雑居ビルのイリュージョン〜Yerebatan Sarnici, Istanbul
 
雑居ビルのイリュージョン
〜 Yerebatan Sarnici, Istanbul
 

  「日本の方ですか。はじめまして。私は早稲田大学に留学していたことがありまして」
 トルコを旅行している間に日本語でこう話しかけられたら、十中八九、絨毯屋だと考えて差し支えない。たいていは近くに店があり、「見るだけでもいいから」と誘われてついて行くとそこからが長い。中には買うまで帰してくれない不埒な輩もいると聞く。
 要はキャッチセールスなのだが、これだけ頻繁に出くわすということは手法がそれなりに成功している証でもある。実際に留学していたかどうかは別として、彼らの日本語は確かに上手なので、つい心を許してしまう旅行者がいても不思議はない。冷静に考えれば、外国に来ているのに日本語で声をかけられること自体、状況としてはかなり怪しいと思うのだが。
「ああ、ちょうど良かった。地下宮殿への入口を探してるんだけど、どこかな」
「それならこっちですよ。ほら、あそこ。あのビルの階段を下りて行くんです」
 しかし、ものは考えようで、道に迷った時などに彼らの存在は心強い。国民性として根が真面目なので、必ずしも商売に関係しないことでも親切に教えてくれる。自称早稲田の彼も目的の場所までわざわざ連れて行ってくれた。
 この辺りはスルタナメットの繁華街だ。路面電車が走る石畳の道の両側に土産物屋や旅行代理店などがひしめいている。案内されたのも一見ただの雑居ビルだ。こんなところに本当に遺跡などあるのだろうか。
 半信半疑のまま階段を下りて行くと、鍾乳洞のように暗闇がぽっかりと口を開けていた。一瞬、地面の底が抜けてしまったかのような感覚に囚われる。広さは体育館ほどだろうか。驚いたことに、この空間を支えていたのはローマ遺跡でよく見かける大理石の列柱だった。オレンジ色の燈火でライトアップされたそれらは縦横に規則正しく並んでいて、まるで無限に続く墓標のようだ。
 奥行きだけではない。列柱は逆さ富士のように反転して床にも映り込んでいるため、垂直方向へも無限の拡がりを感じさせる。このため、実際に存在しているより何倍もの数があるように見える。まさに「幻想的」と言う以外に表現のしようがない。
 そこで初めて気がついた。ということは、この床のように見えるものは床ではなく水なのではないか。地下宮殿とは地下に造られたプール、すなわち地下貯水池だったのだ。
 水面の上に掛けられた通路を渡って奥へ進むと、折れ曲がった先の行き止まりが、今度は白熱灯でライトアップされていた。列柱の台座に、ギリシャ神話に出てくる「見た者を石に変える能力を持つ」魔物、メドゥーサの首が彫られている。表面が苔で緑に汚れているのでなおさら不気味な雰囲気だ。
 神話によれば、メドゥーサを退治するにあたり、英雄ペルセウスは鏡のように磨いた盾でその眼力を跳ね返し、逆に彼女を石に変えて首を切り落としたという。まるで言い伝えそのままの台座ではないか。
 なんだかゾクゾクしてきた。まさか目の前にあるのが本物のメドゥーサとは思わないが、この遺跡が成立した頃の政治的背景を何かしら反映していそうだ。征服された地元民の頭領を象徴しているのかもしれない。
 地下といってもせいぜい2階か3階。しかも街の中心部にあるビルだ。東京なら飲食街か地下鉄のコンコースになっている。そんな場所にこんな数奇なものが存在しているなんて。イリュージョンを見ているような気分になってきた。
 

   
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幻想のトルコ
 

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