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  玉 手 橋
  (たまてばし)   《 5径間吊り橋 》※5径間は吊り橋としては日本最多  《 国登録有形文化財 》
  架橋河川 石川 〈東岸柏原市石川町・玉手町 ― 〈西岸藤井寺市道明寺3丁目
 近鉄南大阪線・道明寺
(どうみょうじ)駅より南東へ約230m 徒歩約(玉手橋入口まで)
 府道
12号堺大和高田線・石川橋西詰め交差点より堤防道路を南へ400m 駐車場無し
                        道明寺駅前にコインP有り
(台数少)
 長さ《
151m 》  幅員《 3.3m 》  橋脚《 4基 》  径間数《 5 》
 架橋 
1929(昭和4)3月17(大阪鉄道が架橋)    所有・管理 柏原市
@ 石川に架かる玉手橋(南の上流側より)
          @ 石川に架かる玉手橋(南の上流側より)           2022(令和4)年4月     合成パノラマ
              右から2番目の橋脚は、河川敷と流路の改修工事の折に大増水に備えて基礎部が強化された。石川左岸
             側
(左側)の河川敷には、舗装された「南河内サイクルライン
(府道802号八尾河内長野自転車道線)が通っ
             ている。後方の山は生駒山地の南部。写真範囲外の右手方向に玉手山がある。川の中央付近が市域境界で、
             写真左側
(西側)が藤井寺市、右側が柏原市。
90年の歴史を持つ現役の文化遺産
 近畿日本鉄道南大阪線・道明寺駅のホームからわずか
4,50m東に石川の堤防があります。この川を渡る橋の1つが「玉手橋」ですが、
この橋は「歩行者自転車専用橋
」です。自動車の通行できる橋は玉手橋の400m近く下流側(北側)に、府道12号・堺大和高田線の「石川橋
があります。玉手橋が無ければ、この石川橋まで回り道をしなければなりません。        アイコン・指さしマーク「石川−藤井寺市の川と池」
 玉手橋の歴史は古く、2018年でちょうど満
90年です。今までに何度も補強工事や塗装直しは行われていますが、橋脚や路盤構造、主ケー
ブルなど
は、建設当時からずっと使用されています。                      アイコン・指さしマーク「藤井寺市の交通マップ」
 石川のような規模の川に架かる橋は、公共工事として普通は国や都道府県が建設します。しかし、玉手橋は一鉄道会社によって建設され
た橋なのです。1929(昭和
)年、当時の大阪鉄道(現近畿日本鉄道)によって、従来の木橋に代わる恒久橋として建設されました。もとも
と玉手橋は一般道路としてではな
く、大阪鉄道が自社の事業経営のために架橋したものです(後述)。この橋は、当時石川の東方にあった
手山遊園(地)」の利用者のために架けられました。電車で訪れる利用客は、道明寺駅から徒歩で石川を渡り遊園地へと向かいました。
 玉手山遊園地は、名前の通り玉手山という丘陵地を利用して、1908(明治41)年に河南
(かなん)鉄道(大阪鉄道の前身)が開業した西日本最古
の遊園地でしたが、1998(平成10)年に閉鎖となり、翌年に柏原市立玉手山公園として再開されました
(後述)
 玉手橋は、戦後の1953(昭和28)年に近鉄より地元自治体
(当時国分町)に移管され、現在はセンターライン付きの歩行者自転車専用道路と
して柏原市が所有・管理する橋です。橋の中間点の少し西寄りが藤井寺市と柏原市の境界となっています。
 ※『大鉄全史』では玉手橋の竣工が昭和3年3月17日となっているが、編者の誤認か記憶間違いと思われる。道明寺天満宮に当時の『玉手橋渡初式祝詞』
  が現存しており、記されている日付は「昭和四年三月十七日」となっている。玉手橋の竣工は1929(昭和4)年3月
17日であったと思われる。3月29日に
  は、大阪鉄道は古市−久米寺
(現橿原神宮前)間を延伸開業している。現在の近鉄南大阪線となる路線の完成した日である。
A 西から見る玉手橋入口 B 玉手橋周辺の疑似鳥瞰写真(南東より)
A 西から見る玉手橋入口   2016(平成28)年4月
    左塔柱に登録有形文化財の銘板が貼られている。
B 玉手橋周辺の疑似鳥瞰写真(南東より)
  玉手橋は近鉄道明寺駅から近い。橋の中央のやや西
(左)寄りが市の境界。
            〔GoogleEarth3D画像 2015平成27)年12月
〕より
 玉手橋のデザインは、遊園地の入口を意識した中世ヨーロッパ風の城を想わせる4組の白い塔に赤い欄干が美しく映えています。塔は上
下の水平材に円弧アーチを配するなど、昭和初期の橋としては景観に配慮されたものだそうです。建造当時の昭和初期の形態をほぼ残して
はいるものの部分的には損傷も見られ、必要に応じて補修されてきました。現代では1984(昭和59)年にケーブルの補強工事が行われ、また
1998(平成10)年には大規模な塗装補修が行われました。写真Cはケーブルの一部を近撮したものです。2本の細いケーブルが主ケーブルの
上に固定された補強の様子がわかります。
 近鉄の経営する玉手山遊園地は1998(平成10)年に廃園となりましたが、現在の玉手橋は、柏原市域の近隣住民の通勤・通学路などとして
大切な生活道路の役割を果たしています。柏原市の石川東岸部地域は、近年になって住宅地が大幅に増加していました。
 写真Aが玉手橋の藤井寺市側
(西側)入口です。玉手橋独特の色使いがよく表れています。塔柱のケーブルアンカー部が補強され、レンガ
積みで装飾されていますが、ここに橋の名称と川の名が付けられています。藤井寺市側は、名前をひらがなで彫った石がはめ込まれていま
すが、柏原市側の入口は漢字で彫られています。左の塔柱には登録有形文化財を示す銘板も付けられています。
 写真Aの位置で目の位置を低くして見ると、橋の路面の波打っていることがわかります。径間ごとに吊り構造となっている特殊な吊り橋
であることが、この眺めによく表れています。両岸と4組の塔で支える5径間の吊り橋は、日本では最多径間の吊り橋です。
C 吊りケーブル補強の様子 D 「登録有形文化財」の銘板(西岸北側塔柱)
C 吊りケーブル補強の様子   2013(平成25)年10月
         2本の細いケーブルで補強されている。
D 「登録有形文化財」の銘板(西岸北側塔柱)
                                     2011(平成23)年7月
 玉手橋はその歴史が古いだけではなく、小型吊り橋が連続した構造の「5径間吊り橋」という珍しいものです。2001(平成13)年に吊り橋
としては全国で初の国の「登録有形文化財(建造物)」に登録されました。写真Dが登録を証明する銘板です。文化庁・国立情報学研究所の
共同運営サイト「文化遺産オンライン」では、「玉手橋」について次のような紹介が載っています。
『 
鉄筋コンクリート造主塔、鉄製トラス補剛桁5径間吊橋、橋長151m、幅員3.3m
  大阪府柏原市石川町・玉手町〜藤井寺市道明寺3    登録年月日:2001(平成13)年10月12日    柏原市
  登録有形文化財(建造物)
    旧玉手山遊園地に通じ、石川に架かる橋長
151mの鉄製5径間吊橋。補剛桁をハウトラス、下部構造をRC造とする。隣接
   する主塔を開腹アーチで結び、主塔頭部にケーブル定置を兼ねたバトルメントを設ける。地域のランドマークとして広く親し
   まれている。
 』

玉手山遊園の開設−河南鉄道が開設                        
 1908(明治41)年8月24日、道明寺村から石川を越えた東側、南河内郡玉手村
(現柏原市)の玉手山丘陵
の一角に、河南鉄道が「玉手山遊園(地)
を開業しました。河南鉄道時代に造られた唯一の呼び物と言
える施設です。当時の河南鉄道の路線はE図のように柏原−長野
(現河内長野)間を結ぶ1本の路線で、
大阪市内や奈良県内に延伸して行くのはもっと後のことです。鉄道利用者の増加を目指して取り組んだ
のが、沿線における行楽施設の開業でした。「遊園地」の開設としては西日本最古とされています。
 その後、大阪鉄道、近畿日本鉄道へと営業が継続されていきました。1998年に閉園されるまで、西日
本最古の遊園地としてがんばり続け、地域の多くの子どもたちに思い出をつくってきました。閉園後、
遊園地としての形態を柏原市が引き継いで運営することになり、閉園翌年の1999(平成11)3月、「柏原
市立玉手山公園・ふれあいパーク」としてオープン、無料開放されています。
                    アイコン・指さしマーク 柏原市サイト「市立玉手山公園 ふれあいパーク」

 写真Gは、戦前の撮影と思われる玉手山遊園地の様子です。『大鉄全史(近畿日本鉄道 1952年 )の中
に掲載されている1枚です。戦前に大阪鉄道が玉手山遊園についてどんな位置付けをしていたか、それ
がわかる一文を『大鉄全史』から紹介します。

 『玉手山遊園地 …(略)…。山頂を国見ヶ丘と呼ぶに徴しても察せられる如く、極めて見晴しよく、
此処に立てば西北煤煙にけむる大阪市は勿論、晴天には遠く海上に淡路島も望まれると云ふ。足下には
石川が銀蛇の尾をひき、河内の沃野は一望の裡
(うち)に収められる。春は紫つゝじの色も彩に土筆(つくし)
摘むのも面白く、秋は又松茸狩に興趣が深い。翠緑の松林の間に種々の運動器具を備へ、又無料休憩
を設備して小国民の遊楽、一家揃っての散策に好適の施設である。
(後略)
E 当時の河南鉄道路線図
 E 当時の河南鉄道路線図
 この後の記述では、後藤基次(又兵衛)奮戦地のこと、玉手山の安福寺のこと、その境内の割竹形石棺のこと、玉手山横穴古墳群のことな
ども紹介されています。この一文のように本当に松茸狩りができたのかと、少々驚きですが、手近で気持ちよい遊園地
ではあったようです。
 なお、「玉手山(たまてやま)」という名前は1つの特定の山の名称ではなく、丘陵地一帯を総称した名前です。もともとは、丘陵地の一角に
存在する古刹「玉手山安福寺」という浄土宗寺院の山号に由来するとされます。山号としては「ぎょくしゅざん」と読みます。
F 玉手橋(戦前と思われる) G 玉手山遊園の様子(戦前)
F 玉手橋(戦前と思われる)    『大鉄全史』より G 玉手山遊園の様子(戦前)    『大鉄全史』より
玉手橋の架橋−大阪鉄道が建設
 玉手橋の架橋は玉手山遊園の開業からはしばらく後のことにな
ります。1919(大正8)年に河南鉄道から改称した大阪鉄道は、昭和に入って
から、道明寺駅から玉手山遊園に行きやすくするために新しい橋の建設に取り組みます。架橋工事の竣工は1928(昭和3)年3月17日でした。
これについても『大鉄全史』の記事を紹介します。
 『
道明寺駅と玉手山遊園地との間を流れる石川には、従来板の仮橋が架けられてあったのであるが、此仮橋は出水の時度々流失し駅か
ら遊園地に行く人は其度に遠く迂回せねばならぬ不便に当面した。依って当社は此処に鉄筋コンクリート造り最新式の吊橋を架けることゝ
し、工を起こして昭和三年三月十七日
に其竣工を見ることが出来た。此橋は、「玉手橋」と名付けられたが、これに依って沿線人士の玉
手山遊園地利用が一層便利になったことは云ふまでもない。
』。写真Fが玉手橋の戦前の様子だと思われますが、これを見ると、現在の玉
手橋は路盤やケーブルが補強されて照明も付けられ、何度も補強・改良されてきたことがわかります。
 ちなみに、この昭和3年という年は、大阪鉄道にとっては1つの画期となる年でもありました。玉手橋竣工のほかにも、藤井寺経営地で
「藤井寺球場」「藤井寺教材園」が5月に開場・開園しています。大阪鉄道が兼営事業の拡大に大きく踏み出した年だったのです。同じく
月には乗合自動車の営業も開始しています。12月には、道明寺−古市間が複線化され、先に複線で延伸されていた大阪阿部野橋−道明寺
間と連続する複線運転が開始されました。これは、翌昭和4年3月に開業される大和延長新線の古市−久米寺
(現橿原神宮前)間の運転に備
えて、残っていた単線区間を解消するものでした。昭和
3年10月15日、藤井寺村は町制施行により「藤井寺町」となっています。
                                                       アイコン・指さしマーク「道明寺線・長野線・南大阪線・の歴史」

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