を果たせ

 被爆国でありながらアメリカの「核の傘」に依存する日本の核廃絶の訴えは、国際的にも説得力を持ちえません。被爆者が長年、日本政府に何を求めてきたかを世界の人々に伝えることも大切な課題です。
▼「核兵器」がこれほど広がったのも、被爆国としての「核廃絶」の任務を果たしてこなかったからです。アメリカが「核廃絶」を言い始めた今こそ、日本はそのリーダーシップをとるべきです。(長崎 女 4歳)
▼「唯一の被爆国」を口にする政府が、原爆被害への国家補償を拒否し、アメリカの「核の傘」を支えつづけている欺瞞。「核の傘」は原爆の「きのこ雲」。「核の傘」の下では人間は生きられないことを、日本政府は直視すべきです。(長崎 男 13歳)
▼日本政府にしか出来ない核兵器廃絶の行動は、「原爆被害の真実を世界に知らせること」であり義務である。(広島 男 12歳)

核兵器廃絶は国連にできる最高の仕事

 国連には核兵器廃絶の立場で、核保有国の不平等をただし、使用禁止、完全廃棄への実効ある措置をとるよう求めます。
▼世界に核保有国があるかぎり「拡散」がある。国際法的に核兵器禁止を国連にて強く保有国に呼びかけ続けてください。(広島 男 21歳)
▼2000年に合意した「自国の核兵器の完全廃棄を達成する明確な約束」の実行を強く求める。(広島 男 2歳)
▼国連として全世界一致で兵器としての核を無くす宣言をして欲しいです。(長崎 女 不明)

有識者委員会報告「核密約」否定に抗議/日本被団協が声明

 日本被団協は3月17日「核密約破棄、非核三原則法制化、『核の傘』からの離脱、核兵器の廃絶を求める」声明を発表しました(2面に全文)
 外務省が3月9日に公表した日米間の密約調査に関する「有識者委員会」の報告書は、核持ち込みに関する「討議の記録」の存在を認め、アメリカの核搭載艦船が「事前協議なしの寄港を続けたと推測される」としながら、「核密約」ではないと結論。また岡田外相は記者会見で「核の持ち込みがなかったと言い切ることはできない」と核兵器の持ち込みについて述べる一方、今後アメリカに対して「何もするつもりがない」と表明しました。
 日本被団協は核密約否定に抗議し、日本政府が核密約を破棄し、非核三原則を法制化して核兵器廃絶の先頭に立つことを求めています。

意見書採択

 非核三原則の法制化を求める地方議会の意見書採択、2月25日以降3月25日までの報告分です。
 北海道=大空町 秋田=北秋田市 男鹿市 大館市 大仙市 鹿角市 由利本荘市 潟上市 五城目町 八峰町 三種町 美郷町 井川町 藤里町 上小阿仁村 東成瀬村 大潟村 埼玉=鳩山町 東京=立川市 兵庫=高砂市 熊本=嘉島町 和水町 山都町
 核密約の存在が明らかになった今、非核三原則法制化の必要性を訴え、6月議会にむけて運動を強めましょう。

新法人設立

 集団訴訟解決基金法に基づく法人が、4月1日付けで設立されました。名称は「一般社団法人原爆症認定集団訴訟原告支援事業実施法人」、所在地は東京都新宿区四谷です。社員は被爆者と弁護士合わせて15人で、以下のように理事長、理事、監事が選出されました。
 理事長=山本英典 理事=岩佐幹三 長久勝之 吉野俊雄 安原幸彦 宮原哲朗 監事=児玉三智子 中川重徳 社員=中山高光 川上誠 森内實 藤原精吾 二國則昭 中村尚達 板井優

一人が逆転認定―名古屋高裁判決

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名古屋高裁に入廷する原告と支援者

 原爆症認定集団訴訟愛知訴訟の控訴審判決が、名古屋高裁で3月11日にありました。原告は一審で敗訴したふたりで、一人は逆転勝訴、一人は認められませんでした。
 3.1キロ被爆の白内障が認められたことについて原告側は「新しい審査の方針の下での白内障の認定の現状に対する批判ともなっており、現行法の下での正しい認定行政の確立の課題を避けることはできない」としています。
 敗訴となった森敏夫さんは談話を発表し「裁判をたたかって良かった。認定の基準が少し変わり広くなり、認定される人が多くなってきたことが一番の成果で嬉しいことです。私は残り少ない人生を、りんとして胸を張り、誇りにして生きていきます」と述べています。

【声明】
核密約破棄、非核三原則法制化、「核の傘」からの離脱、核兵器の廃絶を求める

 外務省は3月9日、日米間の密約調査に関する「有識者委員会」の報告書を公表した。
 報告書は、1960年の核持ち込みに関する「討議の記録」が存在することを認めた。アメリカの核搭載艦船が「事前協議なしの寄港を続けたと推測される」とも述べている。ところが、「核搭載艦船の寄港が事前協議の対象か否かにつき明確な合意がない」、「同盟の運営に障害が生じることを避けようとする暗黙の合意」があったとして、「核密約」を否定した。しかし、「討議の記録」を見れば、これはまさに「核密約」そのものであると言わざるを得ない。
 1969年の沖縄返還時の「核再持ち込み」問題でも、報告書は「(佐藤氏は)議事録を自分限りのものと考え、長期的に政府を拘束するものとは考えなかったのではないか」と推定している。佐藤首相は、一国の首相として国民に「非核三原則」を約束した。同時に、密かに、ニクソン大統領と「核の再持ち込み」を約束したのである。これを「密約」と言わず、何を「密約」と言うのだろうか。
 報告書は、さらに「これまでの日本政府の説明は、嘘を含む不正直なもの。民主主義の原則から本来あってはならない」と述べている。その通りである。
 しかし、同日の記者会見で、岡田外相は「核の持ち込みがなかったと言い切ることはできない」と述べる一方で、「今後アメリカに何らかの働きかけをおこなうのか」という記者の質問に「何もするつもりがない」と答えた。「核兵器の持ち込み」を認め、アメリカの核戦略を支持、踏襲することを表明したのである。
 私たち被爆者は、この報告書に憤りを禁じ得ない。
 1945年8月6日と9日、被爆者は地獄のなかで「核兵器と人類は共存できない」ことを肌で知り、「ふたたび被爆者をつくるな」、「核戦争おこすな! 核兵器なくせ!」と訴えつづけてきた。被爆後、原爆被害は隠蔽され、被爆者は遺棄された。日本政府は原爆被害を「小さく、せまく、軽い」ものとしてきた。被爆者の要求「原爆被害に国家補償を」の道は閉ざされ、「核の傘」政策が維持されつづけてきたのである。
 鳩山内閣は、非核三原則の堅持を言明している。しかし、非核三原則と「核密約」は絶対に共存できない。核兵器の「持ちこみ」に関する「密約」と「広義の密約」をすべてただちに破棄し、一切の核兵器関連施設を撤去させ、核兵器に係る機材や物資を今後は日本の領土、領海、領空に持ち込ませない措置を講ずべきである。「核のない世界」への気運が高まっている今こそ、唯一の被爆国の政府として日本政府は「核密約」を破棄し、非核三原則を法制化して、「核の傘」から離脱しなければならない。
 私たち被爆者は、日本政府が核密約の破棄、非核三原則の法制化を実現し、「核の傘」から離脱する決意をもって、2010年NPT再検討会議に臨み、核兵器廃絶の先頭に立つことを求める。

2010年3月17日
日本原水爆被害者団体協議会

聞く人の心に残る“語り”を―しらさぎ会
語り部研修交流会開催

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語り部研修交流会で、熱心に語り合う参加者

 埼玉県原爆被害者協議会(しらさぎ会)は、2月27日語り部研修交流会を開きました。語り部の経験者、これから語り部をはじめようとする人、また、被爆証言の聞き書きを続けている『聞き書き実行委員会』の人も含め13人が参加しました。
 会ではまず「原爆被害者への国家補償」と「核兵器廃絶」の実現という被爆者運動の目的を確認しました。そのうえで被爆証言は、被爆体験、当時の国内外の情勢、被爆後の生活、被爆者運動、次世代に訴えたいことなどの項目を、聞く人にあわせて構成し、起承転結を明確にして話すことが大切、など、交流の中で学びあいました。
 参加した聞き書き実行委員のひとりは「あの悲惨な体験を経てなお強く生きている被爆者からは学ぶことが多い。聞く人の心に残すためには“何をしなければならないか”を訴えることも大切だと思う」と感想を述べていました。(埼玉)

わが街の被爆者の会―島根県被団協
被爆二世とともに活動

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 島根県被爆者協議会は今年に入り、被爆二世を正式に会員としました。  もともと、毎年8月6日の慰霊碑清掃と10月に行なわれる慰霊式典に、被爆者の遺族または家族として参加したのが始まりで、2008年に慰霊碑のある松江で「松江市被爆二世の会」が発足しました。今年1月に県被爆者協議会会員となり、二世の会としても県内全域に広げてさらに活動を充実させたい考えです。
 写真は1月の県知事要請で、協議会の原美男会長と二世の会の松浦会長、同事務局の深木さんが、知事に要望書を渡した時のものです。

県被団協などの要請で静岡県議会が平和宣言

 静岡県議会は、ビキニデーの3月1日、定例本会議で「核兵器のない地球を目指すふじのくに静岡県平和宣言」を全会一致で可決しました。都道府県の平和宣言としては41番目。再三にわたり県被団協が各団体と共同で要請していました。
 川勝平太県知事は「今後も県議会や県民の協力を得て核兵器廃絶と恒久的な平和の実現に向け真剣に取り組む」とコメントしています。(静岡)

久保山さんの墓前祭<ビキニ被災56年>

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 ビキニ被災事件から56年目を迎えた3月1日、午前9時30分焼津駅前出発で、全国から約1500人が参加して核廃絶の行進を行ないました(写真)。その後の久保山愛吉墓前祭では、日本被団協の小西悟事務局次長が「誓いの言葉」を述べました。
 午後は焼津文化会館で「3・1ビキニデー集会」が開かれ、主催者あいさつに立った静岡県被団協の川本司郎会長は「核兵器保有国はいまなお、核に戦争抑止力があるという考え方を捨てていない」と断じ、「核兵器全面禁止に向けて日本中の草の根の行動を圧倒的に広げよう」と呼びかけました。(静岡)

吹雪の中で街頭行動―北海道・札幌

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北海道街頭行動

 北海道被爆者協会と札幌市被爆者の会は3月7日札幌市大通りで、北海道原水協の協力を得て街頭宣伝を行ないました。
 NPT再検討会議に向けての宣伝と、原爆症認定集団訴訟の公正な判決・早期決着を求める署名活動でした。当日は気温が零下8度という寒さと吹雪でしたが、その中に立つ被爆者の訴えにこたえて、署名してくれる人もいました。(北海道)

NPT再検討会議―日本生協連代表団結団式

被団協代表団と共に行動

 日本生活協同組合連合会は2月28日、核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議生協代表団結団式を行ないました。日本生協連と各地の生協は、5月のNPT再検討会議にむけ106人の代表を送り、日本被団協の代表団と行動を共にすることにしており、日本被団協の田中熙巳事務局長が出席してあいさつしました。
 結団式の後は、2010年度の平和の取り組み「ピースアクション2010」のキックオフ集会が開かれ、日本被団協に募金400万円が贈呈されました。

相談のまど―介護手当の申請方法について

◆4月から費用を払う場合の介護手当の上限額が変わります
 【問】介護手当の申請方法を教えてください。
  *  *  *
 【答】被爆者の介護手当には、同居の家族が介護する場合と、家族以外の介護者に費用を払う場合の2種類があります。
 家族介護は、被爆者の障害が重度(障害者手帳1級及び2級程度)のときで、月額2万1570円が支給されます。
 費用を払う場合は、月額の上限が決められていて、重度障害のときと中度障害(障害者手帳3級程度)のときで、上限額が違います。この4月から少しずつ減額され、重度の上限額は10万4730円、中度が6万9810円となります。
 最寄りの保健所で、介護手当支給申請書と介護手当用診断書の用紙をもらい、申請書には必要事項を記入し、診断書はかかりつけの医師に記入をお願いし、保健所に提出します。費用を払う場合は、介護を受けた日数と支払った費用の領収書を添付して、毎月申請します。この場合、診断書は3年間有効です。
 4月からの手当額は、ほかに葬祭料が増額されて20万1千円になる以外は、変更ありません。

被爆者手帳取得の証人さがし

 平田 隆麿さん 大正15年3月生まれ、鹿児島市出身。
 平田さんは昭和20年4月、現役兵として船舶砲兵第1連隊に入隊し、福山市の暁2953部隊に配属され、その後広島の向洋陣地に異動。7月試験に合格し幹部候補生として広島市江波の陸軍兵器学校広島分教所に入り第一教育中隊に編入されました。同郷の宮崎一郎さん、奥村虎男さんと一緒でした。
 8月6日、庭で朝礼中に被爆し火傷を負いました。校庭には負傷した住民や死体が運ばれ、その救護にあたりました。数日後から、飼場見習士官の指揮により比治山の救護所で負傷者救護、死体処理にあたりました。
 9月9日の復員命令により、広島駅から貨物列車の石炭の上に乗って九州出身者10人ほどと一緒に帰郷しました。
 連絡先(本人)=鹿児島市西伊敷7‐10‐4 Tel099‐220‐3125
  *  *  *
 小林 正平さん 大正15年4月生まれ、兵庫県神戸市出身。
 小林さんは昭和19年5月、現役兵として大竹海兵団に入団し、12月に徳島海軍航空隊に入隊、運用科に所属しました。
 広島への原爆投下は徳島から目撃。翌朝、小川司令の命令で、北村武雄さん、木下正行さんとともに缶詰などの支援物資をトラックに積み、今治から船で広島に向かいました。白煙立ちこめる焼け野原の川のそばで物資を配布。このとき包帯で顔を覆った人に名前を呼ばれましたが、その人に名前を聞くこともできず、次の場所へ移動。午後4時ごろまで配布し、帰途につきました。
 連絡先(本人)=神戸市中央区港島中町2‐5‐1‐1309 Tel078‐302‐7437

声のひろば

 クイズ応募はがきの「ひとこと」から  ◆現行法改正については、国家補償を趣旨とした援護制度の実現を願っています。
(岡山・84歳・女)
 ◆ご高齢の方が多いと思われるのに、こんなにたくさんNPTにいかれるのを知りビックリしています。健康に気をつけて行ってきてください。
(東京・56歳・男)
 ◆広島市長がオリンピックの広島開催をぶちあげ、様々な議論がされています。平和勢力の中でも統一した見解は出ていません。「やるべき」という被爆者もいれば「被爆者を利用している」と怒っている人もいます。
(広島・50歳・男)
 ◆マスコミ報道だけではわからない事実を「被団協」新聞のニュースで勉強しています。
(広島・68歳・女)