崩落の美学〜Hierapolis
 
崩落の美学
〜 Hierapolis
 

   草で覆われた丘の斜面に、大きな石のかけらがいくつも無造作に転がっている。光の加減次第でそれらは肌色にもピンクにも見え、ローマ遺跡には珍しく女性的で柔らかい雰囲気を醸し出している。
「ここは昔、何だったと思いますか」
「ヒエラポリスって言うからには、普通の都市だったんじゃないんですか」
「ええ。全体としてはそうですが、街のこちら側のエリアは共同墓地でした。古代としてはかなり規模が大きかったらしいです。ネクロポリスと呼ばれています。死者の街ですね」
 ところどころに、半ば土に埋もれた四角い石の固まりがある。石棺だ。どれもみな屋根のように三角の形状をした蓋が被せてある。ということは、道端に転がっている石はかつて墓の一部だったのだろう。度重なる戦乱や略奪によりこのような姿になってしまったのか。
「芭蕉だな」
「芭蕉?」
「夏草や、兵どもが夢の跡」
 初めてなのに不思議と懐かしさを感じる。子供の頃に暮らした田舎とどこか似ている気がした。黄金に色彩どられた都として栄華を極め、やがて歴史の彼方に消えていった。今では古戦場だった場所に一面の水田が拡がっている。その意味では、ヒエラポリスと同様に死が土地の記憶として刻まれているのかもしれない。
 しかし、アリさんが教えてくれた理由はまったく別のものだった。
「トルコも日本と同じで地震が多い国です。ここも何度か大きな地震に襲われました」
「地震ですか。戦争とかじゃなくて」
「ええ。ほら、これなんか、まさにそうです」
 城壁だろうか。現存する建物が少ないこの遺跡ではひときわ存在感があるが、半分は原型を留めず崩落し、残り半分も明らかに地面に対して傾いている。もっと近寄って見たいが、今にも崩れてきそうで怖い。次に大地震が来たら間違いなく完全に瓦礫と化すだろう。
 それにしても、とため息が出る。何と美しいのだろう。変な言い方だが、琴線をくすぐる壊れ方をしている。もしこれが建造時の姿のままであったら、威容を感じたとしても美しいとは思わなかっただろう。ガラスはそのままだとただのガラスだが、割れ方によっては芸術作品になる。それと一緒だ。半ば崩壊していることで逆に強く心に突き刺さる。まるで人の世の儚さを象徴しているかのようだ。遺跡にはこのような楽しみ方もあるのだということを知ったのは発見だった。
 石畳の大通りを歩く。脇に建ち並ぶ列柱は数えるほどに過ぎず、本来あったはずの建物は跡形もなく失われている。アーチ型をした門が申し訳程度に残るばかりだ。
 しかし、ローマ遺跡のシンボルとも言うべき円形劇場だけは、辛うじて往時の姿を留めていた。楽屋口から舞台下に出て、すり鉢状をした客席の階段を登る。間近で見る石段は長年の雨風によって穿たれた穴が無数に空き、思った以上にボロボロだった。石材の質が違うのだろうか、エフェスのものより腐食が進んでいた。
 最上部からは、かの有名なパムッカレの石灰棚も眺めることができた。しかし、僕の心を魅いたのはやはり遺跡エリアに転がる無数の石のかけらだった。草むらに打ち捨てられた石のひとつひとつが、朽ちた街を悼む墓標のように思えて仕方がなかった。
 

   
Back ←
→ Next
 


 
幻想のトルコ
 

  (C)1997 K.Chiba & N.Yanata All Rights Reserved