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 紫雲山・葛井寺 (しうんざん・ふじいでら) (別名 紫雲山・剛琳寺) 《真言宗御室派》  西国三十三所第五番札所 
 〒583-0024 大阪府藤井寺市藤井寺1−16−21    TEL 072−938−0005 ・ FAX 072−952−1111
                           アイコン・指さしマーク 公式サイト「西国五番紫雲山葛井寺 日本最初の千手観音」
 近畿日本鉄道南大阪線・藤井寺駅から南東へ約270m 徒歩約4分(西門まで)
  南大門の南30mにコインP有   藤井寺駅南約100mに市営駐車場・その周辺にコインP複数有
 葛井寺は道明寺(どうみょうじ)と並んで藤井寺市域を代表する二大名刹の一つです。大阪府で4ヵ所しかない西国三十三所観音巡礼の札所(ふだしょ)
の一つでもあり、南河内地域では唯一の札所です。

「藤井寺」市の「葛井寺」−二つの「ふじいでら」
 葛井寺の所在地は、現在は「藤井寺市」です。「藤井寺市」という自治体名の前には、「藤井寺町」「藤井寺村」という時代がありました。
現在も葛井寺の所在地区名は「藤井寺市藤井寺」です。「藤井寺」という地名が、同じ読みの「葛井寺」に由来するであろうことは容易に
想像できます。ところが、この二つの「ふじいでら」は同じ読みであっても、その語源はまったく別の由来に基づいています。「葛」の字
を替え字によって単に「藤」に置き換えた、ということではないのです。したがって、「葛井寺」の名を誤って「藤井寺」と書いてしまう
と、ただ単に一文字を同訓字と間違ったのではない、もっと大きな違いを意味することになります。
 問題がややこしいのは、葛井寺が「藤井寺」と書き表されることもあったことで、地名だけではなく、寺の名称も「藤井寺」と表された
りしたことがある種の混乱を残しました。
 古代に「葛藤」という仏教用語ができ、現代でも心理学用語として一般的に使われています。葛と藤は昔から山野に自生するよく似たツ
ル性植物で、同じような材料として扱われた一方で、からみ合うと分かちがたい関係の例えとして「葛藤」の語句が用いられてきました。
そんなこともあって、「葛」と「藤」は「ふじ」という同じ読みを持つようになり、それがよく見られる読み間違いや書き間違いのもとに
もなっています。
1) 南大門(南より) 2) 境内の様子(南大門より本堂を望む)
1) 南大門(南より)    2024(令和6)年4月
   門内の左右には仁王像が立つ。扁額は「紫雲山」。
   2021年7月、2度目の朱塗り改修が完了した。
2) 境内の様子(南大門より本堂を望む)      2013(平成25)年9月
    左端建物は阿弥陀堂。本堂左は護摩堂。写真右(東)側には弘法大師堂
   がある。大師堂の横には、かつて在った塔の礎石が保存されている。
葛井寺の歴史−葛井氏の氏寺
 葛井寺は、山号を「紫雲山といいます。寺伝によると、葛井寺は奈良時代に聖武天皇によって葛井連(ふじいのむらじ)の邸宅地に建立され、
春日仏師に命じて千手千眼観世音菩薩を造らせ、神亀2(725)年に僧行基が開眼法要を行ったとされています。しかし、発掘調査の結果で
は、7世紀中頃までさかのぼる瓦が出土して
おり、葛井氏の前身の白猪(しらい)氏によって建立された氏寺だと考えられます。白猪氏は百済王
族の辰孫王の子孫で、船
(ふね)氏、津氏と同族といわれています。白猪氏がこの地に移住して来たのは6世紀後半とみられ、奈良時代に入る
と白猪氏は官僚の道を進み、養老4(720)年には一族の有力者が「葛井連」の姓を賜わりました。一般的には、寺の名前から葛井氏の氏寺
として創建されたとされています。
 『藤井寺市史 第10巻 資料編八中』掲載の葛井寺文書『河南紫雲山縁起』の中に、「葛井寺」の称号に関する因縁として次
のような内容の一節が見られます。
 『
その昔桓武天皇の王子葛井(ふじゐ)親王と申す方がおられた。観音を厚く信仰して極楽往生を心掛け、種々の修行に励み一
心に信仰の道を守って大慈大悲の心を持つに至り、往生の願いを遂げられた。これによってその御家領を平城天皇の王子阿保
(あぼ)親王が相続された。そして、葛井親王の御菩提を弔うために御堂の再建をし、これを葛井寺と称された。その後、阿保親
王の子・在原業平
(ありわらのなりひら)が奧の院を建立し、弘法大師彫刻の尊像を安置して本尊とされた。(筆者要約意訳)
 『河南紫雲山縁起』は江戸後期の作と考えられています。ちなみに、阿保親王の母は葛井連道依の娘・葛井藤子です。また
葛井親王の母は坂上田村麻呂の娘・春子です。なお、葛井親王は「かどいしんのう」とも呼ばれています。
 上記の『河南紫雲山縁起』の一節には大きな矛盾があり、書かれている内容がどこまで史実を反映
しているのかは不明です。
葛井親王も阿保親王も記録に実在している人ですが、記録でわかる没年は阿保親王の方が8年早いのです。だとすると、上記
の縁起の話は成り立ちません。「葛井連」ゆかりの寺院であることを補強するための話だったのかも知れません。
 1096(永長元)年に大和の国・賀留(軽 現橿原市内)の藤井安基(やすもと)が、葛井寺の荒廃を嘆き、伽藍の大修理に尽力したことから藤井
寺」とも言われるようになり、地名として「藤井寺」が残ったと伝えられています
。1510(永正7)年8月8日大地震で寺の諸堂が倒壊します
が、そのあと再建のため諸国に勧進し、修復されて現在の規模になりました。
(藤井安基については後述)
 平安時代以降は、西国三十三所巡礼札所の第五番札所として、多くの庶民の信仰を集めてきました。戦国時代の兵火による焼失や大地震
で伽藍が荒廃しますが、多くの信者の尽力によって修復され、今日に至っています。現在も西国巡礼の参拝客が団体でよく訪れます。最近
は“御朱印ブーム”などもあって個人で訪れる参拝客も多く、若い人の姿も珍しくありません。
 江戸時代の終わり近く、享和元(1801)年に刊行された『河内名所圖會
(図会)』には、「丹南郡」の項に次のように紹介されています。
 『
紫雲山葛井寺三宝院 葛井寺村にあり。いにしへは古子山といふ。一名、剛琳寺。真言宗。(中略)。西国巡礼三十三所の中(うち)
第五番の札所なり。
(以下略)』。寺伝では、聖武天皇より「古子(ふるな)山葛井寺」の勅号をいただいたとされています。
 古くは「紫雲山剛琳寺
(しうんざん・ごうりんじ)」と号していたとされ、明治15年3月に作成された『河内国丹南郡藤井寺村誌』の「寺」の項には、
剛琳寺 東西二十七間 南北五十八間三尺 古義真言宗西京仁和寺末派ナリ』と紹介され、続いて寺の由来も詳しく書かれています。
また、明治25年作成の『明治廿四年大阪府石川
・錦部・八上・古市・安宿部・丹南・志紀郡役所統計書』でも、志紀郡・丹南郡に関わる「著名ノ
寺院」として、『
剛琳寺真言宗』と記載されています。このことから、少なくとも明治時代の中頃では、「剛琳寺」と呼ばれるのが普通
であったことがわかります。「葛井寺」で固定化したのは意外と新しい時期のようです。
 『河南紫雲山縁起』には「紫雲山金剛琳寺」の名が記されているそうですが、これについては、上記コラム欄の葛井寺の称
号に関する記述の末尾に次のように書かれています。
 『
聖武帝奉納の五色の仏舎梨(利)有。永劫不壊を祝し玉ひて、「金剛琳」と号給ふ。「剛琳寺」と云ハ訛略也。
つまり、寺号として「金剛琳寺」を賜ったので、「剛琳寺」の号し方は省略形である、ということです。現実には、この省略
形の「剛琳寺」が後世まで伝わり、さらに氏寺名の「葛井寺」が使われるようになったということでしょうか。
 一方、山号については「葛井寺山号の因縁」について述べられた項に、次のような記述が見られます。
葛井寺の山号ハ、「古子
(ふるな)山」共申。又ハ「紫雲山」共申なり。往昔(むかし)此地ハ、埴生野(はひきの)の古子(ふるな)の岡」と
申せしかバ
、「古子山」とハ申なり。又「紫雲山」と申ことハ、観音の浄土補陀落山ハ八角八葉の山にして、藤波常磐に咲乱れ、
紫雲の粧に似たりとかや。されバ、聖武帝御寄附の紫雲石の燈籠も、是等の由緒に依給ふか。南円堂の詠歌にも、
  補陀落の南の岸に堂建て、北の藤波今そ栄ん
と詠し
(じ)玉ふハ、此経説に依るとかや。葛井寺の詠歌にも、「花の臺(うてな)に紫の雲」と詠ぜしハ、皆此心を述るなり。是等の
因縁に依て「紫雲山」とハ申なり。
(後略)
 最も古くは「古子山」の山号であったことがわかります。上記の
『河内名所圖會』の記事もこれに依っていると思われます。
「紫雲山」の山号は、
観音の浄土補陀落山
(ふだらくさん)は藤の花が常に咲き乱れ、紫雲の粧に似ている」ことから命名されたと
述べています。有名な「紫雲石燈籠」の名もこれに因むようです。もっとも、「紫雲山」の山号自体は葛井寺独自というわけ
ではなく、各地にあります。西国三十三所札所の中だけでも、葛井寺を含めて3ヵ所あり、第十八番六角堂頂法寺
(京都市)
第二十四番中山寺
(兵庫県宝塚市)が「紫雲山」を号しています。言ってみれば、“よくある山号”でもあります。
 なお、「古子
(ふるな)山」の「子(な)」の読みについては、『藤井寺市史 第10巻 資料編八中』の解説では、「字(な)」の画数
を省いた文字として「子」を用いたものであろうとしています。

本尊・国宝「千手千眼観世音菩薩座像」
 
御本尊の千手観音像は乾漆造りで、大阪府下で唯一の天平時代の仏像として、国
宝に指定されています。8世紀中頃
(奈良時代)の製作と推定され、我が国最古の千
手観音と言われるこの仏像は、脱活乾漆造
(だっかつかんしつづくり)の技法によって造られ、
仏像本体の像高が 144.2p、台座を含めた総高が 246.0pあります。
 頭上の様子でわかるように十一面千手観音菩薩像でもあり、正しくは「十一面千
手千眼観世音菩薩
(じゅういちめんせんじゅせんげんかんぜおんぼさつ)」で、六観音の一つに数えられ
ます。1952(昭和27)年11月22日、同じ藤井寺市内の道明寺の
「木造十一面観音立像」
と同時に国宝に指定されましたが、文化庁の登録名称では『乾漆千手観音坐像』と
なっています。
 この千手観音は、千の眼をもって人々を導き、千の手で人々を救う慈悲をを示す
とされています。実際に千の手を持つ「真数千手」と呼ばれる千手観音像はきわめ
て少な
く、現存するものは限られます。奈良市・唐招提寺、京都府京田辺市・寿宝寺、
和歌山市・紀三井寺
(紀三井山金剛宝寺)、そして葛井寺など、数ヶ所だけです。た
だし、唐招提寺の千手観音像に現存している手は 953本で、寿宝寺の場合も正確に
は 958本と言われています。実際に1,000本以上の手があるのは、葛井寺と1,012本
と言われる紀三井寺ぐらいでしよう。紀三井寺の千手観音は50年に一度しか開帳さ
れない秘仏だそうです。
 この千手観音は、小脇手だけで 1,001本、2本の合掌手を含む40本の腕、全部で
1,041本の手を持っています。脇手の全ての手のひらには、一つずつの眼が彫られ
ています。その理知的な表情と写実的な表現は、唐招提寺の千手観音像と並んでた
いへんすぐれた千手観音菩薩像と讃えられています。
 藤井寺市の市史編さん事業の一環として平成2(1990)年には、この千手観音像の
  3) 千手千眼観世音菩薩座像
  3) 千手千眼観世音菩薩座像  背景を加工処理
調査が行われました。本格的な学術調査が行われ、1,001本の小脇手を全てはずしてX線撮影をするなど、多くの成果が得られました。
 御本尊・千手観音像は秘仏であり、普段は拝見することができません。毎月
18日には本堂の厨子が開扉されて拝観することができます。
ちなみに、国宝に指定されている千手観音像は葛井寺を含めて全国8ヶ所の寺院にありますが、京都・奈良・大阪・和歌山とすべて関西で
す。また、大阪府内で国宝に指定された仏像は7体ありますが、その内2体が藤井寺市にあります。葛井寺と道明寺です。中でも最も古い
時期に製作されたのが葛井寺の千手観音座像です。小さな藤井寺市に国宝仏像が2体もあるというのは、実はすごいことなのです。
4) 本堂と参拝客(南より) 5) 弘法大師堂と「旗掛けの松」(左)(西より)
4) 本堂と参拝客(南より)     2013(平成25)年9月 5) 大師堂と「旗掛けの松」(左)(西より) 2016(平成28)年4月
珍重「旗掛けの松(三鈷の松)
 
境内には本堂のほかにいくつかの堂宇があります。本堂の南側には、東西に向かい合って東に弘法大師堂、西に阿弥陀堂があります。弘
法大師堂の前には、枝ぶり良く剪定された1本の松が立っています。傍らにある立て札には、次のようなこの松の由来が書かれています。
(要旨) 楠正成は戦勝祈願に大般若経六百巻と守り刀一振り、非理法権天の旗を寺へ奉納し境内に陣を構えた。正平二年(1347)境内松
の樹にこの旗を掛け、正成は正行、正時、正儀の三人の息子を呼び秘策を練り、十倍の細川顕氏勢に大勝したという藤井寺合戦があった。
これよりこの松は「旗掛けの松」と呼ばれるようになった。この松からは珍しい三葉松が現れ、このことから三人が力を合わせ堅く一致団
結すれば困難に打ち勝つ不思議な力が授かると言われて今も珍重されている。
』 私も拾ったことがありますが、3本の葉がありました。
6) 阿弥陀堂《二十五菩薩堂》(東より) 7) 阿弥陀堂内の菩薩像(東より)
6) 阿弥陀堂《二十五菩薩堂》(東より)  2015(平成27)年10月 7) 阿弥陀堂内の阿弥陀・菩薩像(東より) 2018(平成30)年2月
重要文化財・府指定文化財
 国宝千手観音像のほかにも葛井寺には貴重な文化財があります。国の重要文
化財に指定されている「四脚門」、大阪府指定文化財の「石造燈籠」と「金銅
宝塔」です。
 商店街に面し西門として位置する「四脚門」は、1601年に豊臣秀頼が寄進し
たもので、桃山時代の様式をよく伝える貴重な建造物として重要文化財に指定
されました。この門はもとは南大門として建てられましたが、後に現在の西門
の位置に移されました。商店街からこの西門をくぐって境内を通り抜け南大門
から出て行く、或いはその逆に通り抜けるという、近道の出入口として地元の
人々に親しまれている門です。かつては夜中でも通り抜けができたのですが、
近年になって防犯対策のため夜間は南大門・東門とともに閉門されています。
 大阪府指定文化財の石造燈籠は「紫雲石燈籠」とも呼ばれており、現在は本
本堂裏の庭園に建てられています。高さ 230cmで上から宝珠
、笠、火袋、中台、
8) 西門《四脚門》(西より) 重要文化財である。
 8) 重要文化財・四脚門(西門)(西より)  2013(平成25)年9月
竿、基礎から成っています。笠の一部に欠損があるものの、ほぼ完全な形で保存されています。各部の均整のとれた素朴で力強い形が特色
です。銘はありませんが、鎌倉時代の製作と推定されています。石灯籠の痛みが激しいため、現在は欠損箇所までそっくりに明治時代に造
られたレプリカが境内に置かれており、横にある標柱石には、『
聖武天皇御寄附 寫 紫雲石燈篭』と刻字されています。
 紫雲石灯籠は聖武天皇の寄贈と伝えられ、山号「紫雲山」のもととなったと言われています。かつて花山法皇が本尊を参拝した時、本尊
の眉間にある白毫
(びゃくごう)が光り、この灯籠から紫雲がたなびくという珍しい出来事があったと伝えられています。 この灯籠が本来どこに
建っていたかは不明ですが、昔の絵図などから本堂と南大門の間に建てられていたと思われます。
 「金銅宝塔」は、平安時代から鎌倉時代に盛んになった舎利信仰を背景に製作された高さ45cmの小塔です。屋根が塔身に比較してやや大
きく、塔身の頚も短く、全体にずんぐりとした感じを受けます。建築表現の細部には省略もありますが、製作年代は鎌倉時代を下らないと
みられています。内部に安置する小型の舎利容器には、大小12個の舎利が納められています。
9) 紫雲石燈籠のレプリカと標柱石 8) 紫雲石燈籠のレプリカと標柱石 10) 裏庭の紫雲石燈籠 11) 釣鐘堂(北西より)
9) 紫雲石燈籠のレプリカと標柱石
          2014(平成26)年5月
10) 裏庭の紫雲石燈籠
    『藤井寺市勢要覧1986年』より
11) 釣鐘堂(北西より)
           2011(平成23)年6月
親しまれているお寺−「かんのんさん」
 
現在の南大門から四脚門にぬける境内は、周辺地域の人々の通勤や買い物の近道としても利用されています。「ふじいでら」という呼び
名が、寺名でも地名でもあり、また駅名もあるのでまぎらわしく、地元の人々は葛井寺のことは親しみを込めて「観音さん」と呼んでいま
す。自治体名が「藤井寺市」、旧村名で現在の地区名が「藤井寺」、駅名が「藤井寺駅」、そして寺の名が「葛井寺」と、多くの「ふじい
でら」があるのです。「お寺のふじいでら」と言うよりも、「かんのんさん」の方が通りが早いというわけです。
 境内は、以前は子どもたちにとって下校後のよい遊び場でした。外遊びする子が少なくなった今では、幼児連れ親子の散歩場や老人の憩
いの場としてよく利用されています。西国五番の札所でもあり、休日は参拝客の絶えることがありません。毎月
18日の本尊御開帳日には
境内に出店が並び、人出も多くなります。
12) 藤棚と護摩堂・本堂(西より) 13) 白藤の棚と阿弥陀堂(北西より) 14) 井戸の側の藤棚(南東より)
12) 藤棚と護摩堂・本堂(西より)  2018年4月 13) 白藤の棚と阿弥陀堂(北西より) 2016年4月 14) 井戸の側の藤棚(南東より)  2013年4月
15) 千日参りの南大門前(南より) 16) 千日参りの境内(南大門より) 17) 千日参りの西門(西より)
15) 南大門前の様子(南より) 16) 境内の様子(南大門より) 17) 西門前の様子(西より)
                    年間最大の行事「千日参り」の様子(毎年8月9日)     15)〜17) 2013(平成25)9年8月9日
 毎年4月下旬からゴールデンウィークの頃にかけて、葛井寺境内では「藤まつり」が催されます。境内の各所に設けられた藤棚では、た
くさんの紫や白の花の房が垂れ下がり、いい香りが漂っています。新緑の時季でもあり、もえぎ色の若葉と藤花の色のコントラストが美し
いながめを見せてくれます。藤花の房が垂れ下がった「下がり藤」の紋は、葛井寺の寺紋でもあります。
 年中行事の中でも8月9日の「千日参り」は、最も多くの人出がある行事です。大変なにぎわいで、境内には昼間からびっしりと店がた
ち並び、夜には歩くのも難しいほどの人がお参りします。藤井寺駅前通りも車両通行止めとなり、葛井寺の周囲も通行規制が行われます。
江戸時代の葛井寺
 下の絵図は、享和元(1801)年刊行の『河内名所圖會(図会)葛井寺(ふぢゐでら)」の題で載っている絵図に、私が彩色加工を施したもの
です。境内の様子をイメージしやすいように、適当に彩色してみました。あくまでもイメージとしてご覧ください。名所図絵には南西から
見た木版刷りの鳥瞰絵図が見開きで載っており、当時の境内や周辺の様子を見ることができます。実際に空から見たわけではないので、多
少の間違いはやむを得ないと思います。また、この図会に出てくる各所の絵図に共通して言えますが、街道などは実際の道よりもかなり広
く描かれている傾向があります。また、距離の縮小比も部分によって異なることがありますが、現在の地図や写真とは違うものとして、お
おらかな気持ちで見ることにしましょう。
 巡礼街道と呼ばれた道が南大門の真南に通っています。当時の参詣メインロードです。南大門の前で西に折れ、辛國神社の前で再び北へ
向かっています。この道は現在の藤井寺一番街
(西門筋商店街)を通り抜ける道で、「大坂道」とも呼ばれていました。北へ進むと現在の八
尾市を通過して大阪市内へ入って行きます。こういった主要道路との位置関係などは比較的正確に描かれています。一方、不要な周囲や遠
景の様子は霞などで捨象されており、中心となる場所の様子がわかりやすくなっています。木版に彫り込む手間を省く目的でもあったと思
われます。何しろ、すべてを手彫りで仕上げるという、気の遠くなるような作業だったでしょうから。
18)『河内名所圖會』に見る葛井寺(南西より望む)
 18)『河内名所圖會』に見る葛井寺(南西より望む)    2ページ見開きの絵図を合成。一部かすれやつぶれを修正の上着色加工。
 【 絵図について 】 ※ 原図は墨単色の木版絵図です。彩色は制作者の独断的想像で施しております。イメージとしてご覧
            ください。
           ※ 南大門と西門は、目立つようにわざと朱塗りの色にしています。同時の実際の色はわかりません。
           ※ 現在の伽藍配置の基本形をこの絵図に見ることができます。本堂をはじめとする各堂や南大門・西
            門・東門・釣鐘堂など、現在もほぼそのままと言ってよいでしょう。東西両塔の基壇跡と見られる土
            塁もあり、薬師寺式の伽藍配置であったことがわかります。
           ※ 明治時代末までは境内の南西部分に長野神社がありましたが、この絵図ではそれらしき神社の様子
            は見られません。池の中に小さな祠らしきものが見えますが、これが関係あるのか別の鎮守社なのか
            はよくわかりません。
           ※ 葛井寺の東側と南側に見える集落は当時の藤井寺村の集落部分で、南大門前の通りには参詣客相手
            の茶店らしきものが見えます。現在と違って、当時は南大門前のこの部分がメイン通りの街道であっ
            たことがわかります。南大門正面の道は「巡礼街道」とも呼ばれていました。
 写真19)は葛井寺周辺の空中写真をGoogleEarthの3D化機能
を使って疑似鳥瞰写真に加工したものです。もとになっている
写真は2015年11月のものです。上の絵図とほぼ同じ角度に合わ
せてあるので、現在の境内の様子や周辺の変貌ぶりを
200年前
と比べて見ると、いろいろと興味深いものが感じられます。
 この写真と比較する
と、18)絵図では境内が異様に広く描かれ
ていることがわかります。これは名所図会ではよくあるパター
ンですが、それにしても、建物どうしの間がやたらに広く描か
れています。南大門と本堂の間は実際は
50mぐらいなのにその
倍以上はありそうに見えます。東西も広く描かれていて、まる
で大広場という感じです。誇張描法の典型ですが、この絵図だ
けを見ていると妙にリアル感があり、そんなに違和感を覚えな
いのが不思議です。写真の無い時代、見たことの無い人にはこ
れらの絵図が唯一の観光パンフの役目を果たしていたことでし
ょう。今日の私たちにとっても、けっこう役立つ資料になって
います。この図会出版の前後には、『摂津名所圖會』『和泉名
 
  19) 葛井寺周辺の現在の様子
   19) 葛井寺周辺の現在の様子 〔GoogleEarth3D画 2015(平成27)年11月〕
     18)絵図と同じ角度で見た鳥瞰写真。
    文字入れ等一部加工
所図会』『都名所図会』『大和名所図会』『江戸名所図会』など類似の出版物が多く出されており、江戸時代の出版文化はかなり高いレベ
ルにあったことがわかります。復刻本もいろいろと刊行されてるので、一見されることをお薦めします。「国立国会図書館デ ジタルコレ
クション」サイトでも絵図の概要を見ることができます。     アイコン・指さしマーク「国立国会図書館デジタルコレクション・河内名所図会」
【 河内名所圖會(かわちめいしょずえ)
  
◆発行 享和元年(1801年)9月   ◆著者 秋里籬島(あきさき りとう)    ◆画 丹羽桃渓(にわ とうけい)
  ◆出版社 《京都》出雲寺文治郎・小川多左衛門・殿為八   《大坂》高橋平助・柳原喜兵衛・森本太助
  
◆構成 6巻6冊 《巻之一》錦部郡  《巻之二》石川郡  《巻之三》古市郡・安宿郡
           
《巻之四》志紀郡・丹南郡・丹北郡・八上郡・渋川郡・若江郡  (※ 葛井寺の所在は丹南郡)
           
《巻之五》大縣郡・高安郡・河内郡    《巻之六》讃良郡・茨田郡・交野郡
  
※ 大坂心斎橋・柳原喜兵衛の書肆(しょし)河内屋をもととして、大正時代に合資会社・柳原書店を設立。戦後
   京都に移転し、2002年に柳原出版株式会社に組織と社名を変更。現存する日本で最古の出版社とされる。
    復刻本の『河内名所圖會』は柳原出版
(柳原書店)の出版で、文章ページは活字版で印刷されている。
村落の形成と昔からの街道
 四脚門を出ると、寺の西側を通っている街道に出ます。この街道は北へ進むと平野(現大阪市平野)を通って大坂の町へつながっており、
「大坂道」と呼ばれていました。南に少し進むと古代の官道として知られる竹内
(たけのうち)街道につながっていきます。この竹内街道を東に
進めば奈良・當麻
(たいま)へと向かい、西へ進めば大阪湾岸の堺の町へとつながって行きます。
 昔からこの大坂道の街道筋が葛井寺のある藤井寺村の中心でした。というより、街道に沿って村の集落が発達してきたと言うのが順序で
しょう。北側に隣接していた岡村も、この街道に沿って集落が発達してきました。岡村集落の中では長尾街道とも交叉し、その交叉する周
辺が村の中心として発展してきました。さらに北へ進むと小山村集落の中心を通り抜け、もうひとつ北側の津堂村集落へと入
っていきます。
 このような街道と集落の発達の経過は、そのまま近代以降の地域の形成にも引き継がれていきました。明治22年からこの地域の6カ村の
合併が始まり、明治期の後半には二つの大きな村が形成されていました。街道沿いの南側3ヶ村が「藤井寺村
」、北側の3ヶ村が「小山村
となったのです。葛井寺は、この藤井寺村の真ん中辺りに位置することになりました。もともと、葛井寺の周辺一帯が元の小さい藤井寺村
だったのです。そして、大正4年にはこれら二つの村も合併して、さらに大きな「藤井寺村」ができました。自治体の規模が大きくなって
いくに連れて、役場や郵便局、巡査派出所、巡査駐在所などの公共施設や学校が新たに設置されていくことになります。藤井寺村では、こ
の街道沿いやその近く
(特に長尾街道との交差点周辺)に、そのような公共施設や学校が設置されていきました。アイコン・指さしマーク「藤井寺の昔の街道」
街道と駅とお参り
 この「藤井寺村」にも、大正時代の終わり頃から転機が訪れます。1922(大正11)年4月に、大阪鉄道の道明寺
(どうみょうじ)−布忍(ぬのせ)間が開
通し、その間にある藤井寺村では藤井寺駅が開業しました。翌大正12年4月には布忍−大阪天王寺
(後大阪阿部野橋)間が開通して、同時に
道明寺−大阪天王寺間が電化されました。これで、大阪天王寺−古市−河内長野という、現在の近鉄南大阪線・阿部野橋−古市間と長野線
が一本につながったのです
。さらに1929(昭和4)年には、古市−久米寺(現橿原神宮前)間が延伸され、久米寺駅からは吉野鉄道(現近畿日本
鉄道・吉野線)
に接続して吉野までの直通運転が開始されました。これにより、阿部野橋−橿原神宮前間をつなぐ今日の近鉄南大阪線が完成
しました。                               アイコン・指さしマーク「道明寺線・長野線・南大阪線・の歴史」
 これらの鉄道路線の延伸と藤井寺駅の開業は、藤井寺村の様子にも大きな影響を与えることになりました。当時の藤井寺村の玄関口とし
て、また、「西国三十三所巡礼札所第五番・葛井寺」参拝入口として、藤井寺駅は遠方からの来訪者を迎える重要な窓口となったのです。
また、当時の大阪鉄道は「藤井寺経営地」という沿線開発事業に取り組み、昭和3年には「藤井寺球場」を、翌4年には「藤井寺教材園」
を開業しました。さらに、この地域での住宅地開発にも取り組んでいます。
 藤井寺駅と周辺での事業展開の登場によって、藤井寺村はにわかに変化の兆しを見せ始めます。農村地帯という藤井寺村の基本型は保ち
つつ、大阪市内への電車通勤圏となったことで、近代産業を発展させて一大商工業都市となっていた大阪市への勤労者の供給地ともなって
いきました。同時に、寺院や天皇陵への参拝者、球場や教材園への来訪客を迎えるという、今日のミニ観光地のような様相が誕生
しました。
駅を中心として人の流れができると、そこにはその人々を対象として商店が展開することになります。
 鉄道は、藤井寺村の真ん中を南北に通っていた街道を東西に横切って開通しました。そして、藤井寺駅はその踏切の西側に設けられまし
た。もともと村のメインストリートであった街道には、駅の近くを中心に商店が並んでいくこととなったのです。それらは後に商店街を形
成していくことになります。そして、この街道部分は、藤井駅で降りて葛井寺へお参りする人々の参道となっていったのです。
葛井寺と商店街                                    アイコン・指さしマーク「藤井寺経営地と教材園」
 現在、葛井寺の西側に接して一本の商店街が通っています。かつての藤井寺村の中心であった街道の一部です。葛井寺の西門に面してい
ることから、古くは「西門筋
(さいもんすじ)商店街」と言っていましたが、現在は「藤井寺一番街」と称されています。近鉄線と交叉する踏切から
南側へ200mほど延びる商店街です。一種の門前町とも言えるでしょうが、実はこの商店街の形態になったのは意外と新しく、戦後しばらく
してからのことだったようです。
 藤井寺市出身で長野県安曇野市在住の、元中学校教師の方が運営するサイト「野の学舎」に掲載の評論、「〈日本社会〉子どもたちの育
つ環境を奪ってきた文明」
の中に、この商店街の変化と葛井寺に関連した部分があったので紹介します。  
( ※1〜13は筆者による補足)
 …(前略)… ぼくの家は町の南のはずれにあり、南北に伸びる町を貫く旧街道の真ん中に学校(※1)はある。毎日の登校に、
子どもの足で
30分かかった道は狭く、うねうねと曲がりくねり、…(中略)… 中学三年生のころ(※2)、その道路の一部に
一大変化が起こった。
 街道沿いに「観音さん」と呼ばれていた西国札所の大きな寺
(※3)があり、ある日、とつぜん寺の境内にあるイチョウの大
木が数本切り倒された。その木は、寺の石垣の内側に天に向かってそびえたち、秋になると道路にまで伸ばしていた枝から
色づいた黄葉をはらはらと落とした。道路は黄葉で埋まり、その上を歩いていくと季節を感じる心はしーんと澄みきり、心
の楽器の弦の音が聞こえるようだった。それが伐採された。
なぜだ、なぜ? 子ども心に、これは理解できないことだと思う。
 続いて、大きな寺の四面の一辺、街道に面する部分の美しい石垣が
300メートル(※4)ほど取り壊された。そして境内の内
側へ15メートルほど造成され、そこに商店が並ぶように建てられた。商店街の出現だった。国宝の千手観音がまつられて
いた名刹は、境内を切り売りしたのだ。寺が売ったのか、地元の経済発展の要請がそうさせたのか、本当のところは分から
ない。
…(中略)…
 
変化は急激だった。田んぼの中を流れ、夏になるとホタルが飛んだ小川の流域は新興住宅地となり、小川は下水路になっ
た。古墳のあったカルタ池
(※5)、神社(※6)に接したブクンダ池(※7)は埋められて保育園(※8)や駐車場(※9)になり
家前にあった釣りのできた大きな三つの池
(※10)も埋められて、小学校(※11)、市の施設(※12)、住宅地(※13)に変わった。
…(後略)…
    
※1=藤井寺小学校    ※2=筆者の年齢から昭和27年頃とみられる。   ※3=葛井寺
    ※4=現在の商店街の状況から見て、160〜200m程度と推定される。300mは筆者の記憶違いと思われる。
    ※5=苅田池
(かりたいけ 鉢塚古墳に隣接。現地区駐車場)  ※6=辛國(からくに)神社  ※7=仏供田(ぶくんだ)
    ※8=市立第3保育所    ※9=市立藤井寺駅南駐車場    ※10=三ツ池(総称)
    ※11=市立藤井寺南小学校    ※12=市立生涯学習センター    ※13=升池跡地の住宅地


   
なお、省略部分が多く、筆者の評論の主旨を伝えることができていません。詳しくは同サイトの評論文を読んで
  いただきたいと思います。
 地域や寺に対する配慮からか、筆者は寺の具体名を意識的に避けられていますが、「西国札所」や「国宝の千手観音」で葛井寺であるこ
とが読み取れます。さらに、「カルタ池」「ブクンダ池」「埋められて保育園…」「大きな三つの池」などの記述から地域を特定すること
ができ、まぎれもなく葛井寺のことであるとわかります。
 「イチョウの大木」というのは、おそらく境内の南西部にあったのではないかと思
われます。この場所には明治末期まで長野神社がありましたが、明治39年の神社合祀
令により、同41年に近くの辛國神社に合祀されました。イチョウはその辺りにあった
ものではないかと推測されます。現在はその近くにクスの大木がそびえています。こ
の記述に従えば、現在葛井寺境内の西側に接する商店の並びはこの時期以降に登場し
たことになります。                 アイコン・指さしマーク「長野神社」
 現在のこの商店街は、店の種類や経営者が当時とはかなり入れ替わっていますが、
古くから葛井寺と深い関わりを持ちながら発展し存在してきた背景に、興味深いもの
が感じられます。
20) 境内地の一部に建ち並んだ商店(南西より)
20) 境内地の一部に並ぶ商店(南西より)
        2018(平成30)年4月
   合成パノラマ
地図と写真で見る葛井寺境内地の変化
 下の21)地図は、戦後間もない頃に米軍が撮影した空中写真を基にして作成された地図の部分です。葛井寺の境内の様子
を見ると、西側の
街道沿いの部分にはまだ商店の建物はありません。道の西側だけに建物の形が並んでいます。これと同じ時期に対応する写真が、その下の
写真23)です。戦後になってから初めて撮影された水平空中写真の部分です。21)地図に表された様子を示す画像です。街道沿いの境内には
何本もの大きな樹木が見えます。商店の建物が並ぶ前の様子で、上記の引用文の記述が裏付けられています。
 一方、下の右 22)地図は藤井寺市作成の「藤井寺市管内図(2015年)」の部分です。境内の西側には街道沿いに建物が並んでいます。対応
する現在の空中写真の様子が 写真24)です。地図と同じように境内地に並ぶ建物の様子がわかります。
 上記の「野の学舎」引用文に見られる境内地の変化、つまり、境内地の一部が商店建設のために提供され、そこにあった樹木が伐採され
て石垣も撤去されたという改変が、これらの地図や写真からはっきりと見て取れます。
21) 葛井寺周辺の地図 1946年頃 22) 葛井寺周辺の地図 2015年
21) 葛井寺周辺の地図 昭和20(1945〜)年代前半
             文字入れ等一部加工
22) 葛井寺周辺の地図  文字入れ等一部加工
   2015年藤井寺市管内図(藤井寺市作成)より
23) 葛井寺周辺の様子 1946年 24) 葛井寺周辺の様子 2015年
23) 葛井寺周辺の様子  線画等一部加工
〔米軍撮影 1946(昭和21)年6月6日 国土地理院〕より
24) 葛井寺周辺の様子  線画等一部加工
    〔GoogleEarth 2019(平成31)年3月9日
〕より

藤井安基と『観音霊験記』
 「葛井寺」という寺号の由来については初めに紹介しましたが、もう一つの「藤井寺」についても取り上げておきたいと思います。「藤
井安基」なる人物に由来することはすでに述べましたが、このことについてもう少し詳しく紹介します。
錦絵『観音霊験記』−「藤井安基」の版
 安政5(1858)年から順次発行された『観音霊験記』という錦絵のシリーズがありま
す。西国・坂東・秩父の観音霊場(百観音)の札所本尊の由来や寺にまつわる霊験談を
紹介した錦絵で、計
100枚が順次発行されました。絵師は2代目広重・3代目豊国(国
貞)が描き、霊験談は戯作
(げさく)者の万亭應賀(まんていおうが)が書いています。この『観音霊
験記』シリーズの『西国順禮第五番 河内 藤井寺』の版に藤井安基の霊験談が載って
います。右の写真 25)がその錦絵です。錦絵の上部には各札所の景観を描き、下部に
はその札所の霊験談が歌舞伎の演目のごとく描かれています。当時の観音巡礼のガイ
ドブックの役割を果たしていたと思われます。
 この錦絵では寺号をはなから「藤井寺」としています。幕末の頃なので
、「剛琳寺」
か「葛井寺」と呼ばれるのが普通だったはずで、境内図を描いた3代目豊国がよく知
らなかったのか、或いは版元が知っていてわざとそうしたのか、はたまた、霊験談を
担当した應賀が本文との関連で「藤井寺」を使用したものなのか、疑問が残るところ
です。
 万亭應賀は江戸の人で、幕末から明治前半に活動した戯作者ですが、草双紙
(さぞうし)
合巻
(ごうかん)作者としても知られています。1819(文政2)年に生まれ、本名を服部孝三郎
(長三郎とも)といいました。常陸国(茨城県)下妻藩井上家に出仕しますが、間もなく
辞して
18歳頃より戯作者となります。松亭金水(しょうていきんすい)梅亭金鵞(ばいていきんが)など
の戯作者グループに加わり、合巻『釈迦八相倭
(しゃかはっそうやまと)文庫』(初編1845)によって
幕末の戯作界に地位を得ます。『聖徳太子大和鏡
(やまとかがみ)』『高祖朝日衣』などの実
録風合巻や、日蓮上人の一代記『高祖朝日衣』(初編1850年)も刊行しました。
 明治になって、新時代の流行を風刺した『和談三才図笑
(1873年 地球自転説などの
科学主義を否定)
、『日本女教師』(1874年 男女同権に反対)などの作を出しますが開化
主義が広まる中であまり注目はされず、失意のうちに1890(明治23)年8月に亡くなり
ました。代表作と言える合巻『釈迦八相倭文庫』は1871(明治4)年まで
58編232冊が
應賀一人の手で書き続けられました。このことは、幾人もの作者によって書き継がれ
25)『観音霊験記』の藤井安基の霊験談
 25)『観音霊験記』の藤井安基の霊験談
    「国立国会図書館デジタルコレクション」より
た長編合巻が多かったことを思うと、彼の学識と最後まで江戸の合巻作成の手法に徹した戯作者魂を示したものと言えるでしょう。(『朝日
日本歴史人物事典』『日本大百科全書(ニッポニカ)』
より)
万亭應賀による霊験記
 藤井安基の霊験談の内容は次のようなものです。
 『
大和の国、賀留(軽 現橿原市内)の里に住む藤井安基は、性は放埓(ほうらつ)で、自分勝手な行いをすることを何とも思わないような人物だ
った。ある時、河内の平石
(現大阪府南河内郡河南町平石か)の辺りで鹿を狩った際に、山中にあった仏堂に入り、堂内にあった仏具をまな
板代わりにし、さらに焚き木として燃やして鹿の肉を煮て食べたところ、安基は急に死んでしまい、獄卒のひく火の車に乗せられて地獄へ
と落とされ、地獄の責め苦を受ける事態となった。
 そんな中、責め苦を受ける安基の前に一人の童子が現れて彼を救おうとした。獄卒たちは仏道を汚した逆罪の者であるから救うべきでは
ないと言ったが、童子は、
確かに彼は罪人ではあるが、かつて私の住む長谷寺(はせでら)を再建する際に建物に使う材木を曳いたという善根
がある。よって速やかに現世に戻すものである。」と言い、その言葉を聞いた安基は、またたく間に生き返った。
 このようなことがあって改心した安基は奈良の都に上り、行基の弟子となって長谷観音を刻んだ霊木の余りで観音の尊像を作った。この
ことが聖武天皇の耳に達し、これにより、尊像を本尊として行基に一寺を建立させた。安基との因縁から藤井寺と称するようになったと言
われているが、実は金剛寺という。本当に不思議な霊験を思い見ることである。 万亭應賀誌

 このページの初めで紹介したように、寺伝では葛井寺は奈良時代に聖武天皇によって葛井連の邸宅地に建立され、春日仏師に命じて千手
千眼観世音菩薩を造らせて神亀2(725)年に行基が開眼法要を行ったとされていま
す。したがって、上の霊験談の内容は寺伝とはかなり異な
るものとなっています。また、安基は奈良時代よりもずっと後の平安時代の永長元(1096)年に荒廃していた葛井寺を復興させたと伝えられ
ているので、霊験譚は、安基の葛井寺再興の功績を強調する話として成立したのではないかと思われます。なお、霊験記で葛井寺の旧名を
「金剛寺」としていますが、明らかに「金剛琳寺」の誤りです。江戸の應賀には資料収集での限界があったのでしょう。
『河南紫雲山縁起』に見る藤井安基の話
 実は、藤井寺市史掲載の葛井寺文書『河南紫雲山縁起』には、『藤井寺の異説 藤井安基蘇生の因縁』の題で、藤井安基が蘇った話が載
っています。後半の展開が『観音霊験記』とは異なっているので、万亭應賀がこの縁起に基づいて霊験記を書いたのかどうかはわかりませ
ん。安基の素行の悪さや仏堂で鹿肉を食べたこと、長谷寺の再建で材木を曳いたことなどは共通しています。縁起では、安基の死について
ある時安基が急死したが、胸の間が暖かいので妻子がこれを怪しんで葬送をしばらく待ったところ、果たして三日を過ぎて蘇った。妻子
や親類は大いに喜び、「気を失っていた間の苦しみはどんなものだったか。」と尋ねると、安基は涙を流し、「それについては、その苦し
さはこの世に例えるものは無いほどだ。気を失ってから後、
‥‥(あの世で体験したことを述べた)‥‥」と話して感涙し、怖れをなして即
時に妻子を振り捨てて僧の姿と
なり、罪障の懺悔に身を凝らして、それより長谷寺の観音に奉仕して勇猛精進に勤めた。
』と述べています。
 安基のあの世での体験について、霊験記では童子と獄卒とがやり取りをしていたのですが、縁起では炎魔(閻魔)大王と童子がやり取りを
しています。安基が話した体験談で、自身が許されたくだりは次のような内容です
(あの世で体験したことを述べた)の内容です》
 『
気を失った後、広々とした荒れ野を矢を射るよりも早く進み、魂も体から抜けたような中、火炎に襲われて身を焼き、熱いこと耐え難
く、すでに地獄に近づいたので門内を見ると、百千丈の火炎が燃え上がり、罪人の泣き叫ぶことおびただしい。その時、童子が一人忽然と
現れて、すでに地獄入ろうとするところを引き上げてくださり、炎魔大王の王宮にやって来ると、「安基の罪を許して、私におあずけくだ
さい。」と申された。炎魔大王は記録を見て考え、「この者は常に殺生を好み、その上誤った考えを持ち、古い仏像を打ち砕いて薪として
しまい、寺の伽藍の中で肉を食べ、乱暴我がままで罪を恥じない悪人なので、阿毘地獄に堕とさねばならない。」と申された。童子は重ね
て「いかにも彼は悪人ですが、長谷寺の御堂造営の時には公役を勤めて結縁
(仏道に入る縁を結ぶこと)ができておりますれば、まずは今回
はお返しくださいませ。」と申され、ひたすら詫びてくださったので、炎魔大王は承諾されて童子の願いをかなえてくださった。童子は私
を連れて王宮を出ると、深く示しておっしゃった。「そなたは娑婆
(人間世界)に帰ったならば、悪い心を改めて善い行いに励みなさい。心
をしっかりと持って、二度と地獄の罪人となってはいけません。何事も慎み、自己のなすべきことに勤めなさい。私はそなたに縁があった
ので、救いを与えるためにやって来たのです。」と。すると、たちまち観世音の姿となって飛び去って行かれた。その有り難さに、地にひ
れ伏して拝んでいたら、蘇ってきたのだ。
筆者意訳》
 長谷寺の観音に奉仕を始めたその後、『安基は、葛井寺の本尊は長谷寺の観音と同木同作であるとの因縁を聞き、葛井寺に参詣した。そ
こで本尊を拝し奉ると、以前に炎魔大王の王宮で自分の地獄の苦しみを救ってくださった観音菩薩と少しも違わぬ素敵なお姿で、再び眼前
に拝し奉ることができたので、安基は信心することをますます肝に銘じ、悲嘆の涙が胸に迫ってきた。その後、安基は永く葛井寺に居住し
て、朝夕のお勤めに励み、寺の修復・再興を思い立った。 月日を重ねて功績を積み、ようやく久安年中になって鳥羽上皇への奏聞
(そうもん)
実現すると、美福門院
(鳥羽天皇の皇后・藤原得子)の援助を受けて伽藍をことごとく修復した。その時の古瓦の銘に、「久安三年三月二日
葛井寺後修理瓦」とある。ところで、あの安基も藤井姓なので、村人たちはいつしか藤井寺とも言い慣わすようになった。藤、葛の文字は
異なっても、同じ読みの氏族によって再興がなされたことは、まことに深い因縁を感じさせることである。
《筆者意訳》
 「
葛井寺の本尊は長谷寺の観音と同木同作であるとの因縁‥‥」の一節は、明らかな勘違いです。葛井寺の千手観音像は上記で紹介した
ように、「脱活乾漆造」なので木造ではありません。長谷寺の巨大な木造観音像とはまったく別物です。
 『河南紫雲山縁起』では「藤井寺の異説」とされている話なので、「藤井安基蘇生の因縁」の内容は「こんな話もある」といったところ
なのでしょう。しかしながら、「藤井寺」の語源としては最も有力な由来として伝えられてきたのも事実です。現在の葛井寺で藤井安基が
どのような位置付けをされているのかわかりませんが、
1300年近くに及ぶ寺の歴史の中に挟まったエピソードとしては、おもしろい話で
はあります。皆さんはどのように解釈されるのでしょうか。
 

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