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Top menu  タイトル・藤井寺市域の歴史   site map
 藤井寺市域の歴史について詳しく書くとなると、取り組む姿勢しだいでは膨大な量の文章になってしまいます。読む人にとっては、大変
読みづらいものになるでしょう。当サイトが望むことではないので、ここでは藤井寺市域の概略史という程度にしたいと思います。個別の
内容に関連する歴史や経過については、それぞれのページで扱っていますので、そちらでご覧いただきたいと思います。
 参考として、藤井寺市公式サイトから「市のあらまし−藤井寺市の歴史」の説明文を
内に掲載します。
 古くは旧石器時代
  他の地域と行き来しやすいこの地は古くから人々の住む所となり、現在も調査の続く数多くの古代遺跡や古墳群がこの地域の歴史の古
 さを象徴しています。市内にいくつも見られる小山のような森は、古代の大型前方後円墳で本市を象徴する景観の1つでもあります。
  
国府(こう)遺跡」は、旧石器時代から縄文・弥生・古墳時代さらには中世へと続く複合遺跡で、約2万年前の旧石器をはじめ、多数の
 縄文人骨や石器・土器などの出土で知られ、旧石器・縄文時代研究の記念碑的遺跡となっています。現在、国の史跡指定を受け、その主
 要部分が保存されています。また、この地は律令時代に「河内国府」の置かれた地であると推定されており、村名として残っていた「国
 府」の名が遺跡名につけられました。                                 「国府遺跡」
 古墳の時代−古市古墳群
  5世紀に築かれた大型前方後円墳を中心として、市内では現在までに大小約
90基の古墳の存在が確認されており、28基が現存してい
 ます。これらの古墳は、隣接する羽曳野市の多くの古墳と一体の存在として、
古市(ふるいち)古墳群」と呼ばれ、全国有数の古墳群の1つ
 です。古墳群全体では、現在までのところ約
130基の古墳が認められています。藤井寺市内の古墳は古墳群のほぼ7割に当たり、古墳時
 代文化や古代王朝の成立・変遷の研究に多くの手がかりを提供してきています        「古市古墳群の分布と一覧」
 河内国府と古代寺院
  奈良時代には、河内国府が置かれて河内国の中心となりましたが、現在では国府の地区名にその名残りをとどめています。
  7世紀頃からは、河内の国と大和の国を結ぶ長尾街道や竹ノ内街道に沿う要地として栄えました。また、渡来系氏族によって仏教文化
 ももたらされ
葛井寺(ふじいでら)や道明寺(どうみょうじ)が建てられました。この二大寺院は、後々まで地域のまとまりや地名の移り変わりに関し
 て、大きな存在となっていきます。ほかにも、衣縫
(いぬい)廃寺や船橋(ふなはし)廃寺、拝志(はやし)廃寺など、河内国志紀郡に集中的に造られた古
 代寺院のいくつもが、藤井寺市域に存在しています。      「長尾街道−藤井寺市の昔の街道」    「道明寺」
  国府や多くの寺院があったこの地域は、多くの人々が行き交う場所となり、国府の近くに河内国の中心となる市
(いち)である「餌香市(えが
  のいち
)」の置かれたことが、日本書記などに登場します。河内国での政治・経済の中心地として、大いににぎわった様子が想像されます。
 時にあっては、かなりの“都会”だったことでしょう。                        「餌香市のこと」
《 古 代 》
 藤井寺市は、古代文化発祥の地であり、金剛・和泉山系に源を発する石川と大和盆地から流出する大和川との合流点の西
側には段丘地形が発達し、この段丘面に巨大な古墳が築造されました。
 市北東部の国府は、先土器時代より旧石器文化の栄えた所で、大化の改新(645年)以後は
、「河内国府」が設置され、名実
とも河内の中心地でした。
 古代においては、河内と大和を結ぶ大津道(長尾街道)や丹比道(竹の内街道)の要地として栄え、平安時代末期から鎌倉時
代に移ると、清和天皇の子孫である源頼信が土着して「河内源氏」の祖となり、以来当地を基盤に活躍しました。
 この頃から各地に荘園が作られ、同地区には大和国興福寺領「岡荘」が形成されました。
 中世から近世
  南北朝時代から戦国時代にかけては、楠木氏一族や畠山氏が現在の津堂城山古墳の上に「小山城」を築きました。そして、戦国時代に
 は三好氏の城下町となるなど発展しましたが、戦乱にも見舞われ、葛井寺が戦火で焼失しています。   「津堂城山古墳」
  江戸時代の藤井寺市域の村々は、志紀郡の9村、丹南郡の3村、丹北郡の2村の
14ヵ村がありました。領地の支配体制は複雑で、幕府
 領・藩領・旗本領、さらには道明寺の寺領、誉田
(こんだ)八幡宮(現・羽曳野市)の社領に細分されていました。
《 室町時代 》
 室町時代から戦国時代においては、河内国は畠山氏の守護国となり、戦国期には、畠山氏の家臣らによって津堂城山古墳
上に「小山城」が築城されました。
 この頃より、村落が地域的に結合した郷村制が発展し、庶民の生活の基盤となりました。
 また、観音信仰が盛んになるにつれ、西国三十三カ所五番札所である葛井寺の門前町として発展しました。
 一方、天神信仰の浸透は後の道明寺天満宮の信仰へと発展していきました。        「道明寺天満宮」
《 江戸時代 》
 江戸時代には、大名領、旗本領、寺社領が複雑に入り組み、支配は一律ではありませんでしたが、中世以来の村落相互の
自治的なつながりは、水利組織や宮座組織を通じて維持されていきました。
 当時は堺の経済商業圏に入っており、堺へ通じる長尾街道はかなり繁栄しました。
 一方、藤井寺市の地理的条件、自然環境を一変させた大和川付替工事は、宝永元年(1704年)に完成し、新大和川が天井川
となり、石川合流点から西へ流れ大阪湾に注ぐようになりました。       「大和川−藤井寺市の川と池」
 近代以降の町村合併
  近代に入ってから今日の藤井寺市誕生までは、めまぐるしい村落合併の道をたどっています。
  まず、江戸時代の
14ヵ村が明治22(1889)年の合併で、長野村(後に藤井寺村)・小山村・道明寺村・沢田村の4村となりました。さらに、
 翌明治23年には道明寺村と沢田村が道明寺村に、大正4年には藤井寺村と小山村が藤井寺村に、それぞれ合併改称しました。道明寺を中
 心とした「道明寺村」、葛井寺を中心とした「藤井寺村」、という2つのブロックにまとまり、今日の藤井寺市の基礎となります。
  昭和時代に入って、昭和3(1928)年に藤井寺町、同26年(1951年)に道明寺町と、それぞれ町制に変わりました
。そして、昭和34(1959)年
 には、両町が合併して初めて1つの自治体となり、現在の市域を形成する「藤井寺道明寺町」が誕生しました。
 
人口急増と住宅都市化                                「藤井寺市ができるまで」
  翌昭和35年には「美陵町
(みささぎちょう)と改称します。その後人口の急増が始まり、4万人を越えた昭和41(1966)年の11月1日に市制を施行
 して「藤井寺市」が誕生しました。
  この間、大正12(1923)年には阿部野橋〜道明寺間が大阪鉄道
(現近鉄南大阪線)によって全通し、以後この地の住宅開発が進んでいくも
 ととなります。昭和3(1928)年には藤井寺球場もでき、この前後の数年で大きな人口増加がありました。
  2度目の人口増加の波は、昭和30年頃から50年頃にかけての高度経済成長期です。この間の人口増加は著しく、典型的な郊外住宅都市
 としてその姿を急速に変えていきました。いわゆる人口のドーナツ化現象の時期であり
、この20年ほどの間で、人口は3倍にも増えてい
 ます。かつての農村地帯は、すっかり都市に変貌していったのです。
  面積の小さい本市にあっては、この人口急増は急激に人口密度を高め、現在では大阪府内の市町村で8番目という高い人口密度になっ
 ています。                 「道明寺線・長野線・南大阪線・の歴史」
      「近鉄藤井寺球場」
《 明治時代 》
 明治期に入り、明治22年(1889年)に村落合併が行われ、野中、藤井寺、岡が「長野村」、志紀郡小山、丹北郡小山、津堂
が「小山村」、道明寺、国府、船橋、北條、大井が「道明寺村」、沢田、古室、林が「沢田村」となりました。
 その後、同23年(1890年)に道明寺、沢田が両村合併により「道明寺村」となり、同29年(1896年)に長野村が「藤井寺村」
と改称し、大正4年(1915年)に藤井寺、小山が両村合併により
「藤井寺村」となり、現在の藤井寺市の基礎が形成されました。
《 昭和時代 》
 昭和3年(1928年)、藤井寺村が町制を施行し「藤井寺町」に、同26年(1951年)には道明寺村が町制を施行し「道明寺町」と
なりました。
 同34年(1959年)に両町が合併して「藤井寺道明寺町」となり、翌年町名を「美陵町」と改称、同41年(1966年)11月1日に
「美陵市」として市制を施行し、同日市名を「藤井寺市」と改称しました。
      
《 鉄道の発展 》
 一方、藤井寺市の発展に大きく寄与した鉄道路線は明治22年(1889年)に大阪湊町〜柏原間(現JR関西本線)
同31年(1898年)
に柏原〜古市間が開通し、翌32年(1899年)に河南鉄道に引き継がれ、同35年(1902年)河内長野にまで延長されました。
 その後
大正12年(1923年)に河南鉄道を改称した大阪鉄道(現近畿日本鉄道)によって道明寺〜阿部野橋間が開通したことに
より、本格的な住宅開発が進むこととなりました。
《 市名の由来 》
 藤井寺の市名の由来は、もちろん名刹「葛井寺
」(フジイデラ)から引用されていますが、この寺の由来が同時に土地の歴史の
―面をよく物語っています。
 寺伝によると天平の初期、河内葛井の里にいた百済王族の子孫‐葛井給子の旧跡に、聖武天皇が勅願によって寺院を創建さ
れ、稽文会父子(春日仏師)に勅命して千四十二臂を備えた"千手観音"を作らせ、神亀2年(725年)藤原房前を勅使に任命し

行基に導師をつとめさせ開眼供養したと記されています。
 しかしこれを忠実に照応すると王氏一族の白猪史(
シライノフヒト)が元正天皇の養老5年(721年)に河内恵我長野邑(藤井寺近辺
の旧名)に土地をたまわり、名も「葛井連(
フジイノムラジ)」と改め、本拠地としていた。  ※河内恵我長野邑(えがのながののむら)
 葛井連の親族には柏原国分や羽曳野市野々上から伊賀・南宮・北宮・島泉・小山・津堂附近にかけて分散居住していた船史
(
フナノフヒト)や津史(ツノフヒト)があり、いずれも帰化系の文化人でした。
 つまり藤井寺は前記の葛井連一族が聖武天皇の仏教興隆政策に積極的に協力し朝廷からの補助を受け氏寺として建立し、落
慶法要には聖武天皇も行幸されたものと思われます。
 その後
堀河天皇の永長元年(1096年)大和国軽里の住人藤井安基(やすもと)が葛井寺を訪れ、荒廃しているのを見てなげき各地
より浄財を集めて再建に成功、よって安基の苗字をとって藤井寺と村名を改めたといわれています。  「葛井寺」

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