勇者

 広義においては勇気ある人一般を指して言う文語的表現であるが、ここでは特にGGG機動部隊をはじめとした、Gストーンの力を得て戦う者たちを総称して言う。
 Gストーンをマモル少年は「もがきあがく命の力」と言った。ゾンダーメタルに対する反物質サーキット、すなわち機界文明という極めて特定された危機に対するプロテスト(抵抗)の象徴と力の源として、強い抗体として生まれた緑の星のラティオの力を基に造りだされたそれは、知的生命体の危機に立ち向かう心、即ち「勇気」に反応して無限の力を発揮することが出来る。それは、換言すれば、Gストーンの力を得ることが出来る者、Gストーンに選ばれた者は等しく勇気ある者=勇者であるといえるだろう。
 2006年の世界において勇者とは、即ちGGG機動部隊を中心としたGストーン搭載型のAIロボットたちを指すのが一般的である。対機界文明戦を戦い抜き地球圏を救った彼らを、世界は英雄として迎えた。だが、考えてみて欲しい。Gストーンを持つ者だけが「勇者」だろうか。確かに機界文明との激しい戦いを生き抜いた彼らは紛れもなく「勇者」であろう。だが、翻って見てみれば誰であれ「勇気」ある者はすべて「勇者」と呼んでいいのではないだろうか。獅子王凱機動部隊隊長やGGG機動部隊を中心としたAIロボットたちばかりが「勇者」なのではない。彼らをバックアップし、支えてきた大河長官をはじめとしたGGG隊員や国連事務総長ロゼ・アブロヴァール中国科学院航空星際部、EUの対特殊犯罪組織シャッセールといった人々もまた「勇者」と言えるだろう。戦うばかりが「勇者」たる条件ではないはずだ。そして、彼らを信じて未来を託した地球の人々もまた「勇者」たりえるはずである。
 GGGの活動は初期においては機界文明との生存競争であった。即ち、片方の生存を許すならばもう片方に生存はない。どちらかが滅びねばならない戦いだったのである。その過酷さは言うに及ばず、倫理的にも厳しい問いを人類は投げかけられたといえる。つまり、自身が生き残るために他の文明を完全に滅ぼしても良いのだろうか?答えはもちろん否、である。法的には正当防衛や緊急避難として正当化され得るであろう。だが、そのことによって果たして本当に罪は消えるのだろうか。やはり答えは否、である。もし人類が来襲した機界文明をも制御し、滅ぼすことなく無害化できる技術を有していたとしたら?自ずと機界文明に対する対応は異なっていたはずである。たとえ機界文明が幾多の文明を不当に侵略してきた歴史を持つとしても、それを完全に滅ぼすだけの根拠を我々は果たして有していたであろうか?確かに我々は機界文明を無力化できる実効的な方策を持っていなかった。だがそれは決して、彼らを根絶したことに対する免罪の材料になりはしないのだ。
 GGGの、人類の戦いを否定するには及ばない。ゾンダーとして生きることを拒否する。それが人類の結論であった以上、戦いは避けられなかった。だが、そのために犯した罪はやはり自覚せねばならない。我々はどのような形であれ、ひとつの文明を滅ぼしたのだ。法的に問われることはない、だが自覚し続けねばならない罪である。
 その罪をGGGにだけ被せ、彼らに地球防衛の全てを背負わせたまま、「生きるために滅ぼした罪」を自分たちから切り離してしまう事が、我々のなすべきことだろうか?もちろん、誰もがGGGやシャッセールのように過酷な戦いに身をおくことはできないし、その必要もない。だが、彼らが何のために戦うのか、そしてその結果として何がもたらされてきたのか、我々は常に自覚的であらねばならない。それは自分たちが生きていることへの自覚であると言っても良い。自分たちの生がどのような犠牲の上に成り立っているかを、我々は知らなければならない。おそらくそれを忘れ、自身から切り離した時点で、積極的に生きようとする意志、「勇気」は我々から失われてしまうように思える。生きることに自覚的であること。それが我々戦わざる者にとっての「勇気」であるし、そうあることが我々が「勇者」として、GGGと共に戦う方法の一つであろう。それは決して安楽で平坦な道ではない。しかし、我々のその些細な「勇気」がGGGを、ひいては世界を支えているのだと信じられなければ、数々の犠牲に対してその上に成り立った我々が生きていることの尊厳はやはり損なわれてしまうだろう。