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  新 大 和 橋
  (しんやまとばし)     架橋河川 大和川   《 府道802八尾河内長野自転車道線(南河内サイクルライン)
 大阪府藤井寺市船橋
(ふなはし)町 (橋の中央部から北は大阪府柏原(かしわら)市上市(かみいち)2丁目
 近鉄南大阪線・土師ノ里(はじのさと)駅より北東へ約1.6km 徒歩約24(新大和橋南詰まで)
 近鉄道明寺
(どうみょうじ)線・柏原南口駅より東へ約100m  徒歩約2分(新大和橋北詰まで)
 国道25号より南へ
14m 駐車場無し   南東約400mの国道沿いに柏原市役所駐車場有り
 長さ《
204.4m 》  幅員《 2.0m 》  橋脚《 11基 》  径間数《 12
 竣工 1974(昭和49)年3月   架橋 1874(明治7)2月23日     管理 大阪府富田林土木事務所
小橋ながら歴史ある橋
 「新大和橋」は、幅の狭い歩行者自転車専用道路ですが、現在
藤井寺市域に関わって大和川・石川に架かる道路橋の中では、石
川橋に次いで古い歴史を持つ橋です。自動車は通れない小さな橋
ですが、この橋を日々利用する人々にとっては、大変利用価値の
高い重要な生活道路でもあります。
 藤井寺市側の船橋町地区から新大和橋を渡ると、そこはもう隣
接する「柏原市」です。C図の通り、新大和橋の中央部が両市の
境界となっています。橋を出るとすぐ左手に柏原南口駅がありま
すが、橋を渡ってからここで電車に乗る人はそんなにはいせん。
多いのは、自転車や原付バイクで橋を渡り柏原駅まで行く人です。
@ 大和川に架かる新大和橋(南東より)
   @ 大和川に架かる新大和橋(南東より)      2018(平成30)年9月
   橋脚には台風時の増水で掛かったごみが見られる。橋の中央部が少し
  高い山形になっている。左下の舗装路は、堤防上の「南河内サイクルラ
  イン(府道802号)」の一部。
 
 柏原駅はJRの駅に近鉄柏原駅が同居している複合駅です。ここでJR大和路線(関西本線)に乗り、大阪市天王寺駅方面や奈良駅方面に
向かう通勤・通学の人たちです。また、大和川北岸にある柏原市役所北側の安堂駅から近鉄大阪線を利用することもできます。一方JR柏
原駅周辺のスーパーや商店街へ買い物に行く人も新大和橋を利用します。大和川をはさんで市をまたいだ生活圏のような生活実態が存在し
ているのです。
 新大和橋のすぐ西側には、近畿日本鉄道道明寺線の大和川橋梁があります。余りにも近くなので、何か関連でもあるのかと思えるほどで
す。しかし、架けられた時期にはかなりのずれがあります。最初の新大和橋が完成したのは明治
7年、河陽鉄道(後継会社が後に合併で近鉄
に)
が大和川橋梁を含む古市−柏原間を開業したのが明治31年です。つまり、新大和橋の方が古いのです。
 新大和橋の両端は当然ながら堤防につながります。しかし、堤防横を通る国道や市道はかなり下の方にあり、堤防上からは階段で下りる
構造でした。そのため、自動車社会になっても新大和橋が自動車橋に改修されることはありませんでした。最初に架橋された時とほとんど
変わらない規模の橋の姿で今日まで続いています。変わったのは、木製だった「木橋」から、鋼管柱コンクリート橋脚・鉄骨橋になったこ
とです。何度も架け替えや改修が行われてきましたが、架橋から
150年近くとなる新大和橋は、藤井寺市域の近代の始まりの歴史の一部を
背負う一種の文化遺産でもあります。          アイコン・指さしマーク「近畿日本鉄道・道明寺線」      アイコン・指さしマーク「藤井寺市の交通マップ」
府道802号八尾河内長野自転車道線
 (南河内サイクルライン)
C 新大和橋周辺の地図
 写真Aのように、新大和橋は自動車の通れない細い橋なので
すが、実は「八尾河内長野自転車道線」というれっきとした大
阪府道の一部なのです。八尾河内長野自転車道線は
、「802号」
という府道番号を与えられており、「南河内サイクルライン」
という愛称も付けられています。サイクリストにはこの愛称の
方がよく馴染まれている名前だと思います。
A 新大和橋(南より)
    A 新大和橋(南より)        2018(平成30)年9月
      歩行者・自転車専用道路で、橋の西側には近鉄道明寺線の
     大和川橋梁が架かっている。わずか
2.2kmの路線である。
B 北岸から見る新大和橋(北西より)
    B 北岸から見る新大和橋(北西より) 2018(平成30)年9月
       中央左寄りの最後方は葛城山・金剛山。左端は二上山。
 C 新大和橋周辺の地図   新大和橋は、府道802号・八尾河内長野
        自転車道線(南河内サイクルライン)の一部を構成している。
 八尾河内長野自転車道線は総延長21.1kmで、八尾市から柏原市→藤井寺市→羽曳野市→富田林市→河内長野市と、6市にまたがって続
くサイクルロードです。ついでなので、概要を次に紹介しておきます。
 この道路は、一部で自動車道と重なっていますが、多くは大和川・石川の堤防や河川敷に造られたコースを通ります。起点を出て大和川
の堤防上のコースを
3kmほど進んで新大和橋を渡るとあとは石川に沿って堤防と河川敷を下ったり上ったりしながら、延々と南に進んで
行きます。以下はコースの概略です。
   
大正橋北詰交差点(八尾市太田5丁目大和川堤防上)  大和川右岸(北岸)堤防上を東へ  新大和橋
                                               

   
石川サイクル橋(富田林市新堂〜北大伴)    石川の左岸(西岸)堤防・河川敷(上ったり下ったりする)
      
                    (藤井寺市・羽曳野市・富田林市)
   
石川右岸(東岸)河川敷    川西大橋(富田林市西板持〜錦織東)     新家(しんけ)交差点(国道170号)
                                              

   
河内長野市原町北交差点(国道170号)   国道310号手前の側道(河内長野市)    国道170号沿道
 新大和橋の南詰めから八尾河内長野自転車道線に入ると、写真@のように「歩行者注意」の路面標示があります。自転車の利用者が増え
た近年になって、この標示はロードの各所に書かれました。この写真のサイクルロードの部分は、もともとの大和川の南岸
(左岸)堤防の上
を通る道路です。C図を見るとわかりますが、近鉄道明寺線の下をくぐる現在の市道・道明寺柏原線は、堤防上から堤防裾に下がって付け
替えられました。元の堤防道路の一部がサイクルロードとして残されたのです。
 府道なので、大阪府の土木事務所が管理しています。起点から新大和橋北詰までを八尾土木事務所、それ以南を富田林土木事務所が管理
しています。コースの随所で、土木事務所の設置した標示や案内看板、注意書きが見られます。
 
地域が熱望した大和川架橋−「新大和橋」の誕生
昔は船で渡河−制限された架橋
 現在の大和川は、旧大和川流域で起きる洪水の根本対策とするべく、江戸時代の1704年(宝永元年)に、大阪湾への新放水路として新たに
造られた川です。「大和川の付け替え」といわれる一大土木事業兼新田開発事業で、藤井寺市の船橋町
(当時船橋村)付近から西へ堺市の河
口までが新川として造られました。詳しい経過は別ページで紹介しています。            「大和川の付け替え」
 この新川への切り替え地点付近は、古来から重要
な街道であった東高野街道が大和川を渡河する場所
でもありました。古代には万葉集に詠まれた「河内
大橋」がこの辺りに在ったという説もありますが、
近世以前からもっぱら船による渡河が普通となって
いました。
 新大和川の完成後、大和川に架けられた橋は幕府
の政策により堺の紀州街道に造られた「大和橋」の
1ヵ所だけでした。大和橋は公儀橋として幕府が架
橋したものでしたが、紀州
(和歌山県)徳川家の参勤
交代での利用のほか、大坂周辺で一朝事ある時のた
めの軍事用でもあったと思われます。馬や馬車・隊
列の通行が可能な橋はこの大和橋1ヵ所でしたが、
実は人が通ることのできる橋は他にもありました。
 「野通橋
(のかよいはし)」と呼ばれ、許可を得て村々が
架けた細い木橋が何ヵ所かありました。藤井寺域で
も現在の新大井橋の辺りに1ヵ所ありました。人が
一人通れる程度の幅の板橋で、増水した時などは流
されてしまうこともありました。対岸にある田畑で
D 河江戸時代絵図に見る新大和川の渡し船(南西より)
 D 河江戸時代絵図に見る新大和川の渡し船(南西より)
             『河内名所図会』(1801年)「大和川 築留」より(部分切り抜き)
     左右見開きを合成して継ぎ目処理のうえ、かすれ補修や着色、文字入れ等一部加工。
の農作業に通うための橋で、「農道橋」などの名称も伝わっています。      「新大井橋(大井橋)−藤井寺市の交通」
 新大和川ができた後も東高野街道を往来する人々は渡河する必要がありましたが、それに使えるような橋は無く、船橋村と柏原村の間で
は渡し船による渡河が続けられてきました。増水時に船留めになることや、急用時に間に合わないなど、大きな不便が避けられず、周辺地
域には新たな架橋の要望が前々からありました。収穫した米などもいちいち船で運ばなければならなかった農民たちにも、荷車や馬車の通
れる橋が求められました。
 D図は、江戸時代の享和元年(1801年)に刊行された『河内名所圖會
(かわちめいしょずえ)』にある「大和川 築留(つきどめ)」の絵図の一部分です。
様子がわかりやすいように着色等の加工をしました。この絵図の中に、新大和川を往来する渡し船が描かれています。刊行年から推測する
と、大和川付け替えから
100年近く経った頃の様子を描いていると思われます。北岸の柏原村の船着き場を出た渡し船が、今まさに南岸の
船橋村を目指して向かう様子です。橋の無い大きい河川では、各地で見られた日常的な光景でした。この絵図はかなり細かく描写されてい
て、北岸の堤防沿いには水勢を弱めて堤防を守るための「水制」も描かれています。「杭出し」と呼ばれる水制の一種ですが、大和川のこ
の部分では北岸堤防への水流の当たりが強くなるために、かなりの数の杭出しが設けられていたようです。
新架橋勧進の動き
 柏原村−船橋村間に橋を架ける動きが出て来たのは明治になってからのことです
。明治3年に少し上流の高井田村と国分村(両村共現柏原
市)
の間に奈良(大和)街道の国豊(くにとよ)橋が架橋されると、柏原村と船橋村との間でも架橋への希望が高まりました。国豊橋の完成後、堺県
(当時)の道路整備も順次進み、明治6年5月13日には、通行難渋の場所には早く仮橋を設けるよう堺県が布達するということもあり、明治6
年、周辺の7ヵ村の戸長が発起人となって架橋工事が進められることになりました。費用はすべて有志の寄付によることとして、『新架橋
勧進帳』が各地に廻されました。このとき寄付に応じた人々の住所は南河内地域だけでなく北河内域地にも広がっており、この橋が東高野
街道の重要な一部であることを示しています。東高野街道は、京都石清水八幡−北河内の生駒山麓−南河内−和歌山・高野山の間を結ぶ重
要な参詣道で、特に北河内地域と南河内地域はその中心部分となるルートを構成していました。
新大和橋の建設
 ちょうどその頃、堺では大和橋の架け替えが行われており、工事中に設置された仮橋の払い下げを受けて新架橋の材料としました。こう
して、明治
7(1874)年2、ようやく新橋は完成しました。橋は全長108(約196.3m)、幅1間半(約2.7m)、高さ2間半(約4.5m)で、両側に
手すりが付けられました。
 県によって「新大和橋」と命名されましが、命名の経過についてはわかりません。「新○○」と命名されるのは、大きく2つのケースがあ
ります。1つは、同じ場所・機能で新たに造り直した場合です。新しいものであることを示す意味で「新」を付けるケースです。実際の例
は少なく、新しくなっても元の名前のままが普通で、大和川に架かる「大正橋」や石川に架かる「石川橋」などがその例です。
 もう1つは、近くに同程度の機能を持つ類似の施設を造る時に、元の施設の名前を尊重する、或いはあやかりたい、などの理由で「新」
を付ける、というケースです。「新大阪・新神戸・新横浜」など、駅名に多く見られます。橋にも「新十三
(じゅうそう)大橋」などがあります。
「新大和橋」の場合、以前から在った「大和橋」とはずいぶん離れています。大和橋は新大和川の河口近くにあり、新大和橋は
14kmほど
上流の新大和川の起点の場所です。普通なら「新」が付けられるケースではなく、堺県がなぜ「新大和橋」と命名したのか大きな謎です。
 
藤井寺市史 第9巻 史料編七(藤井寺市 1987年)に、1876(明治9)年11月に河内国志紀郡船橋村が作成した『橋梁堤防明細帳』という史
料が載っており、これに新大和橋の明細が記載されています。『
高野街道筋 一 上大和架橋 渡百二十間・巾壱間半・高弐間半 壱ケ所
 官費民費ヲ以架之
』とあります。「高野街道」とは実際は「東高野街道」のことで、「上大和架橋」は「大和橋(堺・紀州街道)の上(流)
に架けられた橋」で「新大和川橋」のことです。記載内容は、
高野街道筋には大和川の上に架けられた橋あり。長さ120間(約218m)幅1間
(約2.7m)高さ2間半(約4.5m)のものが一ヵ所あり。公費と民間資金とでこの橋を架けた。』ということです。橋の長さが完成時よりも約
22mも長いのは、堤防部分を含めたものなのか、計測間違いや記入間違いなのか、よくわかりません。
 「
官費民費ヲ以架之」の記述は、勧進帳による有志寄付だけではなく、公費も架橋に投入されていたことを表します。実は、仮橋の払い
下げを受ける時に、堺県から
250円を一時借り入れしていました。また、最終的に寄付金総額が架橋費用総額に届かず、架橋掛の7人(各戸
長)
や世話人12人が個人資金を寄付する事態となっていました。その時に、県に寄付助成を願い出て50円の寄付金が下されています。架橋
費用の中には公費も投入されており、個人の負担もあって、ようやく達成された事業だったのでした。
 『柏原市史 第3巻 本編2
(柏原市 1972年)の「近代の柏原−(四)橋と道路の整備−新しい架橋」にある記述を基に、経過を年表形式に
まとめてみました。架橋に尽力した人々の労苦が偲ばれる経過がわかります。
月・日 で き ご と
1870 明治3 10月18日  国豊橋(現国道25号)が完成。11月13日に堺県に届け出、許可される。
1873 明治6  5月13日  通行難渋の場所には早く仮橋を設けるよう堺県が布達。
 8月18日  堺で紀州街道の大和橋の架け替え工事が起工される。
11月11日  7ヵ村の戸長が発起人となって新架橋の願い出が行われ、即日許可される。柏原村・船橋村・国府
 
(こう)村・市(いち) 村・弓削(ゆげ)村・田井中村・道明寺村の7ヵ村。7人の戸長は架橋掛となる。
11月23日  7人の架橋掛が連署して、堺の大和川仮橋の払い下げを県に嘆願する。
   払い下げの申請をした時点では落札された後であったが、落札額に3円の増金をし、それ落札者への手数料
  として渡した上で払い下げを受けることができた。
12月18日  架橋費用を有志の寄付でまかなうため、『新架橋勧進帳』が各村に廻される。
12月14日  この日、払い下げ代金170円50銭を支払うため、架橋掛が堺県から翌年3月30日までの約束で250
 円の拝借金をし、その中から支払う。
1874 明治7  1月23日  大和川新大和橋架橋の工事を開始。工事は堺の2業者が請け負う。 新橋の計画は、長さ106間、幅
 1間半、両手すり付き、当初請負額は
400円。
 2月23日  新橋が落成。25日に渡り初めと県庁の見分があり、完成となる。県より「新大和橋」と命名される。
 3月31日  拝借金250円の返済期限に寄付金が足らず、架橋掛7人が個人出資する。県に寄付助成を願い出る。
 6月00日  この時点でも架橋費用が99円70銭の不足となる。
 8月29日  堺県から寄付金50円が下がり、残り不足額49円70銭は架橋掛7人と世話人12人が追寄付をして、
 ようやく決算を済ます。
明治時代の新大和橋
 下の写真Eは、現在の近鉄・道明寺線が鉄道線として発足した当
時の様子です。河南
(かなん)鉄道(開業時は河陽鉄道)といいました。
輸入された蒸気機関車が客車を引いて走る列車でした。橋梁もイギ
F 明治時代の新大和橋(北西側より)  
E 河南鉄道時代の大和川橋梁と新大和橋(南西より)
  E 河南鉄道時代の大和川橋梁と新大和橋(南西より)
     大和川橋梁の橋脚は当時でも珍しい鋳鉄管柱だった。後方に
    新大和橋の木造橋脚が見える。背景の山は生駒山地の南部。
    (松永白洲記念館所蔵)
       色調補正して周囲をカット
F 明治時代の新大和橋(北西側より)
    この頃、写真の手前側には現近鉄道明寺線の鉄橋ができていた
   ことになる。向こうの対岸は現柏原市安堂付近。
     『一億人の昭和史14 昭和の原点 明治下 明治34〜45年』
                     
(毎日新聞社 1977年)より
リスからの輸入でした。この橋梁は現在でも同じものが使用され続けています。橋梁の後方に、木橋である新大和橋の橋脚が見えています。
明治
30年代の撮影と思われますが、この時点ですでに何度も修復を受けている新大和橋でした。江戸時代と同じ様式で造られた木橋と、文
明開化によって導入された鋼鉄の橋梁が、すぐ近くで並んでいる光景は時代の大きな変化を象徴しているようです。
 写真Fは、自宅所蔵の本から偶然見つけたものです。、明治期の新大和橋の様子が写っています。おそらくは、新大和橋を写したのでは
なく、手前の遊覧船に乗っている人々を写した写真だと思われます。掲載された本の写真説明には、「
現柏原市と大阪市を水路で結ぶ柏原
船は
30年代まではまだ5〜6艘が残っていた 背景は新大和橋とあります。しかし、写真の船は柏原船とは形状が異なるようにも見えま
す。遊覧船用に改造されたものか、または別種の船かも知れません。飲食のできるような用具も見られるので、川べりで楽しいひとときを
過ごす家族の様子なのでしょう。裕福な商家のような感じです。
 写真Fの後方の新大和橋を見ると、橋脚の構造や手すりの造りの様子がわかります。手すりは、重量を軽減し強度を保つ構造が工夫され
ています。橋脚では、左の写真Dの橋脚と符合する基本的構造がわかります。橋の向こう側が上流側なのですが、各橋脚の上流側に1本の
大きな丸太杭が立っているのが見えます。増水時に濁流で勢いよく流れ来る流木や船が橋脚にぶつかるのを防ぐためでしょう。反対に手前
の下流側には、橋脚に連結された丸太杭が立っています。橋脚が流れに押されるのを防ぐための支え杭だと思われます。
G 明治時代の新大和橋(南より) G 明治時代の新大和橋(南より) 1905(明治38)年
 新大和橋完成から31年後の様子。写真EFと前後す
る時期と思われる。西日の影ができており、日傘も見
られる様子から、夏場の夕涼みであろうか。1間半の
幅は、現在の橋よりも広い。
 左側の河南鉄道橋梁の様子も見える。鋳鉄管柱の橋
脚の特徴がよくわかる。この橋脚は、現在はコンクリ
ート橋脚の中に包まれた状態で生きている。
  『目で見る 八尾・柏原の
100年』
      (郷土出版社 1995年)より
     上下カットの上、ページ継ぎ目消去等、
    一部加工処理。

 
 写真Gも明治30年代の様子で、大和川南岸の船橋地区側から撮ったものです。いったい、撮影の目的は何だったのでしょうか。よくぞ新
大和橋をこんなに間近で写してくれたものだと、感謝にたえません。欄干
(手すり)の構造が大変よくわかります。標柱の「志んやまとはし
の文字がなかなかしゃれています。夏場の夕方に橋の上に涼みに来た人々でしょうか。着流し姿は浴衣のようです。それにしても、どんな
人が撮った写真なのでしょうか。現代のカメラと違って、ガラス乾板
(フィルムに相当)の時代です。素早く次々と撮影することはできませ
ん。列車が鉄橋を渡る瞬間を待って撮影したものと思われます。シャッターチャンスと言い、構図と言い、実に見事な撮影だと思います。
 この写真Gは、写真EやFとほぼ同時期の様子だと思われます。新大和橋が架けられてから
30年ほどが過ぎていますが、実はここに至る
までに、早くも何度もの修復工事を受けています。
続いた橋の被害
 人々の熱望と広範囲からの寄付を受けてようやくできた橋でしたが、新大和橋の架橋地点は大和川と石川の合流点のすぐ下流であり、増
水時には強い水流の力を受けることとなり、たびたび大きな被害を受けました。架橋から2年後の明治9年には早くも大破
し、10年には
上流から流されてきた渡し船が橋脚に当た
って、橋が11mほど流失するということが起こりました。さらには、橋板の破れ目から馬が川へ
落ちるという事故も起きています。また、架橋後間もなくの頃から牛馬荷車の通行が多いため、橋の北側堤防坂は破損が多く、降雨の時は
土砂が流れて通行の妨げとなることも多くありました。明治
12年には早くも橋板や梁木が腐って危険な状態になるなど、何度も破損や流失
の危機
にみまわれてきました。破損のたびに寄付を募ったり、通行料を取ったりしましたが十分ではなく、村の借入金は増える一方でした。
官費による修繕を何度も嘆願した結果、やっと明治
13(1880)年から官費営繕が実現することになったのです。
 『柏原市史 第3巻 本編2』の記述から、新大和橋で起きた被災・破損状況を下の表にまとめてみました。
月・日 で き ご と
1874 明治 7  2月23日  新大和橋が完成する。
1876 明治 9  8月00日  新大和橋が大破する。
1877 明治10  6月10日  架橋修繕と北側堤防坂道修繕のために、県の許可を得てこの日より橋の通行人から補助銭の徴収
 を始めたが、入る金額が少なすぎて、修繕の見込みも立たず5日間で中止する。
 6月11日  午前2時頃、暴風雨により大水が出て、流れて来た渡し船が橋杭に引っ掛かり、そのため 橋の途
 中から
11mほどが流失する。
10月 6日  橋の南より27mの所の橋板の破れ目から馬が川へ落ち、この時橋板が約50mに渡って破損する。
 新大和橋通行の五小区
(当時の行政区)村々への寄付依頼を県へ願い出、許可される。
 合計92円96銭5厘が集まったが、修繕費用総額177円27銭6厘になおも84円31銭1厘の不足となる。
1878 明治11  借入金返済に困った世話人が、県へ返却の良策を指図してくれるよう願い出る。
1879 明治12  2月18日  不足金の御下げ渡しと今後の修繕費の官費負担を県へ嘆願する。県からは、不足金完済の上なら
 官より保護するとの諭達がある。
11月00日  橋の南側で55m余りも橋板梁木が腐り、橋板継ぎ目より往来の人が足を抜く危険も出てくる。
11月11日  なおも官費営繕と不足金の償却を上願する。この結果、不足金の償却は区長がみることとなる。
1880 明治13  この年度より官費営繕が実現する。
 8月18日  夜半には東側の欄干が18mばかりも落ちてしまう。 
 市史の記述では、これ以降の橋の破損や改修については取り上げられていないのですが、その後にも大和川の大増水は度々起きているこ
とから、新大和橋の損壊や流失の被害は何度もあったと思われます。地域の人々が、新橋の架橋や維持管理のために多大な努力をされてき
たことがわかります。交通インフラの整備は行政がするもの、という現代の常識はまだ成立していない時代のことだったのです。
その後の時代の様子
 明治25年作成の『明治廿四年 大阪府石川・錦部・八上・古市・安宿部・丹南・志紀郡役所統計書』では、大和川に架かる橋として、新
大和橋と大井橋が書かれています。現在の藤井寺市域の中で、新大和橋の次に大和川に架けられた橋が
「大井橋」です。幅員10(約3m)
なっているので、新大和橋よりも少しだけ広い橋です。明治9年志紀郡大井村作成の『橋梁樋管堤防明細帳
では、巾4尺(約1.2m)の橋と
記載されています。この時点で大井橋はできていたことがわかります。当時は幅が約
1.2mしかなかったわけです。大井橋は1936(昭和11)
年に少し西側に移動して架け替えられました。
 1916(大正5)年、南河内郡藤井寺村と中河内郡大正村
(現八尾市域)によって「藤井寺村大正村架橋組合」が創設され、新しく大和川に架
かる橋として「大正橋
(現府道旧2号)」が造られました。この大正橋も、1952(昭和27)年に新しい現在の橋に架け替えられました。
 1938(昭和13)年には、産業道路
(現国道旧170号)が新設されたのに伴って、4つ目の橋として「河内橋」ができました。その後、戦後の
高度経済成長期の1969(昭和44)年に開通した大阪外環状線
(現国道170号)が通る橋として、「新大井橋」が大井橋に代わって造られました。
新大和橋・新大井橋・大正橋・河内橋の4つの橋が、現在も藤井寺市内で大和川に架かる橋です。
変わってきた橋の役割
 明治
31年に初めてこの地に鉄道が通り、新大和橋のすぐ西側に鉄橋ができました。現在の近鉄道明寺線です。さらに、明治時代になっ
て以降、新大和橋のほかにも大和川にはいくつもの橋が架けられてきました。大正
14年に南海高野線が全線開通すると、東高野街道は高野
山への参詣道としての役割を終えることになりました。府道となって、地域をつなぐ幹線道路として利用されることになりました。
 昭和に入って自動車輸送の時代になると、東高野街道のバイパスとな
る幹線自動車道として産業道路が造られ河内橋もできました。こうして
新大和橋はその役割を大きく変えていくことになりました。自動車の通
らない生活道路として、地域の人々の暮らしを支えてきました。
 昭和期になってからの新大和橋の様子を写真で紹介します。写真Hは
本では「昭和初年」となっています。説明では「三番樋付近から見た様
子」となっていますが、三番樋は新大和橋と大和川橋梁の間にあるので
(C図)、そこからこの向きの写真が写されることはあり得ません。三番
樋はこの写真では新大和橋の右側にあります。撮影位置は、おそらくは
二番樋と新大和橋の間の堤防上だと思われます。橋の後方に見える低い
山は、藤井寺市域
(当時道明寺村)にある市野山古墳(允恭天皇陵)と見ら
H 昭和時代初期の新大和橋(北岸側の北東より)
 H 昭和時代初期の新大和橋(北岸側の北東より) 昭和初期
  『目で見る 八尾・柏原の
100年』より  傾斜補正して上下をカット
れます。南西方向を見ており、手前側が上流側で橋の向こうが下流です。
 新大和橋の様子を見ると、橋脚の構造が少し変わっています。写真EFの時は柱が3本の構造ですが、この写真では斜めの支え柱も含め
本数が多くなっています。その分、1本ずつの柱の太さが少し細くなっているようです。欄干の構造も変わっています。「×」形の筋交い
が無く、縦格子状の柵になっています。写真の様子では、大和川の水量が普段よりも少し増水しているように見えます。
戦後の新大和橋
 1951(昭和26)年旧道明寺町発行の『道明寺町史』の中に、次のような東高野
街道についての記述があります
『…石川左岸(西岸)を船橋の東に廻り大和川
新大和橋を渡って柏原に行って居るが昭和十五六年頃廃橋となって以来腐朽す
るに委して此の橋の通行は全く途絶えて居る。
』。戦時中から終戦後の混乱も
あって、このような状態がしばらくは続いていたようです。先人達の嘆きが聞
こえてきそうです。
 ほどなくして新大和橋は修復されたようです。再び架橋されて、周辺地域の
人々の生活道路として利用されてきました。昭和中頃の新大和橋が写った写真
Web上で見つけたので紹介します。
 写真Iは、1953(昭和28)年9月の台風13号と前線の活動による豪雨で大和川
が大増水し、奈良市を中心に甚大な浸水被害が発生した時の新大和橋の被害状
況です。木橋だった新大和橋は、南側半分が倒壊・流失してしまいました。
I 台風による大増水で倒壊した新大和橋(南より)
  I 台風による大増水で倒壊した新大和橋(南より)
     新大和橋の南側半分が倒壊・流失した。 1953(昭和28)年9月
    大和川河川事務所サイト内『大和川について』の
   「大和川圏域河川整備状況図−大和川流域の概要」より
           上部カットの上、文字入れ等一部加工。
 河川事務所サイトによると、この時の大和川の増水では、柏原観測所
で水位
5.4m、流量1,771/秒が記録されています。同サイト掲載の
現在の大和川の通常の毎秒流量は、《 豊水22.61・平水13.57
》で
す。如何に大増水であったかがわかり
ます。流域での被害は、死傷者72
人、家屋全半壊1,436戸、床上浸水2,405戸
、床下浸水は10,868
という大変大きなものでした。上の『道明寺町史』の記事が書かれた時
期と考え合わせると、台風で倒壊した新大和橋は戦後の再建から数年で
倒壊してしまったと思われます。
 写真Jは1960(昭和35)年撮影の新大和橋の様子です。よく晴れた早春
の日のひとコマだと思われます。バイクの男性や日向ぼっこの少年達の
服装に、昭和30年代の雰囲気が現れています。新大和橋の木組みの様子
がよくわかります。上流側の東側には、増水時の水勢や流木、流失船な
どから橋脚を守るための大掛かりな防御柵が設置されています。横から
J 昭和30年代の新大和橋(北北東より)
  J 昭和30年代の新大和橋(北北東より) 1960(昭和35)年2月21日
      『シャモとレンコン畑 日本の原風景−河内』
        (田中幸太郎・著 光琳社出版 1993年)より
   上下の一部をカット
       左上流側に防御柵が見える。右後方は近鉄道明寺線大和川橋梁。
の衝撃に弱い木橋の弱点が見て取れます。冬季で水位は低く、中州も見えています。
 写真Kは昭和
30年代か40年前後の撮影と思われます。戦前の大阪鉄道時代から使用されてきた車両、5626型・5627型が鉄橋を通って
います。鉄道写真なのですが、手前に新大和橋も写っています。時期的には写真Jと同じ時期の橋と言えます
左手後方に見える大きな樹
木は、大和川南岸の船橋地区にある大山咋
(おおやまぐい)神社にある。「七本樟(くす)」と呼ばれるクスの巨木で、根元近くで幹が7本に分かれてい
ました。村のよい目印となっていたのですが、現在は7本はありません。太枝の伐採もあって、かつてのような高さも無くなりました。
 その後、新大和橋は1967(昭和42)年に初めて鉄筋コンクリート製の橋脚に改修され、やっと損壊の心配のある木橋からサヨナラすること
ができました。新大和橋が明治7年に完成してから
93年後のことでした。
K 昭和中頃の新大和橋と近鉄道明寺線(北東より) L 架け替え補強工事中の新大和橋(南東より)
K 昭和40年頃の新大和橋と近鉄道明寺線(北東より)
  昭和30年代から40年前後と思われる。この頃はまだ全て
 木製の「木橋」であった。車両は5627型(左)・5626型(右)。
  サイト『思いでの箱 近鉄電車 昭和40年ほか 鉄道写真集』より
L 架け替え工事中の新大和橋(南東より) 1974(昭和49)年
  鋼鉄管柱の橋脚をコンクリート管で補強し橋桁が架け替えら
 れた。昭和49年3月に竣工してい
る。鉄橋通過中の車両は、6601
 型(1928年製・旧大阪鉄道デニ500形)。 (サイト名不明)
 写真Lは昭和49年の撮影です。これも鉄道写真なのですが、ちょうどこの頃、新大和橋は補強改修工事の最中でした。偶然にその工事中
の様子が写っています。この年、新大和橋は鉄筋コンクリート製の橋脚を、さらに鋼鉄管で補強する工事が行われました。2本の鉄筋コン
クリート製の柱の間に、補強する鋼管を建てる工事です。写真は、橋脚の工事が終わったようなので、この直後に橋桁が架けられたものと
思われます。この時、橋桁も新しく現在の鋼製のものに替えられました。写真ABに見えるように、立派な現代的人道橋の姿に変わりまし
た。この1974(昭和49)年は、新大和橋が完成した1874(明治7)年からちょうど満
100年の年でもありました。新大和橋入口の欄干には「昭和
四十九年三月竣工」の銘板が付けられています。その直前の2月
23日が、新大和橋の満100歳の誕生日でした。

  「河内大橋」のこと
 万葉の時代、「河内大橋」いう朱塗りの立派な橋のことが歌に詠まれています。この「河内大橋」については、従来から数多くの論考が
出されており、未だ定説となるほどの有力な説は認められていません。2つの論考から河内大橋の概要について紹介します。
 まず1つ目は、『河内どんこう 第20巻・第49号(やお文化協会 1996年)掲載、平嶋述司氏の論考『今感じる万葉の歌「河内大橋はどこ
にある?」』に基づいて、河内大橋推定説の様相や河内大橋の概要を紹介します。
 万葉集の巻九・一七四二、一七四三で、『見河内大橋獨去娘子歌一首』の歌とその反歌の中にこの大橋のことが出てきます。また、この
橋の架かっていた
片足羽河(かたあすはがわ)」という川の名も出てきます。この片足羽河が現在のどの川のことなのか、また「河内大橋」はどこ
に架かっていたのか、以前から諸説多く、はっきりとはしていません。それらを大雑把にまとめると、「片足羽河」を「大和川」とみるか
「石川」とみるかの2つに分けられるようです。いずれにしても多くの説に共通しているのは、「河内大橋」が現在の柏原市地域と藤井寺
市地域、それも国府
(こう)地区付近との間に東西に架かっていたという推定です。
 異なる説としては、大和川でも少し東側の上流で国分
(こくぶ)・高井田(どちらも現柏原市)の間に南北に架かっていたとする説があります。
現在の国豊橋
(くにとよばし)にほぼ近い位置と言えるでしょう。少ない説ですが、石川の藤井寺市の南側、現在の羽曳野市(はびきのし)地域で竹内街道
(丹比(たじひ)道)が渡河する橋とするものもあります。
 例を挙げると、折口信夫氏や佐々木信綱氏は片足羽河を「石川」とみていますが、河内大橋の推定位置は異なります。江戸期に出版され
た『河内名所図会』でも石川の旧名としています。土屋文明氏や澤潟久孝氏などは大和川説を採っています。
 参考のために、『大阪府史 巻2』にある「河内大橋」の項を紹介しておきます。
河内大橋  《『大阪府史 巻2』より》                       ( ※ 薄字ルビは筆者が挿入 )
  河内国府の所在地については、『和名抄』に「
国府在志紀郡」とあるほか、古代の文献上の史料はない。しかし旧志紀郡
内の藤井寺市域に国府
(こう)村があり、国府村の域内に御門・鍵田・惣社・長屋(庁屋か)などの字名がある。その地域は、国府
台地の北端部にある市野山古墳(允恭天皇陵)の北東部に当たり、丹比道
(たじひみち)と平行して東西に走る大津道(おおつみち)を推定復
元すると、その南に接し、すぐ東を現在東高野街道と呼ばれる道が南北に通じている。この地はまた旧大和川と石川との合流
点にも近く、復元大津道が大和川を渡るところに船橋の地名が残り「万葉集」巻九にみえる河内大橋は、奈良時代ここに架さ
れていた橋と考えられる(石川を渡る丹比道の橋とする説もある)。
〈中略〉上記の地域を河内国府の所在地としてよかろう。現在の国府1丁目−3丁目、惣社1丁目−2丁目のあたりである。
《参考文献》『河内どんこう 第20巻・第49号(やお文化協会 1996年)掲載『今感じる万葉の歌「河内大橋はどこにある?」平嶋述司』

 2つ目として、『大阪文化誌 第14号(大阪文化財センター 1982年)掲載の西口陽一氏の論文『河内国餌香市跡即船橋遺跡説』から、河
内大橋が出てくる万葉歌を取り上げた部分を紹介します。西口氏は
「餌香市」の推定所在地について、河内大橋と連動して考察しています。
 そして、その餌香市の所在を明らかにする上で、更に重要手がかりとなるのが、史料@(※)の市辺にあったという「橋」であ
る。『大日本地名辞書』(明治33年6月)の吉田東伍博士は、「
此橋は万葉集に河内大橋とありて、片足 羽川に架す。対岸は片
の地なれば也。
」と推定し、昭和八年に『日本古代経済』(交換篇第二冊市場 昭和8年5月)を著わした西村真次早大教授は、次
のように推定した。
 「 
いはゞ市は、今日、銀座が銀ブラの徒によって闊歩せられる如く、当時のモダン・ボーイやモダン・ガールによって
  闊歩せられたのであった。試みに『万葉集』に出ている次ぎの歌を吟味して見よう。
      見河内大橋独去娘子作一首並短歌
     級照片足羽河之左丹塗大橋之上従紅赤裳数十引山藍用摺衣服而直独伊渡児者若草乃夫香有良武
     橿実之独歟将宿間参乃欲我妹之家乃不知
      反 歌
     大橋之頭爾家有者心悲久独去児爾屋戸借申尾
   これはカタシハ河に架けた丹塗の大橋の上を、赤裳の裾引きながら、山藍摺りの衣を着けた少女が只独りで渡ってゆ
  く、あの子にはもう良人があろうか、それともまだ一人者だろうか、聞いてみたいものだという意に過ぎないが、此歌
  によって(一)片足羽川に橋が架かって居り、しかも其欄干が赤く塗ってあったこと、(二)其辺をしゃならしゃならと徘
  徊した女がどんな服装をしていたかということが知られる。そして、此大橋は、餌香市の近くに架かっていたものであ
  るから、これによって其市場がどんな位置にあったかということの見極めがつく。云々
 」
 そして、当の餌香市については、吉田博士は「
今道明寺村国府の旧名なり」とし、西村教授は、「大和川の南岸に恵我村あり、
北岸の柏原町に市村あり、道明寺の南方に古市があって色々の幻影を起させ、古代の餌香市の位置を推定するのに困難を感ぜ
しめるが、やはり国府付近の石川端を其址と見るのが妥当であろう
」とした。
 両権威揃って、国府若しくは国府付近とするのが、現在、餌香市を国府付近とする通説の通説となった所以である。筆者も
又、その辺にあったと思うものである。
      
(※)史料@…『日本書紀』雄略天皇十三年春三月項(469年)「天皇使歯田根命、資財露置於餌香市辺橋本土。」
  《参考文献》『大阪文化誌 第14号』大阪文化財センター 1982年)掲載
        『「河内国餌香市跡即船橋遺跡説」―ある地方「市」の歴史― 西口陽一』     アイコン・指さしマーク「『餌香市』のこと」
 結局のところ候補地としては、やはり大和川か石川かという大きな見解の相違が続いています。さらに、同じ大和川説でも、現在の大和
川・石川の合流点の北側、現在の柏原市上市地域とみる説と、現在の国豊橋辺りとみる説の二代潮流があるようです。前者なら東西に架か
る橋、後者なら南北に架かる橋ということになります。どちらかと言えば、東西橋説の方が有力のようです。これは、東高野街道や奈良街
道がどのように大和川を渡るか、という観点から考えたとき、上市地域で渡ったと推定するのが最も自然であるということでしょう。
 一方、石川説の方も架橋位置については複数の説があります。長尾街道
(大津道)のことを考えると、現在の藤井寺市東部の石川橋近辺が
候補地となります。他方、上記で紹介したように、竹内街道
(丹比道)が石川を越える橋とする見方もあります。これだと、同じ石川でもか
なり南の方にあったことになります。
 果たして「河内大橋」はどこに在ったのでしょうか。手掛かりとされ、現在取り上げられている史料からだけでは、決め手を欠いた何と
も言えぬ結論しか出てきません。当分はこんな状況が続いて行くのでしょう。

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