<海幸彦、山幸彦の物語>
長じて、兄のホデリ(火照命)は海の獲物を追う海佐知毘古(うみさちびこ 海幸彦)として大小の魚を釣ってとり、弟ホオリ(火遠理命)は山の獲物を追う山佐知毘古(やまさちびこ 山幸彦)として大小の獣を狩って取るのを仕事としました。
ある日、ホオリは「それぞれの道具を交換してみませんか」と何度も強く頼むのでホデリはしぶしぶ道具を交換してやりました。
ホオリは釣針を借り受けて魚を釣ってみたが1匹もかからないどころか、釣針さえも海の中でなくしてしまいました。
帰ってくると兄のホデリは自分の釣針を求めて、「山さちも己がさちさち、海さちも己がさちさち」山で使う道具は、狩する者に、海で使う道具は、釣りする者に、と唱えて、道具を返してもらおうとしました。
しかしホオリが釣針をなくしてしまったことを告げると、兄はどうしても返せと弟を責めてゆるしません。
ホオリは自分の剣から500の針を作り許しを請いましたが、兄は受け取らず、さらに1000の針を作っても手も触れず、「元の釣針でなければ厭だ」と頑張ってききませんでした。
こういう結果になってしまい、弟が海辺で泣き悲しんでいる所に、潮路をつかさどる神、塩椎神(シオツチノカミ)がやって来て尋ねるので、訳を話すと、塩椎神は竹を細かい目に編んだ籠舟を作り、これに乗ればワタツミ神(海神)の宮殿へ行けます、門の傍らの桂の木に登ってお待ちなさい、海の神の娘が見つけて良い手立てをめぐらすでしょう、と教えました。
教えられるままに船で流されていくとワタツミ宮が有ったので、桂の木に上って待っていると、海神の娘・豊玉毘売(トヨタマビメ)の侍女が玉器(たまもい)を手に水を汲みに現れました。
すると玉が器にくっついて取ろうにも取れなくなり、侍女は玉の付いた器をトヨタマに差し上げました。
「門の外に誰か居るの?」と尋ねるので事情を話すと、不思議に思って自ら外に出てみたトヨタマは、ホオリを見て一目で好意を抱き、父に伝えました。ワタツミ神はそこにいるのが天孫ニニギの子の虚空津日高(ソラツヒダカ)の君(ホオリの尊称)であることに気付き、宮殿の中に招じ入れ、喜んで娘のトヨタマをホオリに娶わせました。
こうして、ホオリは三年間というものを海神の国で過ごしましたが、この時になってふと生まれた国の事を思いお起こし、深い深い溜息を一つ洩らしたのです。
海神がその溜息の理由を問うたので、ここに来た事情を話しました。海神はだだちに魚たちを呼び集め、釣針を持っている者はいないか問いました、すると一同が「鯛が何やら喉に棘が刺さって物が食べられなくて困っている」と答えました。喉を探ってみるとはたしてあの釣針でした。
洗い清めて、ホオリにその針を返す時に、塩盈珠(塩満玉・しおみつたま)・塩乾珠(塩干玉・しおひるたま)を授け、「この釣針を兄に返す時、『この針は、遊煩針(おぼち)、須須針(すすじ)、貧針(まじち)、宇流針(うるじ)-この針は、ふさぎ針、せっかち針、貧乏針、愚か針』と呪いの言葉を呟きながら、後ろ手に、相手を嫌ってお渡しなさい」と教えました。
それから、「兄が高い土地に田を作ったらあなたは低い土地に、兄が低い土地に田を作ったらあなたは高い土地に田を作りなさい。そうされれば、私が水をつかさどっていますから、三年のうちに兄は必ずや貧しくなるでしょう。兄が怨んで攻めて来るようなら塩盈珠(しおみつたま)を出して溺らせ、哀れみを乞うようなら塩乾珠(しおひるたま)を出して活かし、これを繰り返して懲らしめなさい」と教えました。そして和邇(わに=鮫)に乗せて送り帰したのです。
ホオリはワタツミ神に言われた通りにして釣針を返し、言われた通りに田を作りました。
その後、万事が海神の言ったままになって兄は次第に貧しくなって行きました。
兄がたまらずホオリを攻めて来ると、塩盈珠を出して溺れさせ、哀れみを乞う時には、塩乾珠を出して救い懲らしめました。ホデリはついに降伏し、後はホオリの宮殿の守護に当ったと言われます。古事記によればホデリは筑紫(九州)に住み、隼人(はやびと)の、阿多(あた)の君の祖先であると言われます。
<串間神社(串間市)の由緒>
時に、ホオリは笠沙の宮から、猪や雉など獲物の多い現在の串間市に来て行宮を置かれ狩をしました。行宮は古には「ほくしのみや」(穂◇之宮・◇=木へんに患)と呼ばれていたと、その跡に建てられたと言われる串間神社の由緒が伝えています。 ホオリ(山幸彦)は周りの山を櫛の歯のように柵をめぐらせ狩をしたのでその中を櫛間と呼び、串間の地名となったといわれます。地図
<海幸彦のその後>
宮崎の伝承では、ホデリはホオリに敗れた後、磐(いわ)舟に乗って南に逃れて行き、満ち潮に乗り北郷町の宿野に流れ着きました。そして、ここでホオリに従うことを誓ったといわれます。地図
この地を潮嶽(うしおだけ)の里といい、ホデリが宮居を立てて立派に土地を治めたと言います。ホデリは南九州の隼人族の祖となったそうです。
ホデリがハヤト(隼人)の祖になったことについて、梅原猛氏は「神武天皇の血には、コノハナ(木花咲耶姫)、トヨタマ(豊玉姫)、タマヨリ(玉依姫)を通して8分の7は土着人の血が混じっており、天皇の権威のためには隼人の祖が天津神であることの必要性があったのではないか」、即ち、神話の編者は「天津神の子孫の結婚相手は高貴でなければならぬ」からトヨタマ、タマヨリを海神の娘としたが、実は海神は土着の豪族・九州南部のハヤト(隼人)であり、身分の低い部族とされていたのかもしれない、だから「海幸彦をハヤト(隼人)の祖」とすることで、彼女たちを天津神の子孫としたかったのではないか?と言われる。
<海神の宮は何処に>
古事記には「魚鱗(いろこ)の如(ごと)造れる宮室(みや)」とある。ワタツミ(海神)の「魚鱗の宮」があったという伝承の地が薩摩半島の南端「指宿市開聞十町」にある。
ここの開聞岳は航海の目印となる端正な気品ある火山であり、航海安全の神として漁師の信仰の対象である。
この開聞神を祀ったのが枚聞(ひらきき)神社地図であり、かっては和多都美神社と呼ばれていたことからトヨタマヒメかワタツミの神が祀られていたと推測される。
またこの町には山幸彦とトヨタマヒメが出会ったとされる「玉の井」という井戸がある、ここが「海神の宮」の門前であったという。地図
開聞十町の北西約10kmのところにある知覧町にはトヨタマヒメを祀る豊玉姫神社がある。トヨタマヒメにかかわる伝承がこの地にも多い。地図
トヨタマヒメはこの地の航海、漁業、南方貿易に従事した富を蓄えた豪族かもしれない。当然、日向の小戸へは海路来ていたことであろう。山幸彦が舟でここを訪れていたとしても不思議ではない。