勇気

 生命が誕生して以降、その目的は遺伝情報の保存であったと極言できる。究極的には遺伝情報を一部改変してもなお、種を保存するという永遠の命題は果たされねばならなかった。それを何故かと問うことはこの場ではしないが、その局所的な表出が個々の生殖行動であり、生存のための諸行動である。生命の危機に対する瞬間的な防衛機能としての反射行動に加え、危機を回避、あるいは克服可能とする身体機能の獲得が生存維持、種の防衛行動を可能にしてきた歴史がある。あらゆる生命にとって各々に畸形的に発達した身体機能とは進化の過程において獲得した、生命維持活動の必須要件であった。現在存在している生命が、一般的にその形態として生存していることは、競争と淘汰との結果であり、進化の必然である。単細胞生物でさえ、その単純な身体構造を利用してありとあらゆる環境に適応することで種の保存を図ってきたのである。
 そして現在において生命は、個々の種が特殊な身体機能の獲得によって生存を確保してきた歴史の帰結として、脳という生命活動の総合的オペレーティングシステム(これもまた生存のために畸形的に発達した特殊な身体機能といえるだろう)に経験情報を蓄積することで、種および個々の生命に対する危険を予測的に回避することを可能にした。種の保存と個々の生命の生存に対し、好ましからざる事態を経験し、次回以降には経験的にそれを予測し、事前に破滅的結果を回避するための行動とる。この一連のサイクルを繰り返すことで、結果として長期にわたる種および個々の生命の保存が達せられる。脳における経験情報の蓄積が知的生命体(ここでは、差別的な表現ではあるが、少なくとも小脳に相当する身体器官を備えたものを指す)に高度な生存維持、種の防衛行動を可能にしてきた。群れ単位での防衛行動などはその端的な例としてあげることが出来るだろう。ここで注意したいのは、生存に必要とされる基本的経験情報は個体を超えて伝承されていくが、応用問題ともいえる具体的な個々の経験に関しては継承はされない点である。ともすれば、経験情報は多いほうが危険に対処しやすいと思われがちであるが、同時にそれは新たな経験則の創出に対する阻害要因ともなりかねない面をも持つ。もし具体的経験則までが継承された場合、それによって対処できない不測の事態に対して、最悪の場合種全体の生存が脅かされることを考えれば、むしろ継承する情報は基本的なものに留め、個々に多様な経験情報の蓄積を行う方が、種自体の存続の確率を高めると考えられる。生命は常に新たな危険に備えなければならない。そのために、多くの生命は死によって自身の経験情報を抹消していくのである。
 この脳というシステムを現在最も畸形的に発達させているのが我々人類である。更に人類は言語と文字の発明を経て、記録という形で個々の経験情報をも蓄積している。本来伝達し得ない、そして死と共に失われる筈であるところの個々の内面を、我々は客観的情報として互いに伝達することが出来る。そして我々は種や個々の生命に対する危機、あるいはその感覚を「恐れ」と名づけた(現在、類人猿の一部には「感情」と呼びうる脳の活動が確認されているが、生命を総体として見た時、やはり「感情」が確定的に存在し、かつそれに自覚的である生命はやはり例外的であると言わざるを得ない)。原始的な面では肉体的痛みや不快感として受容されるそれは、膨れ上がった脳に比例して、巨大な「恐れ」となっていった。それは脳の畸形的発達が、人類社会にもはや自身でさえ制御不能な巨大さと複雑さをもたらしきた過程と軌を一にする。言葉や文字によって体系的に思考し、かつ記録により数千年の時をさかのぼることの出来る人類は、換言すればそれだけ多くの危機を予測できるということである。そして種および個々の生命の生存を維持しようとするならば、膨大に予測されるそれらの危機に対して対策を講じねばならない。だが、現実問題として、我々に可能な対策の範囲は限られている。日常的に予測されうる全ての危機に事前に対策を講じるのは事実上不可能であり、無理に実行しようとするならば、それはかつてない統制社会を生むであろう。叱られる、嫌われる、損をする、怪我をする、死ぬ。我々はそうした様々な「恐れ」に、日常的に対処しながら生きていると言っても過言ではない。そしてその主な対処法とは直面した危機から逃避することである。
 誰しも好んで自らの不利益になる行動をとることはない。自身の不利益となる恐れのある行動は最初からしない。危機を回避する方法としては、多くの場合においておそらく最も有効であり、かつ安全性が高いからである。だが、恐らく永遠のジレンマであろう、この方法では、問題が根本的に解決されることは極めて少ない。逃避とはあくまで目前の危機に対する、場当たり的な対処に過ぎないのだから。
 問題を根本的に解決し、長期的に同様の危険の発生を予防するには、敢えて生存の危機を回避しない姿勢が必要とされる場合がある。このときの危機に敢えて立ち向かう心を、我々は「勇気」と呼んでいる。事実、危機に立ち向かう「勇気」なくして、現在の我々、ひいては人類の姿はなかったであろう。不可能に挑み、それを成し遂げることの連続によって人類は現在の繁栄を築いてきたはずである。しかし、一方で「勇気」は自己犠牲的でもある。危機に立ち向かう以上、彼らには多くの不利益が究極なるものは死という形で、もたらされてきたのである。それでもなお、「勇気」をもって「恐れ」に立ち向かう人々が絶えることはない。人は常により良くありたいと願っている生命なのだから。
 だが、忘れないで欲しい。「勇気」をもって立ち上がった人々の心に「恐れ」が残っていないわけではないことを。たとえ「勇気」を奮って危機に立ち向かっていても、生きている以上、心から恐れを完全に消し去ることはできないのだ。否、むしろ心に「恐れ」を抱きつつも、それでも「恐れ」の源に立ち向かっていく心こそが「勇気」なのだ。「恐れ」を知らない心は、結果として傲慢を生む。心の奥底にある柔らかい、弱い自分を自覚すればこそ、傲慢に陥ることなく目前の危機に立ち向かうことが出来るのだ。心の奥底にある恐れ。それは死への恐怖、即ち生きたいという意志に他ならない。生きたいと願い、そしてそのために生存の危機に立ち向かう。だから彼らは自己犠牲的であっても死を望んでいるわけではない。生存の危機に直面し、それでもなお生きたいともがきあがく、命の力。それが「勇気」であり、その結晶として造られたのがGストーンなのだ。故にGストーンは持つ者の「勇気」に反応して、無限のポテンシャルを発揮する。Gストーンから力を得るということは、即ちその者が「勇気」ある者であるという証明でもあるのだ。だから、Gストーンを持つ者を、我々は等しくこう呼ぶのである。
 勇気ある者―即ち「勇者」と。