君の名は〜Pamukkale
 
君の名は
〜 Pamukkale
 

  「このホテル、温泉があるんだって」
「ホントだ。スパリゾートって書いてある。健康ランドみたいなのかな」
「水着で入るらしいよ。外国で温泉なんて珍しいね」
 石灰棚の成因が温泉にあるということは聞いていたが、その温泉自体を楽しめるとは知らなかった。部屋の中で水着に着替え、備え付けのバスタオルを持って行く。スパ施設の扉を開けると、そこに現れたのは見事な「大浴場」だった。広さといい、形といい、日本の温泉旅館で見るそれと寸分違わない。しかし、眼前に拡がる光景はかなり異なる。混浴で、家族連れが多く、お風呂というより「市民プール」という方が近い。
 では温水プールみたいなものかと思って入ってみると、これがこれでお湯は熱い。加えて底がジャグジーになっているらしく、ボコボコと絶え間なく泡が湧いてくる。深さも大人の胸くらいあるので、基本的に立っているしかない。のんびりと湯船に浸かるというわけにはいかず、長時間の入浴はなかなか厳しいものがある。
 客は100%外国人、しかも白人と言っていいだろう。アジア系の顔でさえ、見渡す限り僕たち以外には見当たらない。意外なのは英語がほとんど聞こえてこないことだ。メジャーなのはドイツ語、ついでフランス語といったあたり。大陸系のヨーロッパだ。
 横を向くと、小学生くらいの男の子が僕のことをじっと見ていた。いかにも珍しそうに目を真ん丸くしている。彼にとっては初めて見るアジア人なのかもしれない。隣にいる父親とときどき目を合わせては恥ずかしそうにはにかんでいる。
 彼らの会話はフランス語だった。これはいい。英語やドイツ語はからきしダメだが、フランス語なら学生時代に発音だけは褒められた記憶がある。もっとも、文法は200点満点のうち4点しか取れなかったが。
「フランス人ですか(Vous etes francais)?」
 いきなり自国語で話しかけられて驚いたのだろう。少年は嬌声を上げ手足をばたつかせたが、やがて父親と目配せをした後に大きな声で叫んだ。
「そうだよ(Oui)!」
おお、これは凄い。通じている。雰囲気から察するに彼の父親にも理解されているようだ。僕はすかさず二の矢を継いだ。
「何歳(Quel age)? 7歳(Sept ans)? それとも8歳かな(ou huit ans)?」
 本当は「小学生か」と訊きたかったのだが、単語がすぐに出てこなかったので年齢でごまかした。今度も元気な返事が返ってくることを期待したが、恥ずかしかったのか、聞き取りにくかったのか、彼は背を向けて父親の胸に顔を押し当ててしまった。
 残念。ここまでか。しかし、僕のフランス語も意外と捨てたものではないようだ。水音と反響でうるさいこの環境で、少なくとも最初の会話はできたわけだから。
 それでも、もう二言三言、せめて自己紹介くらいまではしたかった。日本から来たこと、観光で来たこと、フランスに行ってみたいと思っていることなど、乏しい単語力を最大限に駆使しながら、それなりの段取りを考えていたところだったのに。
 一番訊きたかったことを文章に組み立てた頃には、彼らはもう湯船から上がってしまっていた。去っていく後ろ姿を見ながら、僕は心の中で呟いた。
「君の名前は何て言うの(Quel est ton nom)?」
 

   
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