春色の汽車に乗って〜Ankara Express
 
春色の汽車に乗って
〜 Ankara Express
 

   たまらない寒さで目が覚めた。からだが冷えきっていて、くしゃみが止まらない。これは風邪をひいてしまったか。そういえば昨夜、妻が「暑い」と言ってコンパートメントの冷房を「強」にしていた。後で消そうと思っていたのにすぐ寝てしまい、結局朝まで付けっ放しになっていたのだ。確かに部屋に入った瞬間はやや暑苦しい感じがしたが、まだ4月なのだからいくら何でも無理がある。失敗した。熱など出なければいいが。
 アンカラ・エクスプレスはアンカラとイスタンブールのアジア側の玄関口であるハイダルパシャ駅とをつなぐ、トルコ国鉄自慢の寝台列車だ。僕たちの個室は二段ベッドに洗面台が付いているタイプで、けっこう広い。何よりとても清潔だ。その前の寝台列車体験がインドだったから、まるで天と地だ。
「グッド・モーニーング」
 とりあえず寒さに対処すべく着重ねしていると、扉が開き車掌が現れた。人懐こい笑顔に歌うような口調。朝から陽気な人だ。時計を確認すると予定の到着時刻まで1時間あまり。客が寝過ごさないよう見回ってくれているのだろう。
 通路に出てみると外は既にかなり明るくなっていた。線路のすぐ先、平行して走る道路の向こうに海が見える。マルマラ海だ。小刻みに揺れる波頭がキラキラ光っている。松田聖子の「赤いスイートピー」に出てくる海がきっとこんな感じだったんだろうなと思う。あれも季節は春だった。
 景色を見ているのは僕だけではなかった。ヨーロッパ系の老夫婦が、寄り添いながら窓際に立っている。
「島が見えるのね」
「ああ、あれはプリンセズ諸島だと思いますよ」
「今度来た時には行ってみたいわ」
「そうですね。夏なんか、いいんじゃないでしょうか」
「あなたもこれからイスタンブール?」
「ええ。妻と弟と3人で来ているんです」
「そう。どうぞ良い旅を」
 列車は駅を通過した。ホームの表示板を確認すると「MALTEPE」と書かれている。確かハイダルパシャの4駅か5駅、手前のはずだ。対抗列車とすれ違う回数が増えてきた。朝の通勤ラッシュが始まっているのだろう。いつの間にか、海岸沿いから外れてビルが建て込む市街地に入っている。そろそろ降りる準備をした方が良いかもしれない。
 一本、また一本と、線路が分岐して増えていく。列車はスピードを落とし、ゆらりとよろめくようにポイントを通過していく。どうやらハイダルパシャの構内に入ったようだ。
 やがて列車が停まり、大きな汽笛が鳴り響いた。ホームに降りると、清々しくもひんやりとした空気が鼻腔を刺激する。立ち止まって深呼吸をし、少し離れたところから改めて車両を眺めてみた。昨夜は気づかなかったが、思いのほか年季が入っている。元のオレンジ色が煤で黒ずんで見えるほどだ。しかし、それがまた独特の味わいを感じさせて良い。
 イズミールの空港から始まった小アジアの旅は、アナトリア地方を一周し、まもなく出発点に戻ろうとしている。僕たちはいよいよ最終章へと向かう。そう、海を越えれば、そこはもうヨーロッパなのだ。
 

   
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幻想のトルコ
 

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