最後の晩餐 |
〜 Sultanahmet, Istanbul |
やはり寝台列車の冷房が失敗だった。この二日間というもの、いくら動いても全然からだが温かくならない。ブルーモスクを出る頃には、とうとう歩くことすらままならなくなってしまった。残念だが限界だ。 「ここまで頑張ったんだから、もういいでしょ。イスタンブールで最低限押さえるべき場所はひと通り行ったし。ホテルに戻ってゆっくりしたら」 「うん、悔しいけどそうする」 「私たちもそんなに遅くならないうちに帰るよ。晩御飯、何か食べたいものある?」 「特にない。何でもいい」 妻や弟と別れ、這うようにホテルに辿り着く。バスタブにお湯を張り、寝そべるように身を沈めた。不思議なことに熱いとは感じなかった。長い間冷凍庫に入れられていたマグロのように、温度差を認識するのに時間がかかっているようだ。それだけ芯から冷え切っているということか。 どれくらいの時間が経ったのだろう。部屋に戻ってみると、窓の外は夕暮れから宵闇へと変わりつつあった。春とはいえ木々の枝にはまだ新緑が見当たらず、むしろ晩秋を思わせる風情だ。旅程に合わせて季節までもが一巡したかのような錯覚に捉われる。 ほどなくして妻と弟が戻ってきた。何やら大きな袋を両手に提げている。 「いっぱい買ってきちゃった」 タイル地の小さなテーブルがあっという間に食材で埋め尽くされる。 「まずはビール。当然エフェスね」 「前菜はムール貝のミディエ。イスタンブールに来た初日に屋台で食べて美味しかったから、また買ってきた」 「メインディッシュはサバサンド。どう、なかなかのフルコースでしょ」 おお、これは凄い。期待を遥かに上回る。コンビニかどこかでパンでも買ってくる程度と思っていただけに、喜びが大きい。なんて豪華なのだろう。さっそくビールのプルリングに手をかけようとした僕を妻が手で制する。 「ちょっと待って。まだあるのよ」 じゃじゃーん、と言って弟が袋から丸く大きな黒い塊を取りだした。 「デザートはなんとスイカです」 「八百屋さんの前を通ったら、安かったので、つい。でも、三人いるから食べ切れるかなと思って」 レストランのシシカバブ定食もクンカプの魚フライも美味しかったが、今日のメニューもけしてそれらに勝るとも劣らない。むしろ、トルコ最後の夜を飾るにふさわしい素晴らしいチョイスと言えよう。 「最後ちょっと弱った人もいたけど、無事ここまで旅を続けられたことに乾杯」 日本を発って十日目。いよいよ明日は帰途に就く。ホテル近くの土産物屋の親父たちとは顔見知りになった。片言の挨拶ならトルコ語で言えるようになった。バスや市電は迷わずに乗れる。なんだ、海外で暮らすのって、ひょっとしたらそんなに難しくないんじゃないか。 少しだけ、からだが内側から温かくなったような気がした。サバサンドに振りかけられたレモン汁の酸味が、ひときわ心地よく感じられた。 |
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