<ワカミケヌ(神武天皇)の足跡>

ウガヤフキアエズノミコト(鵜茅葺不合命)については神話の世界では記述が少ないが、後に育ての親であるタマヨリヒメ(玉依毘売)と結婚し、イツセノミコト(五瀬命)・イナヒノミコト(稲氷命)・ミケヌノミコト(御毛沼命)・ワカミケヌノミコト(若御毛沼命=神武天皇)の四子をもうけました。

このうちミケヌは海の彼方の常世国(とこよのくに)へ渡り、イナヒは母のいる海原の奥へ旅立った、と古事記にはあるが、梅原説では後継をめぐる兄弟間の争いに敗れたことを意味するのだろうと述べている。

宮崎の伝承では、鵜戸で誕生し成長したワカミケヌ(若御毛沼命=神武天皇)は母の国・海神国から竜石という竜から変じたという駿馬を贈られ、これに乗って日南市入り口あたり迄来て過ごされました。その小宮の後に駒宮神社が建てられているといいます。

この近くに立石の地名があるが、愛馬竜石をこの辺りに放しておられたので「竜石」がなまって「立石」になったと言われます。地図

駒宮神社(日南市)

御祭神は神武天皇、天皇の小宮址とされる。地図

またこの神社は馬の神様ともなっている。この付近は藩政時代馬の放牧地でもあった

神武天皇像と駿馬竜石

「御鉾の窟・みほこのいわや」

駒宮神社境内背後の長田山には巨岩が有り、その裂け目に天皇が宮崎に向かう時、鉾を納めたという「御鉾の窟・みほこのいわや」がある。

もう一つの伝承ではウガヤフキアエズはタマヨリヒメと共に鵜戸から現在の高原(たかはる)町「宮之宇都」に移られ宮居(高千穂宮)を建てて住まわれた、御子・神武天皇は程近い狭野の「皇子原」で生まれた。その幼名「狭野尊・サノノミコト」はこの地「狭野」から名づけられたという。

狭野(さの)神社(高原町)

神武天皇は幼名を狭野尊(サノノミコト)といいましたが、ミコトが降誕された皇子原は狭野の地にあり、この地名から名付けられたといわれています。地図

この地がある高原町(下写真)は霧島の湧水に恵まれている。矮小ではあるが稲作の適地としてウガヤフキアエズは鵜戸からこの地に本拠を移されたのであろうか?。

狭野(皇子原)から高原を見る

ここ高原の地は高千穂の峰の麓、薩摩、大隈を望むことの出来る高台から至近(北東)にある。 ウガヤフキアエズは勢力南下の野望をここで暖めたのかもしれない。

高原の南には錦江湾に臨む霧島市が有る、その隼人町にある鹿児島神宮はワカミケヌ(神武天皇)が祖父・山幸彦(ヒコホホデミの命)を偲んで建立したとの伝承がある。

さらにもう一つ、宮崎市佐土原町には佐野原聖地(さのばるせいち)と言われる所がある。

この地の伝承では、ヒコホホデミノミコト(山幸彦)は佐土原町都於郡(とのこおり・ヒコホホデミの陵墓・高屋山上陵があるとされる)に宮居を置いておられた。その子ウガヤフキアエズノミコトが佐野原の地へ居を遷された。サノノミコト・佐野尊(神武天皇)はここで誕生されたと言われる。

<聖地佐野原の碑>

佐野尊(神武天皇)が誕生されたといわれる佐野原聖地に建つ碑。 この地を領有した伊東氏、島津氏が皇祖を祀る神社を建立し、崇敬した。これが佐野原神社であるが、明治初期に島津氏の居城佐土原城を広瀬地区に移転するに際し、近くの巨田(こた)神社地図に合祀された。

<佐野原(さのばる)神社>

廃藩置県により広瀬築城は中止になり、佐野原も荒廃したが昭和9年から有志がその跡を聖地として守ってきた。昭和35年佐野原神社を再建造営して巨田神社から神霊を迎え祀っている。地図

アクセス道路は近づくにつれ非常に悪い、対向車が来ないことを祈りながら通行しなければならない。

ワカミケヌ(神武天皇)は日向におられる間に日向国阿多邑の阿平津媛(アイラツヒメ・阿比良姫)を娶って妃とされました。

古事記には「かれ、日向にいましし時、阿多の小椅君(おばしのきみ)の妹、名は阿比良比売を娶して生みし子、タギシミミノミコト(多芸志美美命)、次にキスミミノミコト(岐須美美命)、二柱にましき」とあります。

吾田神社(日南市)

神武天皇巡幸伝説地の碑

阿多の小椅君(おばしのきみ)の妹、阿比良比売(吾平津媛)を祀る。

日向国阿多は吾田とも表されこの地の吾田(あがた)がまさにそれに当たるとされ、旧飫肥藩時代から神武天皇のお妃は飫肥の方であるとして、崇敬された神社です。地図

神社境内に神武天皇巡幸伝説地の碑が建つ。

吾平津(あいらつ)神社

港町油津にある吾平津神社も吾平津媛を祀る。別名「乙姫神社」とも言われる。地図

日南市油津(あぶらつ)は阿平津から起こったと言い伝えられています。

日向(宮崎)神話の舞台

神武天皇遊行の地碑(日南市)

「駒繋ぎの松」跡 

駒宮神社の有る平山地区には神武天皇に因む地点が残されている。愛馬竜石を繋いでいたという松の木もあったが現在は枯れてその跡だけが伝承地として残されている。地図

狭野神社 参道

狭野神社は島津氏の崇敬篤く参道の立派な杉並木は島津氏が植えられたものという。地図

皇子原神社(高原町)

神武天皇ご降誕の地と伝えられている皇子原は、高原町一帯を見下ろす高台にあります。古代は子どもを産む際、家とは別に産屋を建てる風習があり、宮ノ宇都の高千穂宮におられたウガヤフキアエズは程近い要害の地の皇子原に産屋を建てられたものといわれています。その跡に皇子原神社が建てられています。祠の後ろに「産場石(うべし)」なる岩石があり、天皇の生まれた場所を示すという 地図

高千穂宮(高原町)

湯之元温泉のすぐ近くにある宮ノ宇都は、降臨されたニニギノミコトが本拠とされ高千穂宮を設けられたところと伝えられています。狭野尊(神武天皇)が幼年時代にお住みになった場所とされています。地図

血捨之木(ちしゃのき)

高原町には天皇降誕にまつわる地がその他にもある。

血捨之木(ちしゃのき)と言う奇妙な地名は誕生の際の諸物を洗い清めたところといわれる。地図

祓川(高原町)

祓川はお祓いをされる時、この水を汲み使われたと伝えられている。清流が今もなお流れている。地図

御池(みいけ)(高原町)

御池(みいけ)という火口湖には皇子港という湖岸がある 地図

ここで狭野尊が遊ばれたと伝えられる。背後に天孫降臨の伝承を持つ高千穂の峰がそびえる

はじめて馬に乗られたところとして馬登(まのぼり)地図という地名も有る。

狭野渡し(高原町)

しばらく宮之宇都で過ごされた後、サノノミコトは宮崎へ移られた。そのとき最初に川を渡られたところを「狭野渡し」という。地図

宮崎市街地北端の小高い台地に平和台公園があります。そこに平和の塔が建っています。これは皇紀2600年を記念して昭和15年に「八紘一宇の塔」として建てられたものです。戦後、「平和の塔」と名称が変えられ、八紘一宇の文字が消され、平和の塔の文字に付け替えられていた。現在は八紘一宇の文字に返っている。

「八紘一宇」とは初代神武天皇の即位建都の詔(みことのり)の一節「八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為(せ)むこと、亦(また)可(よ)からずや」(原漢文)に由来する。本来は「八紘為宇」という四字熟語だったのだが、近代における在家仏教運動の先駆的唱導者として知られ、日蓮主義に立つ宗教団体・国柱会の創設者である田中智学が、これを基にしてより語感のよい「八紘一宇」という標語を工夫したことから広く世間に知られるようになった。

八紘一宇の塔(宮崎市)

神事に用いる御幣の形をイメージしています。石材は当時の大東亜共栄圏の隅々から送られ、中には現地の建造物の一部と見られる石材もあります、それを得た経緯に疑問を呈する向きもあります。地図

日本サッカー協会のシンボル「ヤタガラス・八咫烏」の作者・日名子実三のデザインです。

皇宮屋(こぐや)(宮崎市)

平和の塔から南西側の一角に宮崎に住まわれるようになったワカミケヌ(後の神武天皇・カムヤマトイワレヒコノミコト・神倭伊波礼毘古命)が東征の前に住まいを置いておられたという「皇宮屋(こぐや)」があります。地図

高原町狭野で成長されたワカミケヌはここに移り住み日向を治められていたが葦原中国統一のため大和の地へ旅立たれたという。

「皇軍発祥の地」の碑(宮崎市)

東征はここから軍を整え出発なされたといわれますので「皇軍発祥の地」とされ、皇宮屋神域内に碑が建てられています。地図

宮崎市から県北の日向市美々津港まで行軍され、風待ちの後、出帆され瀬戸内を経る長い航海の後、畿内へ到達されたという。